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2015年3月 5日 (木)

おりょうの妄想?2

 おりょうの不遇の起点は龍馬の死であり、それは紀州藩によってもたらされたものだという思いがおりょうには強くあった。それが紀州藩出身の陸奥宗光に結びつけられて、暗殺の黒幕だと妄想するようになった、というのがわたしの推測あるいは妄想である。
 

 陸奥宗光については、1-4「坂本龍馬の未亡人」(安岡秀峰、昭和6)に、こんな話もある。
 幕末の頃、寺田屋のお登勢のように勤王の志士を援助した薩摩屋おりせという女性がいた。そのおりせに一番世話を焼かせたのは伊達要之助(陸奥宗光)だった。幕府方に追われて薩摩屋に逃げ込んだ伊達は押入にかくまわれ、逃がして貰ったこともある。
 文中の「菅野」は、おりょうの妹起美(君枝)の夫菅野覚兵衛で、「お前さん」というのは安岡秀峰である。前にも書いたが、秀峰の父安岡金馬(きんま)は、菅野覚兵衛と同じく海援隊士だった。

「そんなに世話を焼かせた要之助さんが、どうでせう、御維新になつて、自分は出世をしても、おりせさんに手紙一本寄越さないのです。たしか明治八九年の頃だと覚えて居ますが、おりせさんが大阪から東京へ来て、菅野とお前さんの宅(その頃私の家は築地の小田原町にあった)を宿にして居ました。東京見物に来たのです。その時菅野やお前さんの阿父さんが、御維新前に、我々同志は随分厄介をかけた。その中でも陸奥は、どれだけ世話になつたか知れない。東京へ来たのを幸ひ、陸奥を訪ねて遣るが宜い。あの男も、お前さんに会つたら、喜んで待遇するだらうと言つて薦(すす)めました。でもおりせさんは余り気乗りがしなかつたやうでした。
 おりせは、音信を絶つた要之助に、不快の念を抱いて居た。侠客肌のきかない気の女だから、持前の反抗心が涌くのである。あんな薄情な奴に誰が会ふものか…かういつた気持が先に立つて、足を向けようといふ気にはなれなかつた。
 だが、菅野や私の父が再三薦めたので、
「では、会つて見ようか」といふ気持になることが出来た。
 で、些細な手土産を携へて、或日陸奥の屋敷を訪れた。表玄関に立つて案内を乞ふと、書生が取次に出て、奧へ入つたが、しばらくすると、再び玄関へ出て来て、
「主人は只今多忙ですから、お目にかゝることが出来ません」と素気(そっけ)なく答へた。
 おりせは真赤になつて、黙つて書生の顔をにらみつけて居た。
 肝癪が破裂したのだ。憤怒と憎悪が一時にこみ上げた。
「馬、馬鹿にしやがるない!」積年の憤激が爆発した。
「陸奥にさう言つてやれ、人を馬鹿にしやアがつて、あの時のことを忘れたか! 押入の中で虱にたかられて下手にまごつくと首が無かつたんだ、誰のお庇(かげ)で助かつたと多ふ。私はね、少しばかり世話をしたからつて、そんなことを恩に着せて、大きな面をする女ぢゃないんだよ。陸奥が出世をしたからつて、誰が世話をして呉れと言ふものか。金でも借りに来やしまいし、人を馬鹿にしやアがる。薩万のおりせが、陸奥は恩知らずの畜生だと言つたつて、さう言つて遣れ、畜生奴ツ」
 持つて来た土産物を玄間に叩きつけて、さつさと私の宅へ帰つて来た。
 おりせと陸奥は、顔を合す機会がなかつた。二人とも会はうとしないで、二人とも故人になつてしまつた。(鈴木かほる『史料が語る坂本龍馬の妻お龍』p260)

(上記文章は「楢崎龍関係文書/阪本龍馬の未亡人/四回」で読める→http://ja.wikisource.org/wiki/%E6%A5%A2%E5%B4%8E%E9%BE%8D%E9%96%A2%E4%BF%82%E6%96%87%E6%9B%B8/%E9%98%AA%E6%9C%AC%E9%BE%8D%E9%A6%AC%E3%81%AE%E6%9C%AA%E4%BA%A1%E4%BA%BA/%E5%9B%9B%E5%9B%9E)

 自分が落ちぶれた後、昔世話した人間を訪ねたら、金が目当てかとけんもほろろの応対を受けたというのは、わたしのこどもの頃の芝居によくあるストーリーだった。明治維新後には、実際にこんな話もたくさんあったのだろう。
 おりょう自身が、同じような経験をしたと、1-2「続反魂香」(安岡秀峰、明治32)で語っている。
 これも前に書いたことだが、龍馬の死後、おりょうは土佐の坂本家と折り合いが悪く、結局離縁された。京都で墓守をしているだけでは母や妹を養っていけず、竜馬の友人を頼ろうと東京へ出た。
 東京では折悪しく西郷隆盛は征韓論にやぶれて鹿児島へ帰るところだった。海援隊の関係者からも十分な援助は受けられなかった。(→その後のおりょう )
 その頃、龍馬の功績により龍馬の後を継いで一家を立てることを許された、龍馬の甥、坂本直(なお)の家を訪ねたら、けんもほろろに追い払われたというのである。坂本直は、当時は(じゅん)と名乗っていた。高松太郎小野淳輔と名乗ったこともある。
 

  高松太郎の不徳
お良が、国を飛び出して東京へ辿りつき、西郷に面会して、身の振り方を頼みましたが、折あしく国へ帰る矢先であるから、再び出京した時に屹度(きっと)お世話をしませうと云はれて、少しは望みを失ひましたが、或日、高松の門前を通りましたので、一寸立ち寄ろうと案内を乞ひますと、妻のお留が出てきて、お良を一目見ると、面(ツラ)を膨らしながら、何の用で御来臨なさつたと、上へあがれとも言はず、剣もほろゝの挨拶に、お良も内心不平を抱きながら、何うか坂本さん(高松は龍馬の甥にて、今は龍馬の跡をつぎ坂本順と名乗り居しなり、後に小野順助と改名す)に逢はして下さいと云ひますと、奧から高松が出て来まして、お良さん、お前さんは最早、我々坂本家に関係の無い人ぢやありませんか、何御用かは知らないが、何うかお帰りなさつて下さい、此後、尋ねて来ても逢ひませむぞと、不人情極まる言葉にお良も呆れ果てゝ、えゝ能うム(ござ)います、お前さんのやうな人で無しとは(傍点)最早、口も利きませぬ、顔も合しませぬ、左様ならと言ひ捨てゝ、帰つて来たそうですが、彼の時ほど口惜しかつたことはなかつたと、何時も僕に話しています。(鈴木かほる『史料が語る坂本龍馬の妻お龍』p209)

 おりょうにしてみれば、高松太郎は海援隊時代、世話をした男である。3「 坂本龍馬未亡人之物語」(貴田菊雄伝作者不詳、「坂本龍馬未亡人之物語」、昭和11)には、坂本(高松)家を出た後、こう書かれている。

「其時の口惜しさは今に忘れは致しません元来このお留さんは下關稲荷町の大阪屋の遊女仙臺と申した女で大層順の太郎と馴染んで居りました順の太郎が大阪へ行くに就き離れ難き仲を不愍に思ひ良人龍馬と妾が身受けをしまして八圓の金子を選別に夫婦を大阪表に出立させた程ですから妾を其様に冷遇することは出來ない筈ですのに何んで御座いませう妾が順に逢ひたいと申しますとお留さんが出まして木で鼻を括た様な挨拶をしたばかりか以前餞別に與へた金子八圓を妾の前へ出して物貰ひかなんぞの様に取扱ひましたから妾も言ひたい事は胸一杯でしたが其儘金子は玄関へ抛り棄てゝ同家を立ち去りました」(「傳記」の第三巻三号p109)

 昔面倒を見た話がどこまで本当かはわからない。しかしわたしが推測するように、男関係の噂がもとでおりょうが坂本家を出たのだとすれば(→おりょうの悪評2)、高松太郎にとっては、おりょうは、家名に泥を塗った女である。昔世話になったとしても、跡継ぎとして「坂本家には関係の無い人」という言葉が出ても不思議はない。
 坂本家と絶縁することがなければ、おりょうも陸奥が黒幕だと妄想することはなかっただろうし、裏長屋でアル中になって死ぬようなこともなかっただろう。しかし、おりょうの性格上、これも避けられないことだったのだろうか。

 

 

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