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2015年11月

2015年11月30日 (月)

神奈川県立歴史博物館

11月26日、横浜・馬車道にある神奈川県立歴史博物館へ行ってきました。

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 このドームが目印で、昔の横浜正金銀行本店の建物を博物館にしています。

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 横浜正金銀行(よこはましょうきんぎんこう)というのは、明治の初期に貿易金融専門銀行として国策でつくられた銀行で、東京銀行の前身とされています。

 久しぶりです。、沿革によると「平成7年(1995)「神奈川県立博物館」は「神奈川県立歴史博物館」と名称変更」とあります。わたしの記憶は県立博物館時代のものでした。馬車道側のドームの建物が正面入口だと思って入っていったら、受付入り口は裏の新館側になっていて、中をずっと歩かなければいけませんでした。

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 自然史部門は小田原へ移転してなくなっていますが、古代から中世、江戸時代、横浜開港を経て近代の神奈川へ至る歴史の遺物が展示されているのは、前に見たときの記憶と変わりません。

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 この日来たのは、ここに円覚寺舎利殿実物大模型があると聞いたからです。先日、円覚寺へ行って舎利殿を見てきましたが、内部へは入れず、外からのぞき見るだけでした。(→円覚寺は舎利殿)それが、実物大の木造模型があって、中へ入って見ることができるのです。
 写真撮影はできなかったので、下の写真は『週刊朝日百科 仏教を歩く08 栄西』(朝日新聞社、2003)からの本物の写真ですが、これと同じ光景が見られました。ただし、厨子や仏像はありませんでした。

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 おもしろいのは実物大模型といっても、外観はなく、内部だけの模型であることです。正面の入口や欄間は本物のとおり作ってあって、入ると上の写真のような部屋になっています。実寸模型ですから木組みなどもちゃんと本物そっくりに作られていて、なかなかの見ものでした。円覚寺で見て思っていたより、ちょっと狭い感じがしたのは、ビルの一室だったからかもしれません。
 上部は天井を抜いて上の階へ出ているようですが、この外側がどうなっているのかはわかりません。後で係員の方に聞いてみたら、内側だけの模型で、屋根は作ってないとのことでした。どうせなら屋根まで作って複製の仏像を置けば、立派な観光名所の一つになるのにと思いましたが、そういう目的で作ったわけではないし、円覚寺だって横浜出張所を出すにはそれなりの手続きも必要になるでしょう。

 その他の展示では、鎌倉時代を中心に見てきました。展示品は複製が多く、北条時頼像も栄西坐像も複製でしたが、おもしろく見ました。美術品として見るには真贋が重要でしょうけれど、歴史を考える参考資料としては複製でもかまわないと思うし、そもそもわたしには真贋の区別がつきません。
 栄西座像を見てまず思ったのは、栄西の頭は写真で見たほど長くないな、ということでしたし(→寿福寺の墓)、時頼像を見て思ったのは、昔の同僚にこういう顔のがいたなあ、ということでした。芸術的観点からは遠く離れて見ています。

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 特別展で「国宝一遍聖絵」をやっていたので、これも見てきました。

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 「一遍聖絵(いっぺんひじりえ)」というのは、時宗の開祖、一遍上人の一代を描いた絵巻物で、全12巻あるものを、この県立歴史博物館県立金沢文庫、藤沢の遊行寺宝物館の三カ所に分けて展示しているそうです。東京の国立博物館でも何かあるらしい。

 なかなかおもしろい。チケットになっているのは「第四巻第三段備前国福岡の市」といって、諸国を行脚していた一遍に妻が感化されて出家してしまい、怒った夫が刀に手を掛けて詰め寄っているところだそうです。

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 絵巻物というのは、主題以外にも、背景に描かれた事物から当時の風俗や文化をうかがい知ることができます。上の絵は、当時の備前の国福岡(現岡山県瀬戸内市)の市を描いた貴重な資料となっているようです。細かく見ていくと、群衆の中にときどき変なのが混じっていたりして、素人が見てもけっこうおもしろいものです。

 金沢文庫と遊行寺なら、そちらへも行ってみようかと思います。

 

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2015年11月26日 (木)

JB38 キリスト者のジョーク

 キリスト教の聖職者の方々の、説教などに交えて話すジョークや面白い話をまとめた本を紹介する。山北宣久、大川従道氏はプロテスタント、場﨑洋氏はカトリックであるようだ。
 

157 福音のタネ 笑いのネタ

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    (書名)  福音のタネ 笑いのネタ
      (著者)  山北 宣久(やまきた のぶひさ)
      (出版者) 教文館
      (形状)     B6判ハードカバー
      (頁数)     190
      (出版年)  2000/04/01

・教団の機関誌などに書かれたものの集成で、「キリスト教小咄」というジョーク集、「キリスト教談話室」というエッセイ、その他の記事からなる。

・ジョークは教会関係のものが多く、あまりひねりがないので、読んでそれほど面白くはないが、教会のお説教の中で聞く分にはおもしろいかもしれない。

間違い
 ある晩、酔っ払った人が電車に乗りました。しかし、何度乗り降りしても目指す駅に着きません。見かねた人が正しい電車に乗せ、たまたま居合わせた牧師の隣に座らせました。
 酒の匂いで事情を察した牧師は言いました。
 「気の毒な兄弟、あなたは自分が地獄への道を旅していることに気づいておにでかな」
 「なんてことだ!」と、その男は飛び起きました。「また違う電車に乗ってしまった」(p39)

 

158 福音と笑い これぞ福笑い

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    (書名)  福音と笑い これぞ福笑い
      (著者)  山北 宣久(やまきた のぶひさ)
      (出版者) 教文館
      (形状)     B6判ハードカバー
      (頁数)     184
      (出版年)  2004/12/10

157『福音のタネ 笑いのネタ』と同じで、「キリスト教小咄」というジョーク集、「キリスト教談話室」というエッセイ、その他の記事からなる。ジョークのレベルも前掲書と同じようなもの。

訪問者
 牧師はけげんな面持で訪問者に言った。「どこかでお目にかかりましたかナ」「もちろんです」と訪問者は言った。
 「ところで他人の失敗で金を儲けてもよいのかどうか聞きに来たんです」「それはいけません」と牧師は断言した。そこで訪問者はおもむろに言った。
 「では返していただけませんか。六ヵ月前、私の結婚式の代金としてお払いしたヤツを」(P14)

 

159 非まじめ牧師のジョーク集

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    (書名)  非まじめ牧師のジョーク集
      (著者)  大川 従道(おおかわ つぐみち)
      (出版者) 朝日新聞社
      (形状)     B6判変形ソフトカバー
      (頁数)     149
      (出版年)  2007/09/30
           2007/12/30 2刷

・この本の中のジョークで面白いのは、他の本から引っ張ってきたものばかりで、ご本人が考えたと思われるものは、どうにもいただけない。(参考文献のリストがある)

 飛んでいる小鳥が落ちた――コトリ!?
 教会へ行きましょう!――いつ? きょうかい!?

 この本なあに? 講談社現代新書よ!
 どんな人が読むの? 好男子や現代紳士よ!!

 これはジョークではなく、ダジャレという。

・板東三十三カ所巡礼に行ったとき、自分は話がうまいと思い込んでいて長い話をする坊さんがいたけれど、この牧師さんも、自分はユーモア精神に富んでいて、冗談がうまいと思い込んでいるのではないか。寄席だったら面白くなければ客は怒ったり帰ったりするが、お寺でも教会でも、信徒は我慢して終わるのを待ってくれるから、話している方は受けていないことに気づかない。

 

160 キリスト教小噺ジョーク集

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    (書名)  キリスト教小噺ジョーク集
      (著者)  場﨑 洋(ばさき よう)
      (出版者) 聖母の騎士社
      (形状)     文庫
      (頁数)     297
      (出版年) 2011/03/25
          2011/10/25 2刷

・この本は、実際に宣教師たちから聞いたジョークが中心だとのことである。だとするとこの教会のジョークのレベルは、ちょっと低めであると言わざるをえない。基本的にまじめな人々だから、ひねりのきいた皮肉などは出にくいのかもしれないが、紹介したいと思うようなジョークが見つからない。

・こんなふうなダジャレが多い。

アブラハムとサラ
 ある神学者によるとアブラハムの奥さんは大変美しかったと言われた。それはクレオパトラよりも楊貴妃よりも、そして小野小町よりも美しかったそうだ。
 サラはいつもアブラハムに愛され幸せに暮らした。
 しかしなかなか子供には恵まれなかった。
 やがて女奴隷ハガイがアブラハムの子供を宿した。
 それからハガイはサラを見下ろしたのでサラは夫アブラハムに訴えた。
 アブラハムを引きとめて叱責した。
 「ハガイよ、なぜ私の妻を苛めるのだ」
 「いいえ、わたしはサラ様を苛めた覚えはありません。ただハガイジメ(羽交い締め)しただけですよ」
 「ハガイよ。ハガイジメは、単なる苛めよりも罪が重いものだ。すぐにやめなさい」
 その夜、サラは泣き崩れながらアブラハムに慰めを求めた。
 翌朝、アブラハムは妻サラを元気づけるためにご馳走を振る舞った。
 こしらえたのは、こんがり焼いた油ハム(アブラハム)、それを綺麗な皿(サラ)に盛って綺麗な皿に差し出した。彼女は癒やされた。(p65)

 いくらなんでも「羽交い締め」に「油ハム」はひどい!会話の中では受けたのかもしれないが、それはあまりにも馬鹿馬鹿しいから笑ったので、このダジャレが面白かったわけではないだろう。だからこうやって文章になると、読む方が恥ずかしくなる。
 蛇足だが、このハガイ(あるはハガル)の子がイシュマエルで、アラブ人の祖先である。また、後にサラが九十歳で生んだイサクの子のヤコブがヘブライ(ユダヤ)人の祖先であるという。

 聖職者のみなさん、どうかジョークのレベルの向上にも少し心を向けてくださいますようお願いします。

 

 

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2015年11月23日 (月)

J70 本のジョークあれこれ

 本のジョーク、まとまりがありませんが、あちこちから拾ったものをあげておきます。

 次の二点は、山北宣久『福音と笑い これぞ福笑い』(教文館、2004)から。

父親が耳にした男の子の祈り
 神さま、世界中のこまった中で生きているひとを助けてあげてください。
 どうかお父さんの雑誌に出ていた着る服ももたない女の人たちに着物を与えてあげてください。アーメン。(p12)

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国語辞典
 説教を聞いた後でマーク・トウェインは牧師に皮肉な顔をして言った。「たいへん感銘を受けました。ただ一語一語みんなわたしの愛読している本に書いてあることでしたが」
「そんな馬鹿な!」と牧師が怒るとトウェインは「では早速証拠の本を送りましょう」と言って帰ってしまった。
 後日、説教者が手にしたのは一冊の国語辞典だった。(p16)

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 関楠生・編訳『わんぱくジョーク』(河出文庫、1981)から。

おやすみ童話
 やさしいおばあさんが孫のベッドのそばにすわって、童話を読んでやっていた。
「ねえ、おばあちゃん」
と、とうとう子供がお話の途中で言った。
「もっと小さな声で読んでよ。ぼく、眠れないんだもん」(p92)

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 田辺貞之助編著『話の事典』(河出書房、1967)から。

物識りになる法
「おたくの旦那さまは、おいそがしいお仕事をなさっていらっしゃるのに、昔のことなどよくご存じでいらっしゃいますが、いつご本をお読みになりますの」
「それがねえ、いまいましいったらないのでござあますのよ。お夕食の跡かたづけがすんで、わたくしがいろいろお話をしようとしますと、ごそごそ本を出してきて読みはじめますの」
(P138)

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 これはネットから。

皮肉
ジョージ・バーナード・ショウ
「あなたが人生で一番影響を受けた本は何です
か?」と質問されてこう答えた。
銀行の通帳かな。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~nifongo/dokk/joke.pdf

 

 

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2015年11月19日 (木)

横浜にぎわい座11月

11月3日、また横浜にぎわい座へ行ってきました。

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 出し物は

前座 笑福亭希光      時うどん
入船亭小辰          悋気の独楽
鏡味よし乃           太神楽
三遊亭圓丸          尻餅

           (中入り)
古今亭今輔               飽食の城
江戸屋子猫          動物ものまね
五明楼玉の輔
        芝浜

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 前座の笑福亭希光(きこう)は鶴光(つるこう)の弟子とのこと。関西だけあって、「時そば」ではなく「時うどん」をやった。前座にしては達者で、けっこう時間をかけてやった。
 上方落語には東京のような二つ目・真打ち制度はないというが、前座は前座で同じなのだろうか。

 入船亭小辰(いりふねていこたつ)の「悋気(りんき)の独楽(こま)」は、ヤキモチ焼きの奥さんが小僧に言いつけて、妾宅へ行く旦那の後をつけさせる話。いまひとつ。

 太神楽(だいかぐら)の鏡味よし乃(かがみよしの)は、国立劇場太神楽教室の出身で、まだ新人らしい。五階茶碗という、顎に棒のようなものを建ててその上に板と茶碗を積み上げていく芸を見せてくれたが、技もしゃべりも教科書どおりに一生懸命やっている段階という感じで、ちょっと花がない。傘回しも同じ。

 三遊亭圓丸の「尻餅」は、大晦日に餅もつけない貧乏所帯が、見栄を張って長屋のみんなに音だけ聞かせようと、いやがるおかみさんのお尻をたたいて餅つき風景を演出するという話。餅をつくときの所作と音が見せ場。

 古今亭今輔といえばわたしくらいの世代だと先代(五代目)の、にぎやかなお婆さんが出てくる新作落語の今輔である。もうどんな話だったかは忘れてしまったが、ラジオでおもしろく聞いた記憶は残っている。
 六代目はまだ若く、東海大学の落研の出身だそうで、マクラでその頃の話が長くかった。「飽食の城」は新作で、戦国時代、兵糧攻めにあった城がちっとも落ちなかったのは、実はお菓子の城だったから、という話。
 お菓子でできていたというネタだけに頼っていて、話のふくらみがない。マクラが長かったのも、これではそんなに長い時間話せないからではないか。

 動物ものまねの江戸屋子猫は現在の江戸屋猫八の息子だそうだ。わたしが子供の頃の「お笑い三人組」の猫八の孫にあたる。お家芸というわけだ。
 動物のものまねの上手下手は、もとの鳴き声をよく知らないと判定できないし、いくらソックリでも、そればかりではすぐ飽きる。子猫は間のしゃべりがうまく、楽しめた。 

 五明楼玉の輔(ごめいろうたまのすけ)もまだ若い。「芝浜」をやりだしたので、もうそんな季節になったかと思った。いまいちと言っては悪いけれど、この話はあんまり有名なので、ちょっとやそっとの話ではなかなか感動できないのだ。

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2015年11月16日 (月)

円覚寺の宝物風入

 円覚寺宝物風入方丈で行われていました。方丈唐門を入ります。

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 方丈の右側の庫裡が入口になっていました。

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 けっこう人がいます。

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 中は撮影禁止だったので、いただいた目録をちょっと見てください。

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 絵は、かなりくすんだものが多く、色鮮やかで目を驚かせるようなものはありませんでした。年代が年代だし、ただ秘蔵していたわけではなく、それなりに人の目に触れさせてきたものだということもあるのでしょう。
 驚いたのは書状で、いきなり北条時宗の「拝請状(はいせいじょう)」という書状が出てきました。上の写真の左下です。蘭渓道隆が亡くなったため、時宗が、これに代わる名僧を招きたいと宋へ送った使いが持って行った書状です。これにより無学祖元がやってきて、円覚寺の開山となったという、歴史的な文書です。わかりやすい字で「時宗留意宗乗積有年序建営…」とあります。読めませんが、そういう手紙だと知っていると、なんとなくわかるような気がします。
 他にも北条貞時だとか、足利尊氏だとか歴史上の人物がたくさん出てきて、この寺の歴史上の地位の高さと厚みを感じました。天皇宸筆の円覚寺の門額の原稿(額草)というのもありました。 

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 お寺の物ですから、書画骨董と言ってはいけないのでしょうが、「なんでも鑑定団」を思い出しながら、あれこれ拝観しました。
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 風入の会場である方丈には、呈茶席が設けられていたので、お茶をいただきました。千円でした。 

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 抹茶券の左上に描かれているのが、その昔の国宝シリーズ切手「円覚寺舎利殿」です。ちょっとなつかしい。

 茶席から見えた庭です。

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 お茶もお菓子もおいしくて、ちびちびやっていたら、順番が最後の方だったので、すぐ片付けがはじまり、残りを一気にいただきました。あぐらをかいていても足のつけ根がつりそうになって困りました。歳です。

 円覚寺は何度も来ており、いつでも来られるところなので、今回はこの寺のもう一つの国宝、「洪鐘(おおがね)」だけを見てきました。
 入口に近い方の小高い丘に登ると弁天堂があります。この鐘を鋳造しようとしたとき、江ノ島の弁天様が助けてくれたというので、ここに弁天堂を建立したそうです。 

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 その前に洪鐘はあります。正安三年(1301)の鋳造だそうです。

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 ここからはこんな景色が見えました。祝日は混むだろうから、昨日のうちに来るつもりだったけれど、雨で寒かったので延期しました。一転さわやかな秋晴れになってよかった。

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 帰るときの総門は、修学旅行らしい団体も来ていて、やっぱりけっこう混雑していました。
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2015年11月12日 (木)

円覚寺は舎利殿

 11月3日は円覚寺(えんがくじ)の宝物風入(ほうもつかぜいれ)を見に行ってきました。年に一度、所蔵の絵画、古文書など貴重な文化財を公開する催しです。同時に建長寺でも開催されていますが、今回は円覚寺だけ行きました。

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 昨日の雨が晴れました。祝日なので混むだろうと早めに出かけ、8:40ころ着きました。風入は9:00からですが、円覚寺へは8:00から入れます。

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 脇にこんな看板もありました。実はわたしの第一のお目当ては、小さく書いてある「国宝舎利殿同時公開」の方です。

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 総門へ階段をのぼります。

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 次は山門です。

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 その奥の正面が仏殿。ここは敷地も広く建物もそれぞれ大きくて立派です。
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 仏殿には本尊の宝冠釈迦如来がおわします。
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 ご本尊におまいりしたら何はともあれ舎利殿へ向かいます。途中、9:00からの宝物風入の開場を待つ行列が見えましたが、舎利殿が先です。
 円覚寺と言えば「舎利殿」と反応してしまうのは、円覚寺の名前をおぼえたのが、中学生の頃、歴史か美術の教科書に載っていた「国宝円覚寺舎利殿」の写真からだったからでしょう。その頃通用していた切手には「円覚寺舎利殿」の図柄のものもありました。国宝シリーズの切手でした。円覚寺という名前はいつも舎利殿とセットになっていたのです。

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 正続院(しょうぞくいん)の門です。普段はこの中へは入れず、舎利殿はこの門の間から屋根を覗くだけでした。それが今日はすぐ前まで行くことができます。
 円覚寺はたくさんの独立した塔頭(たっちゅう)の集合体で、正続院という名前の塔頭に、舎利殿開山堂禅堂などが所属しているということです。

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 中へ入ると受付のテントがあって、そこで宝物風入と舎利殿の特別拝観料を払いました。宝物風入の目録とシールをいただきました。

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 一緒に「鎌倉円覚寺の名宝」(五島美術館、2006)という図録を買いました。テントの後ろの正続院の中で、お坊さんが何人か書き入れをして朱印を押す作業をされていました。

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 「舎利瞻禮」というのは「しゃりせんらい」と読み、舎利殿を仰ぎ見てお参りしましたという意味だそうです。三字目は「膽(たん)」かと思ったら「瞻(せん)」で、「目をあげて見る」という意味でした。

 奥に舎利殿の屋根が見えます。手前の青い屋根は正続院の唐門の屋根です。

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 唐門をくぐって、さあ「国宝円覚寺舎利殿」です。

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 屋根の曲線がとてもいい。優美です。二階建てに見えますが、下の屋根は裳階(もこし)で、一階建てです。

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 「さわら」の板の柿(こけら)葺きです。

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 中へは入れませんが、内部もちょっとのぞけます。

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 真ん中が仏舎利をおさめてあるお宮で、「佛牙舎利(ぶつげしゃり)」というお釈迦様の歯がまつられているそうです。左は地蔵菩薩、右は観音菩薩です。
 世界中にまつられているお釈迦様の仏舎利を合わせたらどのくらいの量になるだろうとか、DNA鑑定はしたんだろうかなどと考えてはなりません。そういう俗世間の考えを超越したところに仏様はおわしますのであります。 
 上の欄間は、「弓欄間 (ゆみらんま)」あるいは「波欄間」と呼ばれています。真ん中にある丸いのは、修行の足りないわたしには蜘蛛に見えてしまいましたが、宝珠だそうです。

 鎌倉の町は戦乱や地震、大火などで何度も焼け、鎌倉時代の建物は残っていません。この舎利殿も、永禄六年 (1563) に円覚寺が全焼した後、鎌倉尼五山の一つであった大平寺の仏殿を、天正年間に移築して舎利殿としたものです。建物そのものは室町時代中期(15世紀)頃の建築物と推定されているようです。
 永井路子の『鎌倉の寺』(保育者カラーブックス、1967)には、こんな話がありました。

応安七年(1374)の秋、円覚寺に薪売りが来たが、会計を預かる僧が値切ったことから大げんかになった。ともかく薪は売って帰ったが、その晩その薪に火がついて、全山猛火につつまれた。それを見るなり、会計係の僧は、「あの薪売りの恨みの放火だ。すべては私の責任だ」と叫ぶやいなや燃えさかる炎の中にとびこんで自殺した。が、薪売りと僧は、実は一味だったらしいのだ。当時建長寺と円覚寺(厳密にいえば二寺のうちの二派)に激しい対立があり、円覚寺に住みながら、建長寺の法系に属するその僧が仕組んだ完全犯罪だったようだ。薪売りとのけんかもはじめからの計画だったのである。(P9)

 これは永井路子の小説ではなく、記録に基づく歴史学者の推測です。円覚寺が発行した正史『圓覚寺史』(玉村竹二・井上禅定、1964)にこのように書かれています。円覚寺と建長寺の対立が背景にあったということですが、現在のこの二寺の関係はどうなんでしょうか。

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 さて舎利殿はこれでしばらくは拝観できませんから、もう一度見ておきます。

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 舎利殿脇の禅堂では、監視の意味もあるのでしょうが、お坊さんがじっと瞑想されていました。
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 次は宝物風入です。

 

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2015年11月 9日 (月)

秋の風景

 南無谷の家からはこんな山が見えます。紅葉はまだまだ、というか、このあたりは常緑樹が多いので、そんなにきれいになることはありません。

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 天気がよかったので、ちょっと近所の散歩に行きました。
 山の神神社です。

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 もう少し行くと、名前を知らないので勝手にソテツ山と呼んでいる、小さな山があります。
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 麓のから、ちょっと登ったところまでソテツを栽培しています。

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  このあたりの風景が好きで、ときどき来ます。
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 他に取り立てて変わったところがあるわけではありません。
 こんなひっつき虫の雑草、コセンダングサの草むらがあったり、

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 季節はずれの菜の花が咲いていたりするだけです。

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 赤まんまも咲いていました。
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 畑にはよく花も植えられています。

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 これは大輪で、きれいでした。

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 うちの庭は、今年はろくに手入れしなかったので、たいした花は咲いていませんでした。
 ホトトギスです。

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 キバナコスモス。

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 ビワがもう花芽をたくさんつけていました。

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 日当たりがいいところには、もう咲いているのもありました。

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 また摘蕾・摘花→摘果・袋かけというサイクルが始まります。

 横浜へ帰るとき、富浦町の「寿司隆」という寿司屋に寄りました。うちからは車で10分くらいです。
 この店、表の通りから見ると、こんな看板があるだけで、どこが入口なのか、やっているのかどうか、よくわかりません。だから、館山へ行くときなどよくこの前を通るのに、入ったことがありませんでした。

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 それが去年(2014)の夏、NHKテレビの「鶴瓶の家族の乾杯」にこの店が出てきました。広末涼子がゲストで、南房総が舞台だったので見ていたら、突然この店が映って驚きました。
 ここへ来たのは鶴瓶ひとりで、すぐ近くの房州うちわの工房を訪ねて、その後この店を訪れました。
 放映直後はかなり混んだことでしょうが、もう一年以上たちます。ちょっと行ってみることにしました。

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 奥の駐車場に車を停めて、横から入ると、表の垣根の裏側はこうなっています。この旗やのれんぐらい外から見えるように出したらどうかと思いましたが、この店なりのこだわりがあるのかもしれません。

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 家族に乾杯のロケのときのことを少し聞かせてもらいました。テレビの画面ではひとりで訪問ですが、ときどき写るカメラマンなどのスタッフがどれくらい来たのか聞いたら、暑かったのでお茶代わりにアイスを15個買ってきたが、それで足りないくらいだったそうです。
 突然やってくる、というのはそのとおりで、当日は火曜日で休みの日でした。
 おかみさんはできるだけ顔が映らないようにしていたら、テレビを見た人から、宝くじが当たったようなものなんだからちゃんと映らなきゃ、と言われたそうです。九州へ転勤した何十年か前のお得意さんから電話がかかってきたり、放映後はにぎやかだったようです。テレビに映ることの威力は大きいですね。
 だからといって自治体が、町おこし村おこしというと、ゆるキャラだとか、何かテレビに映りそうなイベントみたいなものしか考えないのは困ります。

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  上にぎりと地魚にぎりをいただきました。鮮度のいい魚で、写真をとるのを忘れていましたが見た目もきれいでした。カマスの焼魚もついてきました。
 おなかいっぱいになって横浜へ帰りました。

 

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2015年11月 5日 (木)

収穫の秋

 10月28日から30日まで南無谷へ行ってきました。門を入ると桜の根元は枯葉でいっぱいです。今回の主な目的は柿です。 

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 毎年行くタイミングがずれて、鳥に食べられたり、落ちてしまっていたり、、ほとんどとれずじまいの富有柿を、なんとかちゃんと収穫したいと思っていました。
 今年こそはとやって来たら、二本ともそれなりに実がありました!

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 鳥に食べられている実も熟しすぎて落ちている実もいくつかありましたが、けっこう残っていて、しかもなんとか納得できる大きさの実です。

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 うれしいですね。直径七から八センチくらいです。

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 今年は摘果など、ちゃんと手入れできなかったけれど、これだけとれました。(青いのはレモンです。)
 

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 ここにずっと住んでいれば、順番に収穫できて無駄なくとれるのでしょうが、遠隔地にいて、夫婦の日程と体調の都合を合わせ、天候を見計らって来ているので、なかなか柿の都合までは合わせられませんでした。それがようやくこれだけとれました。熟しすぎて柔らかくなったのを食べてみると十分甘くてうまい。かなり満足です。

 その他にこんな秋の収穫がありました。レモン、早生ミカン、キウイ、獅子ユズです。真ん中あたりのミカンの上に乗っているのは、フェイジョアという南国果実です。

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 キウイは今年も小さくて数が少なかった。栽培法を研究しないといけません。 

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 早生ミカンは、ちょっとすっぱめだけれど、食べられます。もう少し木が大きくなってくれるのを期待しています。

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 温州ミカンは見るからに固そうで、とるにはまだ早い。

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 レモンはたくさん実をつけていますが、全体にまだ青いので、うっすら色づいたのを少しだけとりました。

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 獅子ユズはこんな状態で、下の方にだけ実がついています。一番黄色いのをひとうだけとりました。

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  直径13センチくらいもあるので、たくさんとれても、使い道に困りそうです。とれすぎたときには銭湯でゆず湯に使ってもらうか。

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 帰ってから、うちの奥さんがユズジャムを作ろうと切ってみると、なんと内側の白い綿のような部分がこんなに厚い。中の袋の部分は普通の夏みかんぐらいでした。

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 フェイジョアは今年初めて四つだけ実がなりました。まだちょっと早そうなので、ひとつだけ試しにとってみました。わたしは食べ損なったのでどんな味かはまだわかりません。

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 年内に残りをとって、食べてみたいと思います。
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 甘夏は、木のてっぺんにひとつ実がついただけ。日当たりが悪いせいでしょうか。移植するには大きくなりすぎたような気がするし、ちょっと悩みます。
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2015年11月 2日 (月)

常楽寺の木曽塚

 常楽寺の裏山に木曽義高の墓があるのですが、いったん山門を出て、お寺の垣根と住宅との間の細い路地を通り、墓地の前を脱けてから山に登るようになっています。境内には木曽義高の墓についての案内は何もないので、知らないとたどりつけません。

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 こんな道です。この山が粟船山(あわふねやま)らしい。

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 この中腹(と言っても小さな山ですが)に、こんな看板がありました。消えかかって読めないところがありますが、古い写真を見ると、「奥 粟船稲荷 手前 姫宮の墓(北条泰時公の娘)」と書かれていたようです。

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 前に、常楽寺には頼朝の娘大姫の墓とその婿である木曽義高の首塚がある、と書きましたが(→海蔵寺の水)、ここにあるのは北条泰時の娘の墓でした。これが大姫の墓だという説もあるようですが、当のお寺がはっきり違うと言っているわけです。
 これが姫宮の墓です。どうもぱっとしません。これが大姫の墓だとすると、ちょっとかわいそうなくらいです。

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 粟船稲荷です。姫宮の墓と同じようなつくりで、前に小さな白色と金色の狐の置物が置いてあります。お稲荷さんも、ちょっと期待とちがいました。

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 木曽義高の塚はちゃんと山頂にありました。前が墓碑で後ろの木の根元に卒塔婆が立っているところが首塚のようです。

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 墓碑には「木曽清水冠者義高公之墓」とあります。
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 ちょっと離れたところには、こんな史跡碑もあります。これは鎌倉町青年団ではなくて、鎌倉同人会が大正15年に建てたものです。

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義高ハ義仲ノ長子ナリ 義仲嘗テ頼朝ノ怨ヲ招キテ兵ヲ受ケ将ニ戦ニ及バントス 義高質トシテ鎌倉ニ至リ和漸ク成ル 爾来頼朝ノ養フ所トナリ其女ヲ得テ妻トナス 後義仲ノ粟津ニ誅セラルルニ及ビ遁レテ入間河原ニ至リ捕ヘラレテ斬ラル
塚ハ元此地ノ西南約二町木曾免トイフ田間ニ在リシヲ延寶年中此ニ移ストイフ  旭将軍ガ痛烈ニシテ豪快ナル短キ生涯ノ餘韻ヲ傳ヘテ数奇ノ運命ニ弄バレシ彼ノ薄命ノ公子ガ首級ハ此ノ地ニ於テ永キ眠ヲ結ベルナリ
 大正十五年一月 鎌倉同人會 建

 大姫のことは何も書かれていません。これを建てるときも、ここに大姫の墓があるとは思われていなかったのでしょう。
 大姫と木曽義高の物語、前にもちょっと書きましたが(→海蔵寺の水)、『北条九代記 上』(原本現代語訳、教育社新書、1992)によると、次のような話です。

 木曽義仲の嫡子清水冠者義高(しみずのかじゃよしたか)は、人質として源頼朝に渡されたが、頼朝は長女大姫の婿として扱い、手厚く世話をしていた。(義高十一歳、大姫六歳ぐらいという) しかし義仲を朝敵として討ったうえは、婿だと言ってもその心はわからない、成敗せよと側近の者に言いふくめた。
 これを漏れ聞いた女房どもが大姫に知らせたので、その明くる朝、義高は女の姿をして、女房たちに囲まれて館を抜け出した。そして義高と同年でお付きの者をしていた海野小太郎幸氏が、義高の寝所で寝衣を引きかぶって枕の上に髻(もとどり)だけを出し、遅くまで寝たふりをしていた。小太郎はいつも義高の相手をして双六をして遊んでいたので、起きてからもいつものように双六をしているふりをしていた。
 晩方になってようやくこれを知った頼朝は大いに怒って小太郎をひっとらえ、堀藤次親家以下の軍兵を方々に派遣して、義高を討てと命じた。
 親家は人数を分けて追っ手をかけ、やがて郎党の藤内光澄が武蔵国入間河原で義高に追いつき、首をあげて鎌倉へ帰った。
 このことは隠されていたけれど、漏れ聞いた大姫は、悲しみのあまり魂も消えるばかりになって、重湯も水も飲もうとしない。頼朝も政子も、それも道理とはいえ大いに悲しみいたんで、館中が物音一つたてず静まりかえった。大姫は貞節の心堅く、こののち一生ついに人に嫁すことはなかった。
 政子は深く憤り、頼朝の仰せとは言え、大姫に何のことわりもなく粗忽に討ってしまった男が悪い、そのために大姫も重い病になったと、堀親家の郎党藤内光澄の首を斬り捨てさせた。

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 十一、二歳の少年と六、七歳の女の子の許嫁。お雛様の人形のような二人が、一緒に双六もしたでしょうか。政略で結ばれ、政略で少年は殺され、女の子は心身を病んでしまい、成長してからも他家に嫁そうとせず、頼朝は後鳥羽天皇に入内させようとしたのですが、その前に二十歳で亡くなってしまいました。
 北条政子は、長女大姫をこうして亡くし、次女の乙姫三幡(さんまん))も後鳥羽天皇に入内させようとしているうちに急な病で亡くしています。長男は頼家で、次男は実朝、ですから、公暁は孫でした。尼将軍と呼ばれるほどの権力を握りましたが、子供たちはみんなまともな死に方をしていません。

 知りませんでしたが、大姫というのは長女の姫ということで、乙姫は妹姫のことだそうです。言われてみると、なるほどそうかと思います。竜宮の乙姫には姉がいたんでしょうか。

 大姫の物語で気になるのは、最後に義高を討ち取った郎党が斬られてしまったというところ。これはないだろう、命令どおり討ち取ったんだから褒美をもらって当然、それが奥方の怒りに触れたからといって逆に打ち首、まったく理不尽で、後味が悪い。この郎党の遺族は割り増しの報償をもらうようなことがあったのでしょうか。古い時代のことは結局、よくはわかりません。

 この山から見下ろした風景です。山の向こうが北鎌倉あたりです。

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