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2015年8月 3日 (月)

原三溪は岐阜の人

 横浜に来るまで原三溪のことも三溪園のことも知りませんでした。いつごろのことだったか、帰省の折、横浜には三溪園という庭園があるという話をしたところ、父は
「知っとる、原三溪は笠松(かさまつ)のほうの人やで。」
と言いました。父は歴史や地理が得意で、いろんなことを知っていました。笠松というのは、県こそ違え川向こうの隣町で、そのあたりなら準地元です。
 横浜に戻って調べてみると、なるほど三溪・原富太郎は岐阜県厚見(あつみ)郡佐波(さば)村、その頃は羽島郡柳津町(やないづちょう)字佐波の出身でした。柳津は笠松の隣町で、現在は岐阜市柳津町になっています。

 今回ハスを見に何十年ぶりかで三溪園へ行って、あらためて原三溪という人物に興味を持ち、伝記をいくつか読んでみました。
 その中に岐阜県から出ているこんな本がありました。「マンガで見る日本まん真ん中おもしろ人物史シリーズ」という、子供向き岐阜県出身偉人伝のうちの一冊です(渡辺浩行・構成作画、篠田英男・監修『原 三溪』2004、岐阜県)。三溪は今も岐阜県出身の偉人として顕彰されているのです。
 

Photo_4
 マンガですから手っ取り早く三溪の一生がわかります。
 原三溪は慶応4年(=明治元年、1868)生まれで、明治後期から大正の関東大震災までが三溪の最盛期だったようです。父は明治39年(1906)生まれでしたから、ちょうど父の子供時代にあたります。地元から横浜へ行って出世した人として、その華やかな噂をきっと聞いていたことでしょう。

 三溪(青木富太郎)は裕福な地主の息子で、大垣・京都で漢学を学んだ後、明治18年(1885)17歳で東京へ出て東京専門学校(早稲田大学の前身)へ入り、政治と法律を学びます。
 上京するときはまだ東海道線が開通していなかったので、柳津から笠松まで徒歩で行き、そこから木曽川を舟で名古屋経由四日市まで行き、さらに東京丸という船に乗って東京へ行きました。
 この本の旅立ちのときの様子がこれです。船に乗ろうとしている三溪、木陰で泣いているが父親です。(p34)

P34_4
 これはちょっとひっかかりました。この本には笠松であるとは書いてないけれど、この港は笠松でなければなりません。(父親の日記に笠松まで見送りに行ったことが書いてあるそうです。) だとすると、この風景は納得できません。
 当時笠松は木曽川の舟運で栄えていた町でした。ウィキペディアの「笠松湊」の項にはこう書いてあります。

寛文2年(1662年)美濃国奉行(美濃郡代)名取半左衛門長知が郡代陣屋を移し、傘町から笠松に改称してから約200年にわたり、笠松陣屋を中心に、徳川幕府直轄地支配や治水行政の中心地、地方物資の集散地となった。 木曽川水運の拠点としても発展し、下流の桑名、四日市、名古屋からは海産物や塩、衣類などが運ばれ、上流からは年貢米や材木、薪炭などが運ばれた。 かつては問屋や倉庫、船宿、料亭などが立ち並び木曽川随一の繁栄を誇っていた。
明治18年(1885年)には笠松湊へ寄港する船は1日平均38艘、1年間に6,440艘あまりで、明治25年(1892年)ごろまでは桑名からの蒸気船が1日2往復していた。
大正から昭和初期には、ポンポン船と呼ばれる大型発動機船の時代となったが、近年鉄道の普及、自動車の発達により笠松港の役割は終わった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%A0%E6%9D%BE%E6%B9%8A

 「問屋や倉庫、船宿、料亭などが立ち並び木曽川随一の繁栄を誇っていた」港を、ただの「村の渡し」のように描いてしまっている! これでは「村のはずれの船頭さんは…」じゃないか。岐阜県が出しているというのに、笠松をなんだと思ってる!
 実は笠松にはわが家が代々お世話になっているお寺があります。わたしにとっても準地元なので、ついつい熱くなりました。もしこの本を改訂することがあったら、岐阜県で昔の絵とか写真を調べて、背景をなんとかしていただきたいと思います。

 昔、三溪の出身地を調べたとき知ってちょっと驚いたことに、原三溪は「逆玉の輿」だったということがありました。明治期に生糸で大もうけして一代で成り上がった商人だと思っていたらそうではなくて、生糸で財をなした原善三郎という商人の孫娘の婿だったのです。
 その経緯にはちょっとひっかかりました。
 三溪・青木富太郎は東京専門学校へ通うかたわら、跡見女学校の国漢・歴史の助教師になりました。そして生徒であった原家の跡取り娘、屋寿(やす)と相思相愛の仲となって、原家へ婿入りしたというのです。
 なんだこれは、教師が生徒と恋愛して富豪の家へ婿入りだと、逆玉狙いか、教師の分際でけしからん。その金で美術収集、庭造り、画家のパトロンと好き放題やったのか! 半分やっかみもあったのでしょう、それ以降、原三溪にはあまり興味がありませんでした。

 このマンガでは、三溪と屋寿との出会いはこう描かれています。若くてハンサムな青木富太郎先生は生徒の間で大人気。その青木が、ある日履物の鼻緒が切れて困っていた屋寿を見かけ、自分の手拭いを破ってすげ替えてあげた。それが機縁で二人は…

P42_2            (前掲書42頁)

 これはないだろう、こんなドサまわりの田舎芝居みたいなきっかけ話を創作しなくたっていいじゃないか、わざとらしい。ここでまたもひっかかりました。
 ところがこの話は白崎秀雄三溪原富太郎』(新潮社、1988)にものっていました。マンガはこの本をもとにしたのでしょう。マンガの作者の方、ごめんなさい。
 そして白崎秀雄は、この話を紹介しながら、他の伝記では定説となっている教師と生徒の恋愛説に疑問を呈しています。次はそのことをちょっと書いてみたいと思います。

 このマンガもそうですが伝記を読んでみると、三溪はただの逆玉男ではなく、引き継いだ事業を大きく発展させたうえ、恐慌への対処や関東大震災後の横浜復興など公的にも大いに貢献した、たいした人物だったと、どれにも書かれています。少し認識をあらためないといけないようです。

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