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2016年6月 6日 (月)

水村美苗の本

私小説 from left to right

 水村美苗を初めて読んだのは『私小説 from left to right 』(新潮社、1995)だった。

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 これには驚いた。少女期に親とともにアメリカに渡った姉妹の、ある夜の長電話を通して、渡米してからの家族の生活や、アメリカ人にはなりきれず、日本にも違和感を感じざるを得なくなってしまった姉妹の感情が描かれている。会話にも途中で入る回想にもふんだんに英語が混じり、この小説は横書きになっている。

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 最近では横書きの小説本もあるようだが、これは内容から必然的に横書きになった本。「バイリンガル私小説」と誰かが書いていた。日本語から英語、英語から日本語へと自在に移って、それがアメリカと日本の間で生きることを強いられた姉妹の、複雑な感情や思考を表現するのに、まことにふさわしい形式になっている。なめらかな文章で、感動した。

 何年も前に読んだ本なので、内容について細かいことは言えないが、十二歳の時に父親の仕事の都合で家族とニューヨークに移り住んだという自分の経験をもとに、日本伝統の「私小説」として仕立てた傑作である。

 

日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で

 次に読んだのが『日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で』(筑摩書房、2008)。これも非常に評判になった本だ。

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 おぼろな記憶を頼りに言えば、グローバル化の進展に伴い、英語が普遍化するにつれて、英語圏以外では母語と英語を使う人が増えていく。これが百年二百年続いたら、母語が影響を受けないことはありえない。豊かな近代文学を生み出してきた日本語も、そういう高度の文学を生み出すような力は低下していくだろう。今後をどう考え、どうすべきかという本。とても面白かった。
 4月に聴いた講演会(→水村美苗講演会)の中で、「日本語は英語にとって変わられるのか?」という質問に対し、水村が、そんなに今すぐという話ではない、わたしはどうせそのうち死ぬから日本語で書いていると答えて、突然がケラケラ本気で笑い出したのが非常に印象的で不思議だった。日本人の感覚ではこういう対応は理解できない、バイリンガルのせいなのか、と根拠もなく突飛案なことを考えた。

續明暗

 『日本語が亡びるとき』も面白かったから、デビュー作も読まねば、という気になって読んだのが『續明暗』(筑摩書房、1990)
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 しかし、これは感心しなかった。漱石の『明暗』は若い頃読んだきりで、どういう小説だったのか、ろくに記憶もないまま続編を読んだのがいけなかったのかもしれない。わたしの感じている漱石とはちょっと違うような気がして、評価できなかった。
 講演会を聴いて、水村が漱石をどう受け取っているのかがわかったような気がしたので、もう一度、漱石の正編から順に読んだら納得できるのかも知れない。

 

本格小説

 この題名を見たときにはびっくりした。「私小説」の次が『本格小説』(新潮社、2002)とは人を食っている。

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 「本格小説」とは、「私小説」の流行に対して日本で唱えられた、社会的現実を客観的に描く近代小説、という概念である。水村はイギリス近代小説の代表作、E・ブロンテの「嵐が丘」を翻案して戦後の日本に本格恋愛小説を展開してみせた。
 あらすじは、軽井沢の別荘で、上流階級の少女よう子と浮浪児同然の少年太郎との間にほのかな恋が芽生えた。長い時をへだてて、アメリカで大金持ちになった太郎が日本に帰ってきたときには、よう子にはハンサムでやさしい夫雅之がいた、そして…という上流階級の生活あり、三角関係の恋愛ありの「本格小説」ストーリーである。
 『嵐が丘』のヒースクリフが太郎、キャサリンがよう子、エドガーが雅之ということだが、『嵐が丘』を読んだのはもうずいぶん昔のことなのでほとんど忘れていた。そんなに面白くはなかったと記憶している。
 導入部で作者自身が登場して、アメリカで太郎と出会って、というところが、前作の『私小説』とのつなぎになっていて構造的に面白いが、いささか長すぎる。それと一番最後の場面にちょっと不満が残ったが、久しぶりにたっぷりした文章で楽しませてもらったという充足感があった。『嵐が丘』より面白かった。

 この作品の恋愛の部分について、水村がインタビューでこう語っていた。

ところが原作はそんなお行儀のいい物語ではない。夫か恋人か、つまり、あれかこれか、という物語ではなく、夫も恋人もという、あれもこれも、という欲深い物語なんですね。『本格小説』では、その『嵐が丘』の面白さをもっと理想的な形でくり返すことになりました。太郎ちゃんはたとえ不在であっても、よう子ちゃんと雅之ちゃんの関係に緊張をもたらし、二人は並の夫婦よりよほど仲がいいでしょう。太郎ちゃんが再登場したあとは、さらに緊張が高まり、二人はさらに仲よくなる。だいたい、一方で、すっごくハンサムでお金持な恋人がいて、他方で、すっごくハンサムでやさしい旦那さまがいたら最高じゃない(笑)。以前、女性の聴衆を相手に『本格小説』の構想を話したら、「そんないい話、想像もつかないから、何のリアリティもない」って言われちゃったけど(笑)。http://www.shinchosha.co.jp/shinkan/nami/shoseki/407702.html

 

母の遺産 新聞小説

 『母の遺産 新聞小説』(中央公論新社、2012)は実際に読売新聞に連載された(2010~2011)。『私小説』『本格小説』の次が『新聞小説』とくるとは思わなかった。

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 帯にはこう書かれている。

家の中は綿埃だらけで、洗濯物も溜まりに溜まり、生え際に出てきた白髪をヘナで染める時間もなく、もう疲労で朦朧として生きているのに母は死なない。若い女と同棲している夫がいて、その夫とのことを考えねばならないのに、母は死なない。
ママ、いったいいつになったら死んでくれるの?

 このコピーは強烈だ。だから最初は介護小説かと思ったが、それだけではなかった。母が生きてきた歴史を中心として、当時の中流階級の生活などがていねいに描かれている。そして、夫の浮気や、箱根のホテルで出会った今にも自殺しそうな人々などのエピソードがからみ、これからどうなるのかと、読者の気を引く筋書きもきちんとそろっていて、楽しく先へと読ませる。うまいものである。
 「新聞小説」という副題は、芸者上がりの祖母が、当時の新聞小説『金色夜叉』を読んで、自分を主人公の宮さんと同化させてしまったことから、母そして姉妹の悲哀が始まったということからきているが、次回へ次回へと興味を引っ張っていく構成ももちろん意味しているだろう。
 水村のこの次の作品が何小説になるのか、楽しみにしている。個人的には「大衆小説」か「歴史小説」を期待したい。

 

『高台にある家』

 さて、「いつになったら死んでくれるの?」と言われたママのモデル、水村美苗の母、水村節子が書いた自伝小説が『高台にある家』(2012、中公文庫)である。(単行本は角川春樹事務所、2000)

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 水村美苗の母節子が、七十歳を過ぎてからカルチャーセンターの小説教室に通って書いたという。最近見た映画「家族はつらいよ」でも老妻はカルチャーセンターで恋愛小説を書いていた。相当の需要があるものらしい。
 横浜の高台にある西洋風の叔母の家とその裕福な生活に憧れた少女は、関西の長屋で無教養な母と、若い父のもとに育つ。そして母が芸者であったことや自分が庶子であることなど、家族の複雑な過去を知っていく。やがて父と別れ、横浜の叔母の家で青春を過ごし、結婚したのは戦争の時代だった。
 刊行に際して水村美苗の手が入っているとのことだが、描かれている細かいエピソードはいかにもその時代のものらしく、すべて作者の記憶に基づくものだろう。散漫な感じがないでもないが、時代の気分がいっぱい詰まっていて、興味深く読まされる。
 この芸者であった母が、『母の遺産』の『金色夜叉』の宮さんと同化してしまった祖母にあたる。水村美苗は解説に、わたしの書きたかった祖母の小説を母に書かれてしまったと書いている。だから『私小説』~『母の遺産』~『高台にある家』で、明治から昭和に到る三代の女の物語を読むことができる。

 

手紙、栞を添えて

 『手紙、栞を添えて』(朝日文庫、2001)は、朝日新聞に連載された辻邦生(つじくにお)と水村美苗との往復書簡集。(単行本は1998)

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 連載中ときどき読んで、今どき、おっとりと上品に文学について語っている、なんとも浮世離れした人たちだと思った記憶がある。

 

日本語で読むということ

 『日本語で読むということ』(筑摩書房、2009)は、エッセイや批評などを集めた本。

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 いわゆる雑文集で、これと対になって『日本語で書くということ』(筑摩書房、2009)も出ているが、そちらは読んでいない。

 

 

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