« 第二十七番 円福寺 | トップページ | 第三十一番 笠森寺 »

2015年2月 5日 (木)

海援隊とおりょう3

 龍馬をのぞいて海援隊出身者で一番有名なのは、陸奥宗光だろう。(ここで武田鉄矢だ、などと言わないように)
 紀州藩士で、維新後曲折を経ながら農商務大臣、外務大臣になった。条約改正や日清戦争講和交渉などにあたり、その外交手腕は高く評価されている。元海援隊士の中でもっとも立身出世したと言ってもいい。明治30年(1897)死亡。

 その陸奥宗光について、おりょうは回顧談の中でとんでもないことを言っている。龍馬暗殺の黒幕の一人だというのだ。
 1-1「反魂香」の第一回で安岡秀峰は、こう書いている。

 龍馬等三人を殺害したのは、近藤勇だと人も云ひ、書にもありますが、実はそうで無いです。其殺害した奴の名は三村久太郎と云つて、此奴が会津、紀州を往来して居たので、殺したのは此奴ですが、殺さした奴は外にあるので、名は知つて居ますが、此の稿へ書き入れ度いですけれど、あまり公に言ふと、飛んでも無い人迄引張り出されますから、僕は名だけは云ひません。そのかわり一寸、天機だけは洩らして置きましやう。
 備後鞆の沖で、海援隊のいろは丸と、紀州藩の明光丸とが衝突して、それが為めに、いろは丸は沈没し、龍馬は中島信行を代理として談判の結果、遂に八万五千両の償金を紀州藩から取った事は、諸君御承知でしやう。(『千里駒』には、沈没せし船の名も無く償金は十万両とあり)で、それも暗殺の原因の幾部分かをしめて居るので、もう一つ明らかに云へは、龍馬は全く飼犬に手をかまれたのです。(『史料が語る坂本龍馬の妻お龍』p182)

 紀州がからんで、飼犬に手をかまれた、と言えば陸奥のことだと、わかる人にはわかっただろう。
 「三村久太郎」は紀州藩用人「三浦休太郎」の間違いである。当時、海援隊のいろは丸が紀州藩の明光丸と衝突して沈没した事件があって、三浦は龍馬たちとの交渉にあたり、巨額の賠償金を支払わされていた。
 龍馬の暗殺直後、海援隊士たちは、三浦が新選組を使嗾して殺したものだとして、三浦がいた旅籠天満屋を襲撃した。このとき陸奥は率先して乗り込んでいったとされている。三浦は傷を負ったが生きのびた。
 この件について、1-1「反魂香」の第六回ではこんなことも書いている。

  同志の復讐及おくびやうたれ
 龍馬、中岡が殺されたと聞き、同志の人々は大に激昂して、油の小路の新選組の屋敷へ暴れ込みました。行く時に、同志の一人陸奥宗光が、何故か厭と首を振つたそうですが、遂に勧められて行く事となりました。元来、陸奥は隊中で『おくびやうたれ』と綽名(あだな)されて居るので、それを言はれて笑はれる口惜さと、一つは何か外に訳があるのか、出掛けたものゝ、外の者は勢ひよく斬り込むで縦横に薙立(なぎたて)て居るのに、陸奥は裏の切戸に短銃を持つたまゝ立って居たそうです。(『史料が語る坂本龍馬の妻お龍』p200) 

 そしておりょうは、紀州藩士の陸奥の兄が、以前京都で龍馬に女を取られた恨みがあったと、本当かどうかまるでわからないことを言う。また、

龍馬を殺さした者は紀州と会津の内に居る(原文傍点、以下同じ)ので、中には七重八重の奥深く鎮座ましまして、余がなぞと、殿様風を吹かす奴もあるそうです。(『史料が語る坂本龍馬の妻お龍』p201)」

とも言っている。殿様風を吹かす奴というのは、外務大臣になり、子爵から伯爵にまでなった陸奥へのあてこすりだろう。
 さらに、勤王の志士たちの世話をしていたことで有名な寺田屋の女将お登勢も、龍馬の死後、陸奥が新選組の奴と一緒に宴会をしていたと聞いて、

龍馬さんや中岡さんを殺した奴等に、陸奥さんは、かゝりやつては居ないか知らと、怪しむで、人を頼むで探らしたそうですが、分からなかつたそうです。(『史料が語る坂本龍馬の妻お龍』p201)

と言っていたという。お登勢が本当にそう言ったかどうか、おりょうの他にそう聞いたという証言はなさそうだ。

 聞き手の安岡秀峰はこれを受けて、こう書いた。

   僕の決心
 第1回の反魂香に、龍馬等を殺害さした人の名を云はないつもりでしたが、烏水氏の評言『縦横忌憚(きたん)なく隠微(いんび)を訐(あば)け』といふにはげまされて、えゝ何うなるものか、突つ込むなら勝手に突つ込むで来い、尻を持つて来たら亦その時は何うかならうと決心して、此稿へあからさまに書き立てました、誰が殺さしたか、誰が関係して居るか位は分るでせう。飼い犬に手を噛まれたのも、全く之れが為です。(『史料が語る坂本龍馬の妻お龍』p201)

 同じ頃、同じ話を聞いたと思われる川田雪山は、2-1「千里駒後日譚」第一回で、陸奥が「臆病たれ」と言われていたという話の後、こう注釈をつけている。(「三浦休太郎」がここでは「津村久太郎」になっている。)さすがにずばり書くのはためらったようだ。

 雪山曰く、陸奥の事に就ては、実に意外なる話を聞けり、されど云ふて益なし、黙するに如かざるべし、読者かの紀州の光明丸と、鞆の津沖に衝突して、いろは丸沈没したる償金に紀州より八万五千両を取りたる一事を知るべし、而(しか)して、当時、紀州の家老は、実に此の陸奥の兄にして、又龍馬を斬つたる津村久太郎等は、常に会津、紀州の間を往来し居たりと云ふ、一々対照し来れば、蓋(けだ)し思ひ半ばに過ぐるものあらん、噫(ああ)(『史料が語る坂本龍馬の妻お龍』p235) 

 おりょうは本気で陸奥が暗殺の黒幕だと思っていたのだろうか。
 暗殺直後からそう思っていたのであれば、土佐にいた頃や東京へ戻った頃にも、まわりに訴えるなどの行動があってもよさそうだが、そういう話はない。
 秀峰がおりょうからの聞き取りを開始したのは明治30年(1897)である。この時期になって、陸奥が黒幕だと言い出したのだとすれば、なにか新しく判明した事実でもあったのか、陸奥との間になにかあったのか、あるいは海援隊当時から陸奥とはうまくいってなかったのか、まったくわからない。
 陸奥は、明治30年(1897)に死亡しているので、明治32年に発表された「反魂香」、「千里駒後日譚」を目にしてはいない。しかし生前、おりょうがそう言っていることを、噂に聞いたりしていただろうか。もし聞いていたとすれば、陸奥は、とてもおりょうの面倒を見る気にはならなかったにちがいない。
 多くの海援隊士に嫌われていたという話があるうえ、出世頭の陸奥を暗殺の犯人だと言っていたのでは、瑞山会が武市半平太の未亡人を手厚く庇護したようにはいかなかったのも無理はない、ということになってしまう。

|

« 第二十七番 円福寺 | トップページ | 第三十一番 笠森寺 »

なむや文庫雑録」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 海援隊とおりょう3:

« 第二十七番 円福寺 | トップページ | 第三十一番 笠森寺 »