« 建長寺の桜 | トップページ | 光明寺の桜2016 »

2016年4月25日 (月)

八百善のペリー饗応

 八百善八代目主人の話をまとめた本である江守奈比古『懐石料理とお茶の話』にも、九代目夫人栗山恵津子の本『食前方丈』にも、幕末、黒船でやって来たペリーの饗応をしたという話がある。
 幕府から、ペリー一行を横浜の応接所で接待するので、料理万端相勤めるようにとお達しがあり、八百善と日本橋の百川(ももかわ)という料理屋とが共同であたった。
 設備もないから、椅子の代わりに増上寺や浅草寺から坊さんの使う曲彔(きょくろく)を借り、テーブルは板で作って白布を敷いた。たくさんの品数の豪華な料理を多数作るので準備するのも大変だった。そのときの献立は関東大震災で失ってしまったが、その後も英国皇子やロシア親王の饗応などをつとめ、そのときの献立は残っている、というものだ。
 百川は日本橋浮世小路にあった料理屋で、落語「百川」の舞台にもなっている。

 これが接待の場面を描いた「横浜応接場秘図」(高川文筌筌画、神奈川県立歴史博物館『特別展 ペリーの顔・貌・カオ』図録より)である。

S800_2
 わたしの愛読するマンガ、みなもと太郎の『風雲児たち幕末篇5』(リイド社、2004)にはこう描かれている。

05
05_110jpg
 マンガのペリーは、山海の珍味をあつめた日本最高級の料理を「何と貧しい料理だ」と言っている。アメリカ人の口に合わなかったのは確かだろう。いったいどんな料理だったのか。
 ちょっとネットで調べてみると、ウィキペディアにはこう書いてある。

横浜の応接所で最初の日米の会談が行われた後、日本側がアメリカ側に本膳料理の昼食を出した。料理は江戸浮世小路百川が2000両で請負い、300人分の膳を作った。2000両を現代の価値に計算すると約1億5千万円近く、一人50万円になる。最上級の食材を使い、酒や吸い物、肴、本膳、二の膳、デザートまで100を超える料理が出された。しかし、「肉料理が出ないのは未開だから」、という偏見や、総じて生ものや薄味の料理が多かったのと、一品あたりの量がアメリカ人にとっては少なかったようで、ペリーは「日本はもっといいものを隠しているはずだ」と述懐している。ただし、「日本は出来る限りのことをやった」と述べたアメリカ側の人物もいる。その後、日本側は何かにつけてアメリカ側に料理を食べに行ったとされる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E8%88%B9%E6%9D%A5%E8%88%AA#.E5.98.89.E6.B0.B87.E5.B9.B4.EF.BC.881854.E5.B9.B4.EF.BC.89.E3.81.AE.E6.9D.A5.E8.88.AA

 二千両が1億5千万円という換算が正しいかどうか気になるが、ともかく豪華な料理がでたけれどアメリカ人には受けなかったのはたしからしい。もうひとつ、百川だけで八百善の名前が出てこないのも気になる。

 横浜市中央図書館の「開国関連の画像を見る」という頁には「武州横浜於応接所饗応之図」という当時の瓦版のようなものがあった。

Photohttp://www.city.yokohama.lg.jp/kyoiku/library/perry/ezugazou/e-177.jpg

 嘉永7年北アメリカ合衆国から艦隊がやってきて、二月十日横浜で応接したということだが、献立の細かい字はよく読めない。ともかくまず酒が出て、吸物、干肴、中皿肴、さしみ、硯蓋、大平、丼、鉢肴などなど、いろんな器に山海の珍味があれこれ出て、そのあと二汁五菜の本膳が出たものらしい。干肴は「松葉するめ」に「結び昆布」らしいから、アメリカ人の口には合いそうにないが、すごい品数で手の込んだものであることはなんとなくわかる。
 それで最後の行を見ると「右仕出し江戸浮世小路百川茂左衛門金貳千両にて仕差上申候以上」とあって、やっぱり八百善の名前は出ていない。

 ネットで見た限りでは、現在残っている当時の文書に八百善の名を書いたものはないようだ。百川の他に浦賀宮下の岩井屋富五郎の名前が出ているものもあるという。
 明治の初めに八百善がロシアの親王やイギリスの皇子を接待したのは、献立も残っており間違いない。それがペリー接待もやったという話になってしまったのだろうか。しかし外部での伝聞ならともかく、家での伝承までそんな短期間に間違ってしまうものだろうか。
 考えられるのは、
1 八百善の伝承間違い。
2 八百善も請け負ったけれど、なぜか百川の名前だけが残った。
という二つだが、M・C・ペリー『ペリー提督日本遠征記』(角川文庫、2014)をみて、もうひとつの可能性に思いいたった。この本はペリーが米議会へ提出した報告書である。

Photo_5  Photo_7

 上記の瓦版は、嘉永7年(1854)再度日本へやって来たペリーが、2月10日(太陽暦3月10日)、横浜に上陸して幕府と第一回の会談を行った後の饗応を伝えたものである。たしかにこのとおり饗応したのだろうが、『ペリー提督日本遠征記』には会談の内容は詳しく書かれていても、料理のことはほとんど書かれていない。
 その後3月3日(太陽暦3月31日)に日米和親条約が調印されたあとの饗宴については詳しい記載があり、「焼いた伊勢エビが入った皿、魚の揚げ物、ゆでたエビ二、三尾と白いゼリーを固めたような小さい四角なプディング(下巻p240)」などと書かれている。
 つまり幕府のペリーへの饗応は二度行われていたのだ。とすれば、
3 最初は百川だけで対応したけれど、二回目には八百善も参加した。
ということだったのかもしれない。一か月もたたないうちに二度目では百川単独では対応できなかったのではないだろうか。何の根拠もないけれど、そんなことを考えた。

 ペリー側の感想がおもしろい。

日本委員の饗宴は、賓客たち[アメリカ人}にはさほど好印象を与えたというわけではなかったが、主人側の好意には大いに満足した。その優雅で行き届いた心遣いは、礼儀のうえで欠けるところがなかった。けれども賓客たちは自分たちの前に並べられた珍しいご馳走に、あまり食欲を満たされずに立ち去ったことを白状しなければならない。神奈川では最高の品を手に入れるのが困難なので、食事がみすぼらしいものになってしまったと陳謝されたのは事実だが、ついでながら、このような詫び言は日本人のもてなしにはつきものであつことがそのうちに分かってきた。(p240)

 やっぱり山海の珍味はアメリカ人の嗜好にはあわず、量も足りなかったらしい。
 「神奈川では最高の品を手に入れるのが困難なので」というのは「何もございませんが、どうぞ召し上がれ」と同じ昔からの謙遜というやつだ。『風雲児たち幕末篇5』では、これに対し、ペリーが「だから江戸で会議をやれと言ったのに」とからんだことになっている。

05_111jpg
 このマンガでは一回目と二回目の饗応をまとめて一回ですませているけれど、二回あったのは確かなようである。とりあえず二回目に八百善参加説を提出しておくことにしよう。


  

|

« 建長寺の桜 | トップページ | 光明寺の桜2016 »

なむや文庫雑録」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 八百善のペリー饗応:

« 建長寺の桜 | トップページ | 光明寺の桜2016 »