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2015年11月 2日 (月)

常楽寺の木曽塚

 常楽寺の裏山に木曽義高の墓があるのですが、いったん山門を出て、お寺の垣根と住宅との間の細い路地を通り、墓地の前を脱けてから山に登るようになっています。境内には木曽義高の墓についての案内は何もないので、知らないとたどりつけません。

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 こんな道です。この山が粟船山(あわふねやま)らしい。

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 この中腹(と言っても小さな山ですが)に、こんな看板がありました。消えかかって読めないところがありますが、古い写真を見ると、「奥 粟船稲荷 手前 姫宮の墓(北条泰時公の娘)」と書かれていたようです。

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 前に、常楽寺には頼朝の娘大姫の墓とその婿である木曽義高の首塚がある、と書きましたが(→海蔵寺の水)、ここにあるのは北条泰時の娘の墓でした。これが大姫の墓だという説もあるようですが、当のお寺がはっきり違うと言っているわけです。
 これが姫宮の墓です。どうもぱっとしません。これが大姫の墓だとすると、ちょっとかわいそうなくらいです。

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 粟船稲荷です。姫宮の墓と同じようなつくりで、前に小さな白色と金色の狐の置物が置いてあります。お稲荷さんも、ちょっと期待とちがいました。

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 木曽義高の塚はちゃんと山頂にありました。前が墓碑で後ろの木の根元に卒塔婆が立っているところが首塚のようです。

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 墓碑には「木曽清水冠者義高公之墓」とあります。
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 ちょっと離れたところには、こんな史跡碑もあります。これは鎌倉町青年団ではなくて、鎌倉同人会が大正15年に建てたものです。

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義高ハ義仲ノ長子ナリ 義仲嘗テ頼朝ノ怨ヲ招キテ兵ヲ受ケ将ニ戦ニ及バントス 義高質トシテ鎌倉ニ至リ和漸ク成ル 爾来頼朝ノ養フ所トナリ其女ヲ得テ妻トナス 後義仲ノ粟津ニ誅セラルルニ及ビ遁レテ入間河原ニ至リ捕ヘラレテ斬ラル
塚ハ元此地ノ西南約二町木曾免トイフ田間ニ在リシヲ延寶年中此ニ移ストイフ  旭将軍ガ痛烈ニシテ豪快ナル短キ生涯ノ餘韻ヲ傳ヘテ数奇ノ運命ニ弄バレシ彼ノ薄命ノ公子ガ首級ハ此ノ地ニ於テ永キ眠ヲ結ベルナリ
 大正十五年一月 鎌倉同人會 建

 大姫のことは何も書かれていません。これを建てるときも、ここに大姫の墓があるとは思われていなかったのでしょう。
 大姫と木曽義高の物語、前にもちょっと書きましたが(→海蔵寺の水)、『北条九代記 上』(原本現代語訳、教育社新書、1992)によると、次のような話です。

 木曽義仲の嫡子清水冠者義高(しみずのかじゃよしたか)は、人質として源頼朝に渡されたが、頼朝は長女大姫の婿として扱い、手厚く世話をしていた。(義高十一歳、大姫六歳ぐらいという) しかし義仲を朝敵として討ったうえは、婿だと言ってもその心はわからない、成敗せよと側近の者に言いふくめた。
 これを漏れ聞いた女房どもが大姫に知らせたので、その明くる朝、義高は女の姿をして、女房たちに囲まれて館を抜け出した。そして義高と同年でお付きの者をしていた海野小太郎幸氏が、義高の寝所で寝衣を引きかぶって枕の上に髻(もとどり)だけを出し、遅くまで寝たふりをしていた。小太郎はいつも義高の相手をして双六をして遊んでいたので、起きてからもいつものように双六をしているふりをしていた。
 晩方になってようやくこれを知った頼朝は大いに怒って小太郎をひっとらえ、堀藤次親家以下の軍兵を方々に派遣して、義高を討てと命じた。
 親家は人数を分けて追っ手をかけ、やがて郎党の藤内光澄が武蔵国入間河原で義高に追いつき、首をあげて鎌倉へ帰った。
 このことは隠されていたけれど、漏れ聞いた大姫は、悲しみのあまり魂も消えるばかりになって、重湯も水も飲もうとしない。頼朝も政子も、それも道理とはいえ大いに悲しみいたんで、館中が物音一つたてず静まりかえった。大姫は貞節の心堅く、こののち一生ついに人に嫁すことはなかった。
 政子は深く憤り、頼朝の仰せとは言え、大姫に何のことわりもなく粗忽に討ってしまった男が悪い、そのために大姫も重い病になったと、堀親家の郎党藤内光澄の首を斬り捨てさせた。

Photo
 十一、二歳の少年と六、七歳の女の子の許嫁。お雛様の人形のような二人が、一緒に双六もしたでしょうか。政略で結ばれ、政略で少年は殺され、女の子は心身を病んでしまい、成長してからも他家に嫁そうとせず、頼朝は後鳥羽天皇に入内させようとしたのですが、その前に二十歳で亡くなってしまいました。
 北条政子は、長女大姫をこうして亡くし、次女の乙姫三幡(さんまん))も後鳥羽天皇に入内させようとしているうちに急な病で亡くしています。長男は頼家で、次男は実朝、ですから、公暁は孫でした。尼将軍と呼ばれるほどの権力を握りましたが、子供たちはみんなまともな死に方をしていません。

 知りませんでしたが、大姫というのは長女の姫ということで、乙姫は妹姫のことだそうです。言われてみると、なるほどそうかと思います。竜宮の乙姫には姉がいたんでしょうか。

 大姫の物語で気になるのは、最後に義高を討ち取った郎党が斬られてしまったというところ。これはないだろう、命令どおり討ち取ったんだから褒美をもらって当然、それが奥方の怒りに触れたからといって逆に打ち首、まったく理不尽で、後味が悪い。この郎党の遺族は割り増しの報償をもらうようなことがあったのでしょうか。古い時代のことは結局、よくはわかりません。

 この山から見下ろした風景です。山の向こうが北鎌倉あたりです。

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