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2015年3月

2015年3月30日 (月)

お礼参り 北向観音

 次は上田市北向観音(きたむきかんのん)です。ここは近所にある天台宗常楽寺というお寺の観音堂です。
 わたしは、お礼参りに行くところだと聞くまで、ここのことを知りませんでした。あまり有名なところではありません。このツアーを電話で申し込んだとき、出た女性が「はい『善光寺とホッコーカンノン』ですね」と答えました。旅行会社の社員がちゃんと読めないくらいです。まさか業界用語では「ホッコー」と言っているわけでもないでしょう。
 そのあまり有名でないところへ、なぜお礼参りに行くのかというと、善光寺と対(つい)になっているからだそうです。善光寺の本尊は南向きで、ここの観音様は北斗七星信仰の関係で北向きなので向かい合っている。善光寺は来世の利益、観音様は現世の利益をもたらす。善光寺だけでは「片参り」になる、「両参り」しなければいけない、というのです。
 なんとみごとなマーケティングではありませんか。感心しました。巡礼を終えたら、そのお礼に行くべきである。そしてお礼に行くならこちらも行かないと――きちんと顧客に説明してより一層の充足感を与えながら市場を拡げています。しかし、観音様も商売がうまいなあ、などとお礼参りのときに考えていてはいけません。

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 別所温泉という温泉町にあります。土産物屋がいくつか並んでいる通りを曲がると、短い門前町のような通りがありました。突当りの階段を登ったところが北向観音です。

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 温泉だけあって、この手水場には温泉がひかれていました。あたたかい手水ははじめてです。

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 仁王門などはなく、すぐに観音堂です。

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 これでようやく巡礼が終わりました。安堵感にバスの疲れも加わって、この後はなんとくぼんやりしていました。小さなお堂などもあったのですが、写真も撮りませんでした。
 境内から見えたこの山は美ヶ原方面ではないかと思います。

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 帰り道の川端には「慈覚大師之湯」という飲用温泉があったので、一口飲んできました。

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 ご詠歌は、

いくばくの 人の心を 澄ますらん

北向山の峰の松風Photo_3

 横浜の自宅へ着いたのは夜の9時半くらいでした。最近、首都圏中央連絡自動車道圏央道)で埼玉方面と神奈川県の厚木方面がつながって便利になりました。都心を通らないので距離的にも近いし、今のところ混んでいないので、思っていたよりずっと早く帰れました。

 これでわたしの坂東三十三カ所観音巡礼記もおわりです。
 最後まで読んでくださった方、どうもありがとうございました。
 巡礼をおえてもいまだ悟りの境地は遠く、後悔と煩悶の日々ですが、煩悩即菩提であります。色即是空空即是色、この歳になったら焦ってもしょうがありません。

 南無大慈大悲観世音菩薩      合掌

 

 

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2015年3月26日 (木)

お礼参り 善光寺2

 バスツアーの一行は、もう12時半をすぎているので昼食です。

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 仲見世をはさんで宿坊がたくさん並んでいる通りがあります。
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 その中の常智院という宿坊でした。

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 宿坊ですから精進料理です。
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 昼食後は自由行動です。まず仁王門まで行きました。

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 高村光雲米原雲海の合作だという大きな仁王像がありますが、金網のせいで見えにくい。こういう見えにくい仁王様が多いような気がします。守らなければならないのはわかりますが、見やすい工夫はなにかないものでしょうか。

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 これが仲見世です。平日ですがそれなりににぎやかです。七味唐辛子と野沢菜を買いました。

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 仲見世を通って山門へ行くのが通常の参詣コースです。

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 山門の額は、「善」 に二羽、「光」に二羽、「寺」に一羽、計五羽の鳩形が隠れているので「鳩字の額」と呼ばれているそうです。「善」の字は牛の顔にも見えます。「牛にひかれて善光寺参り」です。.

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 この鳩字の説明のとき、案内人さんが、鎌倉鶴岡八幡宮の額にも鳩がいる、だから鳩サブレが名物なんだよ、と言いました。帰ってから写真を見てみると、なるほどそうでした。もう30年以上初詣に通っているのに、善光寺で教えられるとは、うかつでした。

Dscf9644_3              (鶴岡八幡宮の額)

 山門へ登ってみました。有料(500円)です。

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 ずっと長野市街が見下ろせました。

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 左手に見えるのは菅平です。

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 上で山門をぐるりと一回りできるものと思っていたら、回廊へは出られず、開かれていたのは一方向だけでした。せっかくの展望を、残念でした。

 あとは集合時間まで境内をぶらぶらしました。見る所はたくさんありますが、団体旅行で次の予定があります。そうそうゆっくりもできません。
 これは六地蔵

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 裏の方のあまり人が来ないところに、こんなものもありました。これも「牛にひかれて…」ですね。森永乳業寄贈の「乳牛親子の像」です。
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 ご詠歌は、

身はこゝに 心は信濃の善光寺

みちびき給え 弥陀の浄土へ

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 お札と宝印牛王剣印の木版印護符)もいただきました。  

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2015年3月23日 (月)

お礼参り 善光寺1

 2015年(平成27年)3月17日、長野善光寺へお礼参りに行っできました。お礼参りというと、ヤクザなどの報復をまず思い浮かべてしまうけれど、念願がかなったお礼に神仏に詣でるのが、お礼参りの本義です。わたしが行ったのは坂東三十三カ所ですが、西国三十三カ所も秩父三十四観音も、念願の巡礼を無事果たしたお礼に善光寺へ行くことになっています。
 善光寺に、無事巡礼ができますようにと願をかけて始めるわけでもないのに、どうしてみんなお礼に行くようになったのかは、よくわかりません。西国三十三カ所の最後が岐阜県谷汲山華厳寺(たにぐみさんけごんじ)なので、せっかくここまで来たんだから、有名な信濃の善光寺まで足をのばして帰ろう、というあたりから始まったという話もあるようです。江戸へ帰る人にとっては、ちょっと遠回りするだけという感覚だったのかもしれません。善光寺が八宗兼学で無宗派の寺だというのも、まとめにはちょうどいいのかもしれません。
 ともかく今では、お礼参りは善光寺ということになっています。そして、善光寺と対(つい)になっているからと、上田市北向観音(きたむきかんのん)へも行くことになっています。行くことになっていると言われると、行かないとせっかく達成した三十三カ所巡礼の値打ちが下がるような気がして、行ってこようかとなります。お礼に行くわけですから、ここで善光寺も商売がうまい、などと言ってはいけません。

Photo_4 横浜から長野は遠い。バスは朝の6時30分に横浜駅西口を出発し、途中、関越自動車道の高坂(たかさか)サービスエリア(埼玉県東松山市)と上信越自動車道の東部湯の丸サービスエリア(長野県東御(とうみ)市)の二カ所で休憩しました。
 東部湯の丸SAから見えた山は、地図を見ると浅間山の西にある湯の丸山のようです。
 ずっとバスの中は疲れます。それでも浅間山が見えたり、北アルプスの山々が見えてきたりすると、ちょっとうれしくなって気が紛れます。しかしバスの通路側の座席だったので写真までは撮れませんでした。

 善光寺へ着いたのは、11時15分頃でした。五時間近くかかったことになります。駐車場の側に三重の塔がありました。
 善光寺には40年くらい前に来たことがあるはずですが、何も思い出すことはありませんでした。

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 この塔は「日本忠霊殿」で、「戊辰戦争から第二次世界大戦に至るまで、240万余柱の戦病没者の英霊を祀る仏式霊廟」だそうです。つまり仏式の靖国神社であり、「善光寺史料館」でもあります。

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 ここでおつとめをし、お寺の案内人の方から説明を聞きました。この方が、善光寺のちょっとした名物になっている方だそうで、独特の口調とことばづかいに、ときどきギャグをはさんで縁起などの話をされ、かなり受けていました。ギャグを思いだして書こうと思ったのですが、出て来ません。話の内容もうまく思いだせない。出てくるのは「~になっとんです。」「~だよ。」「~じゃない?」という癖のある語尾ばかりです。これがわたしの脳に一番強い印象を与えたらしい。ともかくしっかり芸風が確立している方でした。

 本堂には側面の方から行きました。ずいぶん大きな建物です。高さ約27メートル、間口約24メートル、奥行約53メートルだそうです。

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 こちらが正面です。本堂は何度か火事にあっていて、現在の建物は宝永四年(1707年)に再建されたもので、国宝です。さすがに立派なものです。

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Photo_4 本堂の内陣には有名な「戒壇巡り」があります。床下の真っ暗な回廊を巡って、「極楽の錠前」に触れると極楽往生できるというものです。有料(500円)です。
 薄暗い階段を降りて曲がっていくとすぐ真っ暗になります。ほんとに何も見えません。右手を壁にくっつけてそろそろと歩いて行きます。45メートルくらいだそうで、けっこう長い。それに曲がって行くところもあるので、一人だとかなり恐そうですが、団体なので、「あ!」とか「お!」という声が聞こえ、早めに歩くとすぐ前の人にぶつかったりするので、あまり恐くはありませんでした。
 極楽の錠前は、秘仏である本尊の真下にあって、本尊の手と紐でつながっているそうです。真っ暗なせいかどのくらいの時間だったのかよくわかりませんが、そのうち無事に極楽の錠前――感触では木(?)でできたコの字型の把手のようなものに触れることができ、わたしの極楽往生は約束されました。わたしよりちょっと後の人が「おい、どこだどこだ」としばらく騒いでいました。前の人が「あ、あった!」と安心の言葉をつぶやいて先へ進んで行くのに、自分だけ見つからないと、さすがに焦るようです。ひとりだけ地獄へ落ちるのはいやだ。

 本堂の前には山門(三門)があります。これも大きく立派なものです。本来は仁王門から入って仲見世をぬけ、山門をくぐって本堂へ、というのが順路ですが、駐車場が本堂の脇だったので、逆にたどることになりました。

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2015年3月19日 (木)

悪い冗談の果てに 3

 わたしは、朝日新聞が女子挺身隊と慰安婦を混同していたという話も、悪い冗談に起因するのではないかと疑っている。
 「慰安婦」のことを「女子挺身隊」とは、下卑た冗談が得意なオヤジが、居酒屋あたりでいかにも言いそうな冗談ではないか。

 本当に「挺身隊」と「慰安婦」の混同があったのかどうか、ちょっと疑わしいと思ってもいる。
 戦時中の人たちにとって、別のものであることはわかりきったことだった。だから悪い冗談にはなったかもしれないが、当時の挺身隊員が聞いたら、髪の毛を逆立てて怒ったことだろう。「挺身隊」の名のもとに「慰安婦」を集めたとすればとんでもないことで、大騒ぎになったにちがいない。混同することなど考えられない。
 それが朝鮮では混同されていて、そのあたりの研究が乏しかったから間違えた、というのが朝日新聞の言い訳だが、それこそ「悪い冗談」でないのか、という気がする。

Photo_4               (朝日新聞、2014/08/05)

 写真の記事にはこう書いてある。

 原因は研究の乏しさにあった。当時、慰安婦を研究する専門家はほとんどなく、歴史の掘り起こしが十分でなかった。朝日新聞は、国内の工場で働いた日本人の元挺身隊員を記事で取り上げたことはあったが、朝鮮半島の挺身隊の研究は進んでいなかった。

 記者が参考文献の一つとした「朝鮮を知る事典」(平凡社、86年初版)は、慰安婦について「43年からは〈女子挺身隊〉の名の下に、約20万の朝鮮人女性が労務動員され、そのうち若くて未婚の5万~7万人が慰安婦にされた」と説明した。執筆者で朝鮮近代史研究者の宮田節子さんは「慰安婦の研究者は見あたらず、既刊の文献を引用するほかなかった」と振り返る。

 宮田さんが引用した千田夏光氏の著書「従軍慰安婦」は「“挺身隊”という名のもとに彼女らは集められたのである(中略)総計二十万人(韓国側の推計)が集められたうち“慰安婦”にされたのは“五万人ないし七万人”とされている」と記述していた。

 朝鮮で「挺身隊」という語を「慰安婦」の意味で使う事例は、46年の新聞記事にもみられる。44年7月に閣議決定された朝鮮総督府官制改正の説明資料には、未婚の女性が徴用で慰安婦にされるという「荒唐無稽なる流言」が拡散しているとの記述がある。(朝日新聞、2014/08/05)

 ここでいう「当時」は、1980~90年代はじめのことのことを言っている。まだ戦争経験者がたくさん生きていた時代である。挺身隊と慰安婦が別のものだというのは、研究なんかしなくてもわかりきったことだった。混同していた人など、どこにいたというのか。ごく一部のライター、研究者が間違えていたことを、世間一般に混同されていたように言うのはおかしい。
 「挺身隊の名をかたって集めて慰安婦にした」というのは混同ではなく、詐欺・欺瞞である。事実であれば、戦時中でも大騒ぎされるような事件だった。だから、まずそれが事実かどうかを確認しなければならなかった。
 昔のことは、その頃あたりまえに思われていたことほど記録に残らない。新聞などに報道されるのは、ニュースになるような特別のことばかりだ。だから時代が下がるにつれて、その頃あたりまえだったこと、その頃の人が普通にやっていたことを検証するのがむずかしくなる。そのころの「空気」みたいなものは記録に残らず、後の世代の者はなかなか理解できない。
 だからわたしより若い記者が、当時のことがよくわからず、知らなかったのはやむをえないとしても、デスクとか校正係までおかしいと思わず、記事にしてしまったのは大きな間違いだった。
 記事にした後でも、事実でなかったことがわかれば、間違いを早く認めて訂正すべきだった。それを今頃になって、当時は研究が乏しく混同していたなどと言い訳しているから、余計信用できなくなる。

 上記の記事には、1944年の朝鮮の資料に「未婚の女性が徴用で慰安婦にされるという「荒唐無稽なる流言」が拡散しているとの記述がある。」と書いている。あくまで「荒唐無稽なる流言」とされていたわけで、混同されていたわけではない。
 この「荒唐無稽の流言」のもとは、やっぱり下卑たオヤジの悪い冗談だったのではないかと思ってしまう。冗談にもTPOがあることを忘れてはいけない。

 この3月16日には、なんと国会で「八紘一宇」がこれからの日本がとるべき道である、という発言が出た。悪い冗談ではなく、「世界が一つの家族のように助け合う」という意味だからと、本人は本気で言っているようだ。そこだけお勉強して、ああ良い言葉だ、カッコイイと感心してしまったものか。この言葉が持っているあの時代の雰囲気は、もう若い人にはわからなくなってしまったということだ。
https://www.youtube.com/watch?v=TCtwwOw-ByI#t=23
 純粋な言葉の意味だけでいいと言うのなら、自民党は「天下一家の会」とでも名乗ったらどうか。もっと時代がたつと、「ジハード」の意味を知っていますか、とってもいい言葉なんですよ、という若い者が出てくるかもしれない、と悪い冗談を言っておこう。(悪い冗談の話おわり)

 

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2015年3月16日 (月)

悪い冗談の果てに 2

  「シャルリー・エブド」について、ウィキペディアは、こう紹介している。

左派寄りの風刺新聞であり、イラスト(風刺画)を多用し、フランス国内外の極右、カルト教団、カトリック、イスラム教、ユダヤ教、政治 等に関して、調査報道を行っている。風刺画家のシャルブ(フランス語版)によると、その編集方針は「様々な左派の見解、さらには政治参加に無関心な人の見解」を反映すること、とのことである。

 どの程度の調査報道が行われているのか、ちゃんと読んでみないといけないけれど、それはわたしの能力の及ばないことなので、ネットでいくつかの風刺画を見た限りで判断すると、諷刺・パロディというより、「ザ・インタビュー」と同じような愚弄・嘲笑にすぎないように感じられる。だいいちおもしろくないし、底に悪意が隠れているようにも思える。
 だから、フランスで「表現の自由を守れ」という大規模な抗議デモが行なわれたのがちょっと不思議だった。「テロリズム反対」ならわかるが、あの週刊誌の内容をよく知っているフランス人たちが、「表現の自由」を守るためとして、”Je suis Charli.(ジュ スィ シャルリ/私はシャルリ” を標語として掲げているのには違和感を感じた。

150114ss_4                (東京新聞、2015/01/14)

 昔、日本では「チャタレー事件」や「四畳半襖の下張事件」という、猥褻性と表現の自由をめぐる裁判があった。その中で、その作品が「猥褻か芸術か」が問題ではなく、ただの猥褻であっても、「表現の自由」のためには守らなければならない、と誰か(小田実?)が言っていた。当時若いわたしは、なるほどと感心した。
 この理屈で、シャルリ・エブドも守らなければならないことになるのはわかるが、それにしても、あんなにフランスこぞってみたいな話になるものなのか。"Je ne suis pa Charlie."(ジュ ヌ スィ パ シャルリ/私はシャルリではない) だけど、「表現の自由」は大事だ、ならわかるけど。

 これについて、ハフィントンポストの小林恭子「仏風刺週刊紙テロ事件 ―言論・表現の自由の行方は」という記事には、こう書かれていた。
http://www.huffingtonpost.jp/ginko-kobayashi/charlie-hebdo_b_6844422.html

フランスの社会党に所属する、上院議員エレン・コンウェイ=ムレ氏は「シャルリ・エブドの風刺は自分の趣味には合わない」と筆者に語った。「あまりにも下品でどぎつい。挑発的過ぎる。自分では買わない新聞だ」。しかし、「下品で挑発的な言論や表現も、フランスの表現の場の一部を成す。存在意義がある」。

「暴力によって言論が封殺されることは絶対にあってはならない。だから自分はシャルリ・エブドを支持する。表現の内容については同意しなくても、存在を支持するからだ」。

フランスの中では少数派となるムスリムがシャルリによるムハンマドの風刺に侮辱されたと感じたり、傷つく点についてはどう思うかを聞いたところ、「マイノリティーの意見がマジョリティーの国民のやり方を左右することは、普通ありえないのでないか」。そして、「政教分離=ライシテ=を国是とする共和国制度のフランスでは、宗教はプライベートな領域に属する」と。公的な領域に属するメディアでの言論が宗教的な理由から規制を受けることはあるべきではない、という考え方である。

質問を続ける中で、議員の秘書役が思いあまったように、説明を補足した。「1968年、学生が主導したパリ革命が起きた。あのときの反体制のスピリットを体現していたのがシャルリ・エブドだ。現在につながる反体制のメディアで、その重要性はいくら話しても話し足りない」。

秘書はシャルリ・エブドや風刺文化に大きな誇りを持っている印象を持った。筆者が議員に向かって、フランスの表現の自由にいくらかでも疑問を呈するような質問をすると、側に座る秘書は「分かっていない」という風に頭を横に振るのであった。

 やっぱり、フランスでも「下品でどぎつく挑発的」であると思われている。それでも守る、シャルリ・エブドにはそれなりの価値がある、と考えられているということらしい。
 「マイノリティーの意見がマジョリティーの国民のやり方を左右することは、普通ありえないのでないか」というのは、日本ではすぐに「少数意見の尊重を」という話が出てくるので、かなりきつい言い方にきこえるが、このあたりが、フラランスは「理性」の国だということなのか。
 東洋経済オンラインの「鹿島茂氏が読み解く仏紙襲撃事件」という記事が参考になった。鹿島茂はフランス文学者である。
http://toyokeizai.net/articles/-/58478

 鹿島茂が言っているのは次のようなことだ。
 フランス共和国の第一原理は「一にして不可分な共和国である」ということ、第二原理は「ライックな共和国であること」ということである。(これは憲法の第一条に規定されている。)
 フランスでは、親子は独立して自由で、兄弟は平等という家族類型を基本として国家統一がされていて、親が権威主義的で子と同居し、兄弟は不平等で直系相続である日本などとは違う。すべての人間は同一であるとされ、人種、言語、宗教の違いは微細なことでどうでもよい。その差異性を強調すること、特別扱いすることは認めない。これが「一にして不可分」ということである。
 「ライック laïque というのは政教分離とか非宗教的ということで、「宗教そのほか個人の信条はプライベート(私的)空間においてはすべて認める。しかし、パブリック(公共)空間においては一切認めないという原理。」である。だからパブリックな政治の場では、カトリック政党もイスラム政党も認めない。教育の場ではイスラムのスカーフも認めないということになる。むしろパブリックな場では、宗教など尊重しないことで、「一にして不可分」な共和国が成立すると考えている。
 「表現の自由」については、何でも許されているわけではなく、法律で規定して、「反ユダヤ主義」「人種主義」「テロリズムの礼賛」の三つを厳禁していて、これに違反したら捕まる。しかしこれに違反しなければ何を書いてもいい。自由度は大きい。
 この「共和国の理念」の普遍主義に、イスラムの普遍主義が正面衝突した。だから過激になる。差違を認めた上で仲よくやってゆくというのは、リベラル左翼の考え方でフランスでは少数派である。

 今回の事件は、フランスという国の存立の基本に関わることだったということだ。
  たいていの日本人は「差違を認めた上で仲よくやってゆこう」と考えるのではないかと思うが、これが少数派になるという。このあたりがよくわからないけれど、無論これはテロリズムに移民問題、キリスト教とイスラム教との対立などもからんだ複雑な問題なので、そう簡単にわかるはずはない。

 多神教の日本には、こんなマンガもある。中村光『聖☆おにいさん(セイントおにいさん)』(講談社、2008)では、イエスとブッダが、休暇で天から下界へやってきて、東京・立川のアパートをシェアして暮らしはじめる。

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 二人とも油断しているとついつい奇跡を起こしそうになって、まわりの人から怪しまれる。ブッダが昼寝していると、涅槃と間違えて、まわりの犬や猫、鳥がいっぱい集まってくるし、泳げないイエスは、プールでモーゼのように水を割ってしまう。
 敬虔な信者からすればなんと罰当たりな、そもそもキリスト教と仏教を一緒にするな、ということになりそうだが、日本では襲撃されることもなく、2009年には手塚治虫賞を貰っている。

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 これくらいの冗談が賞を貰えるような、ゆるい社会でいいのではないかと思う。しかしこのアパートのとなりの部屋にマホメットが転居してきて、というような話が作られることは、向こう百年はありえなさそうだ。二百年後にはあるかもしれないと期待してしまうのは、わたしが多神教の世界の住人だからだろうか。

 

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2015年3月12日 (木)

悪い冗談の果てに 1

 最近、悪い冗談がもとでいくつかの事件が起こった。
 去年(2014)12月に、北朝鮮の金正恩暗殺計画を題材にした映画「ザ・インタビュー」に対して、配給元のソニー・ピクチャー・エンターテインメント(SPE)へのサイバー攻撃が行われ、上映予定の劇場が脅迫された。
 今年の1月には、宗教や政治に対する過激な風刺画を掲載するフランスの週刊誌「シャルリ・エブド Charlie Hebdo」襲撃事件があった。
 どちらも「悪い冗談」がもとで大変なことになっている。だから、わたしはジョークや本の紹介をしているだけだけれど、少しまじめに、ジョークの意味や位置づけということも考えないといけないかと思っている。しかしジョークについてまじめに考えるのはあんまりおもしろいことではない。

 「ザ・インタビュー」はオバマ大統領が声明を出すほどの騒ぎになったけれど、インターネットで予告編や内容紹介を見てみると、北朝鮮を諷刺するというより、ネタになる題材として取り上げ、ただ愚弄しているだけのように見うけられる。
 映画評論家の町山智宏は、こんなふうにラジオで話している。

 これは国際的バカ事件で、これで騒いでいる人はみんなバカだ。そもそもこの映画は、まじめな顔をして騒ぐような映画じゃない。監督のセス・ローゲンと主演のジェームズ・フランコは、ずっと「ブロマンス bromance (brother と romance )」と呼ばれる、男同士の友達以上恋人未満の関係をネタにしたコメディー映画をつくってきて、これもそういう一作である。ギャグもくだらない下ネタがたくさん出てくる。
 みんなこの映画をちゃんと見ないであれこれ言っているのではないか。見ればあんまりバカバカしくて何も言う気がなくなるはずだ。
 そもそもソニーはこの事件の前から何度もハッカーにやられていた。それが、この映画が原因で北朝鮮に狙われたのではないかという報道が出たら、その後に「この映画を公開するな」という脅迫が来た。だからハッカーが、この際北朝鮮のせいにしてしまおうとしたのかもしれない。
 北朝鮮の方は、それなら自分たちのサーバーアタック能力が高い、脅威だということになるので、そうしておこうと思っているとも考えられる。
 日本では大騒ぎしてるが、ともかくくだらない映画だから、大人が騒ぐようなことじゃない。オバマがまじめに取り上げるような映画ではない。
https://www.youtube.com/watch?v=73FSLWsJapk

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 これを聞いて、なるほどそうなのかと、この映画を見る気はなくした。
 しかし、この映画が北朝鮮を怒らせたことは間違いないだろう。単なるジョークだ、そんなこともわからないのかとこの監督たちは言うかもしれないが、そのジョークの中に愚弄・嘲弄が含まれていることは間違いない。自分たちが愚弄・嘲弄されて喜ぶ者はいない。
 揶揄・諷刺と愚弄・嘲笑は紙一重だ。「表現の自由」はたしかに尊重しなければならないが、面と向かって「おまえはバカだ」と言うのが「表現の自由」にあたるかどうかは疑問だ。あたるとしても、相手から一発二発反撃があるのは覚悟しておかなければいけないだろう。

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2015年3月 9日 (月)

おりょうと土佐の青年たち

 最近読んだ『龍馬、原点消ゆ。』(前田秀徳、三五館、2006)には、おりょうが、坂本家を出た真相は、坂本家との不和のためではなく、隣近所の青年たちが夜な夜なおりょうをからかいに来たからである、というおもしろい話が書かれていた。

 明治に入り、自立しなければならないお龍は仕事もみつからないのに加え、いつまでも坂本家の厄介になることを拒んでいた。また、隣近所の青年たちがお龍をからかいに夜な夜な家の前で騒ぎ、二階にいるお龍の部屋に小石を投げ、挙句の果てには夜這いに来る始末であった。
 お龍も坂本家の家族もさすがにたまりかね、相談の上、お龍はひとまず高知城下を離れることになったのである。この時期、お龍の妹・君枝は、龍馬の同志・菅野覚兵衛(すがのかくべえ)と一緒になり、覚兵衛の里・芸西村和食(高知県の東部)で暮らしていた。
 そこで乙女(とめ)は、道案内を兼ねて君枝の暮らす村までお龍を見送ったのである。高知城下から昔の道で三十キロ、乙女の帰り道を加えると六十キロ以上の行程であった。(『龍馬、原点消ゆ。』p250)

 前にわたしは、「明治元年の地方都市の狭い町だ。京都からやってきた派手な美人の未亡人の動静が、噂にならないわけがない。」と書いた。(→おりょうの言い分2
 近所の血気盛んな若者たちが、その美人の未亡人にあれこれちょっかいを出そうとした、というのも十分考えられることである。
 ただこの本には「これらの話の出典は書くべくもない」と書かれており、残念ながらこれ以上くわしい話はない。
 そして前田氏は、おりょうと坂本家とは不仲ではなかったとされているが、そうだとすると、その後のおりょうと坂本家の関係がうまく説明できない。なぜ龍馬の家を継いだ坂本直は、訪れたおりょうに「坂本家に関係の無い人」だと言って追い返したのか。また龍馬の法要や正四位を追贈されたときに、おりょうが呼ばれた形跡はない。原因ははっきりしないが、やはり、おりょうと坂本家は決裂していたと見なければならないだろう。

Photo
 『龍馬、原点消ゆ。』は、坂本家の第一墓所などがあった高知市の丹中山(たんちやま)という墓山が開発のため壊されていく中、歴史写真家である前田氏が、孤軍奮闘、業者や市を相手に、歴史的に重要なたくさんの墓を残そうと活動された記録である。
 その結果、現在は、丹中山の一部が「高知市歴史墓地公園」として整備され、坂本家の墓所を中心に他の勤王志士たちなどの墓が並んでいるという。
http://t4141.ojaru.jp/kankyo/tanchi/index.html

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2015年3月 5日 (木)

おりょうの妄想?2

 おりょうの不遇の起点は龍馬の死であり、それは紀州藩によってもたらされたものだという思いがおりょうには強くあった。それが紀州藩出身の陸奥宗光に結びつけられて、暗殺の黒幕だと妄想するようになった、というのがわたしの推測あるいは妄想である。
 

 陸奥宗光については、1-4「坂本龍馬の未亡人」(安岡秀峰、昭和6)に、こんな話もある。
 幕末の頃、寺田屋のお登勢のように勤王の志士を援助した薩摩屋おりせという女性がいた。そのおりせに一番世話を焼かせたのは伊達要之助(陸奥宗光)だった。幕府方に追われて薩摩屋に逃げ込んだ伊達は押入にかくまわれ、逃がして貰ったこともある。
 文中の「菅野」は、おりょうの妹起美(君枝)の夫菅野覚兵衛で、「お前さん」というのは安岡秀峰である。前にも書いたが、秀峰の父安岡金馬(きんま)は、菅野覚兵衛と同じく海援隊士だった。

「そんなに世話を焼かせた要之助さんが、どうでせう、御維新になつて、自分は出世をしても、おりせさんに手紙一本寄越さないのです。たしか明治八九年の頃だと覚えて居ますが、おりせさんが大阪から東京へ来て、菅野とお前さんの宅(その頃私の家は築地の小田原町にあった)を宿にして居ました。東京見物に来たのです。その時菅野やお前さんの阿父さんが、御維新前に、我々同志は随分厄介をかけた。その中でも陸奥は、どれだけ世話になつたか知れない。東京へ来たのを幸ひ、陸奥を訪ねて遣るが宜い。あの男も、お前さんに会つたら、喜んで待遇するだらうと言つて薦(すす)めました。でもおりせさんは余り気乗りがしなかつたやうでした。
 おりせは、音信を絶つた要之助に、不快の念を抱いて居た。侠客肌のきかない気の女だから、持前の反抗心が涌くのである。あんな薄情な奴に誰が会ふものか…かういつた気持が先に立つて、足を向けようといふ気にはなれなかつた。
 だが、菅野や私の父が再三薦めたので、
「では、会つて見ようか」といふ気持になることが出来た。
 で、些細な手土産を携へて、或日陸奥の屋敷を訪れた。表玄関に立つて案内を乞ふと、書生が取次に出て、奧へ入つたが、しばらくすると、再び玄関へ出て来て、
「主人は只今多忙ですから、お目にかゝることが出来ません」と素気(そっけ)なく答へた。
 おりせは真赤になつて、黙つて書生の顔をにらみつけて居た。
 肝癪が破裂したのだ。憤怒と憎悪が一時にこみ上げた。
「馬、馬鹿にしやがるない!」積年の憤激が爆発した。
「陸奥にさう言つてやれ、人を馬鹿にしやアがつて、あの時のことを忘れたか! 押入の中で虱にたかられて下手にまごつくと首が無かつたんだ、誰のお庇(かげ)で助かつたと多ふ。私はね、少しばかり世話をしたからつて、そんなことを恩に着せて、大きな面をする女ぢゃないんだよ。陸奥が出世をしたからつて、誰が世話をして呉れと言ふものか。金でも借りに来やしまいし、人を馬鹿にしやアがる。薩万のおりせが、陸奥は恩知らずの畜生だと言つたつて、さう言つて遣れ、畜生奴ツ」
 持つて来た土産物を玄間に叩きつけて、さつさと私の宅へ帰つて来た。
 おりせと陸奥は、顔を合す機会がなかつた。二人とも会はうとしないで、二人とも故人になつてしまつた。(鈴木かほる『史料が語る坂本龍馬の妻お龍』p260)

(上記文章は「楢崎龍関係文書/阪本龍馬の未亡人/四回」で読める→http://ja.wikisource.org/wiki/%E6%A5%A2%E5%B4%8E%E9%BE%8D%E9%96%A2%E4%BF%82%E6%96%87%E6%9B%B8/%E9%98%AA%E6%9C%AC%E9%BE%8D%E9%A6%AC%E3%81%AE%E6%9C%AA%E4%BA%A1%E4%BA%BA/%E5%9B%9B%E5%9B%9E)

 自分が落ちぶれた後、昔世話した人間を訪ねたら、金が目当てかとけんもほろろの応対を受けたというのは、わたしのこどもの頃の芝居によくあるストーリーだった。明治維新後には、実際にこんな話もたくさんあったのだろう。
 おりょう自身が、同じような経験をしたと、1-2「続反魂香」(安岡秀峰、明治32)で語っている。
 これも前に書いたことだが、龍馬の死後、おりょうは土佐の坂本家と折り合いが悪く、結局離縁された。京都で墓守をしているだけでは母や妹を養っていけず、竜馬の友人を頼ろうと東京へ出た。
 東京では折悪しく西郷隆盛は征韓論にやぶれて鹿児島へ帰るところだった。海援隊の関係者からも十分な援助は受けられなかった。(→その後のおりょう )
 その頃、龍馬の功績により龍馬の後を継いで一家を立てることを許された、龍馬の甥、坂本直(なお)の家を訪ねたら、けんもほろろに追い払われたというのである。坂本直は、当時は(じゅん)と名乗っていた。高松太郎小野淳輔と名乗ったこともある。
 

  高松太郎の不徳
お良が、国を飛び出して東京へ辿りつき、西郷に面会して、身の振り方を頼みましたが、折あしく国へ帰る矢先であるから、再び出京した時に屹度(きっと)お世話をしませうと云はれて、少しは望みを失ひましたが、或日、高松の門前を通りましたので、一寸立ち寄ろうと案内を乞ひますと、妻のお留が出てきて、お良を一目見ると、面(ツラ)を膨らしながら、何の用で御来臨なさつたと、上へあがれとも言はず、剣もほろゝの挨拶に、お良も内心不平を抱きながら、何うか坂本さん(高松は龍馬の甥にて、今は龍馬の跡をつぎ坂本順と名乗り居しなり、後に小野順助と改名す)に逢はして下さいと云ひますと、奧から高松が出て来まして、お良さん、お前さんは最早、我々坂本家に関係の無い人ぢやありませんか、何御用かは知らないが、何うかお帰りなさつて下さい、此後、尋ねて来ても逢ひませむぞと、不人情極まる言葉にお良も呆れ果てゝ、えゝ能うム(ござ)います、お前さんのやうな人で無しとは(傍点)最早、口も利きませぬ、顔も合しませぬ、左様ならと言ひ捨てゝ、帰つて来たそうですが、彼の時ほど口惜しかつたことはなかつたと、何時も僕に話しています。(鈴木かほる『史料が語る坂本龍馬の妻お龍』p209)

 おりょうにしてみれば、高松太郎は海援隊時代、世話をした男である。3「 坂本龍馬未亡人之物語」(貴田菊雄伝作者不詳、「坂本龍馬未亡人之物語」、昭和11)には、坂本(高松)家を出た後、こう書かれている。

「其時の口惜しさは今に忘れは致しません元来このお留さんは下關稲荷町の大阪屋の遊女仙臺と申した女で大層順の太郎と馴染んで居りました順の太郎が大阪へ行くに就き離れ難き仲を不愍に思ひ良人龍馬と妾が身受けをしまして八圓の金子を選別に夫婦を大阪表に出立させた程ですから妾を其様に冷遇することは出來ない筈ですのに何んで御座いませう妾が順に逢ひたいと申しますとお留さんが出まして木で鼻を括た様な挨拶をしたばかりか以前餞別に與へた金子八圓を妾の前へ出して物貰ひかなんぞの様に取扱ひましたから妾も言ひたい事は胸一杯でしたが其儘金子は玄関へ抛り棄てゝ同家を立ち去りました」(「傳記」の第三巻三号p109)

 昔面倒を見た話がどこまで本当かはわからない。しかしわたしが推測するように、男関係の噂がもとでおりょうが坂本家を出たのだとすれば(→おりょうの悪評2)、高松太郎にとっては、おりょうは、家名に泥を塗った女である。昔世話になったとしても、跡継ぎとして「坂本家には関係の無い人」という言葉が出ても不思議はない。
 坂本家と絶縁することがなければ、おりょうも陸奥が黒幕だと妄想することはなかっただろうし、裏長屋でアル中になって死ぬようなこともなかっただろう。しかし、おりょうの性格上、これも避けられないことだったのだろうか。

 

 

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2015年3月 2日 (月)

J63 光文社「世界のジョーク集」から

 久しぶりに「本のジョーク」をJB34 光文社「世界のジョーク集」で紹介した本からどうぞ。
 まず『ラリー・ワイルド『犬と猫のジョーク集 世界のジョーク集3』(光文社文庫、1986)』から。

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愛読欄は(仮題)

 パーキンス氏が、隣に越してきたネルソン氏の家に遊びに行き、おしゃべりをしていると犬がやってきて、タイムズの日曜版はないか、とネルソン氏に訊いた。ネルソン氏が新聞を渡すと、口にくわえて部屋を出て行った。
「すごいじゃないか!」とパーキンス氏。「あの犬は字が読めるんだね!」
「まんまとだまされたね」とネルソン氏が答えた。「アイツは字なんか読めやしないよ。連載漫画を見るだけなんだ」(p犬71)

 

映画を見る犬(仮題)

 ディクソン氏は映画を見ていた。ふと気がつくと、前の席には男と大きなアフガン犬が並んでいるではないか。犬は明らかに映画がわかる様子で、悪人が出てくると唸り声をあげ、滑稽なシーンでは笑った。
 ディクソン氏は男の肩を叩いた。「お邪魔して申しわけありません。しかし、映画が好きな犬なんて、どうにも珍しくて」
「ああ、おれもそう思う」と男は答えた。「こいつ、本は嫌いなくせにな」(p犬79)

 

猫の本の読者(仮題)

 ある書店で猫の本が異常な売れ行きを見せた。店主はさっそく百部の追加注文を出した。折り返し出版社から電報が届いた。
『百部発送した。おたくの客は人間それともネズミなの?』(p猫16)

 

 次は、ラリー・ワイルド『男と女のジョーク集 世界のジョーク集1』(光文社文庫、1985)から。

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遠い景色(仮題)

 広告代理店の重役が理髪店の椅子に座ってペントハウス誌を読んでいた。最初のヌード写真のところまでくると、彼はページをめくる手をとめた。理容師がわかっていますよというようにウィンクした。
「誤解しないでもらいたいね」と「重役はいった「わたしがペントハウスを読むのは、ナショナル・ジオグラフィック・マガジンを読むのと同じだ―― 一生縁のない景色をながめるだけだよ」(p28)

 

 最後は、ラリー・ワイルド『ゴルフ・ジョーク集 世界のジョーク集5』(光文社文庫、1986)から。

Photo_3


ゴルフ友達(仮題)

 土曜日がくるたびに、いつもおなじ相手とラウンドする男がいた。ある土曜日、彼がめずらしく家にとじこもって本を読んでいるのを見て、妻がたずねた。
「あら、きょうはヘンリーとゴルフに行かないの?」
「だれが行くもんか。きみならどうする? 嘘をついたり、ごまかしたり、ボールを動かしたりする男とプレーする気になるか!」
「まっぴらごめんだわ!」
「ヘンリーもそういうんだよ」(p100)

 

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