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2015年9月 7日 (月)

妙隆寺の鍋かむり上人

 辻説法跡の次の妙隆寺(みょうりゅうじ)にも、熱狂的・行動的な日蓮宗の僧侶がいました。

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 この寺の第二祖日親上人(にっしんしょうにん)です。
 日親は、この寺で激しい修行をした後、京都に本法寺(ほんぽうじ)を開き、日蓮にならって辻説法を行い、日蓮宗の布教につとめました。そして時の室町幕府六代将軍足利義教(よしのり)に直訴を行い、「立正治国論」を執筆しました。日蓮が受けた法難を自らも受けよう、追体験しようという強い意志が感じられます。しかし幕府はこれを許さず、日親をとらえて、真っ赤に焼いた鍋を頭からかぶせました。これが「日親上人鍋かむり」の伝説です。
 「週刊朝日百科仏教を歩く24 日親(2004)」5頁の「開山日親上人徳行図」の一部を拡大して見ると、こうなっています。隣で火をたいて、焼けた鍋を大きなやっとこで両側から挟んでかぶせているところがリアルです。無論実写ではないのでしょうけれど。

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 日親はこのとき34歳。将軍義教はまもなく赤松満祐に殺され、日親は出獄。再度獄につながれたりもしますが、応仁の乱へ突入して行く乱世の中、日親はめげることなく京都の町衆へ日蓮宗布教につとめ、82歳まで生きました。
 そして日親が唱えたのが「不受不施(ふじゅふせ)」の思想でした。他教を信じる人からは布施を受けず、自らも施さないという、純粋と言えば純粋、狭隘と言えば狭隘な、原理主義的教えです。妥協を許さない、熱狂的な行動者らしい考え方です。
 こののち江戸時代には不受不施派は切支丹と並ぶ禁制となって弾圧され、明治政府に解禁されるまで地下へもぐっていました。意志の強い人たちです。

 さて、その日親が修行したという妙隆寺の山門です。

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 そしてこれが本堂です。

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 ここまでの話は8月10日に来たときの話で、そのときに撮った本堂前の写真はこれでした。

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 ところが、このとき日親上人修行の池の写真を撮りそこなっていたので、8月26日にもう一度行ってみたら、こんなふうになっていました。

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 サルスベリは満開、フヨウは赤から白が優勢になっていました。半月でこんなに変わっていました。花めぐりとしてはこちらが正解です。

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 これが日親上人修行の池。

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 前の看板にはこう書いてあります。

当山第二祖 なべかむり日親上人行法御池之霊跡

 応永三十四年(一四二七)の冬、上人が二十一才の時、「大法弘通に耐え得るや否や、自らの忍力を試さん」と寒中、雪の日、氷張る早朝霜踏み、この池に身を浸すこと百日間、毎日自我偈百巻、お題目、千遍を日課として法華経を弘通されました。

 寒中この池で百日の行をしたということですが、首都圏の寺社を紹介している「猫のあしあと」というHPには、こんな資料も掲載されていました。

池、寺後にあり、行ノ池と呼べり。日親一日に一指づつ十指の爪をはなし、此爪百日の間に癒なば所願成就すべしと誓ひ、出る血を此池にて洗ひ其水を以て曼陀羅を書す。是を爪切の曼陀羅とて此寺に在しを法理の異論に依って住持退院の時持去しと云ふ。(新編相模国風土記稿より)http://www.tesshow.jp/kanagawa/kamakura/temple_komachi_myoryu.html

 一日一指ずつ生爪を剥がしながら、この池で修行していたというのです。やっぱり過激な人だったようです。
 コンクリートで囲った小さな池で、さいわいなことに凄惨さを感じさせるようなものはなにもありません。

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 池の向こうの小さな小屋におわしますのが日親上人、石像です。

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 こちらは日親上人の顕彰碑。
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 ここはまた、鎌倉江の島七福神の寿老人の場所でもあります。

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 8月26日には白いサルスベリも咲いていました。

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 これは8月10日のフヨウ。

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