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2015年3月16日 (月)

悪い冗談の果てに 2

  「シャルリー・エブド」について、ウィキペディアは、こう紹介している。

左派寄りの風刺新聞であり、イラスト(風刺画)を多用し、フランス国内外の極右、カルト教団、カトリック、イスラム教、ユダヤ教、政治 等に関して、調査報道を行っている。風刺画家のシャルブ(フランス語版)によると、その編集方針は「様々な左派の見解、さらには政治参加に無関心な人の見解」を反映すること、とのことである。

 どの程度の調査報道が行われているのか、ちゃんと読んでみないといけないけれど、それはわたしの能力の及ばないことなので、ネットでいくつかの風刺画を見た限りで判断すると、諷刺・パロディというより、「ザ・インタビュー」と同じような愚弄・嘲笑にすぎないように感じられる。だいいちおもしろくないし、底に悪意が隠れているようにも思える。
 だから、フランスで「表現の自由を守れ」という大規模な抗議デモが行なわれたのがちょっと不思議だった。「テロリズム反対」ならわかるが、あの週刊誌の内容をよく知っているフランス人たちが、「表現の自由」を守るためとして、”Je suis Charli.(ジュ スィ シャルリ/私はシャルリ” を標語として掲げているのには違和感を感じた。

150114ss_4                (東京新聞、2015/01/14)

 昔、日本では「チャタレー事件」や「四畳半襖の下張事件」という、猥褻性と表現の自由をめぐる裁判があった。その中で、その作品が「猥褻か芸術か」が問題ではなく、ただの猥褻であっても、「表現の自由」のためには守らなければならない、と誰か(小田実?)が言っていた。当時若いわたしは、なるほどと感心した。
 この理屈で、シャルリ・エブドも守らなければならないことになるのはわかるが、それにしても、あんなにフランスこぞってみたいな話になるものなのか。"Je ne suis pa Charlie."(ジュ ヌ スィ パ シャルリ/私はシャルリではない) だけど、「表現の自由」は大事だ、ならわかるけど。

 これについて、ハフィントンポストの小林恭子「仏風刺週刊紙テロ事件 ―言論・表現の自由の行方は」という記事には、こう書かれていた。
http://www.huffingtonpost.jp/ginko-kobayashi/charlie-hebdo_b_6844422.html

フランスの社会党に所属する、上院議員エレン・コンウェイ=ムレ氏は「シャルリ・エブドの風刺は自分の趣味には合わない」と筆者に語った。「あまりにも下品でどぎつい。挑発的過ぎる。自分では買わない新聞だ」。しかし、「下品で挑発的な言論や表現も、フランスの表現の場の一部を成す。存在意義がある」。

「暴力によって言論が封殺されることは絶対にあってはならない。だから自分はシャルリ・エブドを支持する。表現の内容については同意しなくても、存在を支持するからだ」。

フランスの中では少数派となるムスリムがシャルリによるムハンマドの風刺に侮辱されたと感じたり、傷つく点についてはどう思うかを聞いたところ、「マイノリティーの意見がマジョリティーの国民のやり方を左右することは、普通ありえないのでないか」。そして、「政教分離=ライシテ=を国是とする共和国制度のフランスでは、宗教はプライベートな領域に属する」と。公的な領域に属するメディアでの言論が宗教的な理由から規制を受けることはあるべきではない、という考え方である。

質問を続ける中で、議員の秘書役が思いあまったように、説明を補足した。「1968年、学生が主導したパリ革命が起きた。あのときの反体制のスピリットを体現していたのがシャルリ・エブドだ。現在につながる反体制のメディアで、その重要性はいくら話しても話し足りない」。

秘書はシャルリ・エブドや風刺文化に大きな誇りを持っている印象を持った。筆者が議員に向かって、フランスの表現の自由にいくらかでも疑問を呈するような質問をすると、側に座る秘書は「分かっていない」という風に頭を横に振るのであった。

 やっぱり、フランスでも「下品でどぎつく挑発的」であると思われている。それでも守る、シャルリ・エブドにはそれなりの価値がある、と考えられているということらしい。
 「マイノリティーの意見がマジョリティーの国民のやり方を左右することは、普通ありえないのでないか」というのは、日本ではすぐに「少数意見の尊重を」という話が出てくるので、かなりきつい言い方にきこえるが、このあたりが、フラランスは「理性」の国だということなのか。
 東洋経済オンラインの「鹿島茂氏が読み解く仏紙襲撃事件」という記事が参考になった。鹿島茂はフランス文学者である。
http://toyokeizai.net/articles/-/58478

 鹿島茂が言っているのは次のようなことだ。
 フランス共和国の第一原理は「一にして不可分な共和国である」ということ、第二原理は「ライックな共和国であること」ということである。(これは憲法の第一条に規定されている。)
 フランスでは、親子は独立して自由で、兄弟は平等という家族類型を基本として国家統一がされていて、親が権威主義的で子と同居し、兄弟は不平等で直系相続である日本などとは違う。すべての人間は同一であるとされ、人種、言語、宗教の違いは微細なことでどうでもよい。その差異性を強調すること、特別扱いすることは認めない。これが「一にして不可分」ということである。
 「ライック laïque というのは政教分離とか非宗教的ということで、「宗教そのほか個人の信条はプライベート(私的)空間においてはすべて認める。しかし、パブリック(公共)空間においては一切認めないという原理。」である。だからパブリックな政治の場では、カトリック政党もイスラム政党も認めない。教育の場ではイスラムのスカーフも認めないということになる。むしろパブリックな場では、宗教など尊重しないことで、「一にして不可分」な共和国が成立すると考えている。
 「表現の自由」については、何でも許されているわけではなく、法律で規定して、「反ユダヤ主義」「人種主義」「テロリズムの礼賛」の三つを厳禁していて、これに違反したら捕まる。しかしこれに違反しなければ何を書いてもいい。自由度は大きい。
 この「共和国の理念」の普遍主義に、イスラムの普遍主義が正面衝突した。だから過激になる。差違を認めた上で仲よくやってゆくというのは、リベラル左翼の考え方でフランスでは少数派である。

 今回の事件は、フランスという国の存立の基本に関わることだったということだ。
  たいていの日本人は「差違を認めた上で仲よくやってゆこう」と考えるのではないかと思うが、これが少数派になるという。このあたりがよくわからないけれど、無論これはテロリズムに移民問題、キリスト教とイスラム教との対立などもからんだ複雑な問題なので、そう簡単にわかるはずはない。

 多神教の日本には、こんなマンガもある。中村光『聖☆おにいさん(セイントおにいさん)』(講談社、2008)では、イエスとブッダが、休暇で天から下界へやってきて、東京・立川のアパートをシェアして暮らしはじめる。

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 二人とも油断しているとついつい奇跡を起こしそうになって、まわりの人から怪しまれる。ブッダが昼寝していると、涅槃と間違えて、まわりの犬や猫、鳥がいっぱい集まってくるし、泳げないイエスは、プールでモーゼのように水を割ってしまう。
 敬虔な信者からすればなんと罰当たりな、そもそもキリスト教と仏教を一緒にするな、ということになりそうだが、日本では襲撃されることもなく、2009年には手塚治虫賞を貰っている。

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 これくらいの冗談が賞を貰えるような、ゆるい社会でいいのではないかと思う。しかしこのアパートのとなりの部屋にマホメットが転居してきて、というような話が作られることは、向こう百年はありえなさそうだ。二百年後にはあるかもしれないと期待してしまうのは、わたしが多神教の世界の住人だからだろうか。

 

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