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2015年12月21日 (月)

守城の人・北京籠城

  平凡社の『北京篭城―付北京篭城回顧録 (東洋文庫 (53))』には、柴五郎自身の講演記録も収められているが、これはまだ読んでいない。

 『守城の人』の著者村上兵衛は陸軍幼年学校、士官学校の卒業生であり軍事には詳しい。北京籠城の間の攻防はていねいに記述されている。
 村上によれば、最初に指揮官になったオーストリーの中佐は、真っ先に退却したりと役に立たなかったので、もと軍人であるイギリス公使マグドナルドが総指揮官になった。自己を誇示することのない柴中佐は、はじめは目立たない存在だったが、事態が進展するにつれ、その的確な判断や指揮能力に注目が集まり、規律のとれた日本軍の評価も高まった。イギリスの作家ピーター・フレミングの、当時の関係者の日記などをまとめた『北京籠城』という本には、こうあるという。

  「戦略上の最重要地である王府では、日本兵が守備のバックボーンであり、頭脳であった。日本を補佐したのは頼りにならないイタリア兵で、日本を補強したのはイギリス義勇兵だった。
 日本軍を指揮した柴中佐は、籠城中のどの士官よりも勇敢で経験もゆたかであったばかりか、誰からも好かれ、尊敬された。
 当時、日本人とつきあう欧米人はほとんどいなかったが、この籠城をつうじてそれが変わった。日本人の姿が模範生として、みなの目に映るようになった。
 日本人の勇気、信頼性、そして明朗さは、籠城者一同の賞賛の的となった。籠城に関する数多い記録の中で、直接的にも間接的にも、一言の非難も浴びていないのは、日本人だけである。」(『守城の人』p500)

 ピーター・フレミングは、「007シリーズ」のイアン・フレミングの兄で、ブラジル紀行など旅行作家として有名だそうだ。知らなかった。
 また一般居留民として籠城したアメリカ人女性ポリー・スミスはこう書いているという。

「柴中佐は小柄な素晴らしい人です。彼が交民巷で現在の地位を占めるようになったのは、一に彼の知力と実行力によるものです。
 最初の会議では、各国公使も守備隊指揮官も、別に柴中佐の見解を求めようとはしませんでした。でも、今ではすべてが変わりました。 
 柴中佐は、王府での絶え間ない激戦でつねに快腕をふるい、偉大な士官であることを実証しました。だから今では、すべての指揮官が、柴中佐の見解と支援を求めるようになったのです。」(『守城の人』p500)

 柴中佐は、フランス語、英語に堪能で連合国の軍民と意志を通じ、また中国語もできて北京の地理風俗に詳しかった。控えめな性格ながら、籠城戦の中でその指揮官としての能力を発揮し、次第に列国の公使や将校、居留民たちに強く信頼される存在になった。
 加えて日本軍の兵士たちは、勇敢に戦ったばかりではなく、非常に規律正しく、明るく、また深傷(ふかで)を負ってもヨーロッパの兵士のように泣きわめいたりせず、がまん強く耐えた。
 このことについて、村上はこう書いている。

 このころの日本人たちは――士官も、インテリの義勇兵も、農民や職人あがりの兵士たちも、なぜこのように勇敢で、沈着で、しかも明るかったか、うまく説明はできない。
 国民性といっても、こういう外面的な所作や反応は、時代とともに変わりやすい。
 明治人――といっても、幕末から明治初期に生まれ育った日本人には、こういう立居振舞を当然と心得る気風が、全体にあったようである。
 サムライの栄光は、すでに過去のものであった。しかし、まさに死滅した武士のモラルの残光が彼らを照らし、彼らの行動の模範となっていた。(『守城の人』p530)

 救援連合軍が北京へ入場したときも、ロシアをはじめ列国軍による略奪が盛大に行われた。当時の欧米兵には略奪強姦は戦争の余録であった。しかし規律の厳しい日本軍は、部隊として敵の官衙の金品や米倉を差し押さえはしたけれど、個人的な略奪は行わなかった。
 西太后で有名な頤和園(いわえん)も、はじめ日本軍騎兵第五連隊が占領し、豪華な装飾品や宝石などには手を触れることなく守っていた。数日後ロシア軍が屏を乗り越えて侵入して大々的な略奪をはじめ、中にいすわってしまった。小部隊では制止できず、師団司令部に報告したが、司令部としては連合軍どうしで事を構えるわけにもいかず、日本軍は黙々と撤収した。(頤和園へは行ったことがある。→北京塵天2 頤和園
 ドイツ軍による略奪も相当なものだったし、イギリス公使館の一室には略奪品の競売場がひらかれたという。

 籠城戦後、柴中佐は、イギリスの武功勲章をはじめ各国から勲章を授与されて「コロネル・シバ」として広く知られ、日本軍及び日本に対する評価も高まった。
 このことがその後の「日英同盟」の背景となっている。イギリスのマグドナルド公使は、その後駐日大使となり、1902年、1905年、1911年の日英同盟の交渉すべてに東京で立ち会った。日英同盟なしに、日本は日露戦争を戦うことはできなかった。

 これらの柴五郎や日本軍の兵隊たちは、そのまま司馬遼太郎の『坂の上の雲』の世界の住人である。実際に柴五郎は、『坂の上の雲』の主人公秋山好古とは陸軍士官学校の同期生だった。まことに小さな国が、開化期をむかえ、欧米列強に追いつくために、律儀に国際法を遵守し、あなどられないために武士の作法を自らの作法として戦闘にも立ち向かった。雄々しくあり、また、けなげでもあった。
 こう書くと、最近の、なんでも日本は素晴らしい、日本人は凄い、というテレビ番組みたいになって、ちょっと恥ずかしくもある。この時代のこの人々が素晴らしかったからといって、いつでもどこでも日本人が素晴らしいわけではない。

 最近の「日本人はスゴイ」ブームについては、朝日新聞に載っていた山科けいすけのマンガを紹介しておく。(2015.8.22 土曜版)

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