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2015年12月24日 (木)

守城の人・会津人柴五郎

 北京籠城の話が長くなったが、『守城の人』を読んで、もっとも驚き胸をうつのは、明治維新の会津落城以後、藩士の子弟として辛酸をなめた柴五郎の少年時代である。

 戊辰戦争のとき五郎は十歳だった。父と上の兄三人は戦いに加わっていた。いよいよ官軍が会津若松へ攻めて来たとき、五郎はよくわからぬまま郊外の大叔父の家へ茸取りに行かされた。十七歳の四兄の四朗は病気で家で寝ていたところ、母に「武士の子じゃ、お城に行きなされ」と、白虎隊に加わるべく城へ向かわされた。
 その後、祖母、母、兄嫁、姉、妹の五人は、籠城に加わって足手まといになることも、敵の辱めを受けることもないようにと、そろって自刃した。他の多くの家でも女性たちが自刃した。凄まじい話である。五郎は男の子だったから、家を残すあるいは仇を討つために、だまして逃がしたというわけだ。当時の武士の家の心構えとはいえ、十歳の子供には過激で苛酷だ。
 兄の四朗は、結局城内へ入ることができず、降人となって官軍にとらわれて生き延びた。白虎隊は、十六、七歳の若者で編成された。十八歳以上が朱雀隊、三十六歳以上が青龍隊、五十歳以上が玄武隊だった。
 四朗は、のち東海散士の名で『佳人之奇遇』などの政治小説を書き、福島県選出の衆議院議員になった。

 敗戦後、会津藩は六十七万石から下北半島の三万石の土地に移封され、斗南藩(となみはん)と名付けられた。実際に移住するまで会津藩の人々は、そこが火山灰地の極貧の痩地で、過酷な生活が待っていることを知らなかった。
 柴家は斗南で開拓に従事し、飢寒地獄の中、五郎も家事を手伝った。冬の夜の戸外では零下二十度、屋内の囲炉裏端でさえ零下十度だった。「おしめ」という、昆布やワカメなどの海藻を乾して砕いた、くさい木屑のような救荒食料を入れた薄いお粥ばかり食べていた。あるときは死んだ犬を半分もらってきて、父子二人で毎日主食代わりに二週間食べ続けた。醤油もなく塩で煮ただけだったので、しまいには喉を通らなくなった。
 藩政府の大参事だった山川大蔵(おおくら)は、まちの豆腐屋と特約して、おからをほとんど買い取り、毎度の主食がわりにしていたら、大勢の藩士たちが押しかけてきて、そののような権力を笠に着た贅沢な振舞いはけしからぬと糾弾された。藩の中枢がおからで糾弾、である。

 やがて五郎は青森県の給仕の職を得て斗南を離れることができた。さらに東京へ出て、下僕のような仕事をしながら、陸軍幼年学校を受験して合格したところからようやく立身が始まる。
 入学当初は、それまで勉強らしい勉強をしてこなかったので劣等生だったが、懸命に勉強して次第に成績は上昇した。当時の陸軍幼年学校は、授業はすべてフランス語で、フランスの地理、歴史、数学などを教えられた。しかし卒業するまでには国文や漢文の授業も加わり、日本語で数学を教えるなど次々に教育方針が変わっていった。あらゆる制度がめまぐるしく変わっていく時代だった。

 明治十年、西南の役が起こったとき、五郎は幼年学校の最上級生だった。日記に「芋征伐仰セ出サレタリト聞ク。メデタシ」と書いた。芋とは当然「薩摩芋」である。
  旧会津・東北諸藩の藩士たちの多くは征西軍に加わるべく東京へやってきた。会津藩士たちの薩摩への恨みは深かった。
 四朗からは「今日、薩人に一矢を放たざれば、地下に対して面目なしと考え、いよいよ本日、征西軍に従うため出発す。」という手紙が届いた。四朗は見習士官心得待遇で出征した。長男の太一郎も手蔓を求めて警視庁の警部補になって鹿児島へ向かった。

 その後、五郎は陸軍士官学校の砲兵科に進み、卒業後、日清戦争に出征などの経歴を経て、義和団事件当時は北京公使館付きの駐在武官だったというわけである。日露戦争にも第二軍の野戦砲兵第十五連隊長として出征した。
 村上兵衛によれば、「長の陸軍、薩の海軍」という藩閥があって、五郎の人事にもそれらしい影響があったが、五郎は「会津出身なるが故に、陸軍において差別された覚えは一度もない」と言った。明治期はまだ実力主義の空気があった。五郎は陸軍大将にまで昇任し、台湾軍司令官、軍事参議官を経て大正11年現役を終えた。

 功成り名遂げた五郎は、しかし大日本帝国の敗戦も経験しなければならなかった。昭和二十年、数え年で八十七歳だった。九月に一人で切腹しようとしたが、すでに年老いて力足らず未遂に終わった。このときの傷がもとだったのかどうか、十二月に亡くなった。

 まことに波瀾万丈、驚きの生涯である。これを村上兵衛は、数多くの資料を参考にしながら、激することなく、坦坦とわかりやすく書いている。単行本で六百五十五頁、堪能した。

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