« 荏柄天神の梅 | トップページ | 浄妙寺の梅 »

2016年3月10日 (木)

報国寺の竹

    3月3日は「竹の寺」報国寺(ほうこくじ)へも行きました。

Photo_2
 鎌倉駅から横浜市の金沢八景方面へ向かうバスに乗ると、浄明寺(じょうみょうじ)というバス停で、どっと人が降ります。報国寺浄妙寺(じょうみょうじ)へ行く観光客です。このあたりが観光限界線のようで、この先の明王院まで行く人はずっと減ります。
 この日も平日でしたが、けっこう賑わっていました。

Dscf3023
 山門を入るとまず苔の庭が目につきます。

Dscf3024
 本堂です。

Dscf3025

Dscf3027
 これは迦葉堂(かしょうどう)。
Dscf3026
 茅葺きの由緒ありげな鐘楼もあります。

Dscf3049

 ここまでは無料で拝観できますが、この先、有名な「竹の庭」を見るためには別に拝観料(200円)が必要になります。

Photo_2
 この竹の庭が目当ての観光客も多いようです。
Dscf3029_2
 竹藪の奥にはお茶席もあって、抹茶が飲めますが、この日はあいにく工事中でした。
 たしかに孟宗竹の竹藪はきれいです。

Dscf3031

 しかし規模は小さい。すぐに通り抜けてしまいます。これくらいなら…と思わないでもありません。

Dscf3033

 でもこのくらいがちょうどいいのかも知れません。これが原生林の竹藪を三十分も歩くのだったら、着物姿のお嬢さんたちがやってくることもないでしょう。ちょっとおしゃれでコンパクトなところがいいのです。

Dscf3042
 奥にはこんな「やぐら」もあります。

Dscf3038
    この寺の開基足利尊氏の祖父である足利家時だといわれており、このやぐらもその足利一族の墓だといわれています。
 鎌倉は、一般的には鎌倉幕府滅亡後そのまま衰退してしまったように考えられているけれど、その後も、足利尊氏の四男基氏を祖とする鎌倉公方(かまくらくぼう)が関東を治めていて、繁栄は続いていました。
 しかし鎌倉公方は次第に室町幕府と争うようになり、鎌倉公方の補佐役である関東管領上杉氏が幕府側についたりといろいろあって、第五代の鎌倉公方足利成氏は茨城県の古河(こが)に逃れて古河公方(こがくぼう)となりました。
 その後鎌倉は関東管領の上杉氏が支配するようになりますが、時は戦国の世、上杉氏が内部抗争を繰り返しているうちに、伊豆・小田原と勢力を広げてきた伊勢新九郎(北条早雲)に侵攻され、後北条氏が治めることになりました。これ以降次第に鎌倉は衰退していったようです。
 その鎌倉公方の屋敷がこの近くにあったそうで、この近くの浄妙寺瑞泉寺も足利氏関係のお寺です。

 こんな庭もあります。

Dscf3043

Dscf3053
 これは山茱萸(さんしゅゆ)です。

Dscf3044
 梅も咲いていました。

Dscf3052t_2
 なるほどこぎれいにまとまった寺でした。

 

|

« 荏柄天神の梅 | トップページ | 浄妙寺の梅 »

鎌倉散歩」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 報国寺の竹:

« 荏柄天神の梅 | トップページ | 浄妙寺の梅 »