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2016年5月 2日 (月)

水村美苗講演会

 4月16日(土)、神奈川近代文学館へ水村美苗(みずむらみなえ)の講演会に行ってきた。今年は漱石の没後百年で「100年目に出会う漱石」という特別展をやっていて、その一環である。

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 水村美苗は1990年小説『續 明暗』でデビューした作家である。漱石が未完のまま終わった「明暗」の続きを、漱石の文体を模して話の結着までつけようという、新人としては大それた企ての作品だったが、評判がよく芸術選奨新人賞を受賞した。また2009年の『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』も話題となり、小林秀雄賞を受賞した。

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 だから演題は「漱石と日本と日本語と日本文学」である。
 以下は、講演中のメモをもとに、わたしが理解できた範囲、記憶している範囲でおおまかな内容をまとめたもの。誤解や欠落がたくさんあることと思うので、読む方はあらかじめご承知ください。

<講演会要旨>

 今年は漱石の没後百年。漱石の存在は日本近代文学にとって二つ目の奇跡である。

 一つ目の奇跡は、『日本語が亡びるとき』に書いたが、日本語が近代的な「国語」として成立したこと。
 日本は第二次世界大戦のときアジアで悪いことをしたので、五十年間日本のいいことは言えなかった。特に知識人がそれを許さなかった。しかし、近代文学が西洋以外の国で花開いたというのは奇跡と言っていい。
 それには三つの条件があった。
1 歴史的偶然として漢字が早くから日本に入ってきていたが、中国大陸・半島と一定の距離があったので科挙を取り入れるようなことはなく、日本語が書き言葉(=漢字かな交じり文)として成熟していたこと。
2 江戸時代には資本主義が発達し、書物が市場で流通していたこと。高い識字率もあった。
3 世界史的にはまれなことに、西欧列強の植民地にならずにすんだこと。
 これらの条件から日本では日本語が大学での学問の言葉になった。
 二十世紀のなかばから多くの国が植民地から独立し、それぞれの国の小説や文学が成立しているが、これは日本語より五十年遅かっただけということになるだろうか。英語が広く流通している現代の世界の中で、それらの言語が書き言葉として洗練されていく可能性はあるだろうか。

 そしてさらに、日本にはこのとき漱石が存在したという第二の奇跡がある。

 『日本語が亡びるとき』を書いていたときも漠然と思っていたが、最近谷崎潤一郎を読み直して、漱石との違いをあらためて認識した。漱石が先でよかったと痛感した。
 漱石は1867年生まれ谷崎は1886年で二十年ぐらい違う。芸術家はその人しか作れない石を世界を作り出すが、それはその時代の産物でもある。
 明治期の日本語の変遷は非常に激しいもので、これに比べると戦後70年の変遷などはとてもゆるやかで、どうでもいいくらいのものだ。福沢諭吉が猿でもわかるようにと書いた『学問のすすめ』は文語体だった。『福翁自伝』は口述なので違うけれど、福沢の文章はまだ文語体だった。1868年「五箇条のご誓文」は、漢文ではない最初の公文書だった。
 そして維新からたった二十年で二葉亭四迷の『浮雲』が出てくる。これが言文一致のはじまりで、その十年後の尾崎紅葉の『金色夜叉』は絢爛豪華な文語体で書かれていた。目の前で日本語が変わっていったのだ。
 1906年の島崎藤村『破戒』の書き出し「蓮華寺では下宿を兼ねた」という何の愛想もない、今では当たり前の文章が、当時は破格の文章だった。この頃、言文一致が定着して自然主義が主流になり、現在の書き言葉に近くなった。
 このとき谷崎は二十歳で、すでに平坦な自然主義の文章に反発し、華美な文章を書いていた。文章の流れ、言葉の豊富さ、ストーリー性が谷崎の特徴で、漢字カタカナ書きとか関西弁とかいろんな試みをして、日本語の可能性を追求した。谷崎が大人になったときにはすでに日本語が確立していたから、こういう贅沢なことが考えられた。
 漱石のときにはまだ日本語が確立していなかった。順番が逆で幸運だった。谷崎が先だったら、漱石がやったようなことを追求できたかどうか。できなかっただろう。人間性の問題とか作家としての才能ということではなく、資質がちがった。谷崎は不良で露悪的で、たとえよくないことでも自分の好きなことをする、という人間だった。「近代文学の父」にはなれなかった。

 漱石は、人は正しくあるべきと考え、それを自分に問い。何が正しいことなのか、普遍的に人はどうあるべきか考えた。それが西洋に向かいあった日本人はどうあるべきか、につながった。
 日本は近代化しなければならなかった。それが必要であり、正しいことだった。それは「近代とは何か」という問いにつながった。
 漱石は近代化に嫌悪感を持っていた。しかし近代を思考する中で次第に近代化を理解していった。その原因は、西洋の文学的主題である「恋愛」を自分の作品の中で問い続けたことにある。そこから西洋的な感性や倫理、そして近代化を受け入れていった。
 谷崎は視点が違う。恋愛の是非を倫理的に問うようなことはしない。谷崎は西洋的恋愛とは違い、まったく違うものとして女を見ていた。漱石は、西洋の「女もスピリットを持つ」という考え方に自分の中では反発しながら、それを乗り越えざるをえなかった。

 恋愛は近代文化のあらわれでもある。十八世紀以来、他人を自分の手段としてのみ見てはいけない、尊厳を持って見なければならないという思想が広まった。他人というのは、奴隷、植民地人、女などすべてが含まれる。女を交換の手段として見ることもできなくなり婚姻制度も変わっていって、女も男と同じ人間として扱わざるを得なくなった。
 これは漱石の感性を逆撫ですることだった。漱石山房の漢籍が並んでいるたたずまいを見ても、女を自分と同じに見ることには抵抗があったと思われる。「天は人の上に人を作らず」という「法の下の平等」という考え方は歴史的につくられたもので、漱石が育った文化とは違っていた。
 『文学論』で、自分の英語の学力と漢籍の学力は同程度なのに英文学は嫌い、漢文学は好きで「好悪のかく迄に岐(わ)かるゝは」「これは異種類のものたらざる可からず」、英文学と漢文学は違うものだと言っている。『草枕』には、西洋の詩はどこまでも同情だとか愛だとか、人間のことばかりで俗念を放棄させるようなものはない。「うれしい事に東洋の詩歌はそこを解脱したのがある。採菊下東籬、悠然見南山。」と書いている。

 『虞美人草』は朝日新聞に入社したばかりで相当に意気込んで書いた作品だった。ここではこの好悪が正義にすり替えられている。恋愛を否定しようとしたもので、女のことより天下国家のことを考える、女は親の言うことをきけ、になっている。
 これは、若き英文学者が、恩義ある老いた漢学者の娘と許嫁のような間柄でありながら、美貌で我の強い女「藤尾」にひかれるが、結局、道義にのっとって藤尾の異母兄が許さず、藤尾は死ぬという話である。
 道義の観念をもとにした、西洋でいう喜劇(コメディ)である。日本を鼓舞するために書かれた小説のようなところがあり、藤尾は否定されている。
 当時は評判になり代表作とされたが、現在この作品は人気がない。漱石自身、ドイツ語訳の話が出たとき、「できばえよろしからず」と断っており、失敗作だとわかっていた。藤尾はその必然性がないのにまわりから殺されてしまう。不条理である。しかし活きている。

 恋愛の根底には、女も人間として認めるべきということがある。近代人として生きるなら恋愛も肯定せざるを得ない。女も自然法のもとでは平等だといっても、ただ平等ならいいわけではない。結婚相手をくじで決めるのは平等だからいいのか。みんな同じ服を着ていればいいのか。機会が平等で、そのうえに自由が必要だ。
 ただ自由になれる人間は限られる。特に女は親に左右される。ビクトリア朝の小説では、女は家庭教師になって経済的基盤を得ている。イギリスの女流文学はそのあたりから始まっている。

 漱石の女主人公はだいたい、父親がいなくて、それでもなんとか食べられるという設定になっている。『三四郎』の 美禰子とか、『明暗』お延(のぶ)とか、だから自由だ。知らず知らずに漱石は近代人の女性を書いている。お延は絶対に愛されたいと思う女で、漱石はお延に同情している。これは漱石が進化して、近代を受け入れたということだ。

 自然主義も女について書いたが、漱石ほど恋愛や近代について思考した人はいなかった。谷崎は近代を通らずに平安朝へ行ってしまった。漱石がいたからわれわれは近代化の意義を理解でき、近代人になれた。あの時期に漱石がいたのは第二の奇跡である。
 今回の展示のチラシにあるように、漱石文学は「飲んでも飲んでもまだある、一生枯れない泉」(奥泉光)である。

(質疑応答)
・どうして『續明暗』を書いたのか。
 少女時代からアメリカで育ち、家にあった古い正字・旧仮名遣いの本を読んでいた。
 日本で何を書いていいかわからなかった。若い人の文章と感性が違った。『明暗』が好きだったし、自分が違和感を感じないものを書いた。
 漱石の言葉遣いはコンコルダンスconcordance(語句集)で使用頻度を調べた。仮名遣いには慣れていた。

・漱石、谷崎のそれぞれの最高傑作は何か。
 難しい。谷崎は『細雪』『春琴抄』など。漱石は、まだ小説が確立していない時代なので、構造的な欠陥がある。そのあたりは翻訳するとハッキリする――『道草』『明暗』など。

・なぜ『明暗』の続きを書こうと思ったのか。
 未完でイライラしたから。他にも未完のもの――二葉亭の『浮雲』や尾崎紅葉の『金色夜叉』もあるけど、そちらは…

・漱石と谷崎の倫理観について
 (漱石は倫理的で谷崎はそうではないというのは)話を簡単にするために言った。恋愛の倫理はそう簡単ではない。相手のために自分を手段にできるかという問題もある。
 近代社会ににおける倫理というものはある。貨幣経済の広がり、資本主義の発達。

・日本語は英語にとってかわられるのか。
 小説などを日本語でなく英語で書いている人はすでにたくさんいる。わたしはどうせそのうち死ぬから日本語で書く。(ここで水村氏がケラケラ笑い出したのが不思議だった)小さい頃英語を教えるより、ちゃんと日本語ができる人間にすることが大事。

・森鴎外について
 小説家としては漱石の方が上。
 『青年』は『三四郎』に触発されて書いた。ちょっと気の毒な作品。

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