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2015年12月

2015年12月28日 (月)

守城の人・『ある明治人の記録』

 柴五郎については、中公新書に『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』(石光真人(いしみつ・まひと)編著、1971、中央公論社)という本もある。

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 柴五郎の少年時代の自筆回顧録を、石光真人が編集し、第二部として解説をつけたものである。回顧録は西南戦争の翌年で終わっている。著者は、柴五郎が少尉時代に自宅に預かって幼年学校受験の面倒を見た石光真清(いしみつ・まきよ)注1の子供である。
 写真の本は2013年刊の54版であるため、この年の大河ドラマ「八重の桜」にあやかろうと帯に「新島八重」の文字が大きい。同時代の会津の人間ではあるが、実はこの本には八重は出てこない。
 『守城の人』には一言だけ出てくる(p251)。大阪鎮台山砲第四大隊に着任するとき、五郎は京都へ行って八重の兄、山本覚馬の家に泊まっている。山本家は叔母の家の隣で、よく知った仲だったというから、柴五郎と八重も面識はあったのだろう。

 読んでみると、柴五郎が少年時代になめた辛酸が詳しく描かれ、これも胸をうつ。文語文で書かれているので、時代と悲憤慷慨を余計強く感じる。
 例えば母たちが、事情のわからぬ五郎を家から逃がしたときのことをこう回顧している。

 これが永遠の別離とは露知らず、門前に送り出たる祖母、母に一礼して、いそいそと立ち去りたり。ああ思わざりき、祖母、母、姉妹、これが今生の別れなりと知りて余を送りしとは。この日までひそかに相語らいて、男子は一人なりと生きながらえ、柴家を相続せしめ、藩の汚名を天下に雪ぐべきなりとし、戦闘に役立たぬ婦女子はいたずらに兵糧を浪費すべからずと籠城を拒み、敵侵入とともに自害して辱めを受けざることを約しありしなり。わずか七歳の幼き妹まで懐剣を持ちて自害の時を待ちおりしとは、いかに余が幼かりしとはいえ不敏にして知らず。まことに慚愧に堪えず、思いおこしてくるしきことかぎりなし。(p24)

 54版も出ているくらいで、アマゾンのカスタマーレビューでも名著だと評判が高い。
 ところが『守城の人』のあとがきに村上兵衛は、「『ある明治人の記録』(石光真人編)もすでに出版されているが、潤色がある。私はそれに拠らなかった。」(p654)と書いている。どのへんが潤色だとは書いてない。
 さらに私の愛読する高島俊男は『本と中国と日本人と』(2004、ちくま文庫)に、こんなことを書いている。

 柴五郎自身が明治十年までの経歴を書いた自伝がある。石光真人という新聞記者あがりがこれを勝手に削ったり書き改めたりして愚劣なあとがきをつけたものが、『ある明治人の記録』と題して中公新書から出ている。読むと石光の愚かと無礼とに腹が立ってくるから読まないほうがいい。石光は二十年前に死んだが柴五郎自筆原稿は残っているはずだ。どこか良心的な出版社がいっさい手を加えない原本通りのものを出してくれぬものか。(95・9) (p309)

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 ほとんどトンデモ本扱いだ。「愚劣なあとがき」と言っているのは、第二部の石光による解説で、毛沢東を評価するなど、ちょっと左翼がかったところが高島の気に入らないのだろうと理解できる。
 しかし自伝の部分は、原本があるわけではないから、どこがどういけないのかよくわからない。けっこう感心して読んだだけに、高島俊男を尊敬し、書くものは信用できると思っているわたしとしては、困ってしまう。

 ひとつだけ気がついたのは、前の「守城の人・会津人柴五郎」で取り上げた、犬の死体を食べるところ。『守城の人』では、二週間食べ続けたら、もう喉を通らなくなって五郎が飲み込むのに苦労していたら、食べろと言っていた父もさすがに苦笑して許してくれたことになっている。
 しかし『ある明治人の記録』では、飲み込めないでいる五郎に、父は強く叱責している。

「武士の子たることを忘れしか。戦場にありて兵糧なければ、犬猫なりともこれを喰らいて戦うものぞ。ことに今回は賊軍に追われて辺地にきたれるなり。会津の武士ども餓死して果てたるよと、薩長の下郎どもに笑わるるは、のちの世までの恥辱なり。ここは戦場なるぞ、会津の国辱雪ぐまでは戦場なるぞ」(p64)

 これで五郎は目をつむって一気に飲み込んだことになっている。この言葉にはかなり感動したのだが、ひょっとしてこのあたりが潤色なのだろうか。
 そう思ってぱらぱらめくって見るとこんなところもあった。
 会津落城後、藩士たちは俘虜として東京へ送られることになった。『ある明治人の記録』では、薩長にさらし者にされるのではないかと行きたがらない五郎を、兄太一郎は叱責した。

「薩長の下郎どもが何をなすかを見とどけよ、もし辱めを受くれば、江戸にても何処にても斬り死、腹掻っさば会津魂を見せてくれようぞ、今より気弱になりていかがいたすか、万事これよりなるぞ」(p46)

 『守城の人』にはこの挿話はない。このあたりの薩長に対する過激な言動が、潤色あるいは書き改めにあたるのだろうか。全体的に『ある明治人の記録』の方が激越に語られていることはたしかだ。この悲憤慷慨が過剰であり、柴本来のものではないということだろうか。
  『守城の人』と『ある明治人の記録』をつきあわせながらもう一度読むべきところだが、今の段階ではわたしにはわからない。どなたかおわかりの方がいらっしゃったら、ご教示ください。

注1:石光真清は、最終階級は少佐で、シベリアや満州で対ロシアの諜報活動に従事した。石光真人が遺稿を編集した『石光真清の手記』全四冊(1978~79、中公文庫、単行本は1958~59、龍星閣)がある。NHKBSで1998年、ドラマ化された。(これもまだ読んでない。)

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(守城の人、おわり)

 「窮々自適」は、これで今年の仕事納めとし、1月1日に新年の御挨拶、1月4日(月)仕事始めで、また月木の週二回で行こうと思っています。みなさん良い年をお迎えください。

 

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2015年12月24日 (木)

守城の人・会津人柴五郎

 北京籠城の話が長くなったが、『守城の人』を読んで、もっとも驚き胸をうつのは、明治維新の会津落城以後、藩士の子弟として辛酸をなめた柴五郎の少年時代である。

 戊辰戦争のとき五郎は十歳だった。父と上の兄三人は戦いに加わっていた。いよいよ官軍が会津若松へ攻めて来たとき、五郎はよくわからぬまま郊外の大叔父の家へ茸取りに行かされた。十七歳の四兄の四朗は病気で家で寝ていたところ、母に「武士の子じゃ、お城に行きなされ」と、白虎隊に加わるべく城へ向かわされた。
 その後、祖母、母、兄嫁、姉、妹の五人は、籠城に加わって足手まといになることも、敵の辱めを受けることもないようにと、そろって自刃した。他の多くの家でも女性たちが自刃した。凄まじい話である。五郎は男の子だったから、家を残すあるいは仇を討つために、だまして逃がしたというわけだ。当時の武士の家の心構えとはいえ、十歳の子供には過激で苛酷だ。
 兄の四朗は、結局城内へ入ることができず、降人となって官軍にとらわれて生き延びた。白虎隊は、十六、七歳の若者で編成された。十八歳以上が朱雀隊、三十六歳以上が青龍隊、五十歳以上が玄武隊だった。
 四朗は、のち東海散士の名で『佳人之奇遇』などの政治小説を書き、福島県選出の衆議院議員になった。

 敗戦後、会津藩は六十七万石から下北半島の三万石の土地に移封され、斗南藩(となみはん)と名付けられた。実際に移住するまで会津藩の人々は、そこが火山灰地の極貧の痩地で、過酷な生活が待っていることを知らなかった。
 柴家は斗南で開拓に従事し、飢寒地獄の中、五郎も家事を手伝った。冬の夜の戸外では零下二十度、屋内の囲炉裏端でさえ零下十度だった。「おしめ」という、昆布やワカメなどの海藻を乾して砕いた、くさい木屑のような救荒食料を入れた薄いお粥ばかり食べていた。あるときは死んだ犬を半分もらってきて、父子二人で毎日主食代わりに二週間食べ続けた。醤油もなく塩で煮ただけだったので、しまいには喉を通らなくなった。
 藩政府の大参事だった山川大蔵(おおくら)は、まちの豆腐屋と特約して、おからをほとんど買い取り、毎度の主食がわりにしていたら、大勢の藩士たちが押しかけてきて、そののような権力を笠に着た贅沢な振舞いはけしからぬと糾弾された。藩の中枢がおからで糾弾、である。

 やがて五郎は青森県の給仕の職を得て斗南を離れることができた。さらに東京へ出て、下僕のような仕事をしながら、陸軍幼年学校を受験して合格したところからようやく立身が始まる。
 入学当初は、それまで勉強らしい勉強をしてこなかったので劣等生だったが、懸命に勉強して次第に成績は上昇した。当時の陸軍幼年学校は、授業はすべてフランス語で、フランスの地理、歴史、数学などを教えられた。しかし卒業するまでには国文や漢文の授業も加わり、日本語で数学を教えるなど次々に教育方針が変わっていった。あらゆる制度がめまぐるしく変わっていく時代だった。

 明治十年、西南の役が起こったとき、五郎は幼年学校の最上級生だった。日記に「芋征伐仰セ出サレタリト聞ク。メデタシ」と書いた。芋とは当然「薩摩芋」である。
  旧会津・東北諸藩の藩士たちの多くは征西軍に加わるべく東京へやってきた。会津藩士たちの薩摩への恨みは深かった。
 四朗からは「今日、薩人に一矢を放たざれば、地下に対して面目なしと考え、いよいよ本日、征西軍に従うため出発す。」という手紙が届いた。四朗は見習士官心得待遇で出征した。長男の太一郎も手蔓を求めて警視庁の警部補になって鹿児島へ向かった。

 その後、五郎は陸軍士官学校の砲兵科に進み、卒業後、日清戦争に出征などの経歴を経て、義和団事件当時は北京公使館付きの駐在武官だったというわけである。日露戦争にも第二軍の野戦砲兵第十五連隊長として出征した。
 村上兵衛によれば、「長の陸軍、薩の海軍」という藩閥があって、五郎の人事にもそれらしい影響があったが、五郎は「会津出身なるが故に、陸軍において差別された覚えは一度もない」と言った。明治期はまだ実力主義の空気があった。五郎は陸軍大将にまで昇任し、台湾軍司令官、軍事参議官を経て大正11年現役を終えた。

 功成り名遂げた五郎は、しかし大日本帝国の敗戦も経験しなければならなかった。昭和二十年、数え年で八十七歳だった。九月に一人で切腹しようとしたが、すでに年老いて力足らず未遂に終わった。このときの傷がもとだったのかどうか、十二月に亡くなった。

 まことに波瀾万丈、驚きの生涯である。これを村上兵衛は、数多くの資料を参考にしながら、激することなく、坦坦とわかりやすく書いている。単行本で六百五十五頁、堪能した。

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2015年12月21日 (月)

守城の人・北京籠城

  平凡社の『北京篭城―付北京篭城回顧録 (東洋文庫 (53))』には、柴五郎自身の講演記録も収められているが、これはまだ読んでいない。

 『守城の人』の著者村上兵衛は陸軍幼年学校、士官学校の卒業生であり軍事には詳しい。北京籠城の間の攻防はていねいに記述されている。
 村上によれば、最初に指揮官になったオーストリーの中佐は、真っ先に退却したりと役に立たなかったので、もと軍人であるイギリス公使マグドナルドが総指揮官になった。自己を誇示することのない柴中佐は、はじめは目立たない存在だったが、事態が進展するにつれ、その的確な判断や指揮能力に注目が集まり、規律のとれた日本軍の評価も高まった。イギリスの作家ピーター・フレミングの、当時の関係者の日記などをまとめた『北京籠城』という本には、こうあるという。

  「戦略上の最重要地である王府では、日本兵が守備のバックボーンであり、頭脳であった。日本を補佐したのは頼りにならないイタリア兵で、日本を補強したのはイギリス義勇兵だった。
 日本軍を指揮した柴中佐は、籠城中のどの士官よりも勇敢で経験もゆたかであったばかりか、誰からも好かれ、尊敬された。
 当時、日本人とつきあう欧米人はほとんどいなかったが、この籠城をつうじてそれが変わった。日本人の姿が模範生として、みなの目に映るようになった。
 日本人の勇気、信頼性、そして明朗さは、籠城者一同の賞賛の的となった。籠城に関する数多い記録の中で、直接的にも間接的にも、一言の非難も浴びていないのは、日本人だけである。」(『守城の人』p500)

 ピーター・フレミングは、「007シリーズ」のイアン・フレミングの兄で、ブラジル紀行など旅行作家として有名だそうだ。知らなかった。
 また一般居留民として籠城したアメリカ人女性ポリー・スミスはこう書いているという。

「柴中佐は小柄な素晴らしい人です。彼が交民巷で現在の地位を占めるようになったのは、一に彼の知力と実行力によるものです。
 最初の会議では、各国公使も守備隊指揮官も、別に柴中佐の見解を求めようとはしませんでした。でも、今ではすべてが変わりました。 
 柴中佐は、王府での絶え間ない激戦でつねに快腕をふるい、偉大な士官であることを実証しました。だから今では、すべての指揮官が、柴中佐の見解と支援を求めるようになったのです。」(『守城の人』p500)

 柴中佐は、フランス語、英語に堪能で連合国の軍民と意志を通じ、また中国語もできて北京の地理風俗に詳しかった。控えめな性格ながら、籠城戦の中でその指揮官としての能力を発揮し、次第に列国の公使や将校、居留民たちに強く信頼される存在になった。
 加えて日本軍の兵士たちは、勇敢に戦ったばかりではなく、非常に規律正しく、明るく、また深傷(ふかで)を負ってもヨーロッパの兵士のように泣きわめいたりせず、がまん強く耐えた。
 このことについて、村上はこう書いている。

 このころの日本人たちは――士官も、インテリの義勇兵も、農民や職人あがりの兵士たちも、なぜこのように勇敢で、沈着で、しかも明るかったか、うまく説明はできない。
 国民性といっても、こういう外面的な所作や反応は、時代とともに変わりやすい。
 明治人――といっても、幕末から明治初期に生まれ育った日本人には、こういう立居振舞を当然と心得る気風が、全体にあったようである。
 サムライの栄光は、すでに過去のものであった。しかし、まさに死滅した武士のモラルの残光が彼らを照らし、彼らの行動の模範となっていた。(『守城の人』p530)

 救援連合軍が北京へ入場したときも、ロシアをはじめ列国軍による略奪が盛大に行われた。当時の欧米兵には略奪強姦は戦争の余録であった。しかし規律の厳しい日本軍は、部隊として敵の官衙の金品や米倉を差し押さえはしたけれど、個人的な略奪は行わなかった。
 西太后で有名な頤和園(いわえん)も、はじめ日本軍騎兵第五連隊が占領し、豪華な装飾品や宝石などには手を触れることなく守っていた。数日後ロシア軍が屏を乗り越えて侵入して大々的な略奪をはじめ、中にいすわってしまった。小部隊では制止できず、師団司令部に報告したが、司令部としては連合軍どうしで事を構えるわけにもいかず、日本軍は黙々と撤収した。(頤和園へは行ったことがある。→北京塵天2 頤和園
 ドイツ軍による略奪も相当なものだったし、イギリス公使館の一室には略奪品の競売場がひらかれたという。

 籠城戦後、柴中佐は、イギリスの武功勲章をはじめ各国から勲章を授与されて「コロネル・シバ」として広く知られ、日本軍及び日本に対する評価も高まった。
 このことがその後の「日英同盟」の背景となっている。イギリスのマグドナルド公使は、その後駐日大使となり、1902年、1905年、1911年の日英同盟の交渉すべてに東京で立ち会った。日英同盟なしに、日本は日露戦争を戦うことはできなかった。

 これらの柴五郎や日本軍の兵隊たちは、そのまま司馬遼太郎の『坂の上の雲』の世界の住人である。実際に柴五郎は、『坂の上の雲』の主人公秋山好古とは陸軍士官学校の同期生だった。まことに小さな国が、開化期をむかえ、欧米列強に追いつくために、律儀に国際法を遵守し、あなどられないために武士の作法を自らの作法として戦闘にも立ち向かった。雄々しくあり、また、けなげでもあった。
 こう書くと、最近の、なんでも日本は素晴らしい、日本人は凄い、というテレビ番組みたいになって、ちょっと恥ずかしくもある。この時代のこの人々が素晴らしかったからといって、いつでもどこでも日本人が素晴らしいわけではない。

 最近の「日本人はスゴイ」ブームについては、朝日新聞に載っていた山科けいすけのマンガを紹介しておく。(2015.8.22 土曜版)

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2015年12月17日 (木)

守城の人・北京の55日

 ずっと読もうと思いながらそのままになっていた村上兵衛の『守城の人 ―明治人 柴五郎大将の生涯』(1992、光人社)を最近ようやく読んだ。
 期待に違わずおもしろい本だった。帯にはこうある。

その生涯に二度「敗戦」の悲哀を味わった風雲児柴五郎――十歳のとき会津落城を、そして八十八歳のとき陸軍の最長老として大日本帝国の敗北を…。政治小説『佳人の奇遇』で文名を謳われた柴四朗を兄に持ち、「北京籠城」戦によってその名を世界にとどろかせ、賊軍の出ながら大将にまで昇りつめた男の波瀾万丈の足跡を辿る。

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 「守城」とは、北清事変義和団の乱での北京籠城のことである。
 日清戦争で日本に敗れた清国には欧米列強の進出が続いた。山東省の農民の間に起こった秘密結社義和団は「扶清滅洋」をスローガンに、各地で外国人やキリスト教会を襲った。1900年には北京の列国大公使館区域を包囲攻撃し、清国もこれに乗じて各国に宣戦布告した。日・露・英・米・仏・独・伊・墺の八カ国はこれに対し共同出兵し、連合軍は北京を占領、清朝は降伏して義和団も鎮圧された。
 救援軍がやってくるまで55日間の「北京籠城戦」で、列国連合軍の軍事指揮者的役割を果たしたのが日本の北京公使館付武官柴五郎中佐だった。

 ここまでの話で映画「北京の55日」を思い出す人は、わたしと同じ世代以上の人だろう。1963年(昭和38)公開、大きな画面の「70ミリ超大作」が流行していた頃で、わたしは高校一年生だった。

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 この映画を見なかった人も(わたしもそうだ)主題歌は覚えているのではないか。もとの英語盤はブラザース・フォアで、これもヒットしたが、日本語版を歌っていたのは、あの克美しげるだった。「あの」という話は、ここではしない。
 同じ頃の映画『大脱走』とか『史上最大の作戦』の主題歌にもみんな日本語の訳詞があって、テレビのヒット・パレード番組でよく歌われていた。この頃は西洋の流行歌でも日本語に訳して歌うことがごく普通に行われていたのだ。(こんなこともちゃんと書いておかないと、最近の若者には当時の状況がよくわからない時代になってしまった。)

 YouTube:ブラザース・フォアの歌
 https://www.youtube.com/watch?v=6Dio9zhx5tY
 YouTube:克美しげるの歌
 https://www.youtube.com/watch?v=KGuRXYW_4PQ

 「北京の55日」の歌詞はこういうものだった。

  時は一千九百年 55日の北京城
  肉弾相撃つ 義和団事件
  ……………………
  フランス イギリス イタリア ロシア
  更に加えて 精鋭日本
  華の北京 今や死の街

 この歌のおかげ義和団事件の年号を忘れることはない。「更に加えて精鋭日本」というのは、当時、何か誇らしいような気がしものだ。

 『守城の人』を読んでから、レンタルDVDを借りてきて『北京の55日』を観てみると、これがちょっとひどい。
 まず第一に史実がいいかげんだ。チャールトン・ヘストン演じるアメリカ海兵隊の少佐が主人公で、アメリカ・イギリスが中心になって義和団と清軍を撃退したことになっている。それも夜陰に乗じて城を抜け出して敵の弾薬庫を爆破しに行ったり、ロシアの男爵夫人と恋をしたりとあれこれ大活躍で、ほとんど北京が舞台の西部劇みたいになっている。
 第二に、中国人に対する偏見というか差別というか、まともな人間が相手とは考えられていない。西太后ら清国政府の要人はみんな怪しげな人物ばかりで、義和団は人海戦術でひたすら攻めてくるばかり。列強に侵略される側への一片の同情も考慮もない。昔の西部劇のインディアン扱いだ。

 柴五郎中佐伊丹十三(当時は伊丹一三だった)が演じているが、ほんのチョイ役でしかない。籠城戦に重要な役割を果たした話はどこにもない。日本軍の兵士が敬礼のあと、お辞儀をしあうシーンがあって、ちょっと滑稽だった。日本のこともろくにわかっていないのだ。
 今見ると、こんな映画を、アメリカ最新の70ミリ超大作、歴史活劇だとわれわれは有り難がっていたのかと思ってしまう。もし公開当時見ていたら、「大画面の戦闘シーンが凄かった」とかなんとか感心していたにちがいないと思われるのが、ちょっと口惜しい。

 伊丹も伊丹だ、全体の構成は西部劇で仕方がないとしても、日本の兵隊は敬礼の後お辞儀なんかしないということくらい、なぜ監督に言わなかったのか。
 こんなことを考えてしまうのは、わたしは高校生の頃、伊丹の『ヨーロッパ退屈日記』を読んで、ころりとまいった口だからだ。
 これは2005年刊の新潮文庫。もとは新書の「ポケット文春」の一冊だった。

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 この本には「北京の55日」出演中のエピソードも書かれている。主演のチャールトン・ヘストンとの会話などいろいろ出てくる。「ニックとチャック」という章もあって、ニックは監督のニコラス・レイ、チャックはチャールトン・ヘストンである。だから一介の助演俳優にすぎなくても、それくらいのことはニックに言えたのでは、と思ったのだ。
 それに外国人に切腹の作法を一席ぶって感心させる、という話もあった。これは面白いから少し引用しておこう。

 あのねえ、ハラキリっていうけどねえ、腹を切って即死するわけじゃないんだぜ。ハラキリには介錯人というのがいてね、その男が切腹した男の首を斬るわけなんだ。
 だがね、斬るといっても、斬り落とすわけではないよ。皮一枚残して首が銅につながっていなくちゃならない。
 そのためには、首に四分の三くらい斬り込んで、あと刀をスッと手前に引く、引きながら斬っていって、適当なところでとめるわけなんだな。

(中略:ハラキリについての蘊蓄がさらにあれこれ続いて、最後に)

 君らが一口にハラキリというけど、ハラキリとはこういうものなんだ。

 まあ大体これで一座はシンとしちゃうね。あと何かの機会に、その時の聴き手の前で、他の人間がハラキリの話を持ち出せば、彼が滔々として受け売りをしてくれるから、わたくしとしては、おれはハラキリなんか毎年やってるんだ、という顔で静かに微笑していればよいのだ。(p92~95)

 物を知らない高校生は、これで切腹の作法を学ぶとともに、自分も外国人にハラキリの講釈をたれて、ハラキリなんか毎年やってるんだという顔をしてみたい、と憧れた。
 それはともかく、こんな箇所があるくらいだから、日本軍兵士の敬礼の仕方についても一言あってしかるべき、と思ったのだった。

 自動車の「ジャガー」は「ジャギュア」と言え、音をたてずにスパゲッティを食べるにはフォークでこう巻け、ダンヒルのライターに麗々しくイニシャルを彫り込むようなヤツはミドル・クラスだ! そういうことをわたしはこの本から教わった。伊丹は、キザで、細部にこだわり、そのうえ何事によらずきちんと筋をとおす人間のように思われ、格好よかった。

 下記は、「ニックとチャック」の章(p36)。北京城のオープンセットのイラストも伊丹十三が描いたもの。多才な人だった。

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 話がずいぶんそれてしまった。

 

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2015年12月14日 (月)

港南台の秋

 紅葉の季節です。京都には行けそうもないので、とりあえず自分の住んでいる港南台の景色を撮ってみました。

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 これで背景に古い寺や五重塔でもあればいいのですが…

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 この池は強風の明くる日、こんなになりました。

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 やっぱり背景は団地より古寺がいい。

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 団地の池でも、先日はこんな鳥がやってきました。

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 アオサギのようです。この池ではカワセミを見たこともあります。

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 街路樹は、もっときれいだったような気がします。そろそろ終わりでしょう。

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 12月のはじめは晴れた日が続き、富士山がよく見えました。

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 これは別の日にビルの7階から。

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2015年12月10日 (木)

称名寺

 県立金沢文庫一遍聖絵を見た後、隣の称名寺(しょうみょうじ)へも行ってきました。
  これが惣門赤門と呼ばれています。

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 中へ入ると参道の途中に光明院(こうみょういん)表門があります。称名寺の塔頭のひとつの門だけが残っているようです。

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 横から見ると、ちょっとかわいそうです。

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 仁王門です。

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 仁王門を入ると広い浄土式庭園があります。けっこう大きな池に赤い反橋(そりばし)、平橋(ひらばし)が特徴的です。

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 反橋を渡って平橋の向こうが金堂です。

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 これが金堂

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 金堂の隣に釈迦堂があります。

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 鐘楼です。

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 派手な紅葉はありませんが、境内はすっかり秋の色です。

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 裏山には金沢文庫をつくった北条実時御廟などがあって、称名寺市民の森になっています。この日は展覧会を見た後で夕刻がせまってきたので、登らないで帰りました。

 

 

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2015年12月 7日 (月)

金沢文庫で一遍聖絵

 遊行寺へ行った次の日(11月29日)、神奈川県立金沢文庫へ「国宝一遍聖絵」を見に行きました。

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 現在、金沢文庫(かなざわぶんこ)と言えば京浜急行の駅名か、駅のあたりの地名ということになっています。 前にわたしが京成電鉄の千葉寺駅近くで「千葉寺はどこですか」と聞いたら千葉寺駅を教えられたように、ここでも「金沢文庫はどこですか」と聞いたら、まず駅の方を教えられるでしょう。
 鎌倉時代このあたりを領していた北条氏の一族(金沢流(かねさわりゅう)北条氏)の北条実時(さねとき、金沢実時ともいう)が、この地に引退後、蔵書を集めてつくった文庫=私設図書館が金沢文庫の起源です。隣にある称名寺(しょうみょうじ)も金沢北条氏が建てたお寺です。当時このあたりは六浦荘(むつらしょう)と呼ばれ、鎌倉の外港として栄えていました。
 北条氏の滅亡後、文庫は称名寺が管理しましたが、次第に衰退して蔵書も散逸しました。しかし明治になってから復興され、現在は「神奈川県立金沢文庫」として、鎌倉時代を中心とした歴史博物館になっています。

 金沢文庫駅から近道を行くとこちらの入口に出ます。

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 この裏側が称名寺で、称名寺の境内から入ることもできます。その場合、こんなトンネルを入ります。

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 これが称名寺側の入口です。

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 金沢文庫のチケットは第三巻第一段、熊野山中で一人の僧に出会う場面です。実はこの僧は熊野権現の化身で、この出会いが一遍の念仏流布の信念を確固にしたということです。

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 これで「一遍聖絵」は全部見たことになります。上野の国立博物館でも「一遍と歩く 一遍聖絵にみる聖地と信仰」という特集をやっていて、それで「一遍と歩こう」スタンプラリーは完結するのですが、ちょっと期限までに行かれそうにありません。

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 お寺を見ても展覧会を見ても、わたしはいつも、信仰とか芸術とかの対象の本質とは関係ないところでおもしろがってしまうのですが、今回もそうでした。

 まずわたしが一遍聖絵を見て感じたのは、これは「ドラゴンクエスト」だということです。旅の一行が、宝を求めて諸国を遍歴し、いろんな経験を積みながら次第に成長してゴールにたどりつきます。
 これが一遍の一行で、先頭が一遍、娘の超二房(ちょうにぼう)、妻の超一房(ちょういちぼう)、下女の念仏房(ねんぶつぼう)と続きます。(第二巻第二段)

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 坊主が諸国修行に行くのに家族連れとはどうなっているのかと思いましたが、一遍は父が死んだとき一度還俗して結婚していたのです。再度出家し、一念発起して旅に出るときには、奥さんも出家していて、後をついてきたという話らしい。最後まで一緒ではなかったようですが、ともかくこんなふうに弟子もふくめて旅する一行の絵から、わたしの頭に浮かんだのはドラゴンクエストでした。巻物をたどっていくのがゲーム画面をスクロールしていく感じと重なります。(第五巻第四段)

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 敵もあらわれます。これは神奈川県立歴史博物館でも紹介した、武士に脅されているところ。(第四巻三段)

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 鎌倉では、一行が鎌倉へ入ることを拒否されました。(第五巻第五段)

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 そして上のチケットの絵で見たように、山中で賢人と出会って知恵を授けられたりもしながら、最後には大往生にいたります。この絵巻が、冒険の旅に出て、数々の困難を克服しながら、永遠の真理に到達するという物語であることは間違いありません。

 もう一点感じたのは、ひょっとすると踊り念仏は「EXILE(エグザイル)」ではなかったか、ということです。「AKB48」でもよろしい。ともかく絵を見てください。
 これが踊り念仏の始まりとされる場面で、信州小田切の里で、一遍が踊り出すと他の僧も俗人も一緒に踊り出したところです。(第四巻五段)

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 それがやがて、舞台の上で僧たちが集団で踊るようになります。鉦鼓(しょうこ)というカネや太鼓をたたきながら、念仏を称えて踊り、それを観客たちが見ています。(第六巻第一段)
 エグザイルというのは、男が団体で歌って踊るというもので、最近の言葉ではダンス&ボーカルユニットというらしい。わたしはよく知りませんが、すごい人気があるようです。踊る念仏だって、団体で念仏を称えて踊るんだから、ダンス&ボーカルユニットだ。

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 どうでしょう、EXILE(エグザイル)の舞台をみんなが見ているような感じがしませんか。これは池の中の舞台です。(第七巻第一段)

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 興行としてやっているように見えるし、これから劇場が興ったという説もあるようです。(第七巻第三段)

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(第十一巻第一段)

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 こうなると踊り念仏の本物を見たくなります。ネットで調べると、現在も時宗のお寺では行っているところがあるようです。
 遊行寺の踊り念仏も、YouTube にいくつか挙げられていました。https://www.youtube.com/watch?v=F9YT2yZEE4U

 しかしこれを見る限り、残念ながらEXILE(エグザイル)のような迫力はありません。どちらかというと盆踊りです。一遍聖絵=ドラクエ説はともかく、踊り念仏=EXILE(エグザイル)説はちょっと無理かもしれません。

 ということで「一遍聖絵」、なかなかおもしろかったので、図録を買いました。

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 詞書(ことばがき)も全部載っているので、そのうちゆっくり読んでみようと思っています。

 

 

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2015年12月 3日 (木)

藤沢の遊行寺

 11月28日は藤沢へ行く用があったので、ついでに遊行寺(ゆぎょうじ)へ行って「国宝一遍聖絵」を見てきました。

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 これが惣門で通称「黒門」と呼ばれているそうです。

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 門に掲げられているとおり、時宗の総本山で、正式名は藤澤山無量光院清浄光寺(とうたくさんむりょうこういんしょうじょうこうじ)」と言うそうです。遊行上人のおわす寺ということから「遊行寺」と俗称され、そちらの方がずっと有名です。
 総本山ですから敷地も広い。境内に隣接して、遊行寺が経営している藤嶺学園(とうれいがくえん)の中学高校があって、生徒たちが三々五々通り抜けて行きました。
 参道の坂は意石段が四十八あるので「いろは坂」と言うそうですが、ゆるくて長いので段差をほとんど意識しませんでした。

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 参道の奥には大きな銀杏があって、鮮やかに黄葉していました。
 きれいに晴れ渡った日で、藤沢駅前のビルからは富士山がきれいに見えました。

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 本堂の右手前に一遍上人像があります。

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 これが本堂です。

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 いろんな建物があります。今回は展覧会を見に来たので、ざっと見ただけです。
 中雀門

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 放生池

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 この池は、元禄時代徳川綱吉の「生類憐れみの令」により江戸市中の金魚が集められ、ここに放生されたという由緒があるそうです。そのころ江戸からここまで金魚を死なせないように運ぶのは大変じゃなかったかと心配になります。現在、もう金魚はいないようでした。

 他にわたしが気になったのは、まず小栗判官(おぐりはんがん)と照手姫(てるてひめ)の墓です。小栗判官と照手姫の伝説は浄瑠璃や歌舞伎でも演じられ、いろんなストーリーがあるようなので、勉強しないとよくわかりません。今回は墓の紹介だけしておきます。

 これが小栗判官の墓。 

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 こちらは小栗判官の死後、仏門に入った照手姫が遊行寺内に結んだという草庵が起こりであるという長生院。「小栗堂」という額がかかています。

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 長生院の裏にあったのが照手姫の墓です。

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 もうひとつ気になったのがこれ。板割浅太郎(いたわりのあさたろう)の墓です。

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 最近の若い者は知らないだろうけれど、国定忠治の子分です。浅太郎は、忠次に身の証をたてるために叔父勘助を斬ってしまい、その子勘太郞を赤城山へ連れてきて「赤城の子守歌」という講談や時代劇の名場面になります。この話、実際とはだいぶ違っているようですが、詳しくは勉強しないといけないので、またあらためてということにします。
 ともかくこの墓に脇にある看板によれば、赤城山の後、浅太郎は足を洗って仏門に入り、やがて遊行寺の堂守となり、さらにここにあった貞松院の住職にまでなった。僧名を列成(れつじょう)と言った、ということです。

 「国宝一遍聖絵」展は、この遊行寺宝物館でありました。

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 このチケットの絵は、第十二巻第三段一遍往生の場面です。場所は兵庫の観音堂で、遊行寺ではありません。わたしは、なんとなく遊行寺は一遍が開いたお寺だと思っていたのですが、遊行寺の開山は時宗第四代の吞海上人だそうで、一遍はこの寺と直接の関係はなかったのでした。よく知らないことばかりです。
 

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