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2016年5月

2016年5月30日 (月)

「家族はつらいよ」

 5月20日映画「家族はつらいよ」を見た。

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 山田洋次監督で、「東京家族」と家族の構成は同じ。橋爪功吉行和子の夫婦がメインで西村雅彦夏川結衣が長男夫婦、中嶋朋子林家正蔵が長女夫婦、次男の妻夫木聡の恋人が蒼井優となっている。
 小津安二郎の「東京物語」を現代版にしたのが「東京家族」で、さらにそれを喜劇にしたのが「家族はつらいよ」なので、先の二作を見ているととてもわかりやすい。見ていなくても楽しく笑える。

 モーレツサラリーマンの後、隠退生活をおくっている一家の主人(橋爪)は、昔ながらのワンマンで、脱いだ靴下も片づけないし、妻に優しい言葉などかけたことがない。しかし家族のために必死でがんばってきたことなど、わざわざ言わなくてもみんなわかってくれていると信じていた。
 ところが、誕生日のプレゼントを忘れていたことから妻に欲しいものを聞いてみると、なんと答えは「離婚届」だった。困っているところへ、長女は夫ともめごとが起こって駆け込んで来るし、独身の次男は恋人を紹介しようと家に連れてくる。家族会議を開けば、長男夫婦の間にこれまでの不満が噴出してしまうし、果ては主人の浮気の疑いまで発生、とドタバタ大騒動…というのがあらすじ。

 家族それぞれの本音がはしなくも暴露され、言葉の行き違いや感情のすれ違いから抜き差しならないところまで行ってしまいそうになっても、そこは山田洋二の作品なので、最後はきちんと収まるところに収まるのだろうと安心して笑っていられる。笑わせながら観客に家族というものを考えさせる、みんな不完全な人間でそれぞれにエゴがありから、ぶつかったり喧嘩することもあるけれど、なんとかやっていく、やっていけるのが家族なんだよ、ということでしょう。
 このあたり、若い頃なら生ぬるいと感じたところだけれど、程良い加減でまとめられていると感じるのは、やっぱり歳のせいだろうか。

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 登場人物の言葉遣いが、現代の横浜市青葉区の住宅地にしてはちょっと古くさく、丁寧で柔らかい。小津安二郎の映画のようだったけれど、違和感は感じず、これも歳のせいだろうが、逆に落ち着いて感じられた。だから修羅場で飛び交う言葉も笑って聞けた。これをリアルにやったら、ずっと下品でいやな感じになっただろう。
 話のつなぎの場面では、何かにぶつかる、つまずく、階段を踏み外す、物を落とすなどの古典的なギャグが多用される。寅さん映画でもそうだった。これも若い頃はマンネリだ、古いと感じていたものだった。それが今では、これは定番のくすぐりの技として評価していいと思うくらいになった。昔から奇をてらっただけのあざといギャグは嫌いだったけれど、歳とともに映画の見方も変わるものだ。進歩か退行か知らないが。

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2016年5月26日 (木)

鎌倉七口:極楽寺切通

 成就院虚空蔵堂の間の道が極楽寺切通です。

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 この切通はすっかり普通の道路になってしまっているので史跡指定はされていません。

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 永井路子は、もとの道は今の道よりかなり高いところにあって、今の成就院のあたりを通っていた。鎌倉の街や山を見通すことができ、軍事的に重要な場所だった。新田義貞の鎌倉攻めのときもここでは血みどろの戦いがくりかえされた、と書いています。(『鎌倉の寺』、保育社カラーブックス、1967、p135)

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 おなじみ鎌倉町青年団の極楽寺坂の碑があります。

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此所往古畳山ナリシヲ極楽寺開山忍性菩薩疏鑿(そさく)シテ一條ノ路ヲ開キシト云フ  即チ極楽寺切通ト唱フルハ是ナリ 元弘三年ノ鎌倉討入リニ際シ 大館次郎宗氏 江田三郎行義ハ新田軍ノ大将トシテて此便路ニ向ヒ  大佛陸奥守貞直ハ鎌倉軍ノ大将トシテ此所ヲ堅メ相戦フ

 元弘三年は1333年、「いちみさんざん北条氏」の年、新田軍の大館宗氏らがここから鎌倉に討ち入ろうとし、鎌倉軍は大仏貞直を大将としてこれを迎え討ったとあります。
 かなりの激戦で、大館宗氏軍は一度は極楽寺坂を突破するのですが、大仏軍の新手に打ち破られ、宗氏は戦死してしまいます。そしてその後、化粧坂の攻め口にいた新田義貞軍がこちら側にまわって、稲村ヶ崎から鎌倉に攻め入り北条氏を滅ぼします。このとき義貞が海に大刀を投じ神に祈ったら、たちまち潮が引いて干潟があらわれ、そこから攻め込んだ、というのは有名な伝説です。

 『一度は歩きたい鎌倉史跡散歩』(奥富敬之、奥富雅子、新人物往来社、2010)に「新田軍攻撃路」という地図があったので、ちょっと赤で囲ったりしてみました。

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 ここを極楽寺坂というのは極楽寺という寺があるからです。

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 この寺の境内は撮影禁止なので、とりあえず周辺の写真だけ載せておきます。
 極楽寺の入口にある導地蔵(みちびきじぞう)。 

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 江ノ電の極楽寺駅

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 もう40年も前のテレビドラマ『俺たちの朝』など、この周辺が舞台のドラマがいくつかあって、この駅はけっこう有名です。最近では映画「海街diary」がこのあたりを舞台にしているそうです。これは見ていません。
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 長谷側にトンネルがあります。極楽洞といって、鎌倉市景観重要建築物等に指定されています。明治40年(1907)の竣工です。
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 これは日限六地蔵

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 このシャッターはいただけないなと思って見たら、こんな看板がありました。
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 「盗難・悪戯が激しく、こともあろうに心無い酔漢により佛像が破壊されるに至りました。」とあります。末世であります。 合掌。

 

 

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2016年5月23日 (月)

成就院の境内

 虚空蔵堂の道路を隔てた向かい山にあるのが成就院(じょうじゅいん)です。その間の道路が、山を削ってつくられた極楽寺切通です。

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 参道は東(長谷寺)側と西(極楽寺)側の二つあるのですが、東側は工事中で通行止めでした。

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 こんな看板がありました。

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 参道のアジサイが有名なのですが、工事期間中はアジサイもお休みとのことです。植え替えをするのでしょう。この日は東側の参道は通行止めで、西側から登りました。この階段は除夜の鐘と同じ108段だそうです。

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 これが本堂。

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 境内は狭いのですが、いろんなものがあります。
 これは子安地蔵子生み石。安産・子育て・子授けに功徳があるそうです。

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 これは縁結び不動明王像。ここの本尊は不動明王でその分身だそうです。
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聖徳太子1300年忌(大正10年?)に建立された夢殿をかたどった八角の小堂。
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 河口慧海がチベットから持ち帰った釈迦菩行像。レプリカです。
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 弘法大師像
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 これは「なでかえる」というそうです。「善心廻幸」と書いてあります。最近ときどきこの手の癒やし系だかなごみ系だかの像をお寺でも見ますが、わたしとしてはちょっと違和感を覚えます。

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 これは東側の参道です。今は立ち入り禁止ですが、鎌倉の海と街が一望できます。

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 アジサイが咲くようになったらまた来ることにしましょう。

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2016年5月19日 (木)

星の井と虚空蔵堂

 極楽寺坂へ行ったのは5月5日でした。長谷のほうから行くと右手に星の井虚空蔵堂(こくうぞうどう)があります。

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 手前の碑は「星月井」になっています。「星の井」または「星月の井」あるいは「星月夜の井」と呼ばれる井戸です。鎌倉十井のひとつです。

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 この井戸の中には昼でも星が輝いて見えたという伝説からこの名があるそうです。しかしあるとき近くの下婢が誤って庖丁を井戸に落として以来、星影は見えなくなってしまったといいます。
 また行基がこの地を訪れたとき、井戸の中の輝きを見て井戸水をさらってみると光り輝く石があった。行基はそれを虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)の化身として、お堂を建ててまつった、それがこの寺の起こりであるという伝説もあります。
 そういえば、板東三十三カ所観音第八番、神奈川県座間市の星谷寺(しょうこくじ)にも「星の井」があって、昼でも星が見えたという伝説がありました。それに行基が森の中で金色の光を見て観音像を発見し、お堂を建てたという伝説もあります。井戸の中の光りではないにせよ、よく似ています。しかし行基菩薩や弘法大師には全国に同じような伝説がいくつもあるのでしょうから、ここで詮索するのはよしておきましょう。
 ともかく昔はまわりに木がうっそうと繁ってとても暗かった、そして井戸も相当深かったのでしょう。今は蓋があって中はのぞけないし、まわりは明るく開けています。
 「星月夜(ほしづきよ、ほしづくよ)」という言葉は、鎌倉につく枕詞でもあります。星月夜は暗いから鎌倉の「くら」にかかるという説と平安後期の歌集「永久百首」にあるこの歌から来ているという説があるそうです。

 「われひとり鎌倉山をこえゆけば星月夜こそうれしかりけり

 暗いからというダジャレ説より、この歌由来説を支持したいけれど、わたしには本当のところはわかりません。
 さて階段を登ると虚空蔵堂です。正式名称は明鏡山円満院星井寺(みょうきょうざんえんまんいんほしいでら、(「せいせいじ」とも言うようだ))と言って、現在は道路をはさんで向かいの山にある成就院(じょうじゅいん)の管理下にります。

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 階段の上には狛犬。上は狭いけれどいろんなものがあります。
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 狛犬の奥が舟守地蔵。その名のとおり海上安全などの御利益があるのでしょう。

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 これが虚空蔵堂
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 仏像が見えますが、御本尊の虚空蔵菩薩が開帳されるのは年に三回のみだそうですから、ご本尊ではありません。

 虚空蔵とは宇宙のような無限の知恵と慈悲が収まっている蔵(貯蔵庫)を意味し、虚空蔵菩薩は人々の願えを叶えるために蔵から取り出して知恵や記憶力、知識を与えてくれるのだそうです。弘法大師も若い頃室戸岬の岩屋にこもって、虚空蔵菩薩の真言を100万遍唱える「虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)を行い無限の知恵を得たとか言います。
 成就院のHPの説明(http://www.jojuin.com/kokuu.html)によれば「虚空とは無限の知恵を表し、御真言<のうぼうあきゃしゃきゃらばやおんありきゃまりぼりそあか>を唱えることで、頭脳明晰になるといわれる。」そうです。
 それなら真言を唱えてみようと思いましたが、「のうぼうあきゃしゃきゃら…」 やってみると舌がもつれてうまく言えません。頭脳明晰は無理のようです。

 

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2016年5月16日 (月)

横浜港遊覧

 5月12日、機会があって横浜港遊覧船マリーンシャトルに乗りました。
 前の日は朝のうち雨、その後も強い風が吹きましたが、この日は快晴。山下公園の新緑が鮮やかでした。

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 花壇には薔薇がたくさん咲いていました。

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 氷川丸の前に修学旅行の中学生たちがやって来ました。なんとしゃべっているのは、なつかしの尾張弁です。わたしが初めて横浜へやって来たのも中学校の修学旅行で、この山下公園へ来たことを思い出しました。

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 当時はこんなビル群はありませんでした。もうよくは覚えていませんが。

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 氷川丸の隣が観光船乗り場で、ここからマリーンシャトルに乗ります。
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 左がマリーンシャトル、右は同じ観光船のマリーンルージュです。
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 マリーンシャトルは総トン数764トン、長さ46.17メートル、幅10.20メートルで乗客定員541名です。

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 二階で、手前はレストランになっています。

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 三階のオープンデッキ。オープンと言っても、透明の囲いがありました。わたしがいたのはここです。

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 濃い青の、マリーンシャトル60分コースを乗りました。

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 大桟橋とランドマークなどみなとみらい方面です。

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 たまたまこの4月30日に大桟橋へ行ったら、イギリスの豪華クルーズ船ダイヤモンド・プリンセスが停泊していました。

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 これは総トン数全115,875トン、全長290メートル、幅41.5メートル、旅客定員2,674名、乗組員1,238名だそうです。

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 この横幅が41.5メートルだから、マリーンシャトルの全長とたいして変わりません。とにかく馬鹿でかい船でした。

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 ダイヤモンド・プリンセスと比べてはかわいそうです。マリーンシャトルだってそれなりに快適です。天気はいいし、波も高くなく、ほとんど揺れませんでした。
 ベイブリッジです。

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 本牧ふ頭のガントリークレーン。
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 自動車運搬船の GENIUS HIGHWAY (ジーニアス・ハイウェイ)。全長 x 幅 が 199.95m X 32.26m、総トン数 58,767tで自動車(小型車)が約6500台積めるそうです。

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 東京電力横浜火力発電所。

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 これも自動車運搬船で、「 AIDA 」(アイーダ?)」です。横腹に見える「WalleniusWALLLENIUS WILHELMSEN (ワレニウス・ウィルヘルムセン)」はスウェーデンの海運会社の名前だそうです。これは 全長 x 巾が199m X 32.26m、総トン数 60,942tで
自動車(小型車)が約6700台積めるとのこと。
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 これは太平洋製糖の工場です。何年か前まで併設の「横浜さとうのふるさと館」という工程などの見学施設を公開していたのですが、今はその施設は閉鎖されているそうです。
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 だいたいこんなところで横浜港周航は終わりました。快晴で波静か、快適でした。







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2016年5月12日 (木)

寸松堂と白日堂

 鎌倉駅の方から長谷寺・大仏方面へ由比ヶ浜大通りを歩いて行くと、こんな建物が目を引きます。

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 屋根の上にお城が乗っているようです。これは寸松堂(すんしょうどう)という鎌倉彫の店です。昭和11年に建てられた店舗併用住宅です。

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 店の前には「鎌倉市景観重要建築物等」指定の金属のプレートがあり、「全体としては寺院建築と城郭建築が合体したような特異な外観が印象的です。」と書かれています。
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 プレートにはさらに「長谷にある白日堂も同一施工者の作品で、その外観も寸松堂と並び印象的です。」とあります。行ってみました。
 これがその白日堂(はくじつどう)です。
 これも鎌倉彫の工房兼住宅で昭和15年の建築、同じく鎌倉市景観重要建築物等に指定されています。
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 これを見て、由比ヶ浜大通りにあるこの建物を思い出しました。ちょっと似ています。前は新聞店だったようですが、今はもうやってないようです。昔このあたりではこういう建て方が流行っていたんでしょうか。 
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 歴史的な建築物とは言えませんが、由比ヶ浜大通りには、こんな店もあります。
 これはなんだ、怪しげな宗教関係の店かと思ってしまいます。
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 「ワークショップ・ギルド」という、手作りアクセサリーの店で、ストラップやキーホルダー、ペンダントなどを売っているそうです。わたしには場違いな店なので、中へ入ったことはありません。

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2016年5月 9日 (月)

鎌倉七口:大仏切通

 大仏の後は、大仏切通(だいぶつきりどおし)へ行きました。

 鎌倉は南を海、東北西の三方を山で囲まれた要害の地で、外から鎌倉へ入るには、山を切り開いた切通(きりどおし)と呼ばれる道を通らねばならなかった。これは交通を容易にする道であるとともに、外的の侵攻から守るための拠点でもあった。だから場所によってはわざと馬一頭が通れるくらいの狭い道にしたり、曲げたり、上から石などを落とせるよう垂直に切り立てた崖にしたりしました。
 グーグルの現在の航空写真を見ても、鎌倉が三方を山に囲まれた都市であることがよくわかります。昔はもっと山が多かったことでしょう。

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 上図のように、名越(なごえ)切通・朝夷奈(あさいな)切通・巨福路坂(こぶくろざか)・亀ケ谷坂(かめがやつざか)・仮粧坂(けわいざか)・大仏(だいぶつ)切通・極楽寺(ごくらくじ)切通があり、「鎌倉七口(ななくち)」あるいは「鎌倉七切通」と呼ばれています。釈迦堂切通は、鎌倉内の切通であるため七口には数えられません。

 大仏切通は、その名のとおり、大仏から藤沢方面へ向かう道、現在の大仏坂トンネルの上を通っています。下の写真の右に見える階段を登ります。

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 これがけっこう急な登りでした。
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 ここは初めてだったので、分かれ道をハイキングコースとは違う方へ行けばいいと思って進んだら、鎌倉市の長谷配水池へ出てしまいました。

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 配水池から藤沢方面の眺め。切通はありません。

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 来た道を戻って看板を見ると、メインの地図にはありませんが、おまけの拡大図に、もう少し行ったところに切通への分岐が描かれていました。

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 登ったり、

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 下ったりしながら、
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 しばらく行って、ようやく「国指定史跡 大仏切通」がありました。

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 同じ所で振り返って見たところです。
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 鎌倉駅からずっと歩いてきて、そのうえ道を間違えたせいか疲れてしまいました。

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 住友常磐住宅という住宅地の方へ降りて、最寄りのバス停から帰りました。
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2016年5月 5日 (木)

鎌倉の大仏

 4月26日、鎌倉大仏へ行きました。

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 まず仁王門をくぐります。「大異山(だいいざん)」の額があります。ここは「大異山高徳院清浄泉寺(だいいざん・こうとくいん・しょうじょうせんじ)がお寺の正式な名前だそうです。今回初めて知りました。
 

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 仁王門の奥の白い大理石の狛犬がいる門は閉まっていて、この左手が入場口になっています。

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 入口を入ると大仏がすぐ目に入ります。何回来てもその都度、大きい!、と思ってしまいます。
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 高さは台座を含めて 13.35m、像高は 11.3mだそうで、奈良の大仏よりは小さい。

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 大仏様用のわらじ。

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 お堂がなく露座(ろざ)なので公園の銅像のようにも感じられます。だから「鎌倉の大仏」として有名でも、お寺の名前は知られていないのでしょうか。
 昔はちゃんと大仏殿があったけれど、明応4年(1495)の地震による津波で流出したといいます。ここは海から直線距離で1kmはないくらいのところ、十分ありそうです。津波はこわい。
 その大仏殿の礎石があちこちに残っています。これも大きい。

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 改修工事をしたばかりですが、どこをどうしたのかはよくわかりません。

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 大仏の裏には観月堂があります。戦前にソウルから移築されたもので、李朝の王宮内にあった建物と伝えられているそうです。

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 観月堂の右側には与謝野晶子の歌碑があります。 

   かまくらやみほとけなれど釈迦牟尼は
   美男におわす夏木立かな

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 当時は、信仰の対象である尊い大仏様に「美男」とは何事だ、と非難が巻き起こり、また、この大仏は阿弥陀如来で釈迦牟尼ではない、そんなことも知らないのかとも非難されたそうです。しかし現在、その歌碑が当の境内に建てられています。晶子の勝です。

 それほどに美男であるかどうかはちょっと疑問に思いますが、おだやかな、いいお顔です。

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 右の頬には金箔が少し残っているのだそうです。

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 いい天気でツツジが咲き、新緑の季節です。
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2016年5月 2日 (月)

水村美苗講演会

 4月16日(土)、神奈川近代文学館へ水村美苗(みずむらみなえ)の講演会に行ってきた。今年は漱石の没後百年で「100年目に出会う漱石」という特別展をやっていて、その一環である。

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 水村美苗は1990年小説『續 明暗』でデビューした作家である。漱石が未完のまま終わった「明暗」の続きを、漱石の文体を模して話の結着までつけようという、新人としては大それた企ての作品だったが、評判がよく芸術選奨新人賞を受賞した。また2009年の『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』も話題となり、小林秀雄賞を受賞した。

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 だから演題は「漱石と日本と日本語と日本文学」である。
 以下は、講演中のメモをもとに、わたしが理解できた範囲、記憶している範囲でおおまかな内容をまとめたもの。誤解や欠落がたくさんあることと思うので、読む方はあらかじめご承知ください。

<講演会要旨>

 今年は漱石の没後百年。漱石の存在は日本近代文学にとって二つ目の奇跡である。

 一つ目の奇跡は、『日本語が亡びるとき』に書いたが、日本語が近代的な「国語」として成立したこと。
 日本は第二次世界大戦のときアジアで悪いことをしたので、五十年間日本のいいことは言えなかった。特に知識人がそれを許さなかった。しかし、近代文学が西洋以外の国で花開いたというのは奇跡と言っていい。
 それには三つの条件があった。
1 歴史的偶然として漢字が早くから日本に入ってきていたが、中国大陸・半島と一定の距離があったので科挙を取り入れるようなことはなく、日本語が書き言葉(=漢字かな交じり文)として成熟していたこと。
2 江戸時代には資本主義が発達し、書物が市場で流通していたこと。高い識字率もあった。
3 世界史的にはまれなことに、西欧列強の植民地にならずにすんだこと。
 これらの条件から日本では日本語が大学での学問の言葉になった。
 二十世紀のなかばから多くの国が植民地から独立し、それぞれの国の小説や文学が成立しているが、これは日本語より五十年遅かっただけということになるだろうか。英語が広く流通している現代の世界の中で、それらの言語が書き言葉として洗練されていく可能性はあるだろうか。

 そしてさらに、日本にはこのとき漱石が存在したという第二の奇跡がある。

 『日本語が亡びるとき』を書いていたときも漠然と思っていたが、最近谷崎潤一郎を読み直して、漱石との違いをあらためて認識した。漱石が先でよかったと痛感した。
 漱石は1867年生まれ谷崎は1886年で二十年ぐらい違う。芸術家はその人しか作れない石を世界を作り出すが、それはその時代の産物でもある。
 明治期の日本語の変遷は非常に激しいもので、これに比べると戦後70年の変遷などはとてもゆるやかで、どうでもいいくらいのものだ。福沢諭吉が猿でもわかるようにと書いた『学問のすすめ』は文語体だった。『福翁自伝』は口述なので違うけれど、福沢の文章はまだ文語体だった。1868年「五箇条のご誓文」は、漢文ではない最初の公文書だった。
 そして維新からたった二十年で二葉亭四迷の『浮雲』が出てくる。これが言文一致のはじまりで、その十年後の尾崎紅葉の『金色夜叉』は絢爛豪華な文語体で書かれていた。目の前で日本語が変わっていったのだ。
 1906年の島崎藤村『破戒』の書き出し「蓮華寺では下宿を兼ねた」という何の愛想もない、今では当たり前の文章が、当時は破格の文章だった。この頃、言文一致が定着して自然主義が主流になり、現在の書き言葉に近くなった。
 このとき谷崎は二十歳で、すでに平坦な自然主義の文章に反発し、華美な文章を書いていた。文章の流れ、言葉の豊富さ、ストーリー性が谷崎の特徴で、漢字カタカナ書きとか関西弁とかいろんな試みをして、日本語の可能性を追求した。谷崎が大人になったときにはすでに日本語が確立していたから、こういう贅沢なことが考えられた。
 漱石のときにはまだ日本語が確立していなかった。順番が逆で幸運だった。谷崎が先だったら、漱石がやったようなことを追求できたかどうか。できなかっただろう。人間性の問題とか作家としての才能ということではなく、資質がちがった。谷崎は不良で露悪的で、たとえよくないことでも自分の好きなことをする、という人間だった。「近代文学の父」にはなれなかった。

 漱石は、人は正しくあるべきと考え、それを自分に問い。何が正しいことなのか、普遍的に人はどうあるべきか考えた。それが西洋に向かいあった日本人はどうあるべきか、につながった。
 日本は近代化しなければならなかった。それが必要であり、正しいことだった。それは「近代とは何か」という問いにつながった。
 漱石は近代化に嫌悪感を持っていた。しかし近代を思考する中で次第に近代化を理解していった。その原因は、西洋の文学的主題である「恋愛」を自分の作品の中で問い続けたことにある。そこから西洋的な感性や倫理、そして近代化を受け入れていった。
 谷崎は視点が違う。恋愛の是非を倫理的に問うようなことはしない。谷崎は西洋的恋愛とは違い、まったく違うものとして女を見ていた。漱石は、西洋の「女もスピリットを持つ」という考え方に自分の中では反発しながら、それを乗り越えざるをえなかった。

 恋愛は近代文化のあらわれでもある。十八世紀以来、他人を自分の手段としてのみ見てはいけない、尊厳を持って見なければならないという思想が広まった。他人というのは、奴隷、植民地人、女などすべてが含まれる。女を交換の手段として見ることもできなくなり婚姻制度も変わっていって、女も男と同じ人間として扱わざるを得なくなった。
 これは漱石の感性を逆撫ですることだった。漱石山房の漢籍が並んでいるたたずまいを見ても、女を自分と同じに見ることには抵抗があったと思われる。「天は人の上に人を作らず」という「法の下の平等」という考え方は歴史的につくられたもので、漱石が育った文化とは違っていた。
 『文学論』で、自分の英語の学力と漢籍の学力は同程度なのに英文学は嫌い、漢文学は好きで「好悪のかく迄に岐(わ)かるゝは」「これは異種類のものたらざる可からず」、英文学と漢文学は違うものだと言っている。『草枕』には、西洋の詩はどこまでも同情だとか愛だとか、人間のことばかりで俗念を放棄させるようなものはない。「うれしい事に東洋の詩歌はそこを解脱したのがある。採菊下東籬、悠然見南山。」と書いている。

 『虞美人草』は朝日新聞に入社したばかりで相当に意気込んで書いた作品だった。ここではこの好悪が正義にすり替えられている。恋愛を否定しようとしたもので、女のことより天下国家のことを考える、女は親の言うことをきけ、になっている。
 これは、若き英文学者が、恩義ある老いた漢学者の娘と許嫁のような間柄でありながら、美貌で我の強い女「藤尾」にひかれるが、結局、道義にのっとって藤尾の異母兄が許さず、藤尾は死ぬという話である。
 道義の観念をもとにした、西洋でいう喜劇(コメディ)である。日本を鼓舞するために書かれた小説のようなところがあり、藤尾は否定されている。
 当時は評判になり代表作とされたが、現在この作品は人気がない。漱石自身、ドイツ語訳の話が出たとき、「できばえよろしからず」と断っており、失敗作だとわかっていた。藤尾はその必然性がないのにまわりから殺されてしまう。不条理である。しかし活きている。

 恋愛の根底には、女も人間として認めるべきということがある。近代人として生きるなら恋愛も肯定せざるを得ない。女も自然法のもとでは平等だといっても、ただ平等ならいいわけではない。結婚相手をくじで決めるのは平等だからいいのか。みんな同じ服を着ていればいいのか。機会が平等で、そのうえに自由が必要だ。
 ただ自由になれる人間は限られる。特に女は親に左右される。ビクトリア朝の小説では、女は家庭教師になって経済的基盤を得ている。イギリスの女流文学はそのあたりから始まっている。

 漱石の女主人公はだいたい、父親がいなくて、それでもなんとか食べられるという設定になっている。『三四郎』の 美禰子とか、『明暗』お延(のぶ)とか、だから自由だ。知らず知らずに漱石は近代人の女性を書いている。お延は絶対に愛されたいと思う女で、漱石はお延に同情している。これは漱石が進化して、近代を受け入れたということだ。

 自然主義も女について書いたが、漱石ほど恋愛や近代について思考した人はいなかった。谷崎は近代を通らずに平安朝へ行ってしまった。漱石がいたからわれわれは近代化の意義を理解でき、近代人になれた。あの時期に漱石がいたのは第二の奇跡である。
 今回の展示のチラシにあるように、漱石文学は「飲んでも飲んでもまだある、一生枯れない泉」(奥泉光)である。

(質疑応答)
・どうして『續明暗』を書いたのか。
 少女時代からアメリカで育ち、家にあった古い正字・旧仮名遣いの本を読んでいた。
 日本で何を書いていいかわからなかった。若い人の文章と感性が違った。『明暗』が好きだったし、自分が違和感を感じないものを書いた。
 漱石の言葉遣いはコンコルダンスconcordance(語句集)で使用頻度を調べた。仮名遣いには慣れていた。

・漱石、谷崎のそれぞれの最高傑作は何か。
 難しい。谷崎は『細雪』『春琴抄』など。漱石は、まだ小説が確立していない時代なので、構造的な欠陥がある。そのあたりは翻訳するとハッキリする――『道草』『明暗』など。

・なぜ『明暗』の続きを書こうと思ったのか。
 未完でイライラしたから。他にも未完のもの――二葉亭の『浮雲』や尾崎紅葉の『金色夜叉』もあるけど、そちらは…

・漱石と谷崎の倫理観について
 (漱石は倫理的で谷崎はそうではないというのは)話を簡単にするために言った。恋愛の倫理はそう簡単ではない。相手のために自分を手段にできるかという問題もある。
 近代社会ににおける倫理というものはある。貨幣経済の広がり、資本主義の発達。

・日本語は英語にとってかわられるのか。
 小説などを日本語でなく英語で書いている人はすでにたくさんいる。わたしはどうせそのうち死ぬから日本語で書く。(ここで水村氏がケラケラ笑い出したのが不思議だった)小さい頃英語を教えるより、ちゃんと日本語ができる人間にすることが大事。

・森鴎外について
 小説家としては漱石の方が上。
 『青年』は『三四郎』に触発されて書いた。ちょっと気の毒な作品。

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