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2016年3月 3日 (木)

木村政彦と力道山

 新刊書店で発売直後のこの本を見つけたときは、今どきこんなテーマを追いかけているライターがいるのか、と驚いた。増田俊也(ますだとしなり)の『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか 』である。
Photo_3    (写真は文庫版上、新潮社2013。単行本は新潮社2011)

 木村政彦力道山の対決は昭和29年(1954)のことなので、わたしは小学1年、さすがにこの試合の記憶はない。またこの年は中日ドラゴンズが杉下の魔球で日本一になった年でもあるが、これもよくは覚えていない。年表を見てみると、ビキニ沖の水爆実験で被爆した第五福竜丸や、青函連絡船洞爺丸の転覆事故がのっている。これらについては当時ニュース映画で見た記憶がおぼろにある。

 それはともかくわたしの小学生当時、力道山は国民的英雄だった。わが家にテレビはなかったから、近所のテレビのある家やラーメン屋で見た。外人レスラーをやっつける姿にみんなで喝采を送り、憧れた。
 プロレスごっこもした。力道山はタイツ姿で登場することがほとんどだったから、股引に上半身裸が力道山役だった。あのころ一般の家庭にはタイツなんかなかった。空手チョップの練習もした。
 子供雑誌の付録に力道山の等身大ポスターがついてきたことがあった(「ぼくら」だったか?)。白黒で幾重にも折りたたまれいて、広げるときはわくわくした。しかし広げてみると、意外に力道山が大きくないのにちょっとがっかりした。子供の想像ではすごい「巨人」だったのだ。むろんプロレスが八百長だなどとは思いもしなかった。

 中学生の頃になってようやく「プロレスは八百長だ」はどうも本当らしいと思うようになった。噛みつきの銀髪鬼ブラッシーの時代で、あれはいかにも嘘くさかった。
 木村政彦対力道山の対決の話を知ったのもその頃だが、すでに「伝説」めいていて、実際のところどうだったのか、よくわからなかった。

 力道山がヤクザに刺されたときは高校一年生だった。最初の報道では、刺されても平気で、人前で話をしてから自宅に帰ったということだったから、「すごいなあ、鍛え方が違うんだよ」と友人たちと感心して話したものだった。しかし、その1週間後くらいで死んでしまった。あまりにもあっけなく、驚いた。

 こういういくつかの記憶があるから、この本はとてもおもしろく読めた。木村政彦の伝記というだけでなく、戦前の柔道は講道館と京都にあった武徳会附属武道専門学校(通称「武専」)や高専柔道(旧制高校などの柔道)が競合するものであったこと、「空手バカ一代」の大山倍達(ますたつ)の経歴、ブラジルのグレイシー柔術の歴史など、柔道・柔術を中心とした明治以来の格闘技史にもなっている。たんねんに古い記録を掘り起こして裏付けをとりながら書き進められていて、信憑性も高いと感じられた。

 この本のおかげで知ったことはたくさんあるが、とりあえず木村政彦対力道山の対決がどのようなものであったかだけ簡単に見ておこう。

 力道山木村政彦のプロレスの試合は、日本中の注目を集めた世紀の対決だった。
 力道山のプロレスは、当時はじまったばかりのテレビ放送に中継されることで大人気を博していた。昭和29年2月のシャープ兄弟とのタッグマッチ戦は日本テレビとNHKが同時中継し、新橋駅の街頭テレビには2万人の群衆が殺到したという。
 このシャープ兄弟との対戦で力道山とタッグを組んでいたのが木村政彦で、戦前戦中には史上最強、「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と言われた日本一の柔道家だった。しかし戦争のため、その最盛期に柔道家としての人生は中断されてしまった。
 戦後は柔道家が生きるために結成されたプロ柔道に参加した後、ブラジル、アメリカに渡って、異種格闘技戦やプロレスをやった。結核にかかった妻の薬代を稼ぐためというのが大きな理由だった。
 力道山と組んだシャープ兄弟との戦いでは、木村はいつも負け役になって、それを力道山が挽回するという展開だった。当時の日本ではプロレスというものが理解されておらず、一般の観客はみな真剣勝負と考えて見ていた。なにしろNHKが実況中継をし、朝日新聞や毎日新聞が報道していたくらいである。当然木村は力道山より弱いと思われ、力道山のひきいる日本プロレスリング協会が日の出の勢いとなった。
 それに嫌気がさし、力道山に真剣勝負を挑んだ、という筋書きで、二人の間で日本一決定戦が行われることになり、大きく宣伝された。木村が負け役に嫌気がさしていたのは事実だが、真剣勝負ではなくプロレス興行としてやることを了承し、事前に筋書きができていて引き分けになるはずだった。だから木村は試合前も連日大酒を飲んでいた。 
 しかし試合中力道山が突然本気で襲いかかり、右ストレートを顎に決め、不意を打たれてもうろうとする木村に張り手を連発、木村はそのまま倒されてしまった。
 マットに惨めな姿をさらした木村は、屈辱をはらすべく再戦を要求し続けるが、力道山は受け付けず、木村は短刀を懐に力道山を付け狙ったという。

 その後木村は海外に行くなど紆余曲折を経て、昭和36年(1961)母校拓大のコーチとして柔道界の片隅に戻り、力道山は昭和38年(1963)ヤクザに刺されて死んだ。
 木村は、最晩年に猪瀬直樹が取材したとき、力道山は自分が念力で殺したんだと言ったそうだ(文庫上37p)。最後まで力道山との戦いに敗れたことを認めることができなかったのだろう。

Photo          (文庫版下、新潮社2013)

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