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2016年6月 9日 (木)

ポンペイ最後の日

 ポンペイの壁画展を見ても、子どもの頃読んだという記憶が不確かなままだったので、図書館から借りた。(リットン『ポンペイ最後の日』、偕成社1965初版、1987改訂版4刷)

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 この本は1965年初版となっている。1965年にはわたしはすでに十八歳で、もっと小さい頃、小学校上級か中学生くらいのはずだから、この本ではない。ネットで検索したところ、これより古い子ども向きの「ポンペイ最後の日」はカバヤ文庫版しか見つからなかったが、カバヤ文庫ではなかったと思う。雑誌の付録にでもあったのか、それともマンガ版があったのか。とりあえず、この偕成社の本は訳者が柴田錬三郎だったこともあり、借りて読んでみた。

 あらすじは次のとおり。
 紀元79年、キリストはすでに死んでいるが、まだローマ帝国に広く認められてはいない頃、ポンペイの町で、キリスト教の伝道師はオリンサスは、ベスビアス火山(ヴェスヴィオ)には不吉なかげがただよっている。主キリストの教えに従うようにと人びとに訴えていた。
 しかしポンペイは、エジプトの神アイシス( Isis=イシス)を奉ずるアーベエシイズ Arbaces という妖僧に牛耳られており、アペサイデスとアイオンという金持ちの兄弟も財産をだまし取られたうえ、さらに悪事に荷担せられようとしていた。
 そこへアーベエシイズの悪事を知った青年貴族グロウカス Glaucus がやってきて助けようとするが、逆にアーベエシイズの陰謀により、アペサイデスを殺した嫌疑をかけられ、円形劇場で獅子と闘わされることになった。
 いよいよグロウカスの前に獅子が引き出されたとき、突然獅子はその場にうずくまり、ベスビアスの頂上から真っ黒な煙の柱が噴き上がり、轟音とともに熱い灰や真っ赤な焼け石が降り注いできた。
 やがて二人を助けてくれた盲目の美少女ニジアも、悪者たちも、町の人びとも、ポンペイの町ごとみんな火山灰の中に沈んでしまった。ようやく逃れることのできた主人公グロウカスとその恋人アイオンは、船の中からじっと遠ざかりゆく廃墟ポンペイを見つめるのだった…。

 話があまりにもご都合主義的で、残念ながらあまり面白くなかった。子ども向きに抄訳あるいは書きなおしているせいかもしれない。
 主人公たちがだんだんキリスト教に好意的になっていって、邪教イシスの神を打ち砕くみたいになっていくのも、いかにも19世紀のイギリス人が正義面して書いたという気がしていけない。事実を調べて書いたものではない。災害パニック映画のはしりのような冒険活劇小説である。。
 原作者のエドワード・ブルワー=リットンは、国際連盟によって満州事変や満州国の調査を命ぜられた、あのリットン調査団のリットンの祖父にあたるそうだ。

 子どもの頃、ライダー・ハガードの『ソロモン王の洞窟』とかヴェルヌの『地底旅行』みたいな秘境冒険活劇物が好きで、そのひとつとして胸躍らせて読んだと思うのだが、これらの本も今読み返すと同じようにがっかりするのだろうか。もう読み返すこともないだろうけれど。

 今おもしろいのはこれだ。ヤマザキマリとり・みき共作の『プリニウス』(新潮社、2014~)。現在第3巻まで出ていて、雑紙「新潮社45」にまだ連載中である。

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 第1巻の冒頭にこの画がある。

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 プリニウス(A.D.23~79)は『博物誌』の著者として知られる。読んだことはないけれど、怪獣とか巨人など非科学的な記事も多いが、天文、地理、動植物など当時の知識を総合した百科全書であるらしい。
 ヴェスヴィオ火山の噴火当時は、ローマ西部艦隊の司令長官の任にあって、友人らを救出のためナポリ弯を渡ってスタビア(ポンペイの少し南)へ上陸し、火山性のガスのため死亡したと伝えられる。
 『テルマエ・ロマエ』(参考→テルマエ・ロマエⅡ)で古代ローマをコミカルに描いたヤマザキマリが、今度はシリアスな古代ローマを描こうとしたのが『プリニウス』で、とり・みきは主に背景を担当している。
 当時の貴族の生活やローマの風俗が克明に描かれていておもしろい。まだ連載中だが、もうヴェスヴィオの噴火が始まったので、もうすぐポンペイ最後の日、そしてプリニウスの死を迎えることになるのだろう。

 下図は塩野七生『ローマ人の物語23 危機と克服(下)』(新潮文庫、2005)にあった火山灰の積もった地域を示す図。スタビアの位置がわかる。

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 最後に、ちょっと長くなるが、塩野七生の前掲書に描かれた「ポンペイ最後の日」を引用しておこう。

紀元七九年当時のポンペイは、十七年前の地震による被害からほとんど立ち直った状態にあった。
 だが、ヴェスヴィオが噴火するとは、誰一人予測していなかった。九百年以上も噴火していなかったので、死火山と思いこんでいたのである。山頂に至るまでの稜線は樹木で埋まり、紀元前一世紀のスパルタクスの乱の当時は、この剣闘士に共鳴した奴隷たちが逃げこむことができたほどで、休火山や活火山特有の荒れた山肌の露出はどこにも見られなかった。これが、死者の数の増大につながった。誰もが、いつもの地震と思いこみ、ゆれが収まるまで、屋内にひそんでじっと待ったたからである。

 ところがその日は、いつもの震動だけでは終らなかった。ゆれにつづいて、熱した火砕石が雨あられと降ってきたのだ。一つずつならば軽量のそれも、つみ重なれば屋根を圧迫する。屋根が崩れ落ちてきたので、人々はやっと脱出する気になったのだが、この時点ではすでに、噴火からは五、六時間が過ぎていた。噴火のはじまりは午後一時前後であったらしく、人々が脱出を決意したときはすでに陽は落ちていたことになる。だがその頃には、降りそそぐ火砕石はより大きくなり、落下の速度も増していた。頭部を衣服やクッションで守りながら、カンテラの火だけを頼りに人々は逃げはじめた。
 しかし、避難する人々の息の根をとめたのは、その後で音もなく襲ってきた、火山灰を多量にふくんだ雲状の低い流れであった。不運にも風下に避難しか人は、どこまで逃げようと、後世がサージと呼ぶことになるこのガス雲から逃れることはできなかった。ボンベイからは五キロ余り南に位置するスタビアエ (現スタビア)でも、サージによる犠牲者は出ている。ポンペイでもエルコラーノでも、犠牲者のほとんどは、窒息死であったようである。八月二十四日の午後一時にはしまったこの悲劇は、翌二十五日の朝には終っていた。ポンペイもエルコラーノも、火砕石と火山灰かつみ重なって出来た四メートルの下に埋没していた。それも、最後のほうでは灰まじりの雨が降っだので、この四メートルはセメントのように固形化してしまったのだ。
 犠牲者の総数は、二千とする人もいれば五千とする人もいる。ボンベイの人口ならば、一万五千から二万の間であったらしい。海ぎわの避寒地エルコラーノでは、住民の多くは海辺に逃れたが、地震によって海も荒れ船の着岸も不可能という状態。火山灰の雲流は、この人々をも包みこんでいった。

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