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2015年8月

2015年8月31日 (月)

大巧寺はおんめさま

 本覚寺の次は大巧寺(だいぎょうじ)へ行きました。ガイドブックのコースには入っていなかったけれど、ここにもハスがあるというので寄ってみました。

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 鎌倉駅から一番近いお寺で、若宮大路にも入口がありますが、今回は小町大路から入ります。角に「大巧寺」と掘った石塔があるところを入って行きます。

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 裏口のように見えます。しかしその昔は若宮大路の方に入口を作ってはいけないというきまりがあったようで、こちらから入った突き当たりが本堂の正面になっています。昔はこちらが表口だったのでしょう。 

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 本堂です。鉢に入ったハスが前にありました。

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 本堂の脇をぬけて、細長い敷地を若宮大路の方へまわってみると、やはりこちらが正面という感じです。

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 石の正面に「安産子育 産女霊神 長慶山大巧寺」とあり、その横の面には「おんめさまとあります。

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 天文年間この寺の五世日棟上人が、滑川の川原に難産で死んだ女性の霊があらわれたのを、法華経を唱えて成仏させ、「産女霊神(うぶすめれいじん、うぶめれいじん)」として祀ったという由来があります。そのため安産祈願の寺として知られ、通称「おんめさま」と呼ばれているのは、「おうぶめさま」「うぶめさま」が転訛したものと考えられています。

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 本堂の脇にはその「産女霊神・福子霊神」の墓があります。

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 境内は細長くて狭いのですが、あちこちに花が植えられています。ハスはもう終わりです。

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 奥の古ぼけた家には「安産腹帯守授与所」という看板がかかっています。ここのHPには「戌の日 及び 大安の休日は、混雑いたします」と書いてありました。
  ここは檀家をもたず、もっぱら安産祈願でやっているそうです。駅から近いし、鎌倉ブランドのせいもあるのでしょうか、けっこう参拝客はあるようです。

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 サルスベリとキョウチクトウが赤く咲いていました。この日はまだ暑い日でした。

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2015年8月27日 (木)

本覚寺のサルスベリ

 本興寺の次は本覚寺(ほんがくじ)です。小町大路滑川(なめりがわ)を渡るためちょっと曲った角にあります。

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 仁王門から入ります。日蓮宗の大きなお寺です。

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 入ってすぐ右手にあるのは夷堂(えびすどう)です。元このあたりにあった天台宗の夷堂を日蓮が辻説法の拠点としていたことから、ここに本覚寺が創建されたそうです。現在の夷堂は昭和56年(1981年)に再建されたものです。 

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 江の島鎌倉七福神のひとつで、えびす講もあり、正月にはとてもにぎわうようです。にぎわう鎌倉は苦手なので、そのころ来たことはありません。

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 入った突き当たりが本堂ですが、工事中でした。

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 左手の寺務所が仮本堂になっているようです。ここもサルスベリが咲いていて、その前にはハスの鉢がたくさん置かれています。

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 これが仮本堂。「東身延本覚寺」と書かれています。身延山の日蓮の遺骨をこの寺に分骨したのでそう呼ばれているそうです。

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 ハスの花は数が少ない。もう終わりのようです。

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 ここのサルスベリも夏の青空に向かって咲いています。暑い。
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 永井路子の『わが町わが旅』(中公文庫、1990)には、こんなふうに書かれていました。

 その日、帰りがけにふと立ち寄った本覚寺の百日紅(さるすべり)の紅が鮮やかだった。強烈な夏空の青に、これほど映りのいい色も少ないだろう。真夏の、太陽の強烈さに、ものみなが息をひそめている昼下りそのまぶしさにもめげすに咲くこの花は、その強さに似ず、一つ一つの花はかれんで、さわやかである。初夏のあじさいと並んで、鎌倉の夏を飾る印象的な花で、この寺にかぎらず、安国論寺、極楽寺、妙法寺、九品寺などにも大木があるのに、その割には、人の話題になっていないのはどういうわけか。(p70)
 

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 「一つ一つの花はかれんで、さわやかである」そうですが、やっぱり暑いですね。

 永井路子は、「北条政子」はじめ鎌倉時代を舞台にした歴史小説をいくつも書いており、鎌倉に住んでいるので、その鎌倉案内は信頼が置けます。わたしの鎌倉散歩の重要な参考書です。これからも引用することがあると思うので、ここで紹介しておきます。

 永井路子わが町わが旅』(中公文庫、1990)

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 永井路子『鎌倉の寺』(保育社カラーブックス、1967)

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永井路子『私のかまくら道』(かまくら春秋社、1977)

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2015年8月24日 (月)

驚きの図書リスト2

 ネットでみると、武雄市図書館は購入図書リストの他にもいろいろ問題になっている。その中にCCC(カルチュア・コンビニエンス・クラブ)に業務委託する際に除籍(廃棄)した図書のリストもあった。下記で見られる。
 本が5,506冊。その内訳は一般書が2,610冊、児童書・絵本が714冊、一般誌(雑誌)2,180冊、紙芝居が2冊。
 AV資料が3,254点。その内訳はビデオ1,468点、CD1,322点、DVD464点。
 見た感じでいうと、まずCD、DVDが多い。ビデオというのはVHSだろうから、貴重な資料でなければ廃棄されるのもやむをえないが、CD、DVDがこんなに廃棄されるのは納得がいかない。
 これだけの点数がみんな再生不良だったとは考えにくい。図書館で購入しているDVDなどはレンタル許諾の高い値段で購入したものの筈だ。ツタヤのレンタルと競合するからといって、簡単に処分していいものではない。
Photo              廃棄リストp150
 一般書では小説が多い。それも推理小説、時代小説の類がほとんど。図書館では人気のある部分だと思う。
 ちょっと気になったのは、 毎日新聞縮刷版昭和29年4月から昭和34年12月分が廃棄されていること。こういうものが置いてあるのが図書館じゃないの。
 それからこんな頁もあった。
Photo_3            廃棄リストp22

 これは五万分の一の地図ではないかと思う。こういうものも図書館には置いておいてほしい。目先の利用者が少ないとか、保管が面倒だとかで廃棄するものではない。古くなるほど逆に資料価値は高まる。
 雑誌については、古い一般的な雑誌が処分されるのはしょうがないが、ネットには、貴重な郷土研究誌が廃棄されているという批判があった。郷土誌のことはわたしにはわからないが、単行本より雑誌の方が世の中に残らないものなので、図書館としては資料価値を十分考えて残すべきものは残さないといけない。
 この廃棄リストと、同時期に購入した図書のリスト(→驚きの図書リスト)を比べてみると、大量に廃棄したジャンル――児童書、雑誌、CD、DVDが、ほとんど補充されていないことがわかる。すべてツタヤの書店とレンタルに競合するジャンルである。
 図書館と同居するわけだから、ある程度棲み分けるのは当然だとしても、まだ十分使用価値があるものをいきなり廃棄するのは間違っている。それに棲み分けるなら、辞書などの参考図書類を増やすとか、それなりの方針をもって選書すべきところ、空いたスペースをどこかの売れ残りのようなガラクタ本の山で埋めている。図書館を劣化させてしまっては相乗効果も得られない。
 「GLOBIS知見録」というHPには、「カルチュア・コンビニエンス・クラブ増田宗昭社長「企画という生き方」という講演会の記録がある。そこで武雄市の図書館について、増田社長はこう言っている。
で、武雄にあった既存の図書館を全て見直して、現在のような形にした。年中無休で夜も開いている。朝も早くから開いていて、コーヒーを飲むことも出来るし、雑誌も購入出来る。また、本の分類はすべて生活分類だ。図書館法の分類ではなくて、代官山 蔦屋書店でやっているような身近な分類。人口5万人という地域で、近所は山だらけ。隣には高校がある。高校生は自習室でスターバックスのコーヒーを飲みながら勉強出来る。Wi-Fiも完備しているし、20万冊の本はすべて無料だ。映画や音楽もたくさんあり、当然、Tポイントも使える。

結果として、僕らがお手伝いをする前は1日800人前後だった来館者が、なんと4600人に増えた。「人口5万人の市でこんなに来て大丈夫か? 犬や猫までカウントしているのか?」(会場笑)というほど来るようになった。代官山 蔦屋書店を知る方々も、この図書館に来ると、皆、「代官山よりもすごい」と言う。それはそうだ。20万冊が無料で、しかもそれらが代官山 蔦屋書店と同じ分類で並んでいる。料理やら旅行やら、もうすさまじい量だ。その結果として、武雄市でTカードを持っている人は41%から一気に49%へ上がった。このままいくと沖縄や寒川町も追い抜く勢いだ。

今は行政の方があちこちから毎日見学にいらしていて、「うちでもやってくれ」「見に来てくれ」と、行列をつくっている状態だ。僕らがやるとコストが下がるというのもある。すべてセルフPOSだし(最新のレンタル屋で見慣れた仕組みが取り入れられ、さながら)本のレンタル屋だ。要するに「(ステレオタイプなレンタル屋もないし、)図書館なんてものはない」と。名前は図書館だが、(使われている仕組みの側面で見れば、さながら)本のレンタル屋だ。http://globis.jp/event_report/2543/

 名前は「図書館」だが本のレンタル屋だ、と社長が言っている。そういうことかい。
 「20万冊が無料で、しかもそれらが代官山 蔦屋書店と同じ分類で並んでいる。料理やら旅行やら、もうすさまじい量だ。その結果として、武雄市でTカードを持っている人は41%から一気に49%へ上がった。」
というのもすごい。武雄市に埼玉ラーメンマップや何年も前の東京ディズニーランドのガイドマップをすさまじい量で並べていては、本のレンタル屋の商売は成り立たないんじゃないの。Tカードを持ってる人が増えて、ツタヤのレンタルと書店、それにスタバが儲かっていればいいという話じゃないだろう。
 
 これに対して、アマゾンのブックレビューにはこんなものがあった。当時の市長の著書『沸騰! 図書館 100万人が訪れた驚きのハコモノ 』(樋渡啓祐、角川書店(ワンテーマ21)、2014)に対するものである。
佐賀県武雄市では、2000年に新築した市立図書館を2013年に税金4.5億円を投入してツタヤとスターバックスに改修しました。 しかし、図書館はおまけの施設となって奥のほうに追いやられ、運営費も年約3千万円アップしています。 この本は市長側の視点から書かれているので注意が必要です。 1年で100万人が訪れたと言っていますが、ツタヤとスターバックスの来店者数も含めて数字を「盛って」いるので 図書館の来館者数として単純に比較できるものではありません。 税金で運営するツタヤが、その値段に見合ったものかは地元の市民が判断すればよいと思いますが、 他の自治体までもこの公営ツタヤを真似しようとしている報道を耳にすると、 安易に民間に丸投げしようとする、自治体の実務能力の劣化が進んでいることを痛感します。http://www.amazon.co.jp/review/R26G0RSSI9D1SP
 ネットには、蔵書の他にも契約がらみの問題とか、いろいろ取り上げられている。この市長はその後佐賀県知事選に出て落選し、現在はCCCの子会社の社長や、市長の時に市民病院を譲渡した社団法人の理事などをやっているそうだ。「李下に冠」ということわざはご存じないらしい。
 神奈川県海老名市のほか、宮城県多賀城市愛知県小牧市など、CCCへの図書館委託話が進んでいる地方都市もいくつかあるようだ。武雄市の事例を十分参考にしてもらいたい。
 図書館にスタバやツタヤがあるのは悪いことではないけれど、そのために図書館が劣化してはいけないし、スタバやツタヤが儲からないからやめると言い出したときに、図書館まで一緒につぶれたり、自治体が余計な損失をかぶるようなことがあってはいけない。今のうちは、スタバが来れば人が集まってメディアが取り上げるかもしれないが、いつまでも騒がれ続けるわけではない。
 
 
 

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2015年8月20日 (木)

本興寺のサルスベリ

 元八幡の後、道ばたに、こんな建物があったのでのぞいて見ました。

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 辻薬師堂というようです。案内書きによれば、昔このあたりにあった長善寺というお寺の薬師堂だけが残っているものです。ここにあった薬師三尊像と十二神将象は神奈川県重要文化財に指定された貴重なもので、さすがにここでは保管しきれず、現在は鎌倉国宝館に移されているそうです。その代わりの仏像が置いてありますが、閉まっているのでよく見えませんでした。
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 この薬師堂の向かいにあるのが本興寺(ほんこうじ)です。昔はこのあたりを辻町といい、辻の薬師堂、辻の本興寺と呼ばれたといいます。日蓮宗のお寺です。

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 山門です。Dscf1057_2

 本堂の前、右手にサルスベリがあり、花がたくさん咲いていました。よかった。

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 まず本堂に参拝です。今日きたお寺はどこもあまり有名ではなく、参拝客はあまりいません。そのせいか、本堂も閉まっていて愛想がありません。まあ暑いし、拝観料もいらないことだし、しょうがないでしょう。

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 サルスベリもこれくらい咲いていてくれないと、せっかく来た甲斐がありません。

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 でも暑いさなかにこの赤色は、暑い。

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 大きな木で、もう老木なのでしょう。金属の柱を建てて、あちこち吊ってありました。

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 こんな大きな「うろ」もいくつかありましたが、大事に手入れされているようです。
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 この本興寺には実は日蓮の辻説法跡記念碑があったのですが、写真を取り損ねてしまいました。最初の入口の写真に右側の石柱が写っていますが、その反対側、左側に石碑がありました。細かい字でよく読めないし、両方写すにはまた道路を渡って戻らないといけない。面倒なのでやめました。
 後になってあの写真がない、と思うことがよくあります。この日は暑かったし、とりあえずサルスベリが咲いていたので安心して、それ以上のことは考えませんでした。

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2015年8月17日 (月)

由比若宮は元八幡

 8月10日(月)、猛暑日でこそありませんでしたが、暑い中を鎌倉へ行ってきました。ここのところ花めぐりになっているので、『鎌倉花散歩』(原田寛、1998、山と渓谷社)という本を見てみると、8月のモデルコースは、宝戒寺(ほうかいじ)から補陀落寺(ふだらくじ)までいくつかのお寺をまわってサルスベリ、フヨウ、オシロイバナを見ることになっています。補陀落寺は光明寺の近くで駅から遠いので、逆コースで歩いてみることにしました。

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 ところが鎌倉駅から炎天下25分もかけて歩いた補陀落寺ではサルスベリはほとんど終わっており、次の実相寺(じっそうじ)のフヨウはまだ早い、という有様でした。

Dscf1030            補陀落寺のサルスベリ

Dscf1039            実相寺のフヨウ

 これでは花を見たという気にはなりません。この先も心配になってきます。しょうがないので、花があるとは書いてないけれど元八幡(もとはちまん)へ寄ってみました。ここは細い道を入っていく、ちょっとわかりにくいところにあります。
 途中、「石清水の井」というのがありました。これも「鎌倉十井」のひとつだそうですが、水は見えず、これだけのもののようです。

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 その奥が元八幡、正式には由比若宮というようです。

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Dscf1044_7 道路との堺には「元鶴岡八幡宮」という石碑が立っています。
 ここの昔の地名を由比郷鶴岡といった。そこへ源頼義が前九年の役の勝利に感謝して京都の石清水八幡宮を勧請して八幡宮をたてた。百年あまり後、鎌倉入りした頼義の子孫・源頼朝がその八幡宮を現在の鶴岡八幡宮の場所に移した。以降、ここは由比若宮元八幡と呼ばれるようになった、ということです。
 かなり由緒正しい神社ということになりますが、入ってくる道がよくわからないくらいで、ひっそりしていて誰もいません。鳥居の前の家には細い注連縄が飾ってあったので宮司さんの家ではないかと思います。

 鳥居から中を見ると神殿の間にもう一つ鳥居があって、それなりの構えになっています。やっぱり「元鶴岡八幡」だからでしょうか、境内は狭いけれど、きれいに手入れされているようです。
 けっこう大きな木が多く、こんもり繁っています。蝉がうるさい、夏の盛りです。
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 「旗立の松」というのがありました。源義家が「後三年の役」に向うとき白旗を立てて武運長久を祈ったそうです。外側だけで中は空っぽです。この姿で残されているのもちょっとかわいそうな感じがします。

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 やっぱり花めぐりは柄じゃなかったかと思いつつ、ここで休憩しました。暑い。

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2015年8月13日 (木)

驚きの図書リスト

 内田樹のツイッターにこんな発言があった。

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 佐賀県武雄(たけお)市の図書館といえば、ちょっと前にメディアでけっこう騒がれた。産経WEST2013年6月4日付け「究極の図書館革命や!佐賀・武雄市図書館、民間提携で利用者5倍」という記事の冒頭はこうなっている。

 レンタルビデオ大手「TSUTAYA」を運営するカルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)が運営委託された公立図書館として4月に新装オープンした佐賀県の武雄市図書館が人気を呼び、新たな観光スポットに発展しつつある。旧来の図書館をおしゃれな空間にリニューアル。「市民目線」で開館時間を大幅延長し、新設したカフェで読書を楽しむこともできる。来館者は2カ月で年間目標の約4割に達する盛況ぶりで、「図書館の新たなモデルケースになる」と他県の自治体からも注目が集まっている。
http://www.sankei.com/west/news/130604/wst1306040072-n1.html

 つまり既存の公共図書館の管理運営をCCC(カルチュア・コンビニエンス・クラブ)に委託し、図書館を改修して、ビデオレンタル・新刊書販売のツタヤとカフェ「スターバックス」が同居することになった。人口5万人ぐらいの地方都市におしゃれな文化施設ができた。おまけに本を借りるとTポイントがつく。まわりからも大勢人が来る。民間活用、地方活性化のモデルケースだと、メディアでも評判になったのである。

 その当時、初期蔵書の入替のために購入した本が現在問題になっているわけで、下記をクリックすればそのリストが見られる。ただし、9,859冊、145頁の本のリストなので、ダウンロードにもちょっと時間がかかる。興味のある方は時間に余裕のあるときに見ていただきたい。
https://www.nantoka.com/~kei/TakeoReferences/%E5%AF%84%E8%B4%88%E8%B3%87%E6%96%99/%5B%E6%AD%A6%E9%9B%84%E5%B8%82%E6%95%99%E8%82%B2%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A%5D%20H27-07-13%20%E6%AD%A6%E5%B8%82%E6%95%99%E7%94%9F%E7%AC%AC66%E5%8F%B7%20%E5%88%9D%E6%9C%9F%E8%94%B5%E6%9B%B8%E5%85%A5%E3%82%8C%E6%9B%BF%E3%81%88%E8%B2%BB%E3%81%A7%E8%B3%BC%E5%85%A5%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E8%B3%87%E6%96%99%E4%B8%80%E8%A6%A7.pdf … 

 リストを見てみると、これが本当に図書館の本のリストかと驚く。自己啓発本、旅行ガイド、なんとかで健康になる本、料理の本、グルメガイドといった、ハウツー本、実用書の類が圧倒的で、いわゆる固い本がほとんどない。ざっと見ただけなので見落としがあるかもしれないが、「現代○○学体系」とか「○○全集」といった図書館でなければ見ることのないような本は見当たらなかった。

 例えば第4頁はこうなっている。

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 この「分類」は日本十進法によるものと思われる。148 は「相法、易占」で、159は「人生訓、教訓」である。この「人生訓・教訓」はこのあと第13頁の頭まで続き、637冊もある。ちょっとうんざりする。
 もっと驚くのは分類596の「食品・料理」で、クッキングブックとグルメガイドでなんと2,043冊にのぼる。第88頁はこうだ。

88p

 こういう料理関係本だけで2000冊を2013年当時購入したらしい。
 旅行ガイドの類もすごい。これは126頁にある東京ディズニーランド関係の本。(資料№等は省略)

子どもがよろこぶ東京ディズニーランド&デディズニーリゾート研メイツ出版
子どもといく東京ディズニーシーナピガイド講談社
子どもといく東京ディズニーシーナピガイド講談社
子どもといく東京ディズニーランドナピガイ講談社
子どもといく東京ディズニーリゾートナピガ講談社
子どもといく東京ディズニーリゾートナピガ講談社
子どもとでかける東京ディズニーシーおたのディズニーリゾート研メイツ出版
子どもと楽しむ!東京ディズニーランド&デディズニーリゾ、ート研メイツ出版
東京ディズニーシ-Q&A GUIDEBO ディズニーファン編書講談社
東京ディズニーシーおまかせガイド講談社
東京ディズニーシーおまかせガイド講談社
東京ディズニーシーお役立ち口コミ情報がいディズニーリゾート研メイツ出版
東京ディズニーシーガールズガ2011- 講談社
東京ディズニーシーのススメ講談社
東京ディズニーシーベストガイド講談社
東京ディズニーシーベストガイド講談社
東京ディズニーシー完全ガイド講談社
東京ディズニーシー完全ガイド講談社
東京ディズニーシー究極の得口コミ情報! ディズニーリゾート研メイツ出版
東京ディズニーシー裏ワザ完全攻略ガイドTDS研究会/編徳間書店
東京ディズニーシー裏技ガイド東京ディズニーシー;広済堂出版
東京ディズニーランド&シーよくばりガイドγDL&TDSよくばりj広済堂出版
東京ディズニーランド&シー裏2010年TDL&TDS裏技調ヨ広済堂あかっさ
東京ディズニーランド&ディズニーシーお役ディズニーリゾート研メイツ出版
東京ディズニーランド&ディズニーシーなんディズニーリゾート研メイツ出版
東京ディズニーランドQ&Aガイドブ、ツクディズニーファン編葬講談社
東京ディズニーランドおまかせガイド講談社
東京ディズニーランドお役立ち口コミ情報がディズニーリゾート研メイツ出版
東京ディズニーランドトウーンタウン・ポケ講談社
東京ディズニーランドナピガイド講談社
東京ディズニーランドナビガイド講談社
東京ディズニーランドベストガイド講談社
東京ディズニーランドベストガイド講談社
東京ディズニーランド完全ガイド講談社
東京ディズニーランド完全ガイド講談社
東京ディズニーランド究極の得口コミ情報! ディズニーリゾート研メイツ出版
東京ディズニーランド裏マニュ2002 浦安調査隊/著データハウス
東京ディズニーランド裏ワザB Part3 TDしDEGO情報a双葉社
東京ディズニーランド裏ワザBook TDL DE GO情報e双葉社
東京ヂィズニーランド裏ワザハンドブックTDL DE GO情報.双葉社
東京ディズニーランド裏技ガイド東京ディズニーラント広済堂出版
東京ディズニー・リゾートQ&Aガイドブックディズニーファン編算講談社
東京ディズニーリゾートおまかせガイド、講談社
東京ディズニーリゾートベストガイド講談社
東京ディズ二一リゾートベストガイド講談社
東京ディズニーリゾートマップガイド講談社
東京ディズニーリゾート完全ガイド講談社
東京ディズニーリゾート完全ガイド講談社
東京ディズニーリゾート史上最強のリピータTDR DE GO情報双葉社
東京ディズニーリゾート史上最強のリピータTDR DE GO情報双葉社
東京ディズニーリゾート本当は教えたくないTDR DE GO情報双葉社
東京ディズニー1)ゾー+裏ワザファミリーBOOTDR DE GO情報局/双葉社
東京ディズニーリゾート裏ワザファミリーBOOTDR DE G01'情報局/双葉社
東京ディズニーシーベストガイド講談社
東京ディズニーシー完全ガイド講談社
東京ディズニーシー究極の得口コミ情報! ディズニーリゾート研メイツ出版
東京ディズニーシ一裏技ガイド東京ディズニーシ-;広済堂出版
東京ディズニーランド究極の得口コミ情報! ディズニーリゾート研メイツ出版
東京ディズニーランド裏ワザハンドブ、ツクTDL DE GO情報a双葉社
東京ディズニーリゾート便利帖堀井憲一郎/ 著新潮社
東京ディズニーリゾート便利帖堀井憲一郎/ 著新潮社

 人口5万人でこれは多すぎないだろうか。武雄市の人はそんなにディズニーランドが好きなんだろうか。
 いったいこの図書館は何を考えているのか、と全国の図書館関係者は思うに違いない。しかもここは新設の図書館ではないから、既存の蔵書もそれなりにあったはずだ。
 そしてさらに、このリストには佐賀県の図書館としては腑に落ちないところがいくつかある。それが、内田が書いている「首都圏のどこかの書店の不良在庫をそのまま図書館に「おしつけた」のではないかという疑念が語られています」という話につながっていく。
 例えばこういうところだ(104頁から105頁)。

596.3 ラーメンマップ埼玉10 幹書房
596.3 ラーメンマップ埼玉11 幹書房
596.3 ラーメンマップ埼玉2 幹書房
596.3 ラーメンマップ埼玉4 幹書窟
596.3 ラーメンマップ埼玉5 幹書房
596.3 ラーメンマップ埼玉6 幹書房
596.3 ラーメンマップ埼玉8 幹書房
596.3 ラーメンマップ埼玉9 幹書房
596.3 ラーメンマップ千葉1 山路力也/編著幹書麗
596.3 ラーメンマップ千葉2 山路力也/編著幹書房

 武雄では埼玉県や千葉県のラーメン食べ歩きが流行っているのか?
 135頁にはこんな本もある。

783.4 浦和REDSの真実2002 大野勢太郎/著広報社
783.4 浦和REDSの真実2003 大野勢太郎/著広報社
783.4 浦和REDSの真実2004 大野勢太郎/著広報社
783.4 浦和REDSの真実2005 大野勢太郎/著広報社
783.4 浦和REDSの真実2006 大野勢太郎/著スポーツチャン:
783.4 浦和REDSの真実FINAL 大野勢太郎/他著スポーツチャン:
783.4 浦和レッズがやめられない清属淳/ 著ランドガレージ
783.4 浦和レッズ至上主義山中伊知郎/著風塵社
783.4 浦和レツズ祝優勝!! 山中伊知郎/著長崎出版
783.4 浦和レッズ新生へのパイプ、ル菊地かん/著KSS出版
783.4 浦和再生島崎英純/著講談社

 これだけ浦和レッズがあるのに、この分類に「サガン鳥栖」という言葉が入った本はない。念のため武雄市図書館のHPで蔵書検索をしてみたら、サガン鳥栖関連の本は1冊、浦和レッズ関連の本は20冊だった。本当に佐賀県の図書館か、と誰でも思わざるを得ない。それとも武雄市民はそんなに「レッズ愛」に燃えているのか? 

 地域のほかに、こんな古い本をなぜ? というのも目につく。例えば104頁にはこんな本がある。

596.3 噂のつけ麺2008 麺喰倶楽部/〔編〕日本出版社
596.3 噂のつけ麺2010 麺喰倶楽部/編日本出版社
596.3 噂のつけ麺2010 麺喰倶楽部/編日本出版社
596.3 噂のラーメン麺喰倶楽部/ 編日本出版社
596.3 噂のラーメン2003 麺喰倶楽部/編日本出版社
596.3 噂のラーメン2004 日本出版社
596.3 噂のラーメン2005 麺喰倶楽部/編日本出版社
596.3 噂のラーメン2006 麺喰倶楽部/編日本出版社
596.3 噂のラーメン2007 日本出版社
596.3 噂のラーメン2007 日本出版社
596.3 噂のラーメン2008 麺喰倶楽部/〔編〕日本出版社
596.3 噂のラーメン2009 麺喰倶楽部/〔編〕日本出版社
 

 2013年に2003年のラーメン屋食べ歩きガイドを買ってどうする! 2013年にはもう「2014」と銘打った本も発売されているはずだ。
 年度が古いということでは旅行ガイド、グルメガイドのほかに、パソコン関係にもいろいろあって、ネットでも指摘されている。例えば1頁から2頁にかけてはこうなっている。

007.6 「エラー」がわかるとWindows98/ 飯島弘文/ 著メディア・テック
007.6 Linuxハンドブック スタークラスター/著ナツメ社
007.6 Mac OSのトラブルバスター強制終了間柴田淳/ 著広文社
007.6 あと6年使う! XPパソコン快適化大作戦市川政樹/ 著マキノ出版
007.6 エクセjレ2010便利技「ぜんぶ」! 宝島社
007.6 かんたん!パソコン便利ワザ別冊宝島編集部/事宝島社
007.6 こわくないパソコン入門別冊宝島編集部/制宝島社
007.6 パソコンのしくみ OFFICE TAKASρ 新星出版社
007.6 パソコン検定試験“P検”オフ99 高橋尚子/ 著IDGコミュニケー

 一番上は『「エラー」がわかるとWindows98/95に強くなる』という1999年刊の本のようだ。Windows98/95? これ本当に新本で買ったの? 『あと6年使う! XPパソコン快適化大作戦』は2003年刊の本、XPだって古いよ。一番下は『パソコン検定試験“P検”オフィシャルガイドー99対応 』という1999年刊の本のようだ。10年以上前のパソコン本が現在の試験に役立つとは思えない。
 本によっては古い版の本にも資料的価値がある。しかしこれらは一般市民に貸し出して役立てようという実用書だ。図書館は最新の情報の提供につとめるべきだろう。
 タイトルに年号の入っていない他の本も、刊行年を調べるとかなり古いのがあるのではないかと心配になってくる。このリスト全部の刊行年を知りたいが、それは公開されていないのか?
 『こわくないパソコン入門』も武雄市図書館のHPで検索してみたら2000年の本だった。日進月歩、ドッグイヤーで進化するパソコンの10年以上前の入門書を買ってどうする! ひとつずつ調べていくと、この調子でどんどん出てきそうだ。

 グルメや旅行ガイドの最新版は、ツタヤの新刊書店が併設されているわけだから、競合を避けて図書館では買わないのは、民営にすればある程度やむをえないのかもしれない。だからといって、有効期限の切れたような本ばかりこんなに買う必要があるだろうか。
 このリストは、図書館の購入図書リストだと言われると違和感があるが、ブックオフのような新古書店の百円本リストあるいはアマゾンの1円本リストだと言われる分には違和感がない。
 しかも
地域にかなり偏りがあるとなると、「首都圏のどこかの書店の不良在庫をそのまま図書館に「おしつけた」のではないかという疑念」が出てくるのも無理はない。そう考えるとこのリストがストンと「腑に落ちて」しまうのだ。
 
 内田が言うように「
図書館はその疑念に対して誠実に回答して、これらの書物がなぜ武雄市民のために優先的に購入されなければならなかったのか、その合理的な根拠を示す責任があります。」ということになるだろう。
 このリストを見てから、開設時の評判もどこまで信用していいものか、という気になってきた。ネットではいろいろ書かれているようだ。
 知らなかったが、神奈川県の海老名市が、今年の10月から武雄市と同様、図書館の運営をCCCに委託するそうだ。どんな図書館ができるのか、開館したら一度行ってみなければならない。

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2015年8月10日 (月)

J69 作家たち

 今回は、植松黎編・訳『ポケット・ジョーク15 芸術家』から、いろんな作家たちの行状を。

Pj15


最も愚なる者
「あなたの原稿を読ませていただきました。先生」出版業者がもったいぶって言った。「この作品には、幾つか心ひかれるところがございます。しかしまた、あいまいではっきりしない部分も数多くあります。先生、あなたは、最悪の愚者にさえ、あなたの言わんとしていることが理解できるような、そんな描き方を学ぶべきじゃないでしょうか」
「わかりましたわ」女流作家が冷淡な口調で言った。「で、ちょっと教えてくださいな。あなたが一番難しいと思ったところはどこ?」(P193)

 

プロ
 ウォルターは、作家になるのが望みだった。ある雑誌社が、彼の短編を七十五ドルで買い、雑誌にのせた。その短編は、編集者たちの注目するところとなり、ウォルターには執筆依頼が殺到した。もちろん、はるかに高い原稿料でである。机上には、そうした契約書が束になってつみあげられているほどだった。
 そんなおり、ウォルターの最初の短編を掲載した雑誌社から新たに執筆依頼がとどいた。一篇七十五ドルで、さらに十編、短編小説を書いてほしいというのである。
「遺憾ながら、ご依頼には応じられません」ウォルターは返事を書いた。「小生、いまやプロの作家であります」(P194)

 

牝鶏(めんどり)と批評家
 小説を二冊ばかり出版したことのある作家のヘンリーと文学愛好家のマックスが論争していた。ヘンリーが、とうとう、癇癪(かんしゃく)を起して言った。
「いや、マックス、きみにはこの小説はわからんのだ。きみは小説を一冊も書いてないからね」
「そんなことはないよ」とマックスは言った。そういう論理は悪しき経験主義さ。考えてもみたまえ。ぼくは卵を産んだことはないが、オムレツの味のよしあしについてはどんな牝鶏よりもよく知っているんだ」(P195)

 

一語の値段
「私の一語が二十ドルについたこともあったな」と中年の作家が編集者に言った。
「いつのことなんです、それは?」と編集者は半信半疑で尋ねた。
「交通違反の裁判で、判事にひと言口答えしたんだ」(P195)

 

最高のフィクション
 高名な作家に新聞記者が尋ねた。
「先生のフィクションのうちで、最高傑作は何でしょうか!」
「今度税務署に提出した税金の申告書だろうな」(P196)

 

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2015年8月 6日 (木)

原三溪の下駄の鼻緒事件

 三溪が教師時代、生徒の屋寿(やす、屋寿子、安子とも)と相思相愛になり、やがて原家に婿入りしたという定説の内容をもう一度みておきましょう。
 竹田道太郎近代日本画を育てた豪商 原三溪』(有隣新書、1977)にはこう書いてあります。

 そして新時代の女子教育に先鞭をつけている跡見女学校の青年教員として、眉目秀麗な青年が教壇に立つのだから、いやでも全校女生徒の注目を集める存在になった。
原屋寿との出会い
 そこへそのころ輸出貿易の花形である横浜の生糸の豪商原家の跡取り娘屋寿が通学しており、いつのまにか青木富太郎とが相思相愛の仲になった。たちまち学校中の評判になったが、新時代の女性として目覚めている校長の跡見花蹊と同僚の中島湘煙女史(元神奈川県令中島信行夫人)は、二人の仲を奔走してくれたが、そこには難題が待っていた。(p14)

 難題というのは、屋寿は跡取り娘であり、富太郎は青木家の長男でしかも戸主であったことです。青木家では富太郎を廃嫡するのを嫌がりました。

 また原家の方だが、何にせよ莫大な身代を築き、思慮周密な当主善三郎は、どんなに愛している孫娘が惚れたからといって、一介の田舎出の女学校教師を婿養子に迎えるのを躊躇したが、花蹊女史らの説得で青木家の家柄を知り、さらに富太郎本人に会ったところ、屋寿以上に婿殿の人物に惚れ込んでしまって、ついに原家の方から懇望することに状勢一変したということである。(p15)

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 渋る双方の家を女学校長跡見花蹊(あとみかけい、本名滝野)女史が説得して、ようやく話がまとまったということについては、いずれの伝記もそう書いており間違いないようです。
 そして教師と生徒という間柄で恋に落ちたという話については、前述の白崎秀雄三溪 原富太郎』(新潮社、1988)だけが異をとなえています。

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 白崎秀雄は、三溪が跡見女学校の教師であった証拠がないと言います。

 三溪が生きていた大正十四年に刊行された『跡見女学校五十年史』の教員名簿に名前がない。三溪は同女学校に早くから寄付をし、筆頭理事もしていた。それなのに学校側の資料には教員であったことを示すものは何もない、また花蹊の文献資料にもない。
 しかし岐阜から一緒に東京へ出てきた三溪の友人遠藤義為が花蹊の親戚だった。だから遠藤が三溪を花蹊に紹介して、二人は知り合いだったと思われる。
 三溪自筆の「悲鳴」と呼ばれている当時のノートにも、教師をしていたことに関する記述は一カ所もない。ただし、知り合いの花蹊女史から、横浜の原家への婿入りを勧められたが断った。しかし翌年また勧められたという記述はある。

 ではどうして花蹊が三溪と原家を結びつけることになったのか、ここであの「下駄の鼻緒事件」が登場します。
 岐阜に三溪が愛用していた水琴亭という料亭があって、その主人から白崎が昭和58年に聞いた話だといいます。主人は若い頃から三溪にかわいがってもらっていたそうです。

 あるとき三溪に、旦那さんはどういう縁で原家へ入ることになったのかと聞いたら、三溪はこんな話をした。
 東京専門学校の学生だったとき、「新橋ステンショ」構内を歩いていたら、女学生が下駄の鼻緒が切れ、代用の紐もないらしく困っていた。それで三溪は自分の手拭いを裂いて、縒ってすげ替えてやった。その時はそのまま別れたが、その後横浜の「亀善」こと原善三郎商店の使者が東京専門学校を尋ね、調べて、ついに三溪の下宿を訪れた。それが縁談の機縁になった。

 まるで通俗メロドラマのようだが、水琴亭主人がこう聞いたのは間違いないようだ。三溪がこんな作り話をするのも不自然だ。教師と生徒の相思相愛事件は、先述のように教師であった証拠がない。こちらの方が真実に近いのではないか、というのが白崎の主張です。

 さてどうでしょうか。白崎は、「青木助教師と女生徒やすの相愛説話」は矢代幸雄の『藝術のパトロン』(新潮社、1958)によって広く知れわたったものだとしています。その『藝術のパトロン』には、歴史の先生がどうして婿養子になったか今では知る由もないが、矢代は大磯に住む老媼から、跡見女学校在学時の思い出として、当時学校ロマンスとして大騒ぎであったと聞いた、と書いています。

Photo_2            『藝術のパトロン』扉


 また原家に伝わる話も「教師と生徒の相思相愛事件」であることは白崎も認めています。
 横浜の書店・有隣堂のホームページに「三渓園と原富太郎」という座談会の記事があります。その中で三溪の孫である原昭子さんは、三溪が横浜へ来たきっかけについてこう言っています。

東京で祖母の屋寿子と大恋愛したからです。祖父は早稲田の前身の東京専門学校の学生だったころ、跡見花蹊さんに見込まれ、跡見女学校の先生になれと言われて、お習字と歴史、漢文を祖母たちに教えていて祖母と大恋愛した。 その当時、恋愛結婚なんていうのはまだないころで、雑誌にも載ったぐらいに大騒ぎされた。祖父は長男、祖母はひとり娘で、両家が猛反対で、跡見花蹊さんがものすごく援助してくださって、やっとのことで養子になったという 感じでした。(同店の情報誌「有隣」平成12年11月10日第396号http://www.yurindo.co.jp/static/yurin/back/396_2.html

 この発言に「雑誌にも載ったぐらいに」とあります。そういう雑誌や新聞が見つかればいいのですが、これまで発見されていないようです。当時の跡見女学校卒業生の証言が、矢代幸雄が聞いたほかにも残っていれば強力な証拠になりますが、これも見当たらないようです。
 原家にそう伝えられているということは、そうであった確度がかなり高いとは思います。三溪は正式の教員ではなく臨時雇いだったから名簿には残らなかった、ということも考えられるでしょう。また女学校の正史に教師と生徒の恋愛事件など記載しないのは当時としては当然のことでしょう。
 どちらでもいいことではありますが、ちょっとおもしろかったので、余計な詮索をしてみました。

 他にのぞいてみた伝記はこんなところです。参考までに。
 藤本實也原三溪翁伝』(三溪園保勝会編、思文閣出版、2009)

     Photo_2    Photo_3
      藤本實也『原三溪翁伝』(思文閣出版、2009) 背と扉

 

 

勝浦吉雄<生糸商>原善三郎と富太郎(三溪)』(文化書房博文社、1996)

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新井恵美子原三溪物語』(神奈川新聞社、2003)

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 森本宋『原富太郎(一業一人伝)』(時事通信社、1964)

Photo_3  Photo_4

   表紙                          扉




 

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2015年8月 3日 (月)

原三溪は岐阜の人

 横浜に来るまで原三溪のことも三溪園のことも知りませんでした。いつごろのことだったか、帰省の折、横浜には三溪園という庭園があるという話をしたところ、父は
「知っとる、原三溪は笠松(かさまつ)のほうの人やで。」
と言いました。父は歴史や地理が得意で、いろんなことを知っていました。笠松というのは、県こそ違え川向こうの隣町で、そのあたりなら準地元です。
 横浜に戻って調べてみると、なるほど三溪・原富太郎は岐阜県厚見(あつみ)郡佐波(さば)村、その頃は羽島郡柳津町(やないづちょう)字佐波の出身でした。柳津は笠松の隣町で、現在は岐阜市柳津町になっています。

 今回ハスを見に何十年ぶりかで三溪園へ行って、あらためて原三溪という人物に興味を持ち、伝記をいくつか読んでみました。
 その中に岐阜県から出ているこんな本がありました。「マンガで見る日本まん真ん中おもしろ人物史シリーズ」という、子供向き岐阜県出身偉人伝のうちの一冊です(渡辺浩行・構成作画、篠田英男・監修『原 三溪』2004、岐阜県)。三溪は今も岐阜県出身の偉人として顕彰されているのです。
 

Photo_4
 マンガですから手っ取り早く三溪の一生がわかります。
 原三溪は慶応4年(=明治元年、1868)生まれで、明治後期から大正の関東大震災までが三溪の最盛期だったようです。父は明治39年(1906)生まれでしたから、ちょうど父の子供時代にあたります。地元から横浜へ行って出世した人として、その華やかな噂をきっと聞いていたことでしょう。

 三溪(青木富太郎)は裕福な地主の息子で、大垣・京都で漢学を学んだ後、明治18年(1885)17歳で東京へ出て東京専門学校(早稲田大学の前身)へ入り、政治と法律を学びます。
 上京するときはまだ東海道線が開通していなかったので、柳津から笠松まで徒歩で行き、そこから木曽川を舟で名古屋経由四日市まで行き、さらに東京丸という船に乗って東京へ行きました。
 この本の旅立ちのときの様子がこれです。船に乗ろうとしている三溪、木陰で泣いているが父親です。(p34)

P34_4
 これはちょっとひっかかりました。この本には笠松であるとは書いてないけれど、この港は笠松でなければなりません。(父親の日記に笠松まで見送りに行ったことが書いてあるそうです。) だとすると、この風景は納得できません。
 当時笠松は木曽川の舟運で栄えていた町でした。ウィキペディアの「笠松湊」の項にはこう書いてあります。

寛文2年(1662年)美濃国奉行(美濃郡代)名取半左衛門長知が郡代陣屋を移し、傘町から笠松に改称してから約200年にわたり、笠松陣屋を中心に、徳川幕府直轄地支配や治水行政の中心地、地方物資の集散地となった。 木曽川水運の拠点としても発展し、下流の桑名、四日市、名古屋からは海産物や塩、衣類などが運ばれ、上流からは年貢米や材木、薪炭などが運ばれた。 かつては問屋や倉庫、船宿、料亭などが立ち並び木曽川随一の繁栄を誇っていた。
明治18年(1885年)には笠松湊へ寄港する船は1日平均38艘、1年間に6,440艘あまりで、明治25年(1892年)ごろまでは桑名からの蒸気船が1日2往復していた。
大正から昭和初期には、ポンポン船と呼ばれる大型発動機船の時代となったが、近年鉄道の普及、自動車の発達により笠松港の役割は終わった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%A0%E6%9D%BE%E6%B9%8A

 「問屋や倉庫、船宿、料亭などが立ち並び木曽川随一の繁栄を誇っていた」港を、ただの「村の渡し」のように描いてしまっている! これでは「村のはずれの船頭さんは…」じゃないか。岐阜県が出しているというのに、笠松をなんだと思ってる!
 実は笠松にはわが家が代々お世話になっているお寺があります。わたしにとっても準地元なので、ついつい熱くなりました。もしこの本を改訂することがあったら、岐阜県で昔の絵とか写真を調べて、背景をなんとかしていただきたいと思います。

 昔、三溪の出身地を調べたとき知ってちょっと驚いたことに、原三溪は「逆玉の輿」だったということがありました。明治期に生糸で大もうけして一代で成り上がった商人だと思っていたらそうではなくて、生糸で財をなした原善三郎という商人の孫娘の婿だったのです。
 その経緯にはちょっとひっかかりました。
 三溪・青木富太郎は東京専門学校へ通うかたわら、跡見女学校の国漢・歴史の助教師になりました。そして生徒であった原家の跡取り娘、屋寿(やす)と相思相愛の仲となって、原家へ婿入りしたというのです。
 なんだこれは、教師が生徒と恋愛して富豪の家へ婿入りだと、逆玉狙いか、教師の分際でけしからん。その金で美術収集、庭造り、画家のパトロンと好き放題やったのか! 半分やっかみもあったのでしょう、それ以降、原三溪にはあまり興味がありませんでした。

 このマンガでは、三溪と屋寿との出会いはこう描かれています。若くてハンサムな青木富太郎先生は生徒の間で大人気。その青木が、ある日履物の鼻緒が切れて困っていた屋寿を見かけ、自分の手拭いを破ってすげ替えてあげた。それが機縁で二人は…

P42_2            (前掲書42頁)

 これはないだろう、こんなドサまわりの田舎芝居みたいなきっかけ話を創作しなくたっていいじゃないか、わざとらしい。ここでまたもひっかかりました。
 ところがこの話は白崎秀雄三溪原富太郎』(新潮社、1988)にものっていました。マンガはこの本をもとにしたのでしょう。マンガの作者の方、ごめんなさい。
 そして白崎秀雄は、この話を紹介しながら、他の伝記では定説となっている教師と生徒の恋愛説に疑問を呈しています。次はそのことをちょっと書いてみたいと思います。

 このマンガもそうですが伝記を読んでみると、三溪はただの逆玉男ではなく、引き継いだ事業を大きく発展させたうえ、恐慌への対処や関東大震災後の横浜復興など公的にも大いに貢献した、たいした人物だったと、どれにも書かれています。少し認識をあらためないといけないようです。

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