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2016年4月

2016年4月28日 (木)

光明寺の桜2016

 4月8日は光明寺も行きました。もう桜の季節ではなくなってきたし、光明寺の桜については去年も書きましたが(→光明寺の桜)、去年より綺麗だったので、写真だけ載せておきます。
 山門です。

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 山門を内側から見たところ。

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 本堂(大殿)。

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 鐘楼の前。

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 大聖閣(だいしょうかく)。

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 延命地蔵尊。

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 こんな花もありました。

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 これだけでは愛想がないのでおまけに、ずっと工事していた鶴岡八幡宮前の段葛(だんかずら)の改修後の写真もつけておきます。

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 前よりちょっと高くなったような気がします。

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 この桜が、前のように綺麗に咲くまでには何年かかるのでしょう。

  

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2016年4月25日 (月)

八百善のペリー饗応

 八百善八代目主人の話をまとめた本である江守奈比古『懐石料理とお茶の話』にも、九代目夫人栗山恵津子の本『食前方丈』にも、幕末、黒船でやって来たペリーの饗応をしたという話がある。
 幕府から、ペリー一行を横浜の応接所で接待するので、料理万端相勤めるようにとお達しがあり、八百善と日本橋の百川(ももかわ)という料理屋とが共同であたった。
 設備もないから、椅子の代わりに増上寺や浅草寺から坊さんの使う曲彔(きょくろく)を借り、テーブルは板で作って白布を敷いた。たくさんの品数の豪華な料理を多数作るので準備するのも大変だった。そのときの献立は関東大震災で失ってしまったが、その後も英国皇子やロシア親王の饗応などをつとめ、そのときの献立は残っている、というものだ。
 百川は日本橋浮世小路にあった料理屋で、落語「百川」の舞台にもなっている。

 これが接待の場面を描いた「横浜応接場秘図」(高川文筌筌画、神奈川県立歴史博物館『特別展 ペリーの顔・貌・カオ』図録より)である。

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 わたしの愛読するマンガ、みなもと太郎の『風雲児たち幕末篇5』(リイド社、2004)にはこう描かれている。

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 マンガのペリーは、山海の珍味をあつめた日本最高級の料理を「何と貧しい料理だ」と言っている。アメリカ人の口に合わなかったのは確かだろう。いったいどんな料理だったのか。
 ちょっとネットで調べてみると、ウィキペディアにはこう書いてある。

横浜の応接所で最初の日米の会談が行われた後、日本側がアメリカ側に本膳料理の昼食を出した。料理は江戸浮世小路百川が2000両で請負い、300人分の膳を作った。2000両を現代の価値に計算すると約1億5千万円近く、一人50万円になる。最上級の食材を使い、酒や吸い物、肴、本膳、二の膳、デザートまで100を超える料理が出された。しかし、「肉料理が出ないのは未開だから」、という偏見や、総じて生ものや薄味の料理が多かったのと、一品あたりの量がアメリカ人にとっては少なかったようで、ペリーは「日本はもっといいものを隠しているはずだ」と述懐している。ただし、「日本は出来る限りのことをやった」と述べたアメリカ側の人物もいる。その後、日本側は何かにつけてアメリカ側に料理を食べに行ったとされる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E8%88%B9%E6%9D%A5%E8%88%AA#.E5.98.89.E6.B0.B87.E5.B9.B4.EF.BC.881854.E5.B9.B4.EF.BC.89.E3.81.AE.E6.9D.A5.E8.88.AA

 二千両が1億5千万円という換算が正しいかどうか気になるが、ともかく豪華な料理がでたけれどアメリカ人には受けなかったのはたしからしい。もうひとつ、百川だけで八百善の名前が出てこないのも気になる。

 横浜市中央図書館の「開国関連の画像を見る」という頁には「武州横浜於応接所饗応之図」という当時の瓦版のようなものがあった。

Photohttp://www.city.yokohama.lg.jp/kyoiku/library/perry/ezugazou/e-177.jpg

 嘉永7年北アメリカ合衆国から艦隊がやってきて、二月十日横浜で応接したということだが、献立の細かい字はよく読めない。ともかくまず酒が出て、吸物、干肴、中皿肴、さしみ、硯蓋、大平、丼、鉢肴などなど、いろんな器に山海の珍味があれこれ出て、そのあと二汁五菜の本膳が出たものらしい。干肴は「松葉するめ」に「結び昆布」らしいから、アメリカ人の口には合いそうにないが、すごい品数で手の込んだものであることはなんとなくわかる。
 それで最後の行を見ると「右仕出し江戸浮世小路百川茂左衛門金貳千両にて仕差上申候以上」とあって、やっぱり八百善の名前は出ていない。

 ネットで見た限りでは、現在残っている当時の文書に八百善の名を書いたものはないようだ。百川の他に浦賀宮下の岩井屋富五郎の名前が出ているものもあるという。
 明治の初めに八百善がロシアの親王やイギリスの皇子を接待したのは、献立も残っており間違いない。それがペリー接待もやったという話になってしまったのだろうか。しかし外部での伝聞ならともかく、家での伝承までそんな短期間に間違ってしまうものだろうか。
 考えられるのは、
1 八百善の伝承間違い。
2 八百善も請け負ったけれど、なぜか百川の名前だけが残った。
という二つだが、M・C・ペリー『ペリー提督日本遠征記』(角川文庫、2014)をみて、もうひとつの可能性に思いいたった。この本はペリーが米議会へ提出した報告書である。

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 上記の瓦版は、嘉永7年(1854)再度日本へやって来たペリーが、2月10日(太陽暦3月10日)、横浜に上陸して幕府と第一回の会談を行った後の饗応を伝えたものである。たしかにこのとおり饗応したのだろうが、『ペリー提督日本遠征記』には会談の内容は詳しく書かれていても、料理のことはほとんど書かれていない。
 その後3月3日(太陽暦3月31日)に日米和親条約が調印されたあとの饗宴については詳しい記載があり、「焼いた伊勢エビが入った皿、魚の揚げ物、ゆでたエビ二、三尾と白いゼリーを固めたような小さい四角なプディング(下巻p240)」などと書かれている。
 つまり幕府のペリーへの饗応は二度行われていたのだ。とすれば、
3 最初は百川だけで対応したけれど、二回目には八百善も参加した。
ということだったのかもしれない。一か月もたたないうちに二度目では百川単独では対応できなかったのではないだろうか。何の根拠もないけれど、そんなことを考えた。

 ペリー側の感想がおもしろい。

日本委員の饗宴は、賓客たち[アメリカ人}にはさほど好印象を与えたというわけではなかったが、主人側の好意には大いに満足した。その優雅で行き届いた心遣いは、礼儀のうえで欠けるところがなかった。けれども賓客たちは自分たちの前に並べられた珍しいご馳走に、あまり食欲を満たされずに立ち去ったことを白状しなければならない。神奈川では最高の品を手に入れるのが困難なので、食事がみすぼらしいものになってしまったと陳謝されたのは事実だが、ついでながら、このような詫び言は日本人のもてなしにはつきものであつことがそのうちに分かってきた。(p240)

 やっぱり山海の珍味はアメリカ人の嗜好にはあわず、量も足りなかったらしい。
 「神奈川では最高の品を手に入れるのが困難なので」というのは「何もございませんが、どうぞ召し上がれ」と同じ昔からの謙遜というやつだ。『風雲児たち幕末篇5』では、これに対し、ペリーが「だから江戸で会議をやれと言ったのに」とからんだことになっている。

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 このマンガでは一回目と二回目の饗応をまとめて一回ですませているけれど、二回あったのは確かなようである。とりあえず二回目に八百善参加説を提出しておくことにしよう。


  

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2016年4月21日 (木)

建長寺の桜

 建長寺へ行ったのは4月8日。今年の桜ももうピークに達したので、今のうちに行っておかねばと出かけました。

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 鎌倉五山の第1位、円覚寺と並んで鎌倉を代表する寺で、ここも大きい。
 これは西外門(にしげもん)と言うらしい。昔は東外門もがあったけれど関東大震災で倒壊し、北鎌倉駅寄りの西外門だけ再建されたそうです。

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 中に入ると桜が見えました。こちらは総門です。

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 総門の奥は桜並木でした。建長寺は何度か来ていますが桜の季節は初めてなので、ちょっと驚きました。なかなかのものです。

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 三門の少し手前まで桜があります。

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 三門の奥は仏殿

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 この建物は正保4年(1647)に、芝増上寺にあった徳川二代将軍秀忠夫人崇源院(すうげんいん))の御霊屋が移築されたものだそうです。崇源院というのは、NHK大河ドラマでやっていたお江の方です。織田信長の妹お市の方浅井長政との娘で、姉が淀君で、秀忠との娘は千姫、息子は三代将軍家光ですから、当時のセレブ中のセレブです。

 仏殿の内部。地蔵菩薩坐像です。

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 仏殿の更に奥が法堂(はっとう)です。

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 この日はちょうど4月8日。花祭りの支度がされていました。

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 やがて法堂の中では法要が始まり、外ではお釈迦様の像への甘茶かけと焼香が始まりました。灌仏会(かんぶつえ)というのが正式の呼び方でしょうか。

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 これは前が唐門(からもん)で、後ろの青い屋根は方丈です。

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 唐門崇源院御霊屋から移築したもので、関東大震災以来の大修理がようやく2011年に終了し、移築当時の姿が再現されたとのこと、金ピカです。

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 これが方丈

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 方丈の裏には庭園があります。

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 庭に見える建物は得月楼という客殿です。
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 方丈は龍王殿と呼ばれ、座禅会などに使用されています。「高談戯笑を禁ず」です。

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 鐘楼の屋根は葺き替えたばかりのようで、きちんと刈り揃えられ、とてもきれいでした。この梵鐘は国宝だそうです。

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 桜の数はそんなに多いわけではありませんが、綺麗な桜でした。

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2016年4月18日 (月)

八百善の本2

 『食前方丈』は九代目夫人の書いた本だったが、八代目主人の話をまとめた江守奈比古『懐石料理とお茶の話 八代目八百善主人と語る』という本もある(上下、中公文庫、2014。元の本は1964)。

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 カバーの売り文句はこうなっている。

老舗料理屋八百善の八代目主人と茶道研究家。生粋の江戸っ子で、通人の二人が気の向くままに語りゆく。八百善の歴史、ペルリ饗応、江戸料理、かつての魚河岸や吉原の風景、店の常連だった政財界の重鎮たち、懐石料理、茶道、古筆、琳派…。両人の博識と歯切れの良い語り口は読む者を引きこみ、古き良き時代を鮮やかに甦らせる。

 明治の終わりから戦争中までが八代目の時代で、関東大震災で全焼、その後築地に再建した店も空襲で焼失という、激動の時代だったが、八百善の盛名は続いていて、大正・昭和の粋人・通人たちがを主な客だった。大倉喜八郎、益田孝(鈍翁)、安田善次郎、団琢磨、原富太郎(三渓)など、わたしですら知っている財界の大物がどんどんでてくる。
 主人は庖丁を握るようなことはせず、これらの客のお相手をするのが主な仕事だったようだ。八代目は明治26年十歳で養子に来て、やらされた修業が、お茶に書道に漢学、国学だったという。だから八代目も茶人で、茶室の床の間にかける「古筆(こひつ)」という平安朝から鎌倉初期にかけての仮名書きの書のコレクターであり、目利きでもあった。前に紹介した『食前方丈』には、「八代目は「西行になりたいやね」と言うのが口ぐせで、料理屋よりも茶の道、とくに古歌、古筆に熱心な人であった。(p224)」と書かれている。

 だからこの本は、八百善の歴史の他に懐石料理の献立や茶の道具の話が大きな柱にになっている。そのあたりの話はわたしにはほとんどわからないけれど、道具屋どうしの駆け引きの話はおもしろい。玄人相手なら何をやってもかまわない。贋物をつかまされるのは修業が足りないからだという時代があったそうだ。
 道具屋同士の話ではないが、三渓園の話もあった。八百善の茶室には蒔絵の炉縁がはまっていた。お茶の先生が古い炉縁に桃山風の蒔絵を書かせたもので、よく時代が出ていた。あるときそれを見た道具屋が無理矢理高値で買っていった。その後三渓園の臨春閣の茶室へ行ったら、それが立派に桃山時代の高台寺蒔絵としておさまっていた。八百善は贋物として売ったわけではなく、道具屋に原三渓が騙されたのだが、なんだか悪い事をしたような、すまない気がした、と書いてある。

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 上巻に、東京では砂糖を使いすぎで材料本来の味を殺している、という話があって、対談相手の茶人江守奈比古がこう言っている。

「東京の菓子はただ甘いというのが多いです。これが名古屋の両口屋とか大阪の鶴屋八幡とか金沢の森八とかになると、小豆なり、白小豆なり、使用する豆の本来の味と甘みがよく出ているではありませんか。」(p85)

 これを読んで、昔わたしが結婚したときのことを思い出した。父の代理で兄が形ばかりの結納にやってきて、その後義父と一緒に飲んだ。深川の木場の材木屋に生まれた義父は根っからの東京自慢で、話のついでに菓子についても「名古屋になんかうまいものありますか」と言った。
 その場ではそんなそぶりは見せなかったが、後で根っからの尾張人の兄はわたしに怒った。名古屋から土産の菓子を持って来ているのに、なんかうまいものありますかとはなんだ、といいうわけである。単なる東京自慢の一環で、深い意味はないからとなだめたが、兄は納得したかどうか。そのとき手土産に持ってきたのが両口屋の菓子だった。
 義父が亡くなってからもうずいぶんたつなあ、とちょっと感慨にふけったが、これは八百善とは関係ない話。

 話を戻すと、九代目の妻をモデルにして書かれたのが、宮尾登美子の小説『菊亭八百善の妻』である。

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 こちらの方のカバーの売り文句はこうだ。

深川木場育ちの汀子は、戦後まもなく料亭八百善の次男に嫁いだ。長い歴史をもち江戸文化の極みと謳われた八百善も、店を戦火で失っていた。やがて再開した店で、江戸文化の粋、味の風雅を現代に伝えたいと懸命に努めるが…。現代の変化のなかで傾いていく老輔を、もちまえの明るい気性で健気に支える汀子を主人公に、滅びゆく文化の最後の輝きと、その再生を遠望する感動の長編小説。

 上記のとおり、これは「細うで繁盛記」ではなく、時代の波にあらがいながらも次第に沈んでいく老舗の物語である。空襲で焼けた八百善は、昭和27年永田町に新しく店を出す。そのとき、八代目が九代目にこう語る。

「いいかい、仮りにも八百善だからね。床の掛物が何かわからないようなお方は、客としては来て欲しくはないやね。
 ここら辺りは国会も近いし、これからは政治家なんかが申込んでくるかもしれないが、くれぐれもそんなの受けちゃいけないよ。
 うちは江戸の昔から風流の判るお方のつどいの場所だった。酔っ払って政治の駆引きの場に使われるようになっちゃおしまいだ。」(p228)

 現代の永田町でこの方針では、とてもやっていけないだろうことは誰にもわかる。関西の料亭の東京進出もあって、八百善は次第に傾いていく。
 板前との恋愛めいた感情のやりとりがサイドストーリーになっている。このあたりが作者の得意分野で、創作なのだろうけれど、わたしには不要の話と感じられた。まあこれがあるからテレビドラマにもなったのだろうけれど。

 これは十代目の本。栗山善四郎『釣り道楽・食道楽 釣った魚をおいしく食べる』(中公文庫、1996)

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 サブタイトルのとおり、季節ごとのに釣れる魚の下ごしらえ、おろし方から料理方法までを紹介した本である。
 写真を見ると、料理を盛った器がみんな、それなりの由来のあるものようだ。八百善伝来の器なのだろう。

 

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2016年4月14日 (木)

三渓園の桜

  4月4日(月)は三渓園へ花見に出かけました。正門を入るといきなりこの景色です。

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 桜はきれいだし、景色も風情があってとてもいい。しかし、帰ってから写真を見てみると観光絵はがきでよく見るような構図ばかりです。

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 この三重の塔が決まりすぎで、これを入れるとみんな古き良き日本!みたいな絵柄になってしまうのです。逆に考えると、これ一つが風景全体を支配しているということです。

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 この山の上にこの塔を持ってきた原三渓の慧眼というか、審美眼の確かさなのでしょう。むろん塔が欲しいからと言って誰でも持ってこられるというものではありません。大正3年(1914)に京都府木津川市の燈明寺というお寺からから譲り受け、運ばせて組み立てたわけですから、どれほどのお金がかかったことでしょう。他にも同じように遠くから運ばせた建物がたくさんあり、それを全部個人のお金で賄っているわけですから、凄い財力のなせる技でもあったわけです。

 今回は塔のある山の上まで登ってみました。

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 山頂には展望台もあって海が見えますが、このとおり、埋め立て地にコンビナートが広がっています。三渓の頃は山の下まで海だったそうですから、いい眺めだったことでしょう。

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 山道から見えたこの建物は旧燈明寺本堂です。これは昭和62年(1987)に移築されました。

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  これが旧燈明寺本堂の正面。燈明寺は明治以降急速に衰え、現在は廃寺になっているそうです。神社は残っているそうだから神仏分離のせいでしょうか。

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 前に三渓が岐阜の柳津(やないづ)出身であることを少し書きました(→原三溪は岐阜の人)。その柳津から贈られたという「柳津高桑星桜(やないづたかくわほしざくら)」がありました。薄墨桜もありましたが、そちらはもう終わりというところでした。

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 結婚式があったようです。

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 小川に山吹です。
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 これはヒュウガミズキ(日向水木)と言うらしい。
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 池にいっぱいいたのはキンクロハジロ(金黒羽白)というカモだそうです。

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 猫が集会をやっているところもありました。
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 桜を満喫して帰りました。

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2016年4月11日 (月)

大岡川の桜(南区篇)

 黄金町を過ぎると行政区が南区になって、ここから「南区桜まつり」になるようですが、特に景色が変わるわけではありません。

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 道慶地蔵のところに、ちょっと気になる桜の樹がありました。

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 桜の花がいくつも固まって、大きなダマになってついているのです。写真で隣の樹と見比べるとよくわかります。

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 こういう品種なのでしょう。これはこれできれいですが、

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 こういう普通の桜で別にいいような気もします。まあいろんな桜があるのはいいことです。
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 大岡川から中村川が分岐するあたりです。蒔田公園(まいたこうえん)のあたりまでは桜が少なくなります。

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 蒔田公園の入口です。
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 蒔田公園。ここでメーデーがあったのは、もうずっと昔の話です。

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 蒔田公園を過ぎて、今日の最終目的地、弘明寺(ぐみょうじ)へ向かいます。
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 大岡川プロムナードというと弘明寺から黄金町あたりまでを広く指して使われることもあるようですが、まず思い浮かぶのは弘明寺から井土ヶ谷あたりまでの沿道です。このあたりが一番桜が多いようです。

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 途中で何本かこの札をさげた桜を見ました「ジンダイアケボノ」と書いてあります。
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 ソメイヨシノによく似ています。なんでも東京の神代植物公園に原木があるそうですから「神代曙」なんでしょう。ソメイヨシノより病気に強いらしい戦後植えられたソメイヨシノはそろそろ寿命が来るとかで、一部ではこういう植え替えが行われているようです。
 これがそのジンダイアケボノです。
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ゴムボートも走っていました。
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 このあたりの桜が多い、濃いのは、樹が大きいからです。
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 老木が多いということでしょう。だから植え替えも考えないといけないのかもしれません。
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 もう弘明寺に近いあたりにはアオサギがいました。

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 白鷺もいたのですが、こちらはすぐ飛んでいってしまいました。
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 川まで降りられるところがあったので、行ってみました。

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 写真の橋はさくら橋という人道橋です。奥に並んで観音橋という昔からの橋があります。そこが大岡川プロムナードの終点です。
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 さくら橋には大勢の花見客がいました。

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 これが観音橋。弘明寺商店街に続いています。

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 観音橋の向こう、上流側にもまだ桜はあるようですが、こちらへ花見に行く人ほいないようです。
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 アーケードの弘明寺商店街。この日はにぎやかでした。

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 弘明寺の境内を通って京浜急行弘明寺駅へ出て帰りました。

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桜木町からずっと歩いたのでけっこう疲れました。桜は堪能しました。

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2016年4月 7日 (木)

大岡川の桜(中区篇)

 横浜も桜が満開になったけれど天気がいまいちで、この先もさわやかに晴れる日はあまりないらしい。曇り空でも花のあるうちにと、4月2日大岡川へ出かけました。
 大岡川というのは、横浜南部の上大岡・弘明寺方面から南太田・黄金町・日ノ出町そして桜木町で港へとそそぐ小さな川です。桜並木があって毎年大岡川桜まつりが開催されています。
 これが桜まつりの案内図で、右が下流で港になります。

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 上図の一番右、桜木町の弁天橋から川をさかのぼって行きます。

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 川には艀や台船などがごちゃごちゃしていますが、桜はちゃんと咲いています。

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 わざとらしく桜とランドマークを撮ってみました。

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 4月2日、3日の土日が桜まつりで、屋形船をはじめ観光客を乗せたいろんな船が上り下りしています。

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 客相手ではないでしょうけれど、カヌーも遊んでいました。

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 福富町西公園もお祭りです。
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 桜もなかなかのものです。
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 日ノ出町には桟橋があって、遊覧船が出ています。

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 この近くには台船をステージにしてバンド演奏も行われてにぎやかでした。
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 この日ノ出町から黄金町にかけての一帯は、戦前は大岡川の舟運を利用した問屋街だったそうですが、戦後は京浜急行のガード下などにバラック小屋ができ、焼け出された人などが住み着いて、売春・麻薬の町と言われた時代がありました。黒澤明の映画『天国と地獄』にも出てきました。わたしが横浜へやってきた頃もまだ危険な地域とされていました。
 それが時代とともに、大岡川プロムナードの整備や高架の補修工事、警察の大がかりな取り締まりなど地域と行政による環境改善運動が行われ、高架下に文化芸術スタジオができるなど大きく変貌しました。芸術家を志す若者に創作の場を提供し、ワークショップやイベントを常時開催するなど、アートによる街づくりが大きな柱になっています。

 下の写真の右側の建物が現在の京浜急行の高架下で、ガラス張りのちょっとおしゃれなカフェやアートショップなどになっています。 
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 中には美術書中心の古本屋もあったので、またゆっくり来なければいけません。

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 こんなバンド演奏もやっていて、けっこう若い人が来ていました。このあたり、本当に変わったようです。

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 沿道には屋台もいろいろ出ています。
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 宴会をやる場所も別にありますが、ちょっと狭い。隅田川のような大きな川と違って、こちらは川も沿道も狭いのでいたしかたありません。
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 黄金町駅のあたりからは南区になります。

 

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2016年4月 4日 (月)

八百善の本1

 八百善の名前を初めて知ったのは、杉浦民平の『小説渡辺崋山』だったと思う。学生時代、今はない週刊誌「朝日ジャーナル」に連載されていた。その後上下二冊の分厚い単行本になり、文庫本では八冊という大長編である。
 渥美の田原藩の改革に乗り出した崋山に対し、反対派が、崋山は八百善のような豪華料亭に出入りして贅沢しているけしからん奴だと非難する箇所があったような記憶があるが、たしかではない。手元の文庫本第二巻にはこんな箇所があった。崋山渡辺登が藩の重役を誘って八百善へ連れて行くところである。

 長らく賄役やお留守居役をつとめて年寄りに昇進した弥太夫とちがって、生れによって年寄りを嗣いだ佐藤半助は、まだ八百善のような豪勢な料理屋の門をくぐったことがなかった。八百善に出入りするのは貧乏藩の家老のむすこには、むりだった。が登の方は書画会の二次会などでしばしば出入りしている。とくに文晁先生は、”絵師は文晁、詩は五山、料理八百善、きんぱろう わたしゃひら清(せい)がよいわいな”と自作の小唄に詠みこんだだけに、八百善の常連の一人で、よく登におごってくれたものだ。八百善の主人が『料理通』を上梓したときは、抱一上人が扉画にはまぐりの貝殻二枚を描き、鵬斎老人の漢文の序のあとをうけ、
  経冬而不萎  この蕪は冬を過ごしても萎えず、
  採同於松柏  採って見れば松や柏と同じ緑いろ。
  食之即益美  これを食えば、とても美味だ、
  松柏不可食  松や柏は食えないのに。
 というまずい詩仏の画讃の下に文晁先生は蕪を一つなぐり書きしていた。このように文政の文人はよく八百善に通ったものだ。しかし田原藩家老の出入りできる店でなかったのはいうまでもない。
(漢文の返り点は省略。『小説渡辺崋山(二)再起』、朝日文庫、1982、p218)

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 八百善の四代目主人栗山善四郎が『江戸流行料理通』初編を刊行したのは文政五年(1822)のこと。好評で、天保六年(1835)の第四編まで刊行された。

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       (栗山恵津子『食前方丈』より)

 刊本ではわたしには字がよく読めないけれど、これは『翻刻江戸時代料理本集成第十巻』(吉井始子編、臨川書店、1981)に他の本とあわせて収録され、活字化されている。

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 酒井抱一が画いたはまぐりの貝殻の画はこれ。

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 谷文晁の蕪と詩仏の画讃はこれである。文晁は崋山の画の師だった。

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 この本は、季節ごとの本膳料理、精進料理などの献立の紹介が中心で、料理の作り方はそれほど詳しくは載っていないけれど、当時の料理の貴重な資料となっているようだ。

 九代目の妻、栗山恵津子の『食前方丈 八百善ものがたり』(講談社、1986)には、天保の改革の奢侈禁止令で休業させられたり、安政の大地震で全焼したりという八百善の転変が語られている。

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 その中の「鯉庖丁」の話がおもしろい。
 八百善の主人が職人を連れて京都見物に出かけたとき、名古屋の旅籠で、鯛の庖丁を所望された。江戸の料理職人は四条流だ生間流(いかまりゅう)だなんだという儀式ばったことは不得手で、八百善も儀式庖丁のようなことはあまりやらなかった。
 しかし構うことはない、やっつけろと、職人に包丁をとらせた。 職人はずかずかと進んで、俎の鯉を真っ二つに切って、そのまま引き下がった。それ以上何をするでもないから、宿の亭主が「この庖丁は何というのか」と尋ねた。職人は
「別に何の庖丁ってことはねえが、秤で量ってみてくだせえ」
というから、亭主が量ってみると、頭のほうも尾のほうもきっちり二百匁(約800g)だった。
 これだけの話だが、腕は確かだけれど儀式のような格好つけは嫌いだ、という江戸職人の心意気がうかがわれる。

 江戸料理と関西料理とは違う、と書いてあるが、どう違うかはあまり具体的には書いてない。素材を十分吟味したうえ、相当に手の込んだ調理をしたようだ。
 とにかく豪華で料理が多かった。食べきれないから残りは折り詰めで持ち帰った。詰め物にするものは汁気があってはまずい。日持ちがするよう砂糖醤油などでこっくり煮た。醤油は黒かった。ということだから、刺身のようにその場で食べる物と、持って帰るとははじめから区別して作っていたようだ。宴会料理の残りをを折り詰めにして持ち帰るのは日本の伝統であるが、最近は少しすたれてきたような気がする。

 この本の口絵には、酒井抱一の「鶴掛けの松」とその由緒書きが載っている。

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 十一代将軍家斉が、鷹狩りのとき八百善の別荘にお成りになった。そのとき獲物の鶴を庭の松に架けた青竹にぶら下げたところを抱一が写生したものだという。将軍がやってくるほどの店だったのである。

 

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