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2015年12月28日 (月)

守城の人・『ある明治人の記録』

 柴五郎については、中公新書に『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』(石光真人(いしみつ・まひと)編著、1971、中央公論社)という本もある。

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 柴五郎の少年時代の自筆回顧録を、石光真人が編集し、第二部として解説をつけたものである。回顧録は西南戦争の翌年で終わっている。著者は、柴五郎が少尉時代に自宅に預かって幼年学校受験の面倒を見た石光真清(いしみつ・まきよ)注1の子供である。
 写真の本は2013年刊の54版であるため、この年の大河ドラマ「八重の桜」にあやかろうと帯に「新島八重」の文字が大きい。同時代の会津の人間ではあるが、実はこの本には八重は出てこない。
 『守城の人』には一言だけ出てくる(p251)。大阪鎮台山砲第四大隊に着任するとき、五郎は京都へ行って八重の兄、山本覚馬の家に泊まっている。山本家は叔母の家の隣で、よく知った仲だったというから、柴五郎と八重も面識はあったのだろう。

 読んでみると、柴五郎が少年時代になめた辛酸が詳しく描かれ、これも胸をうつ。文語文で書かれているので、時代と悲憤慷慨を余計強く感じる。
 例えば母たちが、事情のわからぬ五郎を家から逃がしたときのことをこう回顧している。

 これが永遠の別離とは露知らず、門前に送り出たる祖母、母に一礼して、いそいそと立ち去りたり。ああ思わざりき、祖母、母、姉妹、これが今生の別れなりと知りて余を送りしとは。この日までひそかに相語らいて、男子は一人なりと生きながらえ、柴家を相続せしめ、藩の汚名を天下に雪ぐべきなりとし、戦闘に役立たぬ婦女子はいたずらに兵糧を浪費すべからずと籠城を拒み、敵侵入とともに自害して辱めを受けざることを約しありしなり。わずか七歳の幼き妹まで懐剣を持ちて自害の時を待ちおりしとは、いかに余が幼かりしとはいえ不敏にして知らず。まことに慚愧に堪えず、思いおこしてくるしきことかぎりなし。(p24)

 54版も出ているくらいで、アマゾンのカスタマーレビューでも名著だと評判が高い。
 ところが『守城の人』のあとがきに村上兵衛は、「『ある明治人の記録』(石光真人編)もすでに出版されているが、潤色がある。私はそれに拠らなかった。」(p654)と書いている。どのへんが潤色だとは書いてない。
 さらに私の愛読する高島俊男は『本と中国と日本人と』(2004、ちくま文庫)に、こんなことを書いている。

 柴五郎自身が明治十年までの経歴を書いた自伝がある。石光真人という新聞記者あがりがこれを勝手に削ったり書き改めたりして愚劣なあとがきをつけたものが、『ある明治人の記録』と題して中公新書から出ている。読むと石光の愚かと無礼とに腹が立ってくるから読まないほうがいい。石光は二十年前に死んだが柴五郎自筆原稿は残っているはずだ。どこか良心的な出版社がいっさい手を加えない原本通りのものを出してくれぬものか。(95・9) (p309)

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 ほとんどトンデモ本扱いだ。「愚劣なあとがき」と言っているのは、第二部の石光による解説で、毛沢東を評価するなど、ちょっと左翼がかったところが高島の気に入らないのだろうと理解できる。
 しかし自伝の部分は、原本があるわけではないから、どこがどういけないのかよくわからない。けっこう感心して読んだだけに、高島俊男を尊敬し、書くものは信用できると思っているわたしとしては、困ってしまう。

 ひとつだけ気がついたのは、前の「守城の人・会津人柴五郎」で取り上げた、犬の死体を食べるところ。『守城の人』では、二週間食べ続けたら、もう喉を通らなくなって五郎が飲み込むのに苦労していたら、食べろと言っていた父もさすがに苦笑して許してくれたことになっている。
 しかし『ある明治人の記録』では、飲み込めないでいる五郎に、父は強く叱責している。

「武士の子たることを忘れしか。戦場にありて兵糧なければ、犬猫なりともこれを喰らいて戦うものぞ。ことに今回は賊軍に追われて辺地にきたれるなり。会津の武士ども餓死して果てたるよと、薩長の下郎どもに笑わるるは、のちの世までの恥辱なり。ここは戦場なるぞ、会津の国辱雪ぐまでは戦場なるぞ」(p64)

 これで五郎は目をつむって一気に飲み込んだことになっている。この言葉にはかなり感動したのだが、ひょっとしてこのあたりが潤色なのだろうか。
 そう思ってぱらぱらめくって見るとこんなところもあった。
 会津落城後、藩士たちは俘虜として東京へ送られることになった。『ある明治人の記録』では、薩長にさらし者にされるのではないかと行きたがらない五郎を、兄太一郎は叱責した。

「薩長の下郎どもが何をなすかを見とどけよ、もし辱めを受くれば、江戸にても何処にても斬り死、腹掻っさば会津魂を見せてくれようぞ、今より気弱になりていかがいたすか、万事これよりなるぞ」(p46)

 『守城の人』にはこの挿話はない。このあたりの薩長に対する過激な言動が、潤色あるいは書き改めにあたるのだろうか。全体的に『ある明治人の記録』の方が激越に語られていることはたしかだ。この悲憤慷慨が過剰であり、柴本来のものではないということだろうか。
  『守城の人』と『ある明治人の記録』をつきあわせながらもう一度読むべきところだが、今の段階ではわたしにはわからない。どなたかおわかりの方がいらっしゃったら、ご教示ください。

注1:石光真清は、最終階級は少佐で、シベリアや満州で対ロシアの諜報活動に従事した。石光真人が遺稿を編集した『石光真清の手記』全四冊(1978~79、中公文庫、単行本は1958~59、龍星閣)がある。NHKBSで1998年、ドラマ化された。(これもまだ読んでない。)

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(守城の人、おわり)

 「窮々自適」は、これで今年の仕事納めとし、1月1日に新年の御挨拶、1月4日(月)仕事始めで、また月木の週二回で行こうと思っています。みなさん良い年をお迎えください。

 

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