« 2015年9月 | トップページ | 2015年11月 »

2015年10月

2015年10月29日 (木)

常楽寺の由緒

 「海蔵寺の水」にちょっと書いた、木曾義仲の息子義高の墓を見に、10月9日、大船の常楽寺(じょうらくじ)へ行ってきました。

Photo_2
 自宅から車で鎌倉へ行くときには必ず通る「常楽寺」という交差点があって、このあたりにそういうお寺があることは知っていましたが、そんな由緒のあるお寺だとは知りませんでした。大船のあたりは、行政的には鎌倉市でも、感覚的には鎌倉の外で、北鎌倉のあたりからが鎌倉だという感じです。

Dscf1816t
 だから常楽寺というのも、横浜あたりの町中のお寺のようなものだと思っていましたが、行ってみると違いました。まず、こんな立派な参道があります。

Dscf1819
 「粟船山常楽禅寺」の碑のそばにひとまわり小さい石碑があります。鎌倉案内のホームページを見ると、これには「木曽義高 北条泰時公墓」と彫ってあるそうですが、苔のたぐいが詰まっているのか、風化したのか、下の方の「高」の字がかろうじて読めるくらいでした。

Dscf1845t_2
 茅葺きの山門があります。
Dscf1821
 「粟舩山(ぞくせんざん)」の額がかかっています。舩=船です。もと「粟船御堂」(あわふねみどう)と呼ばれたといい、この「あわふね」が「おおふな」になったという説もあるようです。

Dscf1844_2
 山門をくぐると右手に庫裏と本堂があり、つきあたりに仏殿があります。

Dscf1879
 これが仏殿です。元禄四年(1691)の建立とのことです。

Dscf1825

 阿弥陀三尊像です。天井には雲龍の絵が描かれているそうですが、中には入れないので、よく見えませんでした。
Dscf1880

 仏殿の左が文殊堂。これは明治期に英勝寺から移築されたものだそうです。

Dscf1828
 宋の禅僧、蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が鎌倉に招かれたとき、はじめはこの常楽寺の住持として教え、その後建長寺が創建されて、そちらへ移ったとのことで、臨済宗建長寺派には「常楽は建長の根本なり」という言葉があるそうです。由緒あるお寺でした。
 常楽寺の開基は第三代執権北条泰時で、仏殿の後方には、泰時の墓もありました。

Dscf1830t
 三つ墓が並んで、右端が泰時の墓です(下)。
 泰時は、飢饉に苦しむ人々への年貢免除などを行い、御成敗式目(貞永式目)を制定したなど、思いやりがあり、理にかなった政治をしたとされています。
 北条氏は泰時や時頼などの頃には、質素を旨として誠実に政治に取り組んだので繁栄したが、後代になって次第に華美に流れるようになり、暗愚の暴君高時にいたって、とうとう滅んでしまった、というのが古い歴史書の定説のようです。

Dscf1864
 これが本堂と庭です。

Dscf1835
Dscf1868_2
 柵の外から眺めるだけなので、じっくり観賞できませんが、この庭には池があって、奥の木立の下にも池がありました。この二つがつながっているのかどうか確認できませんでしたが、奥の池には樋からどうどうと水が流れていましたから、おそらくつながっているのではないかと思います。

Dscf1867
 この池を「色天無熱池(しきてんむねつち)」というそうです。なにやら難しい名前です。
 色天というのは仏教用語で色界(しきかい)のこと。凡夫が輪廻を繰り返す世界は、欲界、色界、無色界(むしきかい)の三界(さんがい)からなる。
 欲界は字でわかるように地獄から人間界までの世界、色界は欲を離れたがまだ色(物質)にこだわっている世界、無色界は欲も物質も超越した精神的な世界である。
  そして色界も禅定の程度に応じていくつかに分かれており、その一つに無熱天(むねつてん)というものがある。無熱池とは龍王が住む炎熱の苦しみがない池である、というようなことらしいのですが、信心も修行もたりない身にはよくわかりません。

 この池と蘭渓道隆について、こんな伝説があるそうです。

 蘭渓道隆には宋から連れてきた乙護童子(おとごどうじ)という給仕係の少年がいた。この乙護童子が美少年だったので、道隆は美女を侍らせていると悪評が立った。実は童子は江ノ島弁財天のお使いだったので、正体を現して白蛇になり、道隆の潔白を証明した。その大きさは庭の銀杏の木を七巻半してもなお尾が池に届き、池の底をたたいたので、この池を「尾たたきの池」という。
 (一説には、江ノ島の弁財天が、いたずらで乙護童子を美女に変身させたという。)

 なかなかおもしろい伝説なので、この池の水の透明度をもう少し高くしてもらいたいものです。

 長くなったので、木曽義高の墓の話は次回にします。

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年10月26日 (月)

長寿寺の庭

 長寿寺(ちょうじゅじ)へは10月3日(土)に行きました。北鎌倉駅から行くと建長寺の手前にあります。

Photo
 すぐ近くにある閻魔寺の円応寺と同じような階段を登っていきます。この日は「足利尊氏公ゆかりの寺」という看板が出ていました。

Dscf1678_2
 登ったところが山門です。

Dscf1679_3
 前回来たときにはこんな掲示があって入れませんでした。季節・曜日限定の公開です。

Dscf1421t
 山門を入ると参道があって、突き当たりが本堂です。本堂は平成18年に新築されたもので、この寺が公開されるようになったのは、それ以降のことのようです。
Dscf1680_2
 本堂からみなさん正面のお庭を拝見しています。
Dscf1683
 手入れの行き届いた、苔の庭です。

Dscf1687_2
 本堂の隣に書院と方丈があって、本堂の裏側までの庭があります。

Dscf1692

 これは紅葉の時期にもう一度来てみたいところです。

Dscf1706_3
本堂正面の庭の左手奥には観音堂があります。

Dscf1681
 以前はこちらが本堂だったそうです。
Dscf1682
Dscf1699_2
 観音堂の右奥へ回り込んでいくと、足利尊氏の墓があります。裏山へ登っていきます。

Dscf1700

 この寺は、足利尊氏の四男で、初代鎌倉公方(くぼう)の足利基氏(もとうじ)が尊氏供養のために建てたといわれ、ここには尊氏の遺髪が埋められたそうです。建てたのは尊氏だという話もありますが。
 鎌倉というと頼朝と北条氏の印象が強いけれど、北条氏滅亡後、鎌倉には鎌倉公方(くぼう)がおかれ関東地方を統括していました。ですから足利氏ゆかりのお寺社もいくつもあります。

Dscf1701
 この五輪塔が尊氏の墓です。
 これを建てたという基氏の兄が室町幕府の二代将軍義詮(あきら)です。基氏の子孫である鎌倉公方(関東公方)たちは関東の小幕府として相当の権力を持ち、足利氏の直系でもあるため、将軍位をねらって室町幕府と対立することがままあったようです。

Dscf1702

 山側には竹藪もあります。このあたりも紅葉するときれいでしょう。

Dscf1703
 11月のなかば過ぎに、もう一度行ってみたいけれど、相当混みそうです。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年10月22日 (木)

寿福寺の墓

 寿福寺(じゅふくじ)へ行ったのは8月26日でした。英勝寺の隣です。

Photo
 総門です。前の碑には「壽福金剛禅寺」とあり、門には「亀谷山(きこくさん)」の額があります。亀ケ谷坂(かめがやつさか)はもう少し北鎌倉よりですが、坂を上ってくるとこのあたりへ出てくるので、この名がついたのでしょうか。

Dscf1274
Dscf1237
 総門から中門までまっすぐに緑濃い参道がのびています。落ち着いた静かなお寺です。
Dscf1271_3

 中門です。

Dscf1240

 中門の奥に仏殿が見えます。しかし残念ながら中門の中へは入れません。

Dscf1268_2
 鐘楼なども外から見るだけです。ここは開基が北条政子、開山は栄西、鎌倉五山の第三位という由緒あるお寺なのですが、現状は、一、二位の建長寺円覚寺のにぎやかさ、ものものしさに比べると、とてもそうとは思えないくらい静かです。規模も昔よりはずっと小さくなっているのでしょう。観光客が少ないだけでなく、寺の方にもあまり人の気配がしません。

Dscf1267

 お寺をまわって、裏山の墓地へ行く道があります。

Dscf1265
 この墓地には大佛次郎高浜虚子の墓があります。

Dscf1244
Dscf1261
 奥の崖にはやぐらがあり、北条政子源実朝の墓があります。

Dscf1253

 これが北条政子の墓。

Dscf1249
Dscf1250_2
 こちらが実朝の墓です。

Dscf1254
 実朝は政子の次男です。長男頼家は、頼朝亡き後二代将軍となりますが、政子の実家である北条氏によって将軍の座を追われ、やがて伊豆の修善寺で殺害されます。三代将軍になった実朝は頼家の子、公暁(くぎょう)に鶴岡八幡宮で暗殺されてしまいます。
 母親として政子の心境はいかばかりであったか、わたしなどにはとてもはかりしれません。

 そもそもここには頼朝の父義朝の屋敷がありました。源氏は、頼朝の五代前の頼義の頃から関東・東北に勢力を伸ばそうとしており、その関東の拠点が鎌倉でした。現在の鎌倉のシンボルである鶴岡八幡宮は、頼義が、前九年の役のときに建てた八幡宮が起こりです。(→由比若宮は元八幡
 だから頼朝は最初ここに幕府をつくろうとしたが、地形的な問題から今の鶴岡八幡宮の東になったという話もあるようです。このあたりは、源氏にとって重要な場所だったのです。

 寿福寺の開山の栄西は、 「えいさい」だとばっかり思っていましたが、臨済宗の方では「ようさい」と読んでいるそうです。かなり昔から両方の読み方があったらしい。
 臨済宗の開祖で、宋に渡って学び、日本にお茶を伝えたくらいしか知りませんでした。「週刊朝日百科 仏教を歩く08 栄西(2003、朝日新聞社)」を見たら、こんな栄西像がありました。(p4)

Photo_2

 当時の絵でもこんな頭になっていて、これを「栄西頭」というそうです。最近TPPの交渉をやっていた方が、これほどではないけれど、こういう感じでした。
 この木像は寿福寺のものですが、今は鎌倉国宝館に置いてあるそうです。国宝館行かねば。
 
 「法然頭」という言葉もあって、これは頭のてっぺんが窪んでいる頭のことだそうです。
週刊朝日百科 仏教を歩く06 法然(2003、朝日新聞社)」には、こんな絵がありました。(p4及び裏表紙)

Photo_2 Photo_6

 偉いお坊さんの経歴や教義より、こんな頭のことばかり気になるのは、やはり修行のいたらぬせいでしょう。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年10月19日 (月)

ジュラシック・ワールド

 9月2日、映画「ジュラシック・ワールド」を見た。「ジュラシック・パーク」シリーズの第4作。

Photo

 第1作の時はCGによる恐竜の動きの迫力に圧倒された。あれからもう二十年以上たち、あの程度のCGはもうあたりまえになっている。今回は3D版だけれど、見たのは地元の映画館なので、普通の画面。それでもやっぱり恐竜の動きには驚かされる。恐竜アクション・スリラー映画として楽しんだ。
 しかしストーリーは、これまでのものと代わり映えしない。原作者のマイケル・クライトンが亡くなってしまったのが惜しまれる。『アンドロメダ病原体』以来、ずっと愛読したSF作家だった。ジュラシック・パークで遺伝子操作や複雑系の話題が出てきたように、次々に科学の先端的な問題が出てきて、わたしのような門外漢は一作ごとに「へえ、そうなの」と驚かされた。最近市場に出てきたウェアラブル・コンピュータも、もうずいぶん前のクライトンの作品に出てきていた。

Photo_2

 コスタリカの孤島に作られた、ディズニーランドを思い起こさせる世界的な恐竜のテーマパーク「ジュラシック・ワールド」では、客集めのために、遺伝子操作で、より怖いより大きな恐竜を作り続けていた。その結果、ある日作り出された狡猾で凶暴な新恐竜が逃げ出して、テーマパークは大混乱、というのが基本的な話なので新鮮味はない。営利目的でやたら遺伝子を操作することに反対していた飼育員が、飼い慣らしていた恐竜を使ってこれに対抗…と話は展開して、後はアクション・シーンが続く。

 そこそこ面白かったが、もう少しストーリーにひねりがほしかった。遺伝子操作もいいけれど、雨蛙の遺伝子も混ぜたから恐竜に保護色がついて見えなくなったというのは、いかにも安易ではないか。これならなんでも混ぜればいい。改良した恐竜を戦争に使おうという計画がちょっと出てきた。こちらを本線にして「恐竜ウォーズ」も面白かったかもしれない。

 主人公の飼育員の吹き替えを玉木宏がやっていた。いい声だけれど、どうもこの主人公にそぐわないという感じがしてならなかった。
 ディズニーランド風の「ジュラシック・ワールド」の土産物店やレストランなどが立ち並んだ風景がいかにもそれらしかった。中に「寿司」という漢字の看板が出ている建物があって、本当に寿司は世界の食物になったんだなあと感心した。
 そうしたら、最後の大物恐竜同士の対決シーンに、その「寿司」の看板が出てきたのには笑ってしまった。クライマックスの、武蔵と小次郎の決闘と言っていい場面で、背景に「寿司」の看板はないだろう。日本の町でのシーンなら目立たないだろうけれど、コスタリカの町でひとつだけの漢字の看板はよく目立つ。アメリカ人にはエキゾチックな模様に過ぎなくても、日本人の脳裏にははっきり「寿司」が浮かんでくる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年10月15日 (木)

宝戒寺の白萩

 海蔵寺へ行った9月24日にもう萩の盛りは過ぎていたので、だめかもしれないと思いながら9月29日、白萩で有名な宝戒寺(寶戒寺、ほうかいじ)へ行きました。

Photo

Dscf1677
 門の中には白い花が見えます。
Dscf1675
 真っ盛りとはいきませんが、まだありました。とりあえずよかった。お寺の人に聞いてみたら、年によるけれど、お彼岸の頃がいいそうです。

Dscf1646
 本堂前です。

Dscf1647
 ちょっと迫力に欠けます。しかしまあ今年の萩はこれでいいことにしましょう。
Dscf1649t
 白萩が中心ですが、紅萩も少しありました。

Dscf1648
Dscf1667

 ここは前にちょっと書きましたが(→滑川から腹切りやぐら)、北条氏の滅亡後、その霊を弔うために建てられたお寺で、これは北条氏を供養するための宝篋印塔(ほうきょういんとう)です。

Dscf1657_2
 これは徳崇大権現(とくそうだいごんげん)といって、北条高時を祀ってあります。北条嫡流家を徳崇(宗)あるいは得宗といいました。
 高時は「太平記」では闘犬や田楽にうつつを抜かしていた暗愚の暴君ですが、実際にどうだったのかはわかりません。北条氏滅亡時の総大将ですから、滅ぼした後醍醐天皇・足利側としては祟りが怖かったのでしょう。

Dscf1651
 聖徳太子堂もあります。

Dscf1669_2
 大聖歓喜天堂。 

Dscf1652
 北条一族と聖徳太子、歓喜天がどういう関係にあるのか、よくわかりません。本堂の中には毘沙門天像もあって、鎌倉・江ノ島七福神のひとつにもなっています。そう広くない敷地で、けっこうにぎやかです。

 鎌倉のお寺には、小さな庭に季節ごとのいろんな花を咲かせているところが多い。客集めと言ってはいけません。ここはこの後、椿、梅と咲いていくようです。
 これはフヨウ。

Dscf1659

 ちょっと興味を引かれたのがこの木。無患子(むくろじ)という看板が出ています。

Dscf1662
 かなり大きな木です。

Dscf1384
 2センチくらいはありそうな大きな実がたくさんついています。

Dscf1383t

 帰ってからから調べると、この実はサポニンという成分を含み、昔は洗剤として使われ、種は羽根つきの羽根の玉に使用されたそうです。そういえば昔の羽には黒い木の玉がついていました。あれはこの種だったのか。ひとつ拾ってくればよかった。

 これはおまけ。以前にここで撮った白曼珠沙華です。今回はもうありませんでした。

Dscf1380

 これは帰り道の白萩です。 

Dscf1645t

  Photo   Photo_2

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年10月12日 (月)

海蔵寺の水

 永井路子は前掲の『鎌倉の寺』で、海蔵寺の項をこう書き出しています。

 海蔵寺は水の寺である。こじんまりした山門のわきには鎌倉十名水のひとつ「底ぬけの井」があり、左手の山には「十六の井」があるし、本堂脇には小さいながら水量ゆたかな池がある。(p60)

 まず「底脱の井(そこぬけのい)」です。山門より手前の入口のところの道路脇にあります。鎌倉十井のひとつです。

Dscf1280
 この井戸の底が抜けているわけではなく、その昔、尼さんがこの井戸で桶に水をくんだら桶の底が脱けてしまった。ところがそのときなんと悟りを開いたので、「底脱の井」と呼ばれるようになったといいます。
 石碑には

「千代能がいただく桶の底ぬけて 水たまらねば月もやどらじ 如大禅尼」

とあるそうです。千代能というのは、安達泰盛の娘で北条(金沢)顕時の妻、無着禅尼です。
 一説には、悟りを開いたのは上杉家の尼で、

「賎の女が戴く桶の底ぬけて ひた身にかかる有明の月」

がそのときの歌だ、といいいます。どちらにせよ、桶の底を抜いたのが下女だったらきつく怒られたことでしょうが、身分の高い方は悟りを開いてしまいます。とても下々の及ぶところではありません

 「十六の井」へは、岩肌をくりぬいたトンネルを通って行きます。

Dscf1289
 民家の前を通り過ぎて行くと、崖をうがったやぐらのようなところに扉がついています。これが十六の井です。

Dscf1290
 奥には観音菩薩像、その手前の小さいのは弘法大師像だそうです。弘法大師が掘ったものという伝承があります。
 直径70センチくらいの穴が十六あって、深さは4、50センチだそうです。
Dscf1631
 どれにも冷たそうな透き通った水がたまっています。湧き水が自然にたまるようです。

Dscf1292_2
 永井路子は、先の文章に続けてこう書いています。

 鎌倉はもともと水の悪いところで、「十名井」などがあるというのも、じつはそこしかいい水がなかったことの裏返しなのに、ここの水のゆたかさは珍しい。しかも水道の普及したいまはその名井の多くが、なごりをとどめているにすぎないのだが、この十六の井はそうではない。
 「あの水はいまも生きています」というご住職の言葉どおり、いまも清らかな水をたたえているのだ。(p60)

 この穴を納骨穴だとする説もあるようですが、いただいたパンフレットには、湧水地であり、十六という数は十六菩薩を象徴しているもので、墓所とは考えられない、と書いてありました。

Img_20150929_0001
 これは岩船地蔵堂(いわふねじぞうどう)といい、源頼朝北条政子の娘大姫(おおひめ)の守り本尊だった石造のお地蔵様を祀っているそうです。海蔵寺から戻って、横須賀線のガードをくぐった先にありますが、海蔵寺が管理しているそうなので、ここに載せておきます。

Dscf1731_2
 大姫が六歳の時、木曾義仲の息子義高(十一歳)との婚約が成立し、義高は鎌倉へやってきます。人質ですが、大姫と仲良く暮らしていました。しかし翌年義仲は頼朝軍に敗れて殺されてしまいます。大姫は鎌倉から義高を逃がしますが、義高もやがて捕らえられ殺害されました。これを聞いた大姫は悲しみのあまり心身を病み、成長後も縁談を拒み通して、二十歳で早世したといいいます。悲劇の物語です。
 この大姫の墓と木曽義高の首塚が大船の常楽寺にあるそうです。近いうちに行ってみることにしましょう。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年10月 8日 (木)

海蔵寺の萩

 9月24日は海蔵寺(かいぞうじ)へ行きました。英勝寺(→英勝寺のシロフジ)からもう少し山の方へ入ったところで、海蔵寺の少し手前から源氏山へ登って行く道が、化粧坂(けわいざか)の切り通しです。

Photo
 ここが入口。

Dscf1639

 山門の前です。

Dscf1600t
Dscf1636
 この萩が有名なのですが、ちょっと遅かったか、盛りを過ぎたところのようでした。

Dscf1602
Dscf1634t
 本堂です。

Dscf1607_2
Dscf1608
 本堂は「龍護殿」と呼ばれているようです。

Dscf1609

 仏殿(薬師堂)には薬師三尊像があります。

Dscf1303
Dscf1619t
 そんなに広い敷地ではありません。本堂の左手はすぐ崖になっていて、「やぐら」があります。

Dscf1611
 中に鳥居が立っているところがありました。これは雨宝殿(うほうでん)と呼ばれ、宇賀神(うがじん)を祀っているそうです。宇賀神というのは、人頭蛇身だったりして、蛇や龍と関係の深い神様のようです。

Dscf1612_2

 だからここの宇賀神像も翁に蛇が巻き付いた形だそうですが、よくわかりませんでした。

Dscf1614

 永井路子の『鎌倉の寺』(p61)にのっている宇賀神の写真と、わたしが撮った写真を比べてみます。左の写真は蛇らしく見えますが、右ではなんだか全体が崩れているような感じを受けます。1967年初版の本ですから、少なくとも五十年くらい前の写真です。風化したのでしょうか。

Photo Dscf1614t

 本堂の奥には庭があります。

Dscf1615
 残念ながら、ここには入れません。
Dscf1617
 本堂の前はいろんな花が植えられています。(この写真は以前撮ったものなので、季節が違います。)

Dscf1288
 小さな蓮池もありました。以下の花の写真は今回撮ったものです。

Dscf1621_2
 ムラサキシキブ。

Dscf1628
 ホトトギス。この斑点が、野鳥のホトトギスの胸の斑点に似ているから、この名前だそうです。

Dscf1623t_2
 背より高いシオンです。わたしなら雑草として刈ってしまいそうです。

Dscf1606_6

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年10月 5日 (月)

横浜にぎわい座

 たまたま、うちの奥さんの友人から切符をいただいて、9月3日ひさしぶりに横浜にぎわい座へ行った。

1509

 出し物は

前座 林家たま平       初天神
鈴々舎八ゑ馬         代書屋
松旭斎八重子プラスワン  マジック
三遊亭遊之介         湯屋番
桂文月(ふみづき)           転失気(てんしき)
林家正楽           紙切り
桂文楽             試し酒 

1509_2

 前座の林家たま平は、林家正蔵の息子だそうだ。短い「初天神」だった。まだ前座は前座、というところ。

 鈴々舎八ゑ馬の「代書屋」は、はじめて桂枝雀の「代書屋」を聞いたときの強烈なおもしろさがまだ記憶に残っているせいか、不満が残った。枝雀は本当におもしろかった。

 松旭斎八重子は、かなりお年をめしたマジシャンで、プラスワンも同じような年格好の男性だった。ひものマジックが中心。

 三遊亭遊之介の「湯屋番」もいまいち。
 会場の中央は某団体の貸し切りで、寄席へは来たことがないような人が多いらしく、どうも笑いのテンポがちょっとずれているような感じだったが、それなりに受けていたのはたしかだ。

 桂文月(ふみづき)の「転失気(てんしき)」は、申し訳ないが、よく覚えていない。

 林家正楽の紙切りは、いつもどおり、出されたお題を即座に切ってみせる。何か題を言ってみたいと思うのだが、いつも気後れして言えない。今回は「オリンピックのエンブレム」を思いついたのだが、とうとう言えないまま終わってしまった。

 桂文楽は、かつての小益(こます)である。テレビで売れてペヤングのソース焼きそばのCMが有名だった。
 テレビで売れている落語家は、マクラでテレビの内幕話をけっこう長い時間やることが多い。だからペヤングの異物混入事件の話でもするかと思っていたが、さらりと昔ペヤングをやっていたと言っただけだった。「文楽」の名跡にペヤングは似合わないからこれでいい。
 「試し酒」は、田舎者の下男が主人の仲間に、おまえは大酒飲みだというが五升飲めるかと言われて、飲んでみせるという話。酒を飲むしぐさと、次第に酔っ払っていくありさま、傍若無人になるせりふなどで笑わせる。このあたりはさすがに年季が入っている。

Photo

 切符をどうもありがとうございました。楽しんできました。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年10月 1日 (木)

円応寺は閻魔寺

 9月14日(月)、鎌倉の円応寺(えんのうじ、圓應寺)へ行ってきました。北鎌倉駅から行くと建長寺のちょっと先です。

Photo_3
 道路の石垣にはこんな閻魔大王の顔入りで円応寺(閻魔寺)と書いた看板があります。入口の階段には赤い旗が見えます。

Dscf1417
 旗の文字は「南無延命地蔵菩薩」です。

Dscf1415
 山門があります。
Dscf1404

 階段の上にこんな碑がありました。「あらい 子そだて 閻魔王」とあるようです。山号が新居山で昔は「新居閻魔堂」と呼ばれていたそうです。

Dscf1405
 中はあまり広いところではありません。左の建物で拝観料200円を払います。ススキがのびています。
Dscf1406
 突き当たりがすぐ本堂です。

Dscf1407
 ここの本尊は閻魔大王だから、閻魔堂、閻魔寺というわけで、内部はこうなっています。写真撮影は禁止なので、いただいたパンフレットの写真です。中央に閻魔大王、その左右に冥界の十王像が並んでいます。Img_20150929_0004
 これが閻魔大王像、これもパンフレットからです。Img_20150929_0006

 運慶作と伝えられるということですが、頭部のみ鎌倉時代のもので、胴体は江戸時代に作られたものらしい。これだけほかの像より大きくて彩色されています。
 運慶は、死んで閻魔大王の前に引き出されたとき、「閻魔様の彫像を作って人々を善縁に導くなら娑婆へ返してやろう」と言われて、現世へ戻された。生き返った運慶は、喜んで笑いながら彫刻したので、どことなく笑っているような顔になり「笑い閻魔」と呼ばれている、という話があるそうです。
 わたしにはあまり笑っているようには見えませんでした。そういえば板東三十三カ所巡礼で行った栃木県益子町の「笑い閻魔」様も笑っているようには見えませんでした(→第二十番 西明寺)。やっぱり信心が足りないからでしょうね。

 ここへ来るまでよく知りませんでしたが、冥界の十王というのは、地獄で死者の審判を行う裁判官で、死後の日数に応じて次のように担当が決まっているらしい。(ウィキペディアより)

十王読み本地審理
秦広王  しんこうおう 不動明王  初七日(7日目・6日後)
初江王  しょこうおう 釈迦如来  二七日(14日目・13日後)
宋帝王  そうていおう 文殊菩薩  三七日(21日目・20日後)
五官王  ごかんおう 普賢菩薩  四七日(28日目・27日後)
閻魔王  えんまおう 地蔵菩薩  五七日(35日目・34日後)
変成王  へんじょうおう 弥勒菩薩  六七日(42日目・41日後)
泰山王  たいざんおう 薬師如来  七七日(49日目・48日後)
平等王  びょうどうおう 観音菩薩  百か日(100日目・99日後)
都市王  としおう 勢至菩薩  一周忌(2年目・1年後)
五道転輪王  ごどうてんりんおう 阿弥陀如来  三回忌(3年目・2年後)

 こんなに何回も取り調べがあるとは、大変です。とてもしらを切り通せるとは思えません。
 この「本地」は、鎌倉時代に日本仏教が考え出したものだそうで、閻魔大王は地蔵菩薩の化身ということになっています。
 円応寺の十王像の中で一番いいのは初江王像のようですが、現在これは鎌倉国宝館に置いてあるとのことで現物は見られませんでした。あるものの中では宋帝王像がちょっといいなと思いました。
 永井路子『鎌倉の寺』(保育者カラーブックス、1967)には初江王像のこんな写真がありました。いちど鎌倉国宝館で見てみたいと思わせる写真です。

Img_20150929_0005
 十王像の他にはあまり見るものはありません。小さな、落ち着いた感じの寺です。茅葺きの鐘楼があります。

Dscf1411_2
 庭です。
Dscf1410
 萩が咲いていました。
Dscf1409

Img_20150929_0002

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2015年9月 | トップページ | 2015年11月 »