« ジュラシック・ワールド | トップページ | 長寿寺の庭 »

2015年10月22日 (木)

寿福寺の墓

 寿福寺(じゅふくじ)へ行ったのは8月26日でした。英勝寺の隣です。

Photo
 総門です。前の碑には「壽福金剛禅寺」とあり、門には「亀谷山(きこくさん)」の額があります。亀ケ谷坂(かめがやつさか)はもう少し北鎌倉よりですが、坂を上ってくるとこのあたりへ出てくるので、この名がついたのでしょうか。

Dscf1274
Dscf1237
 総門から中門までまっすぐに緑濃い参道がのびています。落ち着いた静かなお寺です。
Dscf1271_3

 中門です。

Dscf1240

 中門の奥に仏殿が見えます。しかし残念ながら中門の中へは入れません。

Dscf1268_2
 鐘楼なども外から見るだけです。ここは開基が北条政子、開山は栄西、鎌倉五山の第三位という由緒あるお寺なのですが、現状は、一、二位の建長寺円覚寺のにぎやかさ、ものものしさに比べると、とてもそうとは思えないくらい静かです。規模も昔よりはずっと小さくなっているのでしょう。観光客が少ないだけでなく、寺の方にもあまり人の気配がしません。

Dscf1267

 お寺をまわって、裏山の墓地へ行く道があります。

Dscf1265
 この墓地には大佛次郎高浜虚子の墓があります。

Dscf1244
Dscf1261
 奥の崖にはやぐらがあり、北条政子源実朝の墓があります。

Dscf1253

 これが北条政子の墓。

Dscf1249
Dscf1250_2
 こちらが実朝の墓です。

Dscf1254
 実朝は政子の次男です。長男頼家は、頼朝亡き後二代将軍となりますが、政子の実家である北条氏によって将軍の座を追われ、やがて伊豆の修善寺で殺害されます。三代将軍になった実朝は頼家の子、公暁(くぎょう)に鶴岡八幡宮で暗殺されてしまいます。
 母親として政子の心境はいかばかりであったか、わたしなどにはとてもはかりしれません。

 そもそもここには頼朝の父義朝の屋敷がありました。源氏は、頼朝の五代前の頼義の頃から関東・東北に勢力を伸ばそうとしており、その関東の拠点が鎌倉でした。現在の鎌倉のシンボルである鶴岡八幡宮は、頼義が、前九年の役のときに建てた八幡宮が起こりです。(→由比若宮は元八幡
 だから頼朝は最初ここに幕府をつくろうとしたが、地形的な問題から今の鶴岡八幡宮の東になったという話もあるようです。このあたりは、源氏にとって重要な場所だったのです。

 寿福寺の開山の栄西は、 「えいさい」だとばっかり思っていましたが、臨済宗の方では「ようさい」と読んでいるそうです。かなり昔から両方の読み方があったらしい。
 臨済宗の開祖で、宋に渡って学び、日本にお茶を伝えたくらいしか知りませんでした。「週刊朝日百科 仏教を歩く08 栄西(2003、朝日新聞社)」を見たら、こんな栄西像がありました。(p4)

Photo_2

 当時の絵でもこんな頭になっていて、これを「栄西頭」というそうです。最近TPPの交渉をやっていた方が、これほどではないけれど、こういう感じでした。
 この木像は寿福寺のものですが、今は鎌倉国宝館に置いてあるそうです。国宝館行かねば。
 
 「法然頭」という言葉もあって、これは頭のてっぺんが窪んでいる頭のことだそうです。
週刊朝日百科 仏教を歩く06 法然(2003、朝日新聞社)」には、こんな絵がありました。(p4及び裏表紙)

Photo_2 Photo_6

 偉いお坊さんの経歴や教義より、こんな頭のことばかり気になるのは、やはり修行のいたらぬせいでしょう。

 

|

« ジュラシック・ワールド | トップページ | 長寿寺の庭 »

鎌倉散歩」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 寿福寺の墓:

« ジュラシック・ワールド | トップページ | 長寿寺の庭 »