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2015年2月19日 (木)

おりょうの妄想?

 龍馬の暗殺犯人については諸説紛々で、たくさんの本が出ている。いろんな説がとなえられているが、結論は出ていないようだ。とにかくこの話は人気があるので、いまだに、かなりとんでもない新説が出て来たりする。
 ただし、暗殺当時は新選組がやったものと思われていた実行犯は、京都見廻組の与頭(くみがしら)佐々木只三郎の指揮下に今井信郎(のぶお)等がやったということで、だいたい落ち着いているようだ。問題の中心は、彼等に命令した黒幕は誰か、ということになっている。
 おおまかに分けると、
 
1 幕府(会津藩含む)説
2 紀州藩説
3 薩摩藩説(西郷隆盛、大久保利通)
4 土佐藩説(後藤象二郎)
5 その他諸説
といったところだろうか。

 わたしとしては、1の幕府側がやったというのが、一番納得できる。西郷や後藤が黒幕だというのは、うがちすぎで無理がある。暗殺後の歴史の結果にあわせて論証をこじつけているように思える。
 例えば西郷説は、薩摩は武力倒幕をするつもりでいたのに、龍馬が大政奉還を画策して邪魔をしたからという理屈で、武闘派と穏便派の対立というわけだ。
 しかし大政奉還をしたからといって、その後の江戸城無血開城が約束されたわけではない。その後どうなるか、その時点では誰もわかっていなかった。混沌のなかであれこれ模索しながら、みんながいろんな動きをしていたのだ。そのことを忘れて、結果だけをつないで理由をこじつけても説得力はない。

 紀州藩説は、「いろは丸事件」で紀州藩が巨額の賠償金を支払わされたことから、暗殺の黒幕であるとするものである。
 前にもちょっと書いたように、海援隊のいろは丸が紀州藩の明光丸と衝突して沈没した事件で、慶応三年(1867)4月に起こった。5月に長崎奉行所のもとで談判し、紀州藩が賠償金八万三千両を支払うことで決着した。その後七万両に減額され11月7日に長崎で支払われたが、11月15日に龍馬は暗殺された。
 この談判のときの海援隊側のやり方は、かなり強引であくどいものであったとも言われている。
 磯田道史(いそだみちふみ)『龍馬史』(文春文庫、2013)は、最初は「米や砂糖」だったいろは丸の積荷が、交渉が進むなかで、銃や多額の現金も積んでいたことになったと書いている。平成になってから実施された「いろは丸」の海底調査では、現金も銃も発見されなかったそうだ。
 積荷が嘘か本当かはともかく、談判に負けた紀州側には十分な理由があったことになる。だから暗殺直後、土佐や海援隊の人々は、紀州藩が新選組を使って殺させたものと思い込み、紀州藩公用人三浦休太郎を襲ったりした。

Photo
 おりょうも当時、「紀州-新選組犯人説」を聞かされ、そう思い込んでいただろうと思われる。そして、おりょうは、さらにこんなことも言っている。
 前に出した資料の3 貴田菊雄伝作者不詳「坂本龍馬未亡人之物語」(→おりょうの言い分1)には、いろは丸事件について、こう書いてある。

 この「いろは丸」沈没は龍馬が深く計る處あつて敢へてしたものであつた。「いろは丸」は餘りにも貧弱な老朽船であつたゝめ賠償金を得、新船を購はうとする目的で、好い機会が來たとばかりこちらから乗りかけて自ら沈没させたものだといふ。(「傳記」の第三巻三号p107)

 なんと龍馬は「いろは丸」で、賠償金目当てに「当たり屋」をやったというのである。
 おりょうは、いったい何を根拠にこう言っているのか。
 当時の龍馬は、倒幕、大政奉還のために東奔西走していた。その中で「亀山社中」を運営し、土佐藩の後援を得て「海援隊」に改組したばかりだった。虎の子の船を賭けて当たり屋をやっている余裕など、とてもなかっただろう。
 当時の関係者の証言などにも、わざと当たったという話はないようだ。また、陸奥宗光が紀州と通じていたと言う者も、おりょうの他にはいない。おりょうの妄想では? と思いたくなる。
 紀州藩黒幕説は、明治以降、紀州藩や新選組関係の記録や証言などが明らかになっていくなかで、次第に薄らいでいった。しかしおりょう在世当時にはまだ有力だったと思われるし、市井の人だったおりょうの元には、それらの証言などは届いてはいなかっただろう。
 自分の不遇のすべての原因は紀州藩が…、と思うあまり、紀州藩出身の陸奥宗光と結びつけるようになった、と考えるのはわたしの妄想だろうか。

 なお磯田道史『龍馬史』(文春文庫、2013)は、おもしろく読んだ。
 単行本を買ってあったが、帯があんまり派手に「龍馬暗殺の謎」を売り物にしているので、なかなか手を付ける気が起きなかった。龍馬本はこういう派手な装いのものが多い。

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 文庫本で読んでみたら、よくある龍馬礼賛本ではなく、歴史学者として史実を見て、土佐の上士下士の対立、当時の社会情勢など、わかりやすく説明してある。
 龍馬暗殺は会津藩の命による見廻り組の犯行という正統派の解答で、これは意見が合う。
 2009年に、伏見奉行所が京都所司代に寺田屋事件の顛末を報告した文書の写しが見つかったという話は初めて知った。龍馬は、寺田屋から逃げるときに関係書類を残してしまい、その中には薩長同盟に関するものもあり、龍馬はさらに幕府から危険視されることになったのだという。
 残念ながら、おりょうについてくわしい記載はなかった。

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