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2015年9月

2015年9月28日 (月)

南無谷で枝切り

 今回の主要作業、ビワの枝切りの報告です。
 外観のビフォー・アフター。上の方がなくなり、枝の間にはすきまができました。

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 内側から見たビフォー・アフター。明るくなって空まで見通せるようになりました。

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 はじめから撮影場所を決めて撮っておけばいいのに適当に撮っているので、後でどこから撮ったかよくわからなくなり、うまく対照できません。それでもけっこう枝を切ったことはなんとかわかってもらえるでしょう。
 切り落とした枝の山。

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 これだけ切って、高さは低く、内部は明るく風通しがよくなりましたが、来年のシーズンまでには、まっすぐ上を目指してたくさんの新しい枝が伸びていることでしょう。そのときにはまたひとがんばりしなければなりません。
 収穫にどう影響するか。来年はがまんしないといけないかもしれません。

 そのほかの南無谷の状況です。

 今年初めて実をつけたプルーンは、収穫時期が過ぎて落ちてしまったらしく、着いたときにはもう影も形もなくなっていました。また来年を期待しましょう。

 柿は、摘果していなかったので鈴なり状態。かなり落としました。10月の終わりか11月はじめが収穫の時期でしょうか。

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 温州ミカンも、時期が遅れたけれど摘果しました。

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 これは今年の新人、獅子ユズです。一番大きいのは直径13センチくらいありました。

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 キウイは数が少ない。来年は剪定をちゃんと勉強してやらないといけません。

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 雑草に負けて消えていく花が多い中で、これは勢力範囲を広げていました。サルビア・ガラニチカあるはメドーセージという紫のサルビアです。

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 オシロイバナはあちこちに広がって、ほとんど雑草あつかいです。

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 ムクゲ。

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 ムラサキシキブ。
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 この時期はやっぱりこれがいちばん目立ちます。富浦の町の中でもあちこちで見かけました。赤が鮮やかです。

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2015年9月24日 (木)

南無谷で草刈り

 パソコンは予定より早くなおってきました。まだもとのようにカスタマイズできていないので使いにくいけれど、ブログを再開することにします。

 9月19日から22日まで南無谷へ行ってきました。前回ビワの収穫に行ったときに「できれば今年はビワの木の大刈り込みをやりたいと思っています。」と書きました。(→今年のビワは早かった)来年の収穫に多少影響が出ても、木全体を年寄りが無理せず手入れできるくらいの大きさに縮めようという趣旨です。
 新しい花芽が出る前に切らねば、ということで今回行きましたが、枝切りの前にやらなければならなかったのは草刈り。6月から三ヶ月ほったらかしで、この間雨もたっぷり、日もたっぷり照ったので、雑草がすくすくすくすく育っていました。だから今回は伸びた草の写真が中心になります。他人が見てもおもしろくはないでしょうが、わたしにとっては苦闘の記録です。

 門から入るとこんな感じでした。いちおう家の前の庭です。

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 ビフォー・アフターを見ると、この場所はこれくらいになりました。ソテツの木もちゃんと刈り上げてあるところにご注目ください。

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 ソテツはいっぱい実をつけて、はち切れてしまった爛熟の状態でした。下の葉を切って実をとりました。

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 とにかくそこらじゅう草だらけで、これは台所前。

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 台所前のアフター。

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 これは奥のビワの木に向かう通路のビフォー。
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 これがそのアフター。たいしてきれいになってないじゃないか、などと言わないでください。

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 以前畑にしていたところは、何も植えてないので草が伸び放題。

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 わたしの背より高く草が伸びています。

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 これをなんとかこのくらいにしました。自分で自分をほめてやりたい気分です。でも左に見えるビワの木、なんと枯れていました。
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 草刈り前の枯れビワの写真。自分たちで植えて、ようやく実がなるようになった木です。残念だが病気のようです。
 これともう一本、自分たちが植えた木が育ってきたから、元からある大きな古い木を縮めようと思ったのですが、こうなるとどうするか、ちょっとためらいます。
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 着いた日のうちに草刈りは終えるつもりだったのに、体力の衰えもあって、とても一日では終わらず、ビワの枝切りは翌日以降に持ち越しました。

 草の写真ばかりだったので、雑草の中に咲いていたヒガンバナの写真を入れておきます。

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2015年9月17日 (木)

横浜地方公聴会

 今日のブログは休みの予定だったけれど、昨日(9月16日)は安保法制の横浜公聴会があった新横浜プリンスホテル界隈へ行ってきたので、写真を少し載せておきます。

 歩道橋から撮っています。このちょっと手前からもう音が聞こえていました。向かって右が公聴会場のプリンスホテル。奥を横切っているのは新幹線です。

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 旗やプラカードが見えてにぎやかです。

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 道路へ降りて歩道橋を振り返ったところ。テレビで見る国会前ほどはいないけれど、それなりに人は集まっています。

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 昔のシュプレヒコールとはちょっと違って、リーダーは踊りながら、ラップ風に「センソーホーアン、ゼッタイハンタイ!」とやっています。元気です。わたしもモゴモゴですが、ご唱和させていただきました。

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 若い人もいたけれど、子育て世代の女性やわたしと同世代くらいの年寄りが多いなあという感じでした。構成員も昔のデモとはずいぶん違います。

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 公聴会が終わって少したった頃、出てきた黒い車をデモ隊が取り囲んで、警官隊ともみあいになり、一時騒然としました。突っ込んでいく元気な年寄りもけっこういたようでしたが、腰痛持ちのわたしは、遠くから静観するだけにさせていただきました。
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 公聴会を終えて国会へ戻る国会議員たちをここで阻止しようというわけですが、このあとはずっと車はあらわれず、一時間くらいたったら警官隊は解散していきました。えらいさんたちは秘密の通路か何かをつかって外へ出たらしい。

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 元気な人たちは、このあとさらに国会前まで行くようです。わたしはここで帰りました。
 法案が成立するのはもう止められないだろうけれど、成立後どこまで運動が続くかが勝負でしょう。来年の参院選に少しでも結果がでるかどうか。

 

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2015年9月14日 (月)

またパソコンが壊れた!

 9月10日の朝、ガリガリッといやな音がしたと思ったら、パソコンが動かなくなり、その後はいくら電源を入れなおしても、ウインドウズは起ち上がってくれませんでした。ハードディスクがおかしくなったようです。
 10日はちょっと忙しい日だったので、11日に修理に出しました。買ってから3年半のノートパソコンでしたが、5年間の長期保証をつけていたので、それでなおしてもらえます。しかし消えたデータの復活までは含まれていません。2週間くらいかかるとのことでした。
 ほかの店で聞いたら、ハードディスクを取り替えて3万7千円、データを取り出すのに3万5千円ぐらいかかるとのことでした。買った方がいいという値段です。
 データは、ある程度外付けのハードディスクにバックアップしてあるので、なんとかなります。面倒なのは使っていたソフトをもう一度入れ直すこと。買ったもの、フリーソフトをダウンロードしたものとかけっこうあります。さらにそのそれぞれの細かい設定を全部やり直さなければなりません。若い頃ならともかく、今は自分が使いやすいように自分で設定しておいたものでも、どうやってやったのか、ろくに覚えていません。修理ができてきても、当分はブツブツ言いながら使うようになりそうです。

 メールを見るとか必要最小限のことは、うちの奥さんのパソコンを借りて対応しますが、この際、少しブログを休むことにしました。
 最近若い人たちがスマホをこすりながら歩いているのを見るたび、いいかげんにしろと思いますが、わたしだって今やパソコンがないと文章が書けないし、写真の整理などもできません。インターネットをずっと見ていることもよくあります。この機会に、爺様も少しパソコンを離れてどこか出かけるなり、紙の本に集中するなりしたいと思います。
 修理ができ次第、またぼつぼつ始めます。遅くとも今月中には再開できると思います。いつも読んでいただいている方々、そういうことでよろしくご了承ください。

 

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2015年9月10日 (木)

滑川から腹切りやぐら

 妙隆寺からまた小町大路に戻り、今度は東の山側へ行きます。

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 滑川を渡る東勝寺橋の脇に鎌倉町青年團による「靑砥藤綱舊蹟」の碑が建っています。

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 鎌倉のあちこちにこの「鎌倉町青年團(會)」の史跡碑があります。大正から昭和十年代まで長年にわたって、史跡保存のために建てられたものです。カタカナ書きの文語文なのでとっつきにくいけれど、読んでみるとけっこう勉強になります。

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 これには青砥藤綱(あおとふじつな)の有名な話が書かれています。
 藤綱は、ある夜、滑川へ誤って銭十文を落としてしまい、五十文の松明を買って従者に水を照らさせ、とうとう全部拾い上げさせた。それでは大損ではないかと言う人たちに、「十文ハ小ナリト雖(いえども) 之ヲ失ヘバ天下ノ貨ヲ損ゼン 五十文ハ我ニ損ナリト雖(いえども) 亦(また)人ニ益ス」と言った。そしてこのあたりが、その場所であったと伝えられている、ということです。

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 子供のころ、当時は貨幣が貴重だったから、もったいないから、というような説明を聞きましたが、わたしは納得できませんでした。本当に意味のある行為だったのかどうか、経済学的にいうと、私財を投じてマネーサプライの減少をくい止めたとかいうことにでもなるんでしょうか、今でもよくわかりません。

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 靑砥藤綱は、「太平記巻35」には相当立派な人物として書かれています。
 多くの所領をもち豊かだったけれど、けっして贅沢はせず、貧しいものには施しをした。
 ある小役人が北条時頼と所領を争う訴訟をしたとき、道理は小役人にあるのに、他の奉行たちはみな時頼をはばかって時頼の勝ちとした。藤綱はひとり道理を申し立てて、遂に時頼の負けとした。あとで小役人はお礼の銭を持って来たが、藤綱は怒ってこれを返した。
 あるとき時頼が夢で「政道の為に、心に私がなく、理に明るい藤綱を重用せよ」との鶴岡八幡宮のお告げを受け、藤綱に八箇所の所領を与えた。藤綱は、何もしていないのに夢のお告げで報償をもらったら、この次に夢で首をはねろとのお告げがあったら、罪がなくても首をはねられることになる、と言ってすべて所領を返した。
 藤綱がこういう人物だったから、これを見習って当時の他の奉行たちも、理にそむき賄賂にふけるようなことはしなかった。しかるに、今の世の役人たちは…と「太平記」は続いていきます。 

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 橋から少し登ったところが、東勝寺跡です。写真の金網で囲われたところがそうです。現在はなにもありません。

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 東勝寺(とうしょうじ)は北条氏の菩提寺で、後醍醐天皇建武の中興のとき、新田義貞の軍勢に攻められた北条高時をはじめとする北条一族がここに籠もった。しかしやがて自ら火を放って自刃したと伝えられています。(東勝寺合戦
 山の手前には「腹切りやぐら」の看板があります。

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 高時らがここで腹を切った、ここに葬られたなどと伝えられていますが、具体的にどうだったか、よくわからないようです。

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 この名前のせいでしょう。最近では心霊スポットの一つとして取り上げているHPもありました。山際の淋しいところなので、夕方などに来るとそんな気になるのかもしれません。

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 腹切りやぐらから小町大路へ戻ると、すぐ宝戒寺(ほうかいじ)です。

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 宝戒寺のHPによれば、東勝寺合戦で死んだ高時をはじめとする北条一族を弔うために、後醍醐天皇が足利尊氏に命じて建てたそうです。
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 ここは白萩のきれいな寺としても知られていますが、まだ早い。他の花もめぼしいものはありません。
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 補陀落寺からずっと歩いてきて疲れました。ここはまた花の季節に改めて訪れることにしましょう。8月10日の鎌倉散歩はこれでおしまいです。

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2015年9月 7日 (月)

妙隆寺の鍋かむり上人

 辻説法跡の次の妙隆寺(みょうりゅうじ)にも、熱狂的・行動的な日蓮宗の僧侶がいました。

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 この寺の第二祖日親上人(にっしんしょうにん)です。
 日親は、この寺で激しい修行をした後、京都に本法寺(ほんぽうじ)を開き、日蓮にならって辻説法を行い、日蓮宗の布教につとめました。そして時の室町幕府六代将軍足利義教(よしのり)に直訴を行い、「立正治国論」を執筆しました。日蓮が受けた法難を自らも受けよう、追体験しようという強い意志が感じられます。しかし幕府はこれを許さず、日親をとらえて、真っ赤に焼いた鍋を頭からかぶせました。これが「日親上人鍋かむり」の伝説です。
 「週刊朝日百科仏教を歩く24 日親(2004)」5頁の「開山日親上人徳行図」の一部を拡大して見ると、こうなっています。隣で火をたいて、焼けた鍋を大きなやっとこで両側から挟んでかぶせているところがリアルです。無論実写ではないのでしょうけれど。

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 日親はこのとき34歳。将軍義教はまもなく赤松満祐に殺され、日親は出獄。再度獄につながれたりもしますが、応仁の乱へ突入して行く乱世の中、日親はめげることなく京都の町衆へ日蓮宗布教につとめ、82歳まで生きました。
 そして日親が唱えたのが「不受不施(ふじゅふせ)」の思想でした。他教を信じる人からは布施を受けず、自らも施さないという、純粋と言えば純粋、狭隘と言えば狭隘な、原理主義的教えです。妥協を許さない、熱狂的な行動者らしい考え方です。
 こののち江戸時代には不受不施派は切支丹と並ぶ禁制となって弾圧され、明治政府に解禁されるまで地下へもぐっていました。意志の強い人たちです。

 さて、その日親が修行したという妙隆寺の山門です。

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 そしてこれが本堂です。

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 ここまでの話は8月10日に来たときの話で、そのときに撮った本堂前の写真はこれでした。

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 ところが、このとき日親上人修行の池の写真を撮りそこなっていたので、8月26日にもう一度行ってみたら、こんなふうになっていました。

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 サルスベリは満開、フヨウは赤から白が優勢になっていました。半月でこんなに変わっていました。花めぐりとしてはこちらが正解です。

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 これが日親上人修行の池。

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 前の看板にはこう書いてあります。

当山第二祖 なべかむり日親上人行法御池之霊跡

 応永三十四年(一四二七)の冬、上人が二十一才の時、「大法弘通に耐え得るや否や、自らの忍力を試さん」と寒中、雪の日、氷張る早朝霜踏み、この池に身を浸すこと百日間、毎日自我偈百巻、お題目、千遍を日課として法華経を弘通されました。

 寒中この池で百日の行をしたということですが、首都圏の寺社を紹介している「猫のあしあと」というHPには、こんな資料も掲載されていました。

池、寺後にあり、行ノ池と呼べり。日親一日に一指づつ十指の爪をはなし、此爪百日の間に癒なば所願成就すべしと誓ひ、出る血を此池にて洗ひ其水を以て曼陀羅を書す。是を爪切の曼陀羅とて此寺に在しを法理の異論に依って住持退院の時持去しと云ふ。(新編相模国風土記稿より)http://www.tesshow.jp/kanagawa/kamakura/temple_komachi_myoryu.html

 一日一指ずつ生爪を剥がしながら、この池で修行していたというのです。やっぱり過激な人だったようです。
 コンクリートで囲った小さな池で、さいわいなことに凄惨さを感じさせるようなものはなにもありません。

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 池の向こうの小さな小屋におわしますのが日親上人、石像です。

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 こちらは日親上人の顕彰碑。
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 ここはまた、鎌倉江の島七福神の寿老人の場所でもあります。

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 8月26日には白いサルスベリも咲いていました。

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 これは8月10日のフヨウ。

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2015年9月 3日 (木)

辻説法跡の腰掛け石

 大巧寺からまた小町大路に戻るとすぐ右手にこんな神社があります。碑には「村社蛭子神社」と彫られています。

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 「えびすじんじゃ」かと思ったら、正式には「ひるこじんじゃ」と読むようです。
 神奈川県神社庁の説明によると、この神社は、明治維新に神仏分離令により、本覚寺境内にあった夷三郎社と宝戒寺の山王権現、元からここにあった七面大明神の三社を合祀して蛭子神社と改称されたものだそうです。→http://www.kanagawa-jinja.or.jp/search_dtl.php4?jid=394&cd=1205007&scd=&npg=0 
 昭和56年(1981)に、本覚寺では、日蓮が拠点としていたという由緒があるからでしょう、境内に夷堂を再建したので、すぐ近くに夷堂と蛭子神社とがあることになりました。
(→「本覚寺のサルスベリ

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 境内は狭いけれど、こんな倉庫があって、きれいな神輿が飾られていました。

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 神社からもうちょっと行くと、日蓮辻説法跡があります。

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 奥に南無妙法蓮華経の題目塔があります。

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 その題目塔の前にあるのが、日蓮上人「腰掛石」です。えらくなると、なんでもゆかりの跡ができます。南房総市の南無谷には、日蓮が鎌倉へ海を渡ろうとしたら風波が烈しかったので、静まるように祈祷したときに袈裟をかけたという「袈裟掛けの松」の碑があります。また東京の洗足池にも日蓮「袈裟掛けの松」があるそうです。やたらあちこちに袈裟をかけていたんだな、などと言ってはなりません。

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 ここは明治34年、日蓮信者の田中智学(たなかちがく)が日蓮の辻説法を顕彰するために整備したもので、田中智学の研究によればちょうど蛭子神社のあたりが辻説法をした場所であるが、土地の関係でここになったそうです。(→http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page043tujiseppo.htm)
 田中智学という人は、在家の宗教団体「国柱会(こくちゅうかい)」を結成して、日蓮主義と国体主義による社会運動を唱えた、「八紘一宇」という言葉をつくった、関東軍の石原莞爾が国柱会の会員だった、と聞くと、かなり強面の感じがしますが、不勉強なのでよくわかりません。宮沢賢治も国柱会の熱心な会員だったといいます。

 日蓮は実際には辻説法をしていない、辻説法は伝説に過ぎないという説もあるようですが、日蓮といえばやっぱり辻説法をしている姿が浮かんで来ます。闘う宗教者というイメージが強い。
 永井路子は『わが町わが旅』に、こう書いています。

 彼はこの教えをひろめるべく鎌倉へやってきて夷堂(えびすどう)の近くで辻説法をはじめた。この場所はちょうど武家屋敷と町屋の境目である。この位置は彼の顔が半ば民衆に向き、半ば指導者階級に向いていたことをしめす意味でも興味が深い。彼はここで旧新仏教各派を猛烈に批難した。
 「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」
 こんなに激しく他派を罵倒したのも日本では珍しい。当然人々の反感を買い、さまざまの妨害がたえなかったが、彼はむしろそれを当然の法難として、ますます勇猛心をふるいおこした。キリスト教の世界では時折りこうした型の狂信的な人物が現われて、自分に同調しない者を悪魔(サタン)だときめつけたりするが、日本では珍しいことである。(p112)

 日蓮のこうした性格からきているのでしょうか、日蓮宗にはずっと熱狂的、戦闘的なイメージがついてまわります。次に行く妙隆寺にも熱狂的な僧侶がいました。

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