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2015年8月 6日 (木)

原三溪の下駄の鼻緒事件

 三溪が教師時代、生徒の屋寿(やす、屋寿子、安子とも)と相思相愛になり、やがて原家に婿入りしたという定説の内容をもう一度みておきましょう。
 竹田道太郎近代日本画を育てた豪商 原三溪』(有隣新書、1977)にはこう書いてあります。

 そして新時代の女子教育に先鞭をつけている跡見女学校の青年教員として、眉目秀麗な青年が教壇に立つのだから、いやでも全校女生徒の注目を集める存在になった。
原屋寿との出会い
 そこへそのころ輸出貿易の花形である横浜の生糸の豪商原家の跡取り娘屋寿が通学しており、いつのまにか青木富太郎とが相思相愛の仲になった。たちまち学校中の評判になったが、新時代の女性として目覚めている校長の跡見花蹊と同僚の中島湘煙女史(元神奈川県令中島信行夫人)は、二人の仲を奔走してくれたが、そこには難題が待っていた。(p14)

 難題というのは、屋寿は跡取り娘であり、富太郎は青木家の長男でしかも戸主であったことです。青木家では富太郎を廃嫡するのを嫌がりました。

 また原家の方だが、何にせよ莫大な身代を築き、思慮周密な当主善三郎は、どんなに愛している孫娘が惚れたからといって、一介の田舎出の女学校教師を婿養子に迎えるのを躊躇したが、花蹊女史らの説得で青木家の家柄を知り、さらに富太郎本人に会ったところ、屋寿以上に婿殿の人物に惚れ込んでしまって、ついに原家の方から懇望することに状勢一変したということである。(p15)

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 渋る双方の家を女学校長跡見花蹊(あとみかけい、本名滝野)女史が説得して、ようやく話がまとまったということについては、いずれの伝記もそう書いており間違いないようです。
 そして教師と生徒という間柄で恋に落ちたという話については、前述の白崎秀雄三溪 原富太郎』(新潮社、1988)だけが異をとなえています。

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 白崎秀雄は、三溪が跡見女学校の教師であった証拠がないと言います。

 三溪が生きていた大正十四年に刊行された『跡見女学校五十年史』の教員名簿に名前がない。三溪は同女学校に早くから寄付をし、筆頭理事もしていた。それなのに学校側の資料には教員であったことを示すものは何もない、また花蹊の文献資料にもない。
 しかし岐阜から一緒に東京へ出てきた三溪の友人遠藤義為が花蹊の親戚だった。だから遠藤が三溪を花蹊に紹介して、二人は知り合いだったと思われる。
 三溪自筆の「悲鳴」と呼ばれている当時のノートにも、教師をしていたことに関する記述は一カ所もない。ただし、知り合いの花蹊女史から、横浜の原家への婿入りを勧められたが断った。しかし翌年また勧められたという記述はある。

 ではどうして花蹊が三溪と原家を結びつけることになったのか、ここであの「下駄の鼻緒事件」が登場します。
 岐阜に三溪が愛用していた水琴亭という料亭があって、その主人から白崎が昭和58年に聞いた話だといいます。主人は若い頃から三溪にかわいがってもらっていたそうです。

 あるとき三溪に、旦那さんはどういう縁で原家へ入ることになったのかと聞いたら、三溪はこんな話をした。
 東京専門学校の学生だったとき、「新橋ステンショ」構内を歩いていたら、女学生が下駄の鼻緒が切れ、代用の紐もないらしく困っていた。それで三溪は自分の手拭いを裂いて、縒ってすげ替えてやった。その時はそのまま別れたが、その後横浜の「亀善」こと原善三郎商店の使者が東京専門学校を尋ね、調べて、ついに三溪の下宿を訪れた。それが縁談の機縁になった。

 まるで通俗メロドラマのようだが、水琴亭主人がこう聞いたのは間違いないようだ。三溪がこんな作り話をするのも不自然だ。教師と生徒の相思相愛事件は、先述のように教師であった証拠がない。こちらの方が真実に近いのではないか、というのが白崎の主張です。

 さてどうでしょうか。白崎は、「青木助教師と女生徒やすの相愛説話」は矢代幸雄の『藝術のパトロン』(新潮社、1958)によって広く知れわたったものだとしています。その『藝術のパトロン』には、歴史の先生がどうして婿養子になったか今では知る由もないが、矢代は大磯に住む老媼から、跡見女学校在学時の思い出として、当時学校ロマンスとして大騒ぎであったと聞いた、と書いています。

Photo_2            『藝術のパトロン』扉


 また原家に伝わる話も「教師と生徒の相思相愛事件」であることは白崎も認めています。
 横浜の書店・有隣堂のホームページに「三渓園と原富太郎」という座談会の記事があります。その中で三溪の孫である原昭子さんは、三溪が横浜へ来たきっかけについてこう言っています。

東京で祖母の屋寿子と大恋愛したからです。祖父は早稲田の前身の東京専門学校の学生だったころ、跡見花蹊さんに見込まれ、跡見女学校の先生になれと言われて、お習字と歴史、漢文を祖母たちに教えていて祖母と大恋愛した。 その当時、恋愛結婚なんていうのはまだないころで、雑誌にも載ったぐらいに大騒ぎされた。祖父は長男、祖母はひとり娘で、両家が猛反対で、跡見花蹊さんがものすごく援助してくださって、やっとのことで養子になったという 感じでした。(同店の情報誌「有隣」平成12年11月10日第396号http://www.yurindo.co.jp/static/yurin/back/396_2.html

 この発言に「雑誌にも載ったぐらいに」とあります。そういう雑誌や新聞が見つかればいいのですが、これまで発見されていないようです。当時の跡見女学校卒業生の証言が、矢代幸雄が聞いたほかにも残っていれば強力な証拠になりますが、これも見当たらないようです。
 原家にそう伝えられているということは、そうであった確度がかなり高いとは思います。三溪は正式の教員ではなく臨時雇いだったから名簿には残らなかった、ということも考えられるでしょう。また女学校の正史に教師と生徒の恋愛事件など記載しないのは当時としては当然のことでしょう。
 どちらでもいいことではありますが、ちょっとおもしろかったので、余計な詮索をしてみました。

 他にのぞいてみた伝記はこんなところです。参考までに。
 藤本實也原三溪翁伝』(三溪園保勝会編、思文閣出版、2009)

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      藤本實也『原三溪翁伝』(思文閣出版、2009) 背と扉

 

 

勝浦吉雄<生糸商>原善三郎と富太郎(三溪)』(文化書房博文社、1996)

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新井恵美子原三溪物語』(神奈川新聞社、2003)

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 森本宋『原富太郎(一業一人伝)』(時事通信社、1964)

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   表紙                          扉




 

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