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2015年9月10日 (木)

滑川から腹切りやぐら

 妙隆寺からまた小町大路に戻り、今度は東の山側へ行きます。

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 滑川を渡る東勝寺橋の脇に鎌倉町青年團による「靑砥藤綱舊蹟」の碑が建っています。

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 鎌倉のあちこちにこの「鎌倉町青年團(會)」の史跡碑があります。大正から昭和十年代まで長年にわたって、史跡保存のために建てられたものです。カタカナ書きの文語文なのでとっつきにくいけれど、読んでみるとけっこう勉強になります。

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 これには青砥藤綱(あおとふじつな)の有名な話が書かれています。
 藤綱は、ある夜、滑川へ誤って銭十文を落としてしまい、五十文の松明を買って従者に水を照らさせ、とうとう全部拾い上げさせた。それでは大損ではないかと言う人たちに、「十文ハ小ナリト雖(いえども) 之ヲ失ヘバ天下ノ貨ヲ損ゼン 五十文ハ我ニ損ナリト雖(いえども) 亦(また)人ニ益ス」と言った。そしてこのあたりが、その場所であったと伝えられている、ということです。

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 子供のころ、当時は貨幣が貴重だったから、もったいないから、というような説明を聞きましたが、わたしは納得できませんでした。本当に意味のある行為だったのかどうか、経済学的にいうと、私財を投じてマネーサプライの減少をくい止めたとかいうことにでもなるんでしょうか、今でもよくわかりません。

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 靑砥藤綱は、「太平記巻35」には相当立派な人物として書かれています。
 多くの所領をもち豊かだったけれど、けっして贅沢はせず、貧しいものには施しをした。
 ある小役人が北条時頼と所領を争う訴訟をしたとき、道理は小役人にあるのに、他の奉行たちはみな時頼をはばかって時頼の勝ちとした。藤綱はひとり道理を申し立てて、遂に時頼の負けとした。あとで小役人はお礼の銭を持って来たが、藤綱は怒ってこれを返した。
 あるとき時頼が夢で「政道の為に、心に私がなく、理に明るい藤綱を重用せよ」との鶴岡八幡宮のお告げを受け、藤綱に八箇所の所領を与えた。藤綱は、何もしていないのに夢のお告げで報償をもらったら、この次に夢で首をはねろとのお告げがあったら、罪がなくても首をはねられることになる、と言ってすべて所領を返した。
 藤綱がこういう人物だったから、これを見習って当時の他の奉行たちも、理にそむき賄賂にふけるようなことはしなかった。しかるに、今の世の役人たちは…と「太平記」は続いていきます。 

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 橋から少し登ったところが、東勝寺跡です。写真の金網で囲われたところがそうです。現在はなにもありません。

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 東勝寺(とうしょうじ)は北条氏の菩提寺で、後醍醐天皇建武の中興のとき、新田義貞の軍勢に攻められた北条高時をはじめとする北条一族がここに籠もった。しかしやがて自ら火を放って自刃したと伝えられています。(東勝寺合戦
 山の手前には「腹切りやぐら」の看板があります。

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 高時らがここで腹を切った、ここに葬られたなどと伝えられていますが、具体的にどうだったか、よくわからないようです。

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 この名前のせいでしょう。最近では心霊スポットの一つとして取り上げているHPもありました。山際の淋しいところなので、夕方などに来るとそんな気になるのかもしれません。

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 腹切りやぐらから小町大路へ戻ると、すぐ宝戒寺(ほうかいじ)です。

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 宝戒寺のHPによれば、東勝寺合戦で死んだ高時をはじめとする北条一族を弔うために、後醍醐天皇が足利尊氏に命じて建てたそうです。
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 ここは白萩のきれいな寺としても知られていますが、まだ早い。他の花もめぼしいものはありません。
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 補陀落寺からずっと歩いてきて疲れました。ここはまた花の季節に改めて訪れることにしましょう。8月10日の鎌倉散歩はこれでおしまいです。

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