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2016年3月

2016年3月31日 (木)

料理八百善

 3月24日(木)、前にちょっと書いた 鎌倉の明王院の隣にある八百善へ行ってきました(→明王院の初不動)。江戸料理の名店です。
 学生時代の友人たちにうちの奥さんも加わって一行六人でした。

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 こんな庭を通って行きます。

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 この家、もとはどなたかの別荘だったそうです。

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 中はいくつかの個室に分かれていました。畳ではなくテーブル席でした。お膳には「詩は五山 役者は杜若(とじゃく) 傾はかの 芸者は小萬 料理八百善」という太田蜀山人の狂歌が書かれていました。

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 最初に出たのはブリのぬた。これがうまかった。厚切りのブリでワケギの酢味噌あえ、のっているのはショウガ。

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 お酒は鉄瓶に入った冷や酒で、赤い塗りの杯で飲めとのこと。ここは食器も、何のなにがしというものが揃っているらしいのですが、料理がうまく酒もうまい。酒が進むので、杯ではまどろっこしく、隣の湯呑茶碗に切り替えて飲んでしまいました。ついつい育ちが出ます。

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 昼間からどんどん飲んだので出てきた料理もちゃんと覚えていない。写真も、いちいち撮っていられるか、となってしまったので、きちんと報告できませんが、ブリの後は「沢煮(さわに)」というウドやニンジンなどを煮たものが出たと記憶しています。おそらくその次がこの天ぷらです。

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 戦前、満州国皇帝溥儀が来日したとき、迎賓館での料理を八百善が担当しました。この皿はそのとき使ったもので、五爪の黄色い龍は皇帝をあらわしています。
 このお店、いつもは八百善十代目のご主人が料理や器の解説を丁寧にしてくださるようなのですが、この日はお留守で、配膳をしてくださった奥さんと息子さんの十一代目からは詳しい話は聞けませんでした。料理にまつわる話などがあれば、もう少しちゃんと記憶に残ったかもしれません。
 これは織部の器に入った茶碗蒸し。太刀魚が入っていました。

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 この後は鶏のだんご、最後に寿司飯に赤だしだったと思います。きちんと記憶がたどれないのは情けないけれど、それくらい気持ちよく食べて飲んだということで、お店の方には納得してもらいましょう。

 店でいただいた「鎌倉逍遥」というフリーペーパーには、江戸料理は素材本来の味を大切にする、京料理の昆布だし中心に対し鰹節だしが中心と紹介されています。

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 たしかに出汁の味は違います。わが家は高血圧対策で減塩メニューなので、うちの奥さんは、おいしかったけれどしょっぱかったと言っておりました。わたしは酒で口を洗いながらでしたので、特に気にならず、おいしくいただきました。
 季節ごとにメニューも器もずいぶん変わるようです。今度は料理や器の蘊蓄も聞きながら、食べてみたいと思います。

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2016年3月28日 (月)

南無谷の春

 今回の作業のメインはビワの袋かけです。本来は11月から12月頃に花もぎ(摘蕾、摘花)をして、3月から4月に摘果・袋かけをするのですが、昨年は花もぎに来られなかったので、そのまま直接袋かけをすることになりました。

 花もぎをしていないとどうなるかというと、こんなふうにたくさん実がついたまま全体に大きくなっていきます。これではどれを残しても、大きく立派な実にはなりません。全部落とすしかありません。

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 それでもそれなりの差がついているところもあります。これは一番大きいのに袋をかけ、他は全部落とします。
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 袋をかけないで落とすだけという箇所がたくさんありました。昨年高い枝をかなり切ってしまったこともあり、今年かけた袋の数は例年の半分以下でした。近所では、冬のうちに非常に寒いときがあって、中のタネがずいぶんやられているという話もききました。
 ろくに手をかけていなくて、天候にも問題があったとなると、今年のできがよくないのは間違いないようです。とりあえずかけられるだけの袋はかけましたが、期待せずに、来年がんばることにしましょう。

 ビワの隣のプラムはほぼ満開でした。 今年も収穫が期待できそうですが、実るとどんどん落ちいくので、時期を見計らって来なければなりません。

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 梅はほとんど終わって、桜はまだまだでした。

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 今回たまたまホームセンターで、花がたくさん咲いたゆすら梅の苗を見つけて買ってしまいました。実がちゃんとつくかどうか、ちょっと楽しみです。

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 水仙も終わりかけですが、まだ庭のあちこちに咲いていました。

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 以前植えたまま手入れをしていない花が、あちこちにぽつりぽつりと咲いています。主なしとて春を忘れないけなげな花たちですが、仲間が減っているのがちょっとかわいそうです。

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 富浦町の道の駅、枇杷倶楽部へ行ってみると、もうポピーが咲いていました。

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 花壇の奥には川があって、堤には早咲きの桜と菜の花が咲いていました。

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 川の向こうは菜の花畑で、毎年この景色を見るのが楽しみです。

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2016年3月24日 (木)

南無谷の柑橘類

 3月18日から21日まで南無谷に行ってきました。去年はいろいろあったので五か月ぶりでした。ちょっと間があきすぎです。
 到着すると、なんとわが家の夏みかんがたくさん、塀を越えて道路の上まで飛び出しています。

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 通行人や車に当たったら困りますから、飛び出している枝は全部切りました。留守している間にこんなに伸びているとは思わなかった。それにしても今年の夏みかんは実をつけすぎです。

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 逆に、いっぱい実をつけていたのに留守の間に落ちてしまったのが温州みかん。残っていたのはたったひとつ。

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 これがそのたったひとつ。

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 甘夏は実ったのがたったひとつだけだった。植えた場所が悪いのか。

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 たったひとつの温州ミカンも甘夏も滞在中に食べてみましたが、どちらも自慢できるような味ではない。去年は肥料とか剪定とか、ほとんどできなかったせいでしょうか。

 レモンの木は、強い風が吹いたのでしょう、こんなに傾いていました。 

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 日照のせいで枝が片寄っていること、実をつけすぎだったことも傾いた原因でしょう。
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 実を全部とってから、起こして支えを入れてやりました。

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 まだずいぶん片寄っています。剪定して少しバランスをとらないといけません。

 これはユズ。

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 大きな獅子ユズは全部落ちてしまっていました。これは観賞用なので、あまりがっかりしません。

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 最近手入れをしてこなかったなかで健闘しているのがこれら柑橘類です。みんな、ある程度大きくなると、ろくに手入れしなくてもそれなりに実をつけてくれます。
 なので今回、また一本追加してみました。

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 甘夏を、日当たりのいいところに植えました。たくさん実りますように。
 前にも書きましたが、同じダジャレをひとつ。
 「知床の岬に~甘夏の咲く頃~」

 

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2016年3月21日 (月)

J71 日本小話集

 日本の古い笑い話のたぐいから、本に関係するものを少し。まず森銑三『星取棹』(筑摩叢書、1989)から。

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歌仙と合戦

「筆持つことも知らぬ侍あり。或時朋輩(ほうばい)、三十六人の歌仙を繰返し見る所へ行きかかり、その本何ぞ、と問ふ。是は三十六人の歌仙、と答ふ。侍聞きて、それは幾度見ても飽かぬものぢゃ。楠の合戦の所を読み聴かせられよ、というた。」(節略)
「かせん」を合戦と思ったのである。(p102)

 これは「かせん」を「合戦」と思ったという他愛もない話だが、次のはちょっと難しい。

無点のいろは

「無筆の男が学者の家に行ったら、折ふし同じ仲間の人達が会合して、無点ものは読みにくい。ここのところを道春は、どう点を附けてゐらるる、その附け方で、大分義理が違ふと、無点の本と点のある本とを引合してゐる。点附といふのは、傍に細かなものの附いてゐるのだなと気附いて、わしが倅は当年七つになりまするが、無点のいろはを、けつまづきもなしに読みまする、というた。」(p200

 無点本というのは「訓点のついていない漢籍、素本(すほん)」のことで、いわゆる白文の本である。漢文を日本語として読むためにつけるのが返り点などの訓点。だから、もともと日本語の「いろは」に訓点がついていないのは当たり前なのだが、それを読めると威張っているのがおかしい。

 次は宮尾しげを、比企蟬人共著『日本小話集』(高文社、1956)から。

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論語泥棒

 ある儒者の内へ、盗人忍び入りしが、捕らえられたり。儒者盗人に向い
 「其方、人をして斯様の不義を行う事、言語道断なり。古語にも、渇しても盗泉の水を飲まずと言う。この以後志を改むべし」
とて銀子一包出し
 「早々出て行け」
と言う。盗人銀包(かねづつみ)を見て
 「アヽ、鮮(すくな)い哉、銀(ぎん)」(p48)

 むろんこれは論語の「巧言令色鮮(すくな)し仁」をもじったもの。昔の笑い話はこれくらいは知っていないと笑えない。
 次は百人一首の知識が必要なもの。

風雅

 上方より帰り
 「さて京都は花の都ほどあって、けしからず上品な所じゃ。まず大道を歩く青物売りなどが直垂(ひたたれ)で、足曳きの山の薯/\と呼ぶ。紙屑買は、千早振紙屑買おうと言う。雪駄(せきだ)直しは、知るも知らぬも逢坂の雪駄なおしと申して歩きます」
 「ハテナ、そして足袋屋などは何と呼びますな」
 これには大きに困り、頭をかきながら
 「オウそれ/\、足袋屋は、菅家のこんのたび/\」(P56)

 紙屑に枕詞「千早ぶる」がつくとは知らなかった。
 百人一首の菅家(かんけ)=菅原道真は、
「このたびは 幣(ぬさ)もとりあえず 手向山(たむけやま) 紅葉の錦 神のまにまに」である。「このたび」を無理矢理「紺の足袋」にこじつけている。

みやび

 人丸様の御邸に、日雇で来て見ると、奥は今日は歌の御会で、猿丸太夫様、貫之様、喜撰法師様などが御いでになっている様子。御次の間をのぞいて見ると女中衆が噂話。
 「私は業平様に身をつくしても逢わんと思いますが、あちら様はまだ文も見ず天の橋立さ」
 「それはいずくも同じ秋の夕暮」
 さすがに人丸様の御邸だと感心して、それから仲間(ちゅうげん)部屋をのぞいて見ると、大勢車座にならび、壺皿をあけ乍ら
 「長歌反歌(ちょうかはんか)」(p56)

 柿本人麻呂邸の仲間たちが長歌反歌で大騒ぎ!というのも愉快だ。

 

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2016年3月17日 (木)

瑞泉寺の梅

 瑞泉寺(ずいせんじ)の梅は、3月3日ではまだちょっと早かった。

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 総門です。

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 奥の山門まではけっこう距離があって、そこに梅林があります。

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 でも残念ながら、まだちらほらの段階でした。

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 梅林を過ぎると、古い階段と新しい階段の二股になっています。

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  古い方を登ってみました。

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 どちらも行き着くところはこの山門です。
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 こちらが本堂です。
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 本堂前の黄梅(おうばい)は市指定天然記念物で、珍しいもののようですが、こちらはもう終わっていました。
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 これは地蔵堂です。
 

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 このお地蔵様は、「どこもく地蔵」あるいは「どこも地蔵」と呼ばれているそうです。
 昔、寺の堂守が、貧乏で苦しいのでどこかへ逃げだそうと考えていたとき、ある晩夢にお地蔵さまが現れ、「どこもく、どこもく」と言いいました。これは「どこも苦、どこも苦」、どこへ行っても苦労はついてまわるぞと教えて下さったのだ、という話です。
 あんまり夢や希望の持てる話のようには聞こえませんが、今いるところでがんばろうという教えなのでありましょう。

 本堂の裏にこの寺の開山、夢窓疎石(むそうそせき)がつくったという庭園があります。(この庭の写真は去年の11月に撮ったものです)

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 これがどうもわたしにはわからない。

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 岸壁に洞窟を掘って、その前に池をつくり橋がかけてある。

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 昭和45年までは笹やモミジなどの木々に蔽われていたのを、発掘、復元したものだそうです。夢窓疎石の名園ということになっているらしいが、どこがいいのか、何がおもしろいのかまったく理解できない。
 天女窟という洞穴の中とか山の上から見たらまた違うのかもしれませんが、観光客は池のこちら側からしか見られないので、よくわかりません。そのうちサトリを開いたら突然わかるようになるのでしょうか。

 本堂の前の庭に戻ります。

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 階段をけっこう登って、谷の中腹まで来ているので、目の下に谷が見下ろせます。黄色いのはマンサクでしょうか。

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 ここの梅も見頃の一歩手前というところです。
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 ウグイスではなく、メジロがやってきました。
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 これがホーホケキョと鳴いてくれると、いかにも春らしくていいのですが。

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2016年3月14日 (月)

浄妙寺の梅

 報国寺の次は浄妙寺です。

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 鎌倉五山の第五位という格式のあるお寺です。このあたりの地名やバス停を「浄明寺(じょうみょうじ)」と一字違えて書くのは、お寺に遠慮してのことだといいます。

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 そういう格式のあるお寺なので、昔は堂塔伽藍が取り囲んでいたそうですが、今は広い敷地に大きな屋根の本堂がゆったりとおさまっています。
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 参道には梅が咲いていました。

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 これが現在の本堂で、屋根は寄棟の銅板葺きです
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 それが、永井路子『鎌倉の寺』(昭和42年初版、昭和59年重版、保育社カラーブックス)にはこんな茅葺きの写真がのっていました。まわりももっと緑濃かったようです。

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 本堂の左手にはある喜泉庵は、昔、僧が一同に会して茶を喫した庵を再建したものだそうです。

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 ここで抹茶を飲むことができます。
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 こういう庭を眺めながらお茶をのむのもいいでしょう。
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 ここにも梅が咲いていました。

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 本堂の奥は広い墓地になっています。
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 墓地の手前の方に足利尊氏の父、足利貞氏の墓がありました。報国寺のところにも書きましたが、この近くに鎌倉公方の屋敷(鎌倉御所)があり、鎌倉幕府滅亡後は、このあたりが鎌倉の中心地だったようです。
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 裏山一帯がお墓になっています。
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 赤い花は緋寒桜(ヒカンザクラ)のようです。
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 漢字で緋寒桜と書いてあると、なるほど寒いうちに咲く赤い桜だとよくわかります。ヒカンザクラとカタカナで書くと、「サクラチル」の電報を思い出しそうです。――最近はもう電報なんかやってないんでしょうね。

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 なに桜かわかりませんが、もう咲いている桜もありました。
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 黄色い花はマンサクでした。
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 マンサクは「満作」「万作」と漢字で書いてもわかりません。ウィキペディア「早春に咲くことから、「まず咲く」「まんずさく」が東北地方で訛ったものともいわれている。」と書いてありますが、ほんとでしょうか。「金縷梅(きんるばい、きんろばい)」は中国名でしょうか。これだと「金の細い糸の梅」だから、なんとなくわかります。

 この日も暖かい日でした。今年はほんとにこういう日が多い。
 広くてのびのびできるなかなかいいお寺でした。
 この奥には藤原鎌足にちなむ鎌足稲荷があって、それが「鎌倉」の語源になっているともいわれていますが、すっかり忘れていて、行きそびれてしまいました。また今度行ってきます。

 

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2016年3月10日 (木)

報国寺の竹

    3月3日は「竹の寺」報国寺(ほうこくじ)へも行きました。

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 鎌倉駅から横浜市の金沢八景方面へ向かうバスに乗ると、浄明寺(じょうみょうじ)というバス停で、どっと人が降ります。報国寺浄妙寺(じょうみょうじ)へ行く観光客です。このあたりが観光限界線のようで、この先の明王院まで行く人はずっと減ります。
 この日も平日でしたが、けっこう賑わっていました。

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 山門を入るとまず苔の庭が目につきます。

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 本堂です。

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 これは迦葉堂(かしょうどう)。
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 茅葺きの由緒ありげな鐘楼もあります。

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 ここまでは無料で拝観できますが、この先、有名な「竹の庭」を見るためには別に拝観料(200円)が必要になります。

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 この竹の庭が目当ての観光客も多いようです。
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 竹藪の奥にはお茶席もあって、抹茶が飲めますが、この日はあいにく工事中でした。
 たしかに孟宗竹の竹藪はきれいです。

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 しかし規模は小さい。すぐに通り抜けてしまいます。これくらいなら…と思わないでもありません。

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 でもこのくらいがちょうどいいのかも知れません。これが原生林の竹藪を三十分も歩くのだったら、着物姿のお嬢さんたちがやってくることもないでしょう。ちょっとおしゃれでコンパクトなところがいいのです。

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 奥にはこんな「やぐら」もあります。

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    この寺の開基足利尊氏の祖父である足利家時だといわれており、このやぐらもその足利一族の墓だといわれています。
 鎌倉は、一般的には鎌倉幕府滅亡後そのまま衰退してしまったように考えられているけれど、その後も、足利尊氏の四男基氏を祖とする鎌倉公方(かまくらくぼう)が関東を治めていて、繁栄は続いていました。
 しかし鎌倉公方は次第に室町幕府と争うようになり、鎌倉公方の補佐役である関東管領上杉氏が幕府側についたりといろいろあって、第五代の鎌倉公方足利成氏は茨城県の古河(こが)に逃れて古河公方(こがくぼう)となりました。
 その後鎌倉は関東管領の上杉氏が支配するようになりますが、時は戦国の世、上杉氏が内部抗争を繰り返しているうちに、伊豆・小田原と勢力を広げてきた伊勢新九郎(北条早雲)に侵攻され、後北条氏が治めることになりました。これ以降次第に鎌倉は衰退していったようです。
 その鎌倉公方の屋敷がこの近くにあったそうで、この近くの浄妙寺瑞泉寺も足利氏関係のお寺です。

 こんな庭もあります。

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 これは山茱萸(さんしゅゆ)です。

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 梅も咲いていました。

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 なるほどこぎれいにまとまった寺でした。

 

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2016年3月 7日 (月)

荏柄天神の梅

 3月3日、荏柄天神(えがらてんじん)へ行ってきました。

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 階段の下に黄色い花が見えます。

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 これはミツマタ(三椏)の花でした。

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 天神様といえば梅です。しかし本殿前の紅梅はもう終わってしまったようです。
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しかし白梅はこのとおり。

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 ここには大きな銀杏の木もあります。
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 ここにはこんなものもあります。「絵筆塚」です。

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 漫画家の清水昆が絵筆供養のために「かっぱ筆塚」をつくり、その後清水昆の遺志を継いで横山隆一らがこの「絵筆塚」を建立しました。かっぱ筆塚の方の写真は撮りそこなってしまいました。
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 絵筆塚には、清水昆夷にちなんで、漫画家154人によるカッパの漫画のレリーフがはめこまれています。

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 サトウサンペイの下は藤子不二雄で、ちょっとカッパには見えませんが、仮装をしたところでしょうか。
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2016年3月 3日 (木)

木村政彦と力道山

 新刊書店で発売直後のこの本を見つけたときは、今どきこんなテーマを追いかけているライターがいるのか、と驚いた。増田俊也(ますだとしなり)の『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか 』である。
Photo_3    (写真は文庫版上、新潮社2013。単行本は新潮社2011)

 木村政彦力道山の対決は昭和29年(1954)のことなので、わたしは小学1年、さすがにこの試合の記憶はない。またこの年は中日ドラゴンズが杉下の魔球で日本一になった年でもあるが、これもよくは覚えていない。年表を見てみると、ビキニ沖の水爆実験で被爆した第五福竜丸や、青函連絡船洞爺丸の転覆事故がのっている。これらについては当時ニュース映画で見た記憶がおぼろにある。

 それはともかくわたしの小学生当時、力道山は国民的英雄だった。わが家にテレビはなかったから、近所のテレビのある家やラーメン屋で見た。外人レスラーをやっつける姿にみんなで喝采を送り、憧れた。
 プロレスごっこもした。力道山はタイツ姿で登場することがほとんどだったから、股引に上半身裸が力道山役だった。あのころ一般の家庭にはタイツなんかなかった。空手チョップの練習もした。
 子供雑誌の付録に力道山の等身大ポスターがついてきたことがあった(「ぼくら」だったか?)。白黒で幾重にも折りたたまれいて、広げるときはわくわくした。しかし広げてみると、意外に力道山が大きくないのにちょっとがっかりした。子供の想像ではすごい「巨人」だったのだ。むろんプロレスが八百長だなどとは思いもしなかった。

 中学生の頃になってようやく「プロレスは八百長だ」はどうも本当らしいと思うようになった。噛みつきの銀髪鬼ブラッシーの時代で、あれはいかにも嘘くさかった。
 木村政彦対力道山の対決の話を知ったのもその頃だが、すでに「伝説」めいていて、実際のところどうだったのか、よくわからなかった。

 力道山がヤクザに刺されたときは高校一年生だった。最初の報道では、刺されても平気で、人前で話をしてから自宅に帰ったということだったから、「すごいなあ、鍛え方が違うんだよ」と友人たちと感心して話したものだった。しかし、その1週間後くらいで死んでしまった。あまりにもあっけなく、驚いた。

 こういういくつかの記憶があるから、この本はとてもおもしろく読めた。木村政彦の伝記というだけでなく、戦前の柔道は講道館と京都にあった武徳会附属武道専門学校(通称「武専」)や高専柔道(旧制高校などの柔道)が競合するものであったこと、「空手バカ一代」の大山倍達(ますたつ)の経歴、ブラジルのグレイシー柔術の歴史など、柔道・柔術を中心とした明治以来の格闘技史にもなっている。たんねんに古い記録を掘り起こして裏付けをとりながら書き進められていて、信憑性も高いと感じられた。

 この本のおかげで知ったことはたくさんあるが、とりあえず木村政彦対力道山の対決がどのようなものであったかだけ簡単に見ておこう。

 力道山木村政彦のプロレスの試合は、日本中の注目を集めた世紀の対決だった。
 力道山のプロレスは、当時はじまったばかりのテレビ放送に中継されることで大人気を博していた。昭和29年2月のシャープ兄弟とのタッグマッチ戦は日本テレビとNHKが同時中継し、新橋駅の街頭テレビには2万人の群衆が殺到したという。
 このシャープ兄弟との対戦で力道山とタッグを組んでいたのが木村政彦で、戦前戦中には史上最強、「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と言われた日本一の柔道家だった。しかし戦争のため、その最盛期に柔道家としての人生は中断されてしまった。
 戦後は柔道家が生きるために結成されたプロ柔道に参加した後、ブラジル、アメリカに渡って、異種格闘技戦やプロレスをやった。結核にかかった妻の薬代を稼ぐためというのが大きな理由だった。
 力道山と組んだシャープ兄弟との戦いでは、木村はいつも負け役になって、それを力道山が挽回するという展開だった。当時の日本ではプロレスというものが理解されておらず、一般の観客はみな真剣勝負と考えて見ていた。なにしろNHKが実況中継をし、朝日新聞や毎日新聞が報道していたくらいである。当然木村は力道山より弱いと思われ、力道山のひきいる日本プロレスリング協会が日の出の勢いとなった。
 それに嫌気がさし、力道山に真剣勝負を挑んだ、という筋書きで、二人の間で日本一決定戦が行われることになり、大きく宣伝された。木村が負け役に嫌気がさしていたのは事実だが、真剣勝負ではなくプロレス興行としてやることを了承し、事前に筋書きができていて引き分けになるはずだった。だから木村は試合前も連日大酒を飲んでいた。 
 しかし試合中力道山が突然本気で襲いかかり、右ストレートを顎に決め、不意を打たれてもうろうとする木村に張り手を連発、木村はそのまま倒されてしまった。
 マットに惨めな姿をさらした木村は、屈辱をはらすべく再戦を要求し続けるが、力道山は受け付けず、木村は短刀を懐に力道山を付け狙ったという。

 その後木村は海外に行くなど紆余曲折を経て、昭和36年(1961)母校拓大のコーチとして柔道界の片隅に戻り、力道山は昭和38年(1963)ヤクザに刺されて死んだ。
 木村は、最晩年に猪瀬直樹が取材したとき、力道山は自分が念力で殺したんだと言ったそうだ(文庫上37p)。最後まで力道山との戦いに敗れたことを認めることができなかったのだろう。

Photo          (文庫版下、新潮社2013)

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