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2015年3月 9日 (月)

おりょうと土佐の青年たち

 最近読んだ『龍馬、原点消ゆ。』(前田秀徳、三五館、2006)には、おりょうが、坂本家を出た真相は、坂本家との不和のためではなく、隣近所の青年たちが夜な夜なおりょうをからかいに来たからである、というおもしろい話が書かれていた。

 明治に入り、自立しなければならないお龍は仕事もみつからないのに加え、いつまでも坂本家の厄介になることを拒んでいた。また、隣近所の青年たちがお龍をからかいに夜な夜な家の前で騒ぎ、二階にいるお龍の部屋に小石を投げ、挙句の果てには夜這いに来る始末であった。
 お龍も坂本家の家族もさすがにたまりかね、相談の上、お龍はひとまず高知城下を離れることになったのである。この時期、お龍の妹・君枝は、龍馬の同志・菅野覚兵衛(すがのかくべえ)と一緒になり、覚兵衛の里・芸西村和食(高知県の東部)で暮らしていた。
 そこで乙女(とめ)は、道案内を兼ねて君枝の暮らす村までお龍を見送ったのである。高知城下から昔の道で三十キロ、乙女の帰り道を加えると六十キロ以上の行程であった。(『龍馬、原点消ゆ。』p250)

 前にわたしは、「明治元年の地方都市の狭い町だ。京都からやってきた派手な美人の未亡人の動静が、噂にならないわけがない。」と書いた。(→おりょうの言い分2
 近所の血気盛んな若者たちが、その美人の未亡人にあれこれちょっかいを出そうとした、というのも十分考えられることである。
 ただこの本には「これらの話の出典は書くべくもない」と書かれており、残念ながらこれ以上くわしい話はない。
 そして前田氏は、おりょうと坂本家とは不仲ではなかったとされているが、そうだとすると、その後のおりょうと坂本家の関係がうまく説明できない。なぜ龍馬の家を継いだ坂本直は、訪れたおりょうに「坂本家に関係の無い人」だと言って追い返したのか。また龍馬の法要や正四位を追贈されたときに、おりょうが呼ばれた形跡はない。原因ははっきりしないが、やはり、おりょうと坂本家は決裂していたと見なければならないだろう。

Photo
 『龍馬、原点消ゆ。』は、坂本家の第一墓所などがあった高知市の丹中山(たんちやま)という墓山が開発のため壊されていく中、歴史写真家である前田氏が、孤軍奮闘、業者や市を相手に、歴史的に重要なたくさんの墓を残そうと活動された記録である。
 その結果、現在は、丹中山の一部が「高知市歴史墓地公園」として整備され、坂本家の墓所を中心に他の勤王志士たちなどの墓が並んでいるという。
http://t4141.ojaru.jp/kankyo/tanchi/index.html

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