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2015年7月16日 (木)

養老孟司講演会

 7月1日は、養老孟司の講演を聴きに、東京ビッグサイト行った。東京国際ブックフェアの行事の一つである。

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 養老孟司の本はおもしろい。何冊も読んだ。前に内田樹との「戦後マンガ家論」という対談を聞きにいったこともある。(→三遊亭円丈『御乱心』
 『唯脳論(ゆいのうろん)』(1989、青土社)を読んだときには本当に目からウロコが落ちる思いがした。何枚も落ちたと思う。

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 『バカの壁』で売れっ子になって、エッセイ、時評、書評といろんな本が出た。視点が斬新で、しかも飛んでいる。解剖学の細部のような難しい部分はともかく、何冊も読んでいると、書いてあることの基本は同じだから、なんとなくわかるような気がしてくる。
 わたしが理解した、養老先生の主張の一番の基本は、意識=脳はえらそうにしているけれど、意外にたいしたものじゃない、感覚=身体が重要で、身体の言うことをちゃんときかないといけない、脳の考えることは、器官=身体としての脳に基づいており、それ以上のことは考えられない、ということ。
 「バカの壁」というのは、意識=脳がはじめから無関心なことは、それが壁になってちゃんと理解できないということ。現代は社会全体が脳化している。特に都市は脳化している。もっと感覚=身体=自然に目を向けないといけない。
 わたしのおおまかな脳が理解したところはだいたいこんなところである。これも脳のやったことなので、養老先生の言うとおり、あまり信用しないほうがいいかもしれない。

 以下の講演メモは、講演中にちょこちょこっと書いたものをもとに、どういう趣旨だったか、なんとか読めるものにしようとしたもの。自分の書いた字が読めなかったり、ただの単語の羅列で意味がつかめなかったり、意味がつながらなかったり、うまくいかなかった。欠落している部分もある。
 だから、わたし個人の覚書として載せておくけれど、内容に責任はもてないので、読まれる方はその旨御承知ください。これもしょせんは脳のしわざです。

 

<講演メモ>

 大学で「シラバス」を書くのが嫌いだった。今はどこでも講義の予定・内容をこと細かに書いて事前に提出しないといけないことになっている。これが嫌いで、ちゃんとできない。だからこの講演の題もおまかせにしたら、この「「出版」は普遍的な職業か? 」という題になってちょっと困った。
 でも小学二年で終戦を迎えて、教科書に墨を塗らされた世代だから、教科書でもなんでも、気に入らなければ墨を塗ればいいと思っている。朝日新聞も墨塗ればいいんですよ。
 ただし塗らされた世代として、墨を塗らせた公的な側は、それを、昔の学生の言葉で言えば、ちゃんと「総括」したか、とは思っている。してないでしょう。

 「出版」は本だけではない。
 「普遍」は、「ユニバーサル」で、これは西欧的な、天上の神と地上の人間をひっくるめた全体の世界のこと。
 最近は「グローバル」と言って、神様はいなくなった。これは地球のタマを意味する。
 おもしろいのは最近脳の活動をさすのに神経の電気的なものや化学的な反応も含めた全体をグローバルと言っている。
 宇宙も地球も要は「脳」なんです。

 西欧と違って、日本では自分という者はいないと考えられてきた。仏教で言う「無我」。
 こうやって集団相手に講演ができるのもそれぞれの意識に人間共通のものがあるからで、ひとりひとりの活動と共通の「知」とがある。
 知には「プライオリティ」があって、開発者の利益とされてきたが、知的なものは人間全体に共通性がある。グーグルの始まりは知識を全部インターネットに載せて共有しようということ。これは「出版」である。脳の全体がグローバルで、インターネットもグローバル。
 アルファベット二十数字で書かれた書物はランダムに作ることが可能で、そのすべてを収めたというのが「ボルヘスの図書館」である。実現の可能性がでてきた? 

 本も「端末」のひとつである。
 マンガはザラザラした紙で読まないとマンガという感じがしない。アート紙では解剖図だ。それと開いたときの丸みの感覚。これはマンガの社会的地位が関係している。
 パソコンのようなものがポピュラーになるが、本はなくならない。ペーパーレスの時代が来ると言われたが、現在のオフィスは以前より紙が増えている。わたしもプリントアウトして線を引きながら読んでいる。
 ただ昆虫の写真のようなものは印刷するとそれ以上拡大できない。電子データはずっと拡大して見ることができる。だから対象による。

 職業ということでは、わたしの母はいつも「手に職がないと困る」と言っていた。ハンス・セリエというストレス学説を唱えた学者は、オーストリア=ハンガリー帝国の貴族の出身だったが第一次大戦後貴族は崩壊した。セリエは「自分の身についたものはなくならない」と言っている。
 教養は身につけるもので鼻につけてはいけない。
 「アルス・ロンガ、ウィータ・ブレウィス Ars longa, vita brevis」という言葉がある。日本では「芸術は長く、人生は短い」みたいに言われているが、アルスというのは手についたわざのこと。もとはヒポクラテスの言葉で、医術のわざを身につけるには時間がかかる、習得するには人生は短い、「少年老い易く学なり難し」みたいな意味である。
 「出版」が身につくものかどうかはわからない。わたしのやっていた解剖も「アルス・ロンガ」で、こんなことやって何になる、と思ったこともある。長く続けていることで得るものがあるが、それは意識化できない。
 手先でやることをもつことは重要。

 編集というのはクリエイティブな仕事だが、本にするシステムは締切など機械的に動いていかなければならない部分もあって、個人の主張と折り合わせていく。
 それに金がついてくるかどうか。仕事には金にならなくてもやらないといけないことがたくさんある。仕事が先で、その後にお金がある。何かやったらお金になる。わたしの場合もつくったら売れちゃった。
 意識的に作っているが、売れるか売れないかは意識にはよらない。
 意識というのは夜寝ているときにはなくなってしまう。寝ているときは意識がコントロールしていない。自主性がない。
 そのくせ一旦出てくると意識が一番いばっている。意識が中心になっているが、あるとき身体(からだ)に気づく――たとえばガンだとわかったとき。ふだん意識は身体のことを考えていない。

 わたしに血圧はない。計っていないから、ない。胃カメラをのんだことがある。あれは前からのむ予定が決まっているからずっと気になる。当日は朝から何も食べられない。それで検査の結果「先生、急性ストレス性胃炎です」と言われた。検査のせいだろう。
 血圧が高い低いというのは統計値で言っているだけ。真ん中が平均値で、きれいな正規分布になる。センター試験の成績も同じで、東大医学部に入る生徒の成績は、高血圧にあたる。医学部に入るとバカになる、とよく言われるが、高血圧を下げて普通になおしてやってるんだと言っている。

 意識中心の社会になっていくという予想はあたった。
 情報という言葉が使われるようになったのは大学院生のころからで、おもに工学系のコンピュータ関係で使われた。情報というのは何か、考えた。
 本は止まっている。いつ開いても同じことが書いてある。テレビもビデオ化すると止まる。意識で扱うものはみんな止まる。世界は止まっていると意識は思っている。だから地震に驚く。
 本をテレビカメラで上から撮って読んでいくと、画面の本のへりは上にあがっていく。ところが目で見ているときはあがっていかない。脳が中心視野と周辺視野を逆に動かしているからだ。
 静止した世界は脳がつくったもの。目玉がテレビカメラだったら世界がぐらぐら動く。動画をとるときはカメラを動かさない。そうしないと画面が揺れてしまう。目玉は動かしているが世界は止まっている。

 脳のことを考え、身体のことを考える。
 意識はいつ生じたのか? 人間の最初はたった0,2ミリの受精卵。卵があると親ができる。しかしなぜかはわからない。世の中わかったように思っているが、わからないことばかり。知的な世界は終わらない。
 意識の出した結論は相当あてにならない。だから問題があったら墨を塗っておいてください。

 イギリスのことわざに、石や棒なら骨が折れるが言葉で骨が折れることはない、というのがある。だけど現在はうるさくなってある種の言葉はつかえなくなっている。言葉と実体の世界を分けないといけない。脳と感覚を分けないといけない。言葉が死んでしまう。
 意識は自律性を持っていない。実際には感覚入力が人間を動かしている。

 この6月4日に建長寺に「虫塚」を建てて虫供養をやった。6月4日は虫の日で、虫仲間では64歳を「虫寿(ちゅうじゅ)」という。
 今、虫がいなくなっている。五月の蝿とかいて「五月蠅(うるさ)い」と読むが、五月に蝿はいない。今では「めずらしい」と読まないといけない。
 そのうち人間もいなくなる。少子高齢化がそれだ。人間もある環境の中で増えるもので、それを都会に人を集めたら増えなくなった。

 昔と違ってまわりに生物がいないからテレビを楽しんでいる。出版は先細りになっている。

 意識の貧困は、無意識の貧困からきている。だから意識を豊かにするには無意識を豊かにしないといけない。
 人間は何もしないでぼやっとしているとき、人とつきあう状態になっている。人と人のつながりが先で、サルも群れが大きいと脳が大きくなると言う研究がある。人間は道具をつくって脳が大きくなったのではなく、バイプロダクト、副次的に道具をつくった。
 ベースは身体、感覚である。その上に意識が乗っている。その意識が扱うのが情報で、その一部が「出版」である。
 

<以上>

 

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