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2016年6月

2016年6月30日 (木)

銭洗弁天

 源氏山をちょっと降りると銭洗弁天です。

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  正式には銭洗弁財天宇賀福神社(ぜにあらいべんざいてんうがふくじんじゃ)と言い、仏教の弁天様と日本の宇賀神(うがじん)が習合したものだそうです。

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 山をくりぬいたトンネルの向こうに鳥居の列が見えます。

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 抜けると開けた場所があって、手前が社務所、奥が本社です。

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 これが本社です。脇に洞窟があります。

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 洞窟の中が奥宮です。

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 中はこんな感じで、右手に神社があります。

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 正面の湧水は「銭洗水」と呼ばれ、お金を洗うと何倍にもなって戻ってくると信じられています。脇にはザルがたくさん置いてあって、それにお金を入れ、水につけて軽く揺らして洗います。
 昔からお金を洗っているということは、つまりここは日本におけるマネー・ロンダリングの中心地だということになりますが、特にパナマ文書関係者やマフィア関係のような人たちはいないようです。若い観光客がささやかに小銭を洗っていました。
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  本来は、お金を洗うことで持ち主の身と心の不浄も洗い清めるというようなことなのでしょうが、現在では、お金が増える金運パワースポットとしてにぎわっているようです。

 わたしもやってみました。どうせならと一万円札に五百円玉をザルに入れて、ザブザブ洗いました。これで一億円もロンダリングするのは大変です。一万円しかなくてよかった。

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 この後特に金の流れが良くなったようには感じられませんが、そのうち御利益があることを期待してもう少し待ちましょう。

 狭い敷地ですが、山側をちょっと上がった所には上ノ水神宮があり、

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下には下ノ水神宮があります。 

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 湧き水は豊富なようです。鎌倉五名水の一つだそうです。
 

 

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2016年6月27日 (月)

源氏山

 化粧坂を登ったところが源氏山です。

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 ここは鎌倉市の源氏山公園として整備されています。源氏の総大将源頼朝の像があります。

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 源氏山の名前は、その昔、八幡太郎義家後三年の役で陸奥に向かうとき、この山に白旗を立て勝利を祈願したことに由来するもので、白旗山あるいは旗立山とよばれたこともあるそうです。頼朝以前から源氏は、このあたりを東国経営の拠点としていした。

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 公園の一角には、日野俊基の墓があります。

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 日野俊基は後醍醐天皇の命を受け、源氏のつくった鎌倉幕府を滅ぼそうと計画して幕府に捕らえられ、ここ葛原岡(くずはらがおか)で処刑されました。
 この写真は去年の夏のものです。今回はアジサイが供えられていましたが、こちらのほうがきれいなので。

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 そしてその日野俊基を祀った葛原岡神社(くずはらおかじんじゃ)があります。明治20年に創建されたそうです。南朝方の神社が源氏山にあるというのも異なものですが、楠木正成などが人気のあった戦前と違って、日野俊基の名を知る人も少なく、そんなことを考える人もあまりいないのでしょう。

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 左手に合鎚稲荷というお稲荷さんがあって、奥が本殿です。
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 本殿です。
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 俊基卿終焉之地。これも境内にあります。

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 これが合鎚稲荷(あいづちいなり)。鎌倉の刀鍛冶、五郎正宗に縁があるそうですが、よくは知りません。

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 この神社にはあれこれ客の気を引こうとするものがあります。これは縁結び石。

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 これは魔去石(まさるいし)というそうで、一枚百円のかわらけをこの石にぶつけると魔が去って勝(まさ)るのだそうです。

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 おみくじの自動販売機からは雅楽が流れていたり、南朝方はこういう趣味だったのでしょうか。

 源氏山公園は桜と紅葉が綺麗だそうですが、その頃は混むので来たことがありません。多少混むのは我慢して、今度は季節をあわせてきてみましょう。

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 源氏山で有名なのは、さだまさしの「縁切寺」。「今日鎌倉へ行ってきました」という、最近のお土産用の菓子の名前のような出だしの歌です。その一節。

源氏山から 北鎌倉へ
あの日と同じ 道程(みちのり)で
たどりついたのは 縁切寺

 これが源氏山から北鎌倉へ、縁切寺の東慶寺方面へ向かう葛原ガ岡ハイキングコースです。

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 歌のような思い出でもあればともかく、どうということのない普通の山道です。
 この日は反対の銭洗弁天の方へ降りました。

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2016年6月23日 (木)

『あらゆる領収書は経費で落とせる』

 『あらゆる経費は経費で落とせる』(中央公論社新社、2011)は、舛添要一さんの著作ではない。著者の大村大次郎(おおむらおおじろう)というのは筆名で、元国税調査官だそうだ。

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 帯を拡大すると、こう書いてある。

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 やっぱり舛添さんを思い出してしまう。しかし、この本にも家族旅行がそのまま経費になるとは書いてない。旅行費用を経費として落とすには、「1 業務として旅行する、2 社員の慰安旅行にする 3 業務に必要な視察旅行にする 」の三つの方法がある。ただし視察旅行にするためには当然レポートや視察記録が必要で、家族同伴はダメとのことだ。
 帯の文句のように、なんでもかんでも経費で落とせますよというわけではなく、きちんと業務のためであるという説明ができて、さらにそのために使ったという記録や証拠があれば、税務署を説得できるかもしれないという、あたりまえの話が書いてあるだけだった。

 最近の報道によれば、政治活動の経費というのは、政治のために遣ったと政治家本人が申告するだけで認められるものらしい。本当にそのために遣ったかどうかという一番肝心なところが、税金とはちがって野放しだということだ。
 政治のため、政治活動の一環だ。政治家の行住坐臥すべてが政治活動であるというわけで、ある意味凄い。トップリーダーが一日二十四時間この覚悟で活動しているというのであれば、一般庶民は、「がんばってください」くらいしか言うことがない。
 しかし「クレヨンしんちゃん」も中国服も家族旅行も、俺の手の触れるものはみんな政治活動だということになると、さすがに一般庶民には理解できない。理解できないというより、あまりにも身近な案件なので、いくらなんでもこれはちがうとすぐわかる。新銀行東京が千億円の赤字だと言われても巨額すぎて見当がつかないけれど、400円の漫画本や家族旅行のことは身にしみてわかる。
 それを、子どもの言葉遣いについて相談を受けたからとか、その場で会議をやったからと理屈をつけて、どうだこれなら文句ないだろう、と勝ち誇ったように言われてはたまらない。説明する、理解してもらうのではなく、オレは法には触れていないと、あくまで言い負かそうとしていた。やっぱり秀才だから、理屈で負けることはプライドが許さないのだろうし、これまでそうそう負けたこともなかったのだろう。
 中国服を着ると習字が書きやすいという話も、どうだうまい説明だろうと言っているようだった。天下の秀才で元東大法学部助教授、自他共に許す日本のトップリーダーの一人が、こんな子どもの言いわけみたいな説明で通ると思っているらしいのが驚きだった。またこれで元特捜検事の「政治資金規正法に精通した公正な第三者」の弁護士が納得したというのも驚いた。不謹慎かもしれないが、お笑い芸人のバラエティショーなんかよりずっと興味深かった。マスコミが躁状態になってしまったのも無理はないと思ったくらいだ。
 最近漢詩の本を読んでいるので遊びの一句。(平仄はでたらめ)
    書道上達中国服
   政道下落大虚言

 この弁護士のような専門家にはちょっと腹が立つ。法には触れなくても不適切なら、その法をなんとかしようとするのが専門家ではないのか。政治資金規正法は「規制法」ではなく「規正法」だからと、瑣末な話をとくとくと解説したり、素人には複雑でむずかしいからよくわからないだろうけれど、わたしには法的にはやむをえないことがわかる、どうだ凄いだろう、みたいなことを言う専門家たち。複雑なら簡単にし、ザル法なら改めることを考えるのが専門家というものだろう。
 『あらゆる経費は経費で落とせる』も、元国税庁調査官が書いているということだが、元調査官が、税金はできるだけおさめたくない人相手に、こうすればうまく経費で落とせる話を書いて金を儲けていていいのか。法律でも税金でも、自分たちでどんどん複雑にしておいて、その複雑な網目をかいくぐる技術を売り物や自慢にしているような専門家は信用できない。

 辞職により騒ぎは一段落して、法改正などの話は飛んでしまい、話題は次期都知事選という気配になってきた。
 はじめから謝っていれば、舛添さんもこんな目にはあわなかっただろうと言う人は多い。しかし、あの性格を考えると、どこかでマスコミと衝突して、やっぱりしつこくやられたんじゃないかという気もする。
 また、叩かれすぎで可哀想な気もするが、もし逆に叩く方に回っていたら、あの人は激烈な言葉で罵倒したにちがいないとも思う。
 ともかく舛添さんは、議員の政務活動費の内情を明らかにしたあの号泣県議と並んで、政治資金規正法のザル法の実情を明らかにしたトリックスターとして名を残すことになるだろう。これを機に、少しずつでも状況が改善されていくことを願う。

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2016年6月20日 (月)

鎌倉七口:化粧坂切通

 化粧坂切通(けわいざかきりどおし)は、鎌倉から藤沢方面へ抜けて、武蔵国の国府のあった府中へつながる路であったそうです。

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 まず化粧坂という名前が気になります。ウィキペディアには
 ・平家の大将の首を化粧し首実験したから
 ・この辺に遊女がいたからという説
 ・険しい坂が変じたという説
など諸説が書いてあって、定かではないようです。
 また「けわい」というのは、「けはひ=気配」で、「身だしなみを整える」ということ。だから都市に入るとき境界で身だしなみを整えるところという説もあります。化粧坂という地名は各地にあって、そういう位置にあるところが多いとのことです。

 現在の化粧坂には「化粧」の気配はありませんが、舗装道路から坂道に出るあたりには、アジサイが咲いていました。

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 この碑は「鎌倉町」ではなく「鎌倉市青年会」になっています。建立が昭和15年で、前の年、昭和14年に鎌倉は市になっています。

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 舗装が切れると、坂道というより山道になります。

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 ここは新緑の頃がきれいだと誰かが書いていました。新緑よりちょっと濃くなったというところです。

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 道の真ん中にこんな岩があるのは、防衛のためわざと置いてあるものでしょうか。

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 道は険しいけれど、それほどの時間はかかりません。まもなく源氏山公園に出て、切通は終わりです。
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 化粧坂はこれで終わりですが、おまけです。

 化粧坂を降りて海蔵寺の方に向かうとこんな看板のある家があって、さすが鎌倉、という気がします。武田流というのは、鶴岡八幡宮に流鏑馬を奉納している二つの流派のうちのひとつです。先祖の武田信光はこのあたりに屋敷があったといいます。

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 これは英勝寺の近くにある阿仏尼の墓。阿仏尼(あぶつに)は十六夜日記の作者です。
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2016年6月16日 (木)

南無谷は草の中

 6月10日(金)から12日(日)まで南無谷へビワの収穫に行きました。
 今年は冬の寒さにより地域全体が不作、それと収穫時期が例年より早いとのことでした。だからもっと早く行くつもりでしたが、予定より一週間遅れてしまいました。
 昨年ずいぶん枝を落としたうえ、手入れも十分していません。おまけに地域全体が不作とあってははじめからたいした収穫は望めないと思っているところへ、突然よんどころない事情が発生して遅くなってしまいました。

 着いてみると、わが家は草の中でした。

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 覚悟はしていました。これからの季節、来るたびに草刈りです。リゾートを楽しむためではなく、庭の草を刈るために通っているような気もしています。
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 ビワのまわりも草がずいぶん伸びていました。

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 そしてビワの実は、やはり来るのが遅かった。ほとんどが落ちていました。
 だいぶ傷んでいるのや小さいのもあわせて全部でこれくらいですから話になりません。

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 おまけに、食べても今ひとつ甘さが足りない。今年は完敗でした。毎年送っていた親戚関係にも今年はあきらめていただきました。来年はなんとかなるようがんばります。

 こんな写真を出すと、なんだたくさん実ってるじゃないかと思われるでしょうが、これは手入れをしていない実生のビワです。摘花も摘果もしていないからナリ放題でひとつひとつが小さく、袋をかけていないからあちこち傷ついています。

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 豊作なら見向きしなくてもいいのですが、今回はこれも少し採ってきました。ちょっとすっぱめで、そこそこおいしいのです。

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 そんなわけで今回は、収穫が少ない落胆と草刈り労働の厳しさで、あまり意気があがりませんでした。おまけに草刈機(正式には「刈払機」)の、プライマリーポンプという、半球状の部分を指でペコペコ押してガソリンを気化室に送る装置が全然きかなくなって、とうとうエンジンがかからなくなってしまいました。買ったホームセンターへ持って行って聴いてみると、メーカー送りで三週間ぐらい、七、八千円はかかるだろうとのこと。二万円くらいの機械で、いかにも小さくてちゃちな感じの部品の取り替えが八千円というのは理不尽な気がしますが、最近は電気器具でもなんでも、修理というとこんな感じになっています。結局買い換えました。
 買い換えたばかりの刈払機はさすがに好調でしたが、作業に疲れて、新品の勇姿も、草刈り後の風景も写真に撮るのを忘れていました。

 プラムはいつもビワと同じ頃に赤くなるのですが、今年はまだ早い状態でした。ビワの収穫は早くてもプラムは例年どおりマイペースというわけでしょうか。少しだけ収穫して、これも後は落ちるにまかせることになりました。

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 温州ミカンも草の中でしたが、それなりの数の実がついていました。今年はちゃんと収穫したいと思っています。ユズやレモンなど他の柑橘類も元気でした。柑橘類が一番手がかからなくていいような気がします。

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 これは夏ミカン。

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 特筆すべきはプルーンです。今年は収穫と呼べるくらいの数の実がついています。写真はちょっと見にくいけれど、緑色の丸い実がついています。収穫時期の判断が難しいらしいけれど、ともかくこの夏にはとれるはずです。

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 それから、ここのところ恒例になっていた、スズメバチの巣は、幸い今年はありませんでした。あきらめてくれたならいいのですが。
 サルビア・ガラニチカ(メドーセージ)にマルハナバチがやってくるのは相変わらずで、このハチは本当にこの花が好きなようです。

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 メドーセージの上にはデイゴが満開でした。これは幹まで切って、ずいぶん小さくしたんですが、いつのまにか元にもどってしまったようです。
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 雑草の中で目立ったのはこれ、ドクダミです。

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 ちょっと日陰のところみんなドクダミ園になってしまいそうなくらいのさばっていました。
 暑くなってきたこともあり、ちょっと疲れた今回の南無谷行きでしたが、今年は計画的に通って、もう少し手入れをしたいと思っています。


  

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2016年6月13日 (月)

鎌倉七口:巨福呂坂切通

 鎌倉七口、今回は巨福呂坂(こぶくろざか)切通です。鶴岡八幡宮から建長寺の方へ抜ける道です。もっと先の大船に近いあたりには小袋谷(こぶくろや)という地名が残っています。 

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 現在は別に自動車道路があって、巨福呂坂トンネルを抜けて行きますが、もとの道は八幡宮の西側から左の方へ行きます。

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 しばらく行くと、こんな小さなトンネルがあります。

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 横須賀水道トンネル、正式には「巨福呂坂送水管路ずい道」というそうです。前の方にある柱に「旧跡 巨福呂坂」と書いてあるのですが、消えかかっていてよく読めません。
 その右手の道をさらに登っていきます。

 左手にすぐ鳥居が見えてきます。赤い手すりが目立ちます。
 青梅聖天社(おうめしょうてんしゃ)です。
 『新編鎌倉志』という江戸時代の地誌の巻之三には、鎌倉の将軍が病気になって季節はずれの青梅を欲しがった。あちこちたずねていたら、このお宮に突然青梅が実ったので差し上げたら、将軍の病気がなおった。たから「青梅聖天」と名付けられた、と書いてあります。
 梅の木がたくさんあるようですが、この写真は2015年10月のものなので、よくわかりません。

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 けっこう急な階段を登ります。

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 これが聖天社。本尊の双身歓喜天は、鎌倉国宝館に委託されているそうです。お祭りの時以外はあまり人の来ない神社のような感じです。
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 降りて坂道へ戻ると、道祖神がたくさん並んでいます。
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 坂をどんどん登って行くと、突き当たってしまいました。どう見ても私有地で、この先進むわけにはいきません。
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 後日地図を見てみたら、やっぱり行き止まりになっていました。
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2016年6月 9日 (木)

ポンペイ最後の日

 ポンペイの壁画展を見ても、子どもの頃読んだという記憶が不確かなままだったので、図書館から借りた。(リットン『ポンペイ最後の日』、偕成社1965初版、1987改訂版4刷)

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 この本は1965年初版となっている。1965年にはわたしはすでに十八歳で、もっと小さい頃、小学校上級か中学生くらいのはずだから、この本ではない。ネットで検索したところ、これより古い子ども向きの「ポンペイ最後の日」はカバヤ文庫版しか見つからなかったが、カバヤ文庫ではなかったと思う。雑誌の付録にでもあったのか、それともマンガ版があったのか。とりあえず、この偕成社の本は訳者が柴田錬三郎だったこともあり、借りて読んでみた。

 あらすじは次のとおり。
 紀元79年、キリストはすでに死んでいるが、まだローマ帝国に広く認められてはいない頃、ポンペイの町で、キリスト教の伝道師はオリンサスは、ベスビアス火山(ヴェスヴィオ)には不吉なかげがただよっている。主キリストの教えに従うようにと人びとに訴えていた。
 しかしポンペイは、エジプトの神アイシス( Isis=イシス)を奉ずるアーベエシイズ Arbaces という妖僧に牛耳られており、アペサイデスとアイオンという金持ちの兄弟も財産をだまし取られたうえ、さらに悪事に荷担せられようとしていた。
 そこへアーベエシイズの悪事を知った青年貴族グロウカス Glaucus がやってきて助けようとするが、逆にアーベエシイズの陰謀により、アペサイデスを殺した嫌疑をかけられ、円形劇場で獅子と闘わされることになった。
 いよいよグロウカスの前に獅子が引き出されたとき、突然獅子はその場にうずくまり、ベスビアスの頂上から真っ黒な煙の柱が噴き上がり、轟音とともに熱い灰や真っ赤な焼け石が降り注いできた。
 やがて二人を助けてくれた盲目の美少女ニジアも、悪者たちも、町の人びとも、ポンペイの町ごとみんな火山灰の中に沈んでしまった。ようやく逃れることのできた主人公グロウカスとその恋人アイオンは、船の中からじっと遠ざかりゆく廃墟ポンペイを見つめるのだった…。

 話があまりにもご都合主義的で、残念ながらあまり面白くなかった。子ども向きに抄訳あるいは書きなおしているせいかもしれない。
 主人公たちがだんだんキリスト教に好意的になっていって、邪教イシスの神を打ち砕くみたいになっていくのも、いかにも19世紀のイギリス人が正義面して書いたという気がしていけない。事実を調べて書いたものではない。災害パニック映画のはしりのような冒険活劇小説である。。
 原作者のエドワード・ブルワー=リットンは、国際連盟によって満州事変や満州国の調査を命ぜられた、あのリットン調査団のリットンの祖父にあたるそうだ。

 子どもの頃、ライダー・ハガードの『ソロモン王の洞窟』とかヴェルヌの『地底旅行』みたいな秘境冒険活劇物が好きで、そのひとつとして胸躍らせて読んだと思うのだが、これらの本も今読み返すと同じようにがっかりするのだろうか。もう読み返すこともないだろうけれど。

 今おもしろいのはこれだ。ヤマザキマリとり・みき共作の『プリニウス』(新潮社、2014~)。現在第3巻まで出ていて、雑紙「新潮社45」にまだ連載中である。

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 第1巻の冒頭にこの画がある。

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 プリニウス(A.D.23~79)は『博物誌』の著者として知られる。読んだことはないけれど、怪獣とか巨人など非科学的な記事も多いが、天文、地理、動植物など当時の知識を総合した百科全書であるらしい。
 ヴェスヴィオ火山の噴火当時は、ローマ西部艦隊の司令長官の任にあって、友人らを救出のためナポリ弯を渡ってスタビア(ポンペイの少し南)へ上陸し、火山性のガスのため死亡したと伝えられる。
 『テルマエ・ロマエ』(参考→テルマエ・ロマエⅡ)で古代ローマをコミカルに描いたヤマザキマリが、今度はシリアスな古代ローマを描こうとしたのが『プリニウス』で、とり・みきは主に背景を担当している。
 当時の貴族の生活やローマの風俗が克明に描かれていておもしろい。まだ連載中だが、もうヴェスヴィオの噴火が始まったので、もうすぐポンペイ最後の日、そしてプリニウスの死を迎えることになるのだろう。

 下図は塩野七生『ローマ人の物語23 危機と克服(下)』(新潮文庫、2005)にあった火山灰の積もった地域を示す図。スタビアの位置がわかる。

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 最後に、ちょっと長くなるが、塩野七生の前掲書に描かれた「ポンペイ最後の日」を引用しておこう。

紀元七九年当時のポンペイは、十七年前の地震による被害からほとんど立ち直った状態にあった。
 だが、ヴェスヴィオが噴火するとは、誰一人予測していなかった。九百年以上も噴火していなかったので、死火山と思いこんでいたのである。山頂に至るまでの稜線は樹木で埋まり、紀元前一世紀のスパルタクスの乱の当時は、この剣闘士に共鳴した奴隷たちが逃げこむことができたほどで、休火山や活火山特有の荒れた山肌の露出はどこにも見られなかった。これが、死者の数の増大につながった。誰もが、いつもの地震と思いこみ、ゆれが収まるまで、屋内にひそんでじっと待ったたからである。

 ところがその日は、いつもの震動だけでは終らなかった。ゆれにつづいて、熱した火砕石が雨あられと降ってきたのだ。一つずつならば軽量のそれも、つみ重なれば屋根を圧迫する。屋根が崩れ落ちてきたので、人々はやっと脱出する気になったのだが、この時点ではすでに、噴火からは五、六時間が過ぎていた。噴火のはじまりは午後一時前後であったらしく、人々が脱出を決意したときはすでに陽は落ちていたことになる。だがその頃には、降りそそぐ火砕石はより大きくなり、落下の速度も増していた。頭部を衣服やクッションで守りながら、カンテラの火だけを頼りに人々は逃げはじめた。
 しかし、避難する人々の息の根をとめたのは、その後で音もなく襲ってきた、火山灰を多量にふくんだ雲状の低い流れであった。不運にも風下に避難しか人は、どこまで逃げようと、後世がサージと呼ぶことになるこのガス雲から逃れることはできなかった。ボンベイからは五キロ余り南に位置するスタビアエ (現スタビア)でも、サージによる犠牲者は出ている。ポンペイでもエルコラーノでも、犠牲者のほとんどは、窒息死であったようである。八月二十四日の午後一時にはしまったこの悲劇は、翌二十五日の朝には終っていた。ポンペイもエルコラーノも、火砕石と火山灰かつみ重なって出来た四メートルの下に埋没していた。それも、最後のほうでは灰まじりの雨が降っだので、この四メートルはセメントのように固形化してしまったのだ。
 犠牲者の総数は、二千とする人もいれば五千とする人もいる。ボンベイの人口ならば、一万五千から二万の間であったらしい。海ぎわの避寒地エルコラーノでは、住民の多くは海辺に逃れたが、地震によって海も荒れ船の着岸も不可能という状態。火山灰の雲流は、この人々をも包みこんでいった。

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2016年6月 6日 (月)

水村美苗の本

私小説 from left to right

 水村美苗を初めて読んだのは『私小説 from left to right 』(新潮社、1995)だった。

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 これには驚いた。少女期に親とともにアメリカに渡った姉妹の、ある夜の長電話を通して、渡米してからの家族の生活や、アメリカ人にはなりきれず、日本にも違和感を感じざるを得なくなってしまった姉妹の感情が描かれている。会話にも途中で入る回想にもふんだんに英語が混じり、この小説は横書きになっている。

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 最近では横書きの小説本もあるようだが、これは内容から必然的に横書きになった本。「バイリンガル私小説」と誰かが書いていた。日本語から英語、英語から日本語へと自在に移って、それがアメリカと日本の間で生きることを強いられた姉妹の、複雑な感情や思考を表現するのに、まことにふさわしい形式になっている。なめらかな文章で、感動した。

 何年も前に読んだ本なので、内容について細かいことは言えないが、十二歳の時に父親の仕事の都合で家族とニューヨークに移り住んだという自分の経験をもとに、日本伝統の「私小説」として仕立てた傑作である。

 

日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で

 次に読んだのが『日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で』(筑摩書房、2008)。これも非常に評判になった本だ。

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 おぼろな記憶を頼りに言えば、グローバル化の進展に伴い、英語が普遍化するにつれて、英語圏以外では母語と英語を使う人が増えていく。これが百年二百年続いたら、母語が影響を受けないことはありえない。豊かな近代文学を生み出してきた日本語も、そういう高度の文学を生み出すような力は低下していくだろう。今後をどう考え、どうすべきかという本。とても面白かった。
 4月に聴いた講演会(→水村美苗講演会)の中で、「日本語は英語にとって変わられるのか?」という質問に対し、水村が、そんなに今すぐという話ではない、わたしはどうせそのうち死ぬから日本語で書いていると答えて、突然がケラケラ本気で笑い出したのが非常に印象的で不思議だった。日本人の感覚ではこういう対応は理解できない、バイリンガルのせいなのか、と根拠もなく突飛案なことを考えた。

續明暗

 『日本語が亡びるとき』も面白かったから、デビュー作も読まねば、という気になって読んだのが『續明暗』(筑摩書房、1990)
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 しかし、これは感心しなかった。漱石の『明暗』は若い頃読んだきりで、どういう小説だったのか、ろくに記憶もないまま続編を読んだのがいけなかったのかもしれない。わたしの感じている漱石とはちょっと違うような気がして、評価できなかった。
 講演会を聴いて、水村が漱石をどう受け取っているのかがわかったような気がしたので、もう一度、漱石の正編から順に読んだら納得できるのかも知れない。

 

本格小説

 この題名を見たときにはびっくりした。「私小説」の次が『本格小説』(新潮社、2002)とは人を食っている。

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 「本格小説」とは、「私小説」の流行に対して日本で唱えられた、社会的現実を客観的に描く近代小説、という概念である。水村はイギリス近代小説の代表作、E・ブロンテの「嵐が丘」を翻案して戦後の日本に本格恋愛小説を展開してみせた。
 あらすじは、軽井沢の別荘で、上流階級の少女よう子と浮浪児同然の少年太郎との間にほのかな恋が芽生えた。長い時をへだてて、アメリカで大金持ちになった太郎が日本に帰ってきたときには、よう子にはハンサムでやさしい夫雅之がいた、そして…という上流階級の生活あり、三角関係の恋愛ありの「本格小説」ストーリーである。
 『嵐が丘』のヒースクリフが太郎、キャサリンがよう子、エドガーが雅之ということだが、『嵐が丘』を読んだのはもうずいぶん昔のことなのでほとんど忘れていた。そんなに面白くはなかったと記憶している。
 導入部で作者自身が登場して、アメリカで太郎と出会って、というところが、前作の『私小説』とのつなぎになっていて構造的に面白いが、いささか長すぎる。それと一番最後の場面にちょっと不満が残ったが、久しぶりにたっぷりした文章で楽しませてもらったという充足感があった。『嵐が丘』より面白かった。

 この作品の恋愛の部分について、水村がインタビューでこう語っていた。

ところが原作はそんなお行儀のいい物語ではない。夫か恋人か、つまり、あれかこれか、という物語ではなく、夫も恋人もという、あれもこれも、という欲深い物語なんですね。『本格小説』では、その『嵐が丘』の面白さをもっと理想的な形でくり返すことになりました。太郎ちゃんはたとえ不在であっても、よう子ちゃんと雅之ちゃんの関係に緊張をもたらし、二人は並の夫婦よりよほど仲がいいでしょう。太郎ちゃんが再登場したあとは、さらに緊張が高まり、二人はさらに仲よくなる。だいたい、一方で、すっごくハンサムでお金持な恋人がいて、他方で、すっごくハンサムでやさしい旦那さまがいたら最高じゃない(笑)。以前、女性の聴衆を相手に『本格小説』の構想を話したら、「そんないい話、想像もつかないから、何のリアリティもない」って言われちゃったけど(笑)。http://www.shinchosha.co.jp/shinkan/nami/shoseki/407702.html

 

母の遺産 新聞小説

 『母の遺産 新聞小説』(中央公論新社、2012)は実際に読売新聞に連載された(2010~2011)。『私小説』『本格小説』の次が『新聞小説』とくるとは思わなかった。

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 帯にはこう書かれている。

家の中は綿埃だらけで、洗濯物も溜まりに溜まり、生え際に出てきた白髪をヘナで染める時間もなく、もう疲労で朦朧として生きているのに母は死なない。若い女と同棲している夫がいて、その夫とのことを考えねばならないのに、母は死なない。
ママ、いったいいつになったら死んでくれるの?

 このコピーは強烈だ。だから最初は介護小説かと思ったが、それだけではなかった。母が生きてきた歴史を中心として、当時の中流階級の生活などがていねいに描かれている。そして、夫の浮気や、箱根のホテルで出会った今にも自殺しそうな人々などのエピソードがからみ、これからどうなるのかと、読者の気を引く筋書きもきちんとそろっていて、楽しく先へと読ませる。うまいものである。
 「新聞小説」という副題は、芸者上がりの祖母が、当時の新聞小説『金色夜叉』を読んで、自分を主人公の宮さんと同化させてしまったことから、母そして姉妹の悲哀が始まったということからきているが、次回へ次回へと興味を引っ張っていく構成ももちろん意味しているだろう。
 水村のこの次の作品が何小説になるのか、楽しみにしている。個人的には「大衆小説」か「歴史小説」を期待したい。

 

『高台にある家』

 さて、「いつになったら死んでくれるの?」と言われたママのモデル、水村美苗の母、水村節子が書いた自伝小説が『高台にある家』(2012、中公文庫)である。(単行本は角川春樹事務所、2000)

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 水村美苗の母節子が、七十歳を過ぎてからカルチャーセンターの小説教室に通って書いたという。最近見た映画「家族はつらいよ」でも老妻はカルチャーセンターで恋愛小説を書いていた。相当の需要があるものらしい。
 横浜の高台にある西洋風の叔母の家とその裕福な生活に憧れた少女は、関西の長屋で無教養な母と、若い父のもとに育つ。そして母が芸者であったことや自分が庶子であることなど、家族の複雑な過去を知っていく。やがて父と別れ、横浜の叔母の家で青春を過ごし、結婚したのは戦争の時代だった。
 刊行に際して水村美苗の手が入っているとのことだが、描かれている細かいエピソードはいかにもその時代のものらしく、すべて作者の記憶に基づくものだろう。散漫な感じがないでもないが、時代の気分がいっぱい詰まっていて、興味深く読まされる。
 この芸者であった母が、『母の遺産』の『金色夜叉』の宮さんと同化してしまった祖母にあたる。水村美苗は解説に、わたしの書きたかった祖母の小説を母に書かれてしまったと書いている。だから『私小説』~『母の遺産』~『高台にある家』で、明治から昭和に到る三代の女の物語を読むことができる。

 

手紙、栞を添えて

 『手紙、栞を添えて』(朝日文庫、2001)は、朝日新聞に連載された辻邦生(つじくにお)と水村美苗との往復書簡集。(単行本は1998)

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 連載中ときどき読んで、今どき、おっとりと上品に文学について語っている、なんとも浮世離れした人たちだと思った記憶がある。

 

日本語で読むということ

 『日本語で読むということ』(筑摩書房、2009)は、エッセイや批評などを集めた本。

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 いわゆる雑文集で、これと対になって『日本語で書くということ』(筑摩書房、2009)も出ているが、そちらは読んでいない。

 

 

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2016年6月 2日 (木)

ポンペイの壁画展

 5月27日、友人たちと「ポンペイの壁画展」へ行った。
 場所が六本木ヒルズで、初めてだったので美術館へたどりつくまでにちょっと苦労してしまった。
 六本木ヒルズへは難なくたどり着いたのだが、美術館がどこにあるのかよくわからない。
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 最初に入ったところはオフィスの入口で、美術館はあっちだと言われて、たどり着いたのがここ。また悩んだのは「森美術館」という表示。ポンペイ展のチラシに会場は「森アーツセンターギャラリー」と書いてあった。はてこれは同じ物なのかどうか。
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 入ってみるとエレベータがあるが三階までしか行かない。会場は52階だと書いてあった。もう一遍外へ出て確認するが、やっぱりここが美術館の入口だ。
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 三階でエレベーターを乗り換えて、52階が森アーツセンターギャラリーで、53階が森美術館ということだった。おのぼりさん用の解説が欲しかった。
 そんなわけで、電車が少し遅れたこともあり、友人たちとの集合時間にちょっと遅れてしまった。
 
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 ポンペイと言えば、紀元79年にヴェスヴィオ火山の噴火で街全体が灰に埋もれ、それがようやく18世紀になってから堀出されたという有名な遺跡である。
 昔、子ども向けの「ポンペイ最後の日」という物語を読んだ記憶があるし、大人向けの映画もあった。
 「登山電車(フニクリ・フニクラ)」という歌もあった。
赤い火をふくあの山へ
登ろう 登ろう
そこは地獄
の釜の中
のぞこう のぞこう
登山電車ができたので
誰でも登れる
という歌詞で、その一節は「あれは火の山ベスビアス 火の山 火の山」というのだった。
 だから一度ポンペイとベスビオスの現物を見たい思っているが、いまだ果たせない。
 今回はその壁画だけでも見ようというわけだった。
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 壁画だから、みんな建物の壁を飾ったものである。ギリシア神話の神々を題材にした画などは、なるほど西洋絵画の源流がここにあると思わせるもので、火山灰に埋もれていたおかげで色が鮮やかなまま残ったというのもおもしろい。なにしろ二千年前の画である。
 下の写真は壁画のあった部屋を再現したもの。これは貴族の別荘といっても、特別に有名な人のものではないようで、このくらいの建物はそんなに珍しくもなかったのだろう。ローマ帝国の豊かさ、文化的な洗練度を感じる。日本はこのころ弥生時代だ。

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 何年か前に彫刻や工芸品、遺跡の一部などを含めた「遺跡展」があったのに、見損なってしまった。今回はあくまで壁画展なので、ないものねだりだが、ちょっと残念だった。もっといろんな物があれば迫力があったのに、と思う。そのせいか、ちょっと前に若冲の展覧会が凄い混雑だとニュースになっていたが、こちらはゆったりと見ることができた。展覧会はゆったり見られる方がいいけれど…
 これは52階から見た外の様子。手前下の緑地は青山墓地らしい。
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 これは蜘蛛の彫刻。「ママン」という名前で、卵を持っているそうだ。 
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 趣味がいいとは思えない。
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