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2015年9月 3日 (木)

辻説法跡の腰掛け石

 大巧寺からまた小町大路に戻るとすぐ右手にこんな神社があります。碑には「村社蛭子神社」と彫られています。

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 「えびすじんじゃ」かと思ったら、正式には「ひるこじんじゃ」と読むようです。
 神奈川県神社庁の説明によると、この神社は、明治維新に神仏分離令により、本覚寺境内にあった夷三郎社と宝戒寺の山王権現、元からここにあった七面大明神の三社を合祀して蛭子神社と改称されたものだそうです。→http://www.kanagawa-jinja.or.jp/search_dtl.php4?jid=394&cd=1205007&scd=&npg=0 
 昭和56年(1981)に、本覚寺では、日蓮が拠点としていたという由緒があるからでしょう、境内に夷堂を再建したので、すぐ近くに夷堂と蛭子神社とがあることになりました。
(→「本覚寺のサルスベリ

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 境内は狭いけれど、こんな倉庫があって、きれいな神輿が飾られていました。

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 神社からもうちょっと行くと、日蓮辻説法跡があります。

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 奥に南無妙法蓮華経の題目塔があります。

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 その題目塔の前にあるのが、日蓮上人「腰掛石」です。えらくなると、なんでもゆかりの跡ができます。南房総市の南無谷には、日蓮が鎌倉へ海を渡ろうとしたら風波が烈しかったので、静まるように祈祷したときに袈裟をかけたという「袈裟掛けの松」の碑があります。また東京の洗足池にも日蓮「袈裟掛けの松」があるそうです。やたらあちこちに袈裟をかけていたんだな、などと言ってはなりません。

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 ここは明治34年、日蓮信者の田中智学(たなかちがく)が日蓮の辻説法を顕彰するために整備したもので、田中智学の研究によればちょうど蛭子神社のあたりが辻説法をした場所であるが、土地の関係でここになったそうです。(→http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page043tujiseppo.htm)
 田中智学という人は、在家の宗教団体「国柱会(こくちゅうかい)」を結成して、日蓮主義と国体主義による社会運動を唱えた、「八紘一宇」という言葉をつくった、関東軍の石原莞爾が国柱会の会員だった、と聞くと、かなり強面の感じがしますが、不勉強なのでよくわかりません。宮沢賢治も国柱会の熱心な会員だったといいます。

 日蓮は実際には辻説法をしていない、辻説法は伝説に過ぎないという説もあるようですが、日蓮といえばやっぱり辻説法をしている姿が浮かんで来ます。闘う宗教者というイメージが強い。
 永井路子は『わが町わが旅』に、こう書いています。

 彼はこの教えをひろめるべく鎌倉へやってきて夷堂(えびすどう)の近くで辻説法をはじめた。この場所はちょうど武家屋敷と町屋の境目である。この位置は彼の顔が半ば民衆に向き、半ば指導者階級に向いていたことをしめす意味でも興味が深い。彼はここで旧新仏教各派を猛烈に批難した。
 「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」
 こんなに激しく他派を罵倒したのも日本では珍しい。当然人々の反感を買い、さまざまの妨害がたえなかったが、彼はむしろそれを当然の法難として、ますます勇猛心をふるいおこした。キリスト教の世界では時折りこうした型の狂信的な人物が現われて、自分に同調しない者を悪魔(サタン)だときめつけたりするが、日本では珍しいことである。(p112)

 日蓮のこうした性格からきているのでしょうか、日蓮宗にはずっと熱狂的、戦闘的なイメージがついてまわります。次に行く妙隆寺にも熱狂的な僧侶がいました。

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