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2016年8月

2016年8月29日 (月)

佐助稲荷のキツネたち

 佐助稲荷(さすけいなり)は銭洗弁天のすぐ近くです。

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 山の下に下社があります。

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 下社の前から参道が山へ延びています。

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 赤い鳥居がずっと続いています。

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 鳥居をくぐって登っていきます。
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 これらの鳥居は信者からの寄付によるものです。信者が願をかけるとき、あるいは願がかなったときのお礼のために寄付します。鳥居のひとつひとつに寄進者の名前がついています。
 ぎっしり並んでいますが、ところどころに隙間があいているところもあります。まだまだ建てられます。
 鳥居1基30万円だそうです。幟(のぼり)は一対1万円、一本なら5千円。お守りなどの授与所に貼紙がありました。

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 奥にさらに階段がありました。

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 階段を登り切ったところが拝殿です。
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 30万円の件はまた今度考えるとして、今回はささやかにお賽銭をあげておきます。
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 拝殿の奥にはまだ階段があって、その上が本殿です。
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 これが本殿
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 本殿の前には陶製の小さなキツネたちがぎっしり並んでいます。この神社には、本殿に限らず、あちこちにこのキツネたちがいます。

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 この陶製のキツネは霊孤と呼ばれ、これも願掛けやお礼に供えるもののようです。一対で大が3,000円、中が2,000円、小が1,500円と、これも授与所に書いてありました。
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 境内には小さな古い祠をあつめて陶製の霊孤を並べ、キツネタウンのようになっているところもあります。祠はみんな苔むしています。
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 霊孤泉という湧き水もあります。

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 この看板には「佐助の稲荷山は往古(むかし)より麓の田畑を潤す水源の地なり。生命の基のこの湧水を人々霊狐の神水と称え家々の神棚に供えて稲荷のご神徳を戴くなり。今に至るも絶えず湧き出づる霊狐の泉なり。」とあります。
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 近くには「源十郎弥十郎事(佐助稲荷霊験譚)」という看板もありました。
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 読んでみるとこれがなかなかおもしろい。キツネの恩返しです。

 犬に追われていたところを魚屋の源十郎に助けられたキツネが、その夜源十郎の夢にあらわれて告げた。
 「魚屋をやめて左介谷(さすけがやつ)で、蘿蔔(らふく=ダイコン)を作るといいことがある」
 源十郎はよくわからないまま、左介谷に土地を借りてダイコンをつくった。
 その冬鎌倉中に疫病が流行った。するとある人の夢に神様があらわれて「源十郎がつくったダイコンを食べれば病はたちどころにいえるであろう」と告げた。
 われもわれもとダイコンを買いにやってきた。霊験あらたかだったので次第にダイコンも高くなり、源十郎は富者になって、お礼にこの稲荷神社を建てた。

 子供の頃は素直にこういう話を聞きましたが、歳を取るとついつい、この神様が疫病を流行らせたのではないか、マッチポンプじゃないか、と疑ったりしてしまいます。年寄りのひがみとはいえ、お参りにやってきてこんな邪推をしているようでは、いつまでたっても霊験あらかたとはいかないでしょう。
 この話では源十郎が神社を建てたことになっていますが、社伝によれば、神社の起こりは源頼朝だそうです。
 伊豆に流されていたころ、頼朝の夢枕に「隠れ里の稲荷」があらわれて、打倒平家の挙兵を促した。のち幕府を開いた頼朝は、隠れ里に祠(ほこら)を探し当て、畠山重忠に社殿を再興させた、というものです。
 当時頼朝は右兵衛権佐(うひょうえごんのすけ)だったことから「佐殿(すけどの)」と呼ばれていた。その佐殿を助けたから「佐助」という地名になったという説もあります。

 本殿からさらに山を登っていく道が続いています。源氏山や大仏につながるハイキングコースです。いかにも湿潤な感じのする谷戸です。

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2016年8月25日 (木)

メモ帳がいっぱい

 さてこれはなんでしょう。

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 カードかなにかのように見えますが、これはみんな、わたしが作ったメモ帳です。
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 パソコンを使ってあれこれ印刷していると、どうしても印刷ミスが出てしまいます。必要あって印刷したいろんな資料も、ある程度期間がたつと不要になってきます。そのまま捨ててしまえばいいのですが、裏が白いともったいなくてなかなか捨てられません。それでメモ用紙にしています。
 メモをして用済みになったものでも、余白が大きいとなかなか捨てられません。それでA4の用紙を8分の1のA7にカッターナイフで裁断します。これくらいになれば一度使ったら惜しげなく捨てられます。

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 8分の1だから1枚が8枚のメモ用紙になります。A4用紙35枚を裁断してみたら、厚さ4mmぐらいだったものが26mmぐらいになりました。枚数は当然280枚になります。

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 あまり厚いと使いづらいので、7~8mmぐらいの厚さで一方の端を糊付けして、表紙をつけます。糊は、以前買った製本用の糊を使っていますが、木工用ボンドでも他の糊でもかまいません。書いたら剥がしていくので、軽くついているくらいの方が使いやすいのです。

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 表紙は、不要になった雑紙やパンフレット、チラシなどから、きれいな写真や絵を切り取って使います。ちょっと厚めのものがいい。
 下の写真はボッティチェリ展のパンフレットです。隣はボール紙を表紙用のサイズに切り抜いたもの。

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 ボール紙をあてがって、ちょうどいい構図のところで切り抜きます。
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 これで表紙と中身のメモ用紙が揃いました。その他に薄いボール紙をA7に切って、裏表紙というか、台紙にします。

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 端を糊付けしたメモ用紙を表紙と台紙の間にさらに糊付けします。ここがうまくつかなかったり、後で割れてしまうこともありますが、そう気にすることはありません。割れたらまたくっつければいい。どうせ剥がしてしまうものです。

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 これでできあがりです。
 やってみると、この枠内に図柄をきれいにおさめて切り取るのがけっこう面白くて、たくさん作りました。
 今でも、展覧会のチラシなど、行くつもりがなくても、これは使えると思うとついついもらってきてしまいます。

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 大きな絵柄をおさめるためにA6のメモ帳も作ってみました。ボッティチェリとモネです。

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 たくさん作ったので活用しなければと、厚手のボール紙にメモ帳と短いボールペンをセットしたものも作ってみました。ボール紙に封筒状にした紙を貼り付けて、メモ帳の台紙が差し込めるようにしてあります。

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 電話のそばとか、あちこち置いてみました。これは安いボールペンなのでポタ漏れするのが弱点です。

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 これで邪魔な使用済み上質紙は片付いたものの、今度はメモ帳が余って置き場所に困っています。雑に作った裏紙のメモ帳ですから他人にあげるわけにもいきません。いらないメモ帳の再利用法を考える前に、せっせとメモをする習慣をつけることにしましょう。

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2016年8月22日 (月)

光明寺内藤家墓所

 7月31日(日)にまた光明寺観蓮会へ行ってきました。暑い日でした。

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 今年の蓮の花は早かったそうで、残念ながらあらかた落ちていました。

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 去年と同じように象鼻杯などのイベントも行われていて、今年も大聖閣(たいしょうかく)でお茶をいただきました。(→光明寺のハス

 その後、江戸時代の大名の内藤家墓所へ行ってみました。境内からの通路は閉まっているので、総門を出て、ずっと海側の道路をまわって行きました。光明寺のHPには「通常時でも参拝が可能です。」と書いてあるので、お寺に申し出れば開けてもらえるのかもしれませんが、縁者というわけではなし、そこまではやりません。墓地の外から見るだけです。

 これを見ると最初は誰でも驚きます。

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 大きな宝篋印塔(ほうきょういんとう)がずらりと並んでいて、規模はずっと小さいけれど、日本の墓地というより、ボロブドゥールのような東南アジアあたりの遺跡かと思ってしまいます。Dscf5044
 大きいのは3メートルくらいあるでしょうか。
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 看板によれば、宝篋印塔や笠塔婆など墓碑が58基、灯籠が118基、手水鉢17基、地蔵尊等9基、計202基の石造物があります。内藤家歴代の墓があって、これだけ大規模な大名の墓所が残っているのは珍しいそうです。
 内藤家は江戸時代の初期に、江戸深川の霊厳寺にあった墓所をここ移したのですが、なぜ移したのかについては、おもしろい伝説があります。
 二代藩主内藤忠興の側室香具姫(かぐひめ)が墓参に訪れたとき、霊厳寺では勧進相撲の興行が行われており、その観客用の板がなんと内藤家の墓に掛けられていた。これを見た香具姫は激怒して、墓所を移転させた、というものです。
 勧進相撲が大入りで、桟敷をついつい内藤家の墓地の上にまで作ってしまったものでしょうか。ネットには、霊厳寺の住職が移転を渋ったため、石屋太右衛門に頼み、墓から棺を引き抜いて移転した、と書かれているものもありました。この話がどこまで信用できるかはよくわかりません。
 香具姫は武田家の家臣小山田信茂の娘(あるいは孫)だそうです。小山田信茂はNHKの「真田丸」に出てきました。武田勝頼を裏切って自害に追い込んだ悪い奴でした。

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 内藤家はその後、百姓一揆騒動の責任を問われて磐城平から日向延岡へ移封されますが、そのまま幕末まで続きました。だから江戸時代、光明寺は鎌倉唯一の大名家の菩提寺として格式を誇ったそうです。しかし明治維新には廃仏毀釈に大名家の没落で大きな打撃を受けたといいます。

 この後の写真は以前撮ったものなので、今回とは草の伸び方が違っています。
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 墓所の脇の道をずっと山の方へ登っていくと、開山良忠上人ほか歴代住職のお墓(御廟所)があります。
 この通路を歩いているとき、右肩に鳥の糞が落ちてきました。歩行注意です。

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 これが歴代上人の墓。
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 御廟所入口前の道路は海側に開けていて、展望台があります。

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 材木座から由比ヶ浜の海岸を見下ろせます。手前に見えるのが光明寺の建物です。
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2016年8月18日 (木)

色づいたプルーン

 もう一カ月も前の話ですが、7月15日から17日まで南無谷へ行ってきました。この頃は曇り時々雨くらいの天気予報が続いて、最高気温が28~29度くらいで収まりそうだったので、今のうちに、と行ったものです。

 前回行ったときに書きましたが(南無谷は草の中) 今年はプルーンがそれなりの数の実をつけました。

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 それが少しずつ色づいてきました。

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 触ってみてもまだ固くて食べられる状態ではありません。あと一カ月、8月中旬くらいが食べ頃かと思って帰ってきて以来、南無谷へは行っていません。もう8月17日、行かないと熟して落ちてしまうと思いながら、今日は猛暑日で、しばらくは暑い日が続くという。なかなか行けないでいます。

 その他の庭の様子としては、
・今年はキウイの実がつかない。
・二本の富有柿のうち一本は、実がほとんど落ちてしまった。
という異変がありました。剪定が悪かったのか、病気なのか、よくわかりません。

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 温州ミカンやユズ、レモンなどは相変わらず元気に育っています。

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 このあたりは毎年同じなので、そうそう書くこともありません。

 南無谷海岸へ行ってみると、ハマユウがたくさん咲いていました。

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 昔はここも海水浴場になっていて、南無谷には民宿が何十軒もあったといいます。わたしたちが家を買った頃には海水浴場をまだやっていて、ささやかながら監視員がいたり、「宝探し」のイベントをやったりしていました。それから数年のうちに海水浴場はなくなりました。今では管理のための建物や更衣室なども取り壊されているようです。

 久しぶりに法華崎(ほっけざき)まで行ってみました。

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 この二つの岩を雀島(すずめじま)といいます。「黒鷺」の繁殖地だそうですが、この日はそれらしい鳥は見当たりませんでした。

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 陸に近い方には赤い花が見えます。

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 ノウゼンカズラです。誰かがこんなとこまで登って植えたのでしょうか。
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 この一週間くらいのうちに南無谷へ行かないと,せっかくのプルーンが全部落ちてしまいそうですが、この暑さの中、行ってくることはできるでしょうか。

 

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2016年8月15日 (月)

東北13 立石寺3・山形

 山寺を降りて遅い昼食に向かったのは、麓の立谷川(たちやがわ)の岸辺にある店。この大きな石を対面石(たいめんせき)と言い、隣にある店の名も対面石と言う。

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 山寺の開山である円仁がやって来たとき、この地を支配していた猟師の磐司盤三郎(ばんじばんざぶろう)とこの石の上で対面したという伝説が残っている。円仁は、盤三郎に仏の道を説いて寺院建立を認めさせた。盤三郎は以来殺生をやめ深く仏に帰依したという。
 その対面石の前に新しい小さなお堂が立っている。何かと思えば「幸福の鐘」だそうだ。これはここに必要かと、ちょっと思ってしまった。(→東北6 南リアス線・陸前高田

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 その隣は対面堂。円仁慈覚大師磐司盤三郎の像が安置されている。

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 司馬遼太郎は、『街道をゆく10 羽州街道・佐渡の道』(朝日文庫、1983)に、円仁は実際にはここまで来なかった、円仁の弟子でこの寺の開祖とされている安慧(あんえ)が円仁の名で建立したのでは、と書いている。また磐司盤三郎が猟師だったというのは、山の獣や草木によって衣食する「山夷」の親分であったのではないか。「この山のぬしはおれだ」と言う山夷に対して安慧は情理をつくして異国の神のありがたさを説き、盤三郎はそれを受け入れ、山をあげて寄進し、帰依者になった、と書いている。
 司馬は、時間の都合で山寺の上までは登らず、麓の根本中堂のあたりだけしか見なかったらしい。ちょっと残念だ。

 さてこれが「お休み処 対面石)」。山寺に登るとき、この店に荷物を預けてあった。このあたりの店は、帰りに寄って食事をする約束でたいてい荷物を無料で預かってくれるようだ。いい慣習である。

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 注文したのは芭蕉膳。山形名物のそば芋煮だし(ナスやキュウリなどを細かくきざんで、あえたもの)がセットになっている。
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 山菜天ぷらに、後で生麩ずんだ餅も頼んだ。

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 天気も良く、山登りで汗をかいて、旅行もこれで終わり。ビールがうまかった。
 山寺はいいところだった。緑濃く、山深く、身体を使って、一汗かかないと登れないところに奥の院があるのもいい。ネットで見ると、紅葉の季節、雪の季節それぞれに美しい。雪のころは寒いだろうから、紅葉の季節に一度来てみたいものだ。

 帰りの山寺駅のホームから見た山寺。岩場の上の方に見えるのが五大堂開山堂である。

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山形

 あとは山形へ出て新幹線に乗って帰った。山形は初めてだったので、ちょっとだけでも見ておこうと、乗り換え時間に駅の外へ出てみた。
 霞城セントラルという高層ビルがあったので、24階の展望ロビーまで登った。

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 霞城(かじょう)と言うのは山形城の別名で、城跡が霞城公園という公園になっているが、城はない。ここまで行ってみる時間はなかった。

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 JR山形駅

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 なかなか良さそうな街である。山寺の門前町でみやげに買ったサクランボは甘くてうまかった。河原での芋煮会というのも体験してみたい。機会があればまた来よう。
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 今回の旅行は、おおむねI長老の企画により、複雑な電車・BRTの乗り継ぎは「てっちゃん」のK機長による。T局長は奥さんを動員して盛り上げてくれた。
 楽しい旅行でした。皆さんにお礼申し上げます。また行きましょう。

みちのくの夏を探して徘徊す 俳爺

 

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2016年8月11日 (木)

東北12 立石寺2

Dscf4807_3 せみ塚の次には、崖に経文などが彫られた弥陀洞(みだほら)というところがあった。
 帰ってから説明を読むと、天然の崖そのものに大きな阿弥陀様の姿が浮かび上がって見えるのだという。
 そんなこと知らないから、下の方の卵塔や卒塔婆だけを見てきたが、撮った写真を見てみると、なるほどそれらしく見えなくもない。右上のカーブが左肩から腕、一番上に、顎の一部だけ見えるという感じ。
 この見立てでいいのかどうかはわからない。崖全体の写真は撮らなかった。おそらく信心の篤い者にはちゃんと見えるのだろう。

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 仁王門仁王様。

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 登りながらいくつもの子院を過ぎていく。性相院(しょうそういん)。

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 金乗院(こんじょういん)。

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 これは何院だか、よくわからない。
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 中性院(ちゅうせいいん)。
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 ようやく奥の院にたどり着いた。向かって右が奥の院、左が大仏殿である。

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 こちらが大仏殿

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 こちらが奥の院。 
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 ここが海抜417mで一番高いところになるが、これで終わりではない。 中性院のところまで下がって脇道を行くと、開山堂納経堂がある。小さいのが納経堂

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 これが開山堂。この寺の開山は慈覚大師円仁である。
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 この右側をさらに行くと五大明王をまつる五大堂がある。

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 崖際に舞台づくりになっていて見晴らしがいい。海抜386mだそうだ。

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 これでもう参拝者は登るところはないが、修行者にはまだたくさんあるようだ。目の前の山には岩肌が露出したところが散見され、小屋や洞窟のようなものがあちこちに見える。

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 修行の場で危険だから近寄るなという看板もあるが、現在はどんな修業が行われているのだろうか。

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 修業の岩場の案内看板には、斎藤茂吉の歌が書かれていた。立石寺で詠んだものらしい。

みちのくの仏の山のこごしこごし
岩秀(いわほ)に立ちて汗ふきにけり

 「こごし」は岩がごつごつと重なってけわしいさま。「岩秀(いわほ)」というのは岩のてっぺんくらいの意味か。茂吉も汗をかきながら山寺に登って、下界を見下ろしたのだろう。
 ともかくわれわれは修行をしないで山を降りる。せみ塚の近くには、アジサイが大量かつきれいに咲いているところがあった。

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 山門からは来た道を戻らず下山口へ向かう。登山口へ戻る人の方が多いのか、こちらは人が少ない。
 どこでも大きな寺は猫のいい遊び場になるようだ。

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 これは抜苦門(ばっくもん)。仏様が苦を抜いて下さるということで、帰り道だからバック門だなどと言ってはいけない。
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 蛙岩
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 立石寺本坊

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これは神楽石(かぐらいし)というそうだ。すぐ前にあるのは菩提樹。

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 黄色い花がいっぱい。菩提樹の花盛りは初めて見た。
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 これでようやく山を降りた。

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2016年8月 8日 (月)

東北11 立石寺1

第四日(16/07/01)

立石寺

 最終日は桜荘の車で野蒜駅まで送ってもらい、仙台経由で山形の立石寺(りっしゃくじ)へ向かった。最初の計画ではさらに南下して、K機長の友人のいる福島県の相馬へ行こうとしたが、うまく調整が取れず、ここで被災地から離れることになった。野蒜から立石寺までは、何もなかったわけではないが、とりあえず省略する。

 立石寺K局長とわたしは初めてである。通称を「山寺(やまでら)」と言い、地名も「山形市山寺」、最寄り駅もJR仙山線の「山寺駅」である。

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 駅を降りると目の前に見える、この山全体が山寺=立石寺で、1,015段の長い階段を登らないと奥の院にはたどり着けない。 

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 『るるぶ情報板 山形'10』(JTBパブリッシング、2009)にはこんな案内図が載っている。
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 門前町を抜けて行くと、登山口に出る。

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 「奥の細道」の看板が目立つ。芭蕉は、元禄二年(1689)、奥の細道の旅で立石寺を訪れている。327年前だ。
 階段を登ってまず最初にたどり着くのは根本中堂(本堂)。

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 ここで招福布袋尊と腹くらべをするI長老。そうそう負けていないところが凄い。

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 このあたりは少し平らで、お地蔵さんや日枝神社などいろいろある。

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 芭蕉の像と一緒に俳人T局長を撮った。隣に弟子の曽良の像もあるのだが、そちらは撮らなくてもいいと言う。ライバルは芭蕉、ということらしい。

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 鐘楼念仏堂

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 ここが山門で、ここから本格的な登りになる。

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 よっこらしょ、よっこらしょと登って行く。

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 これは姥堂(うばどう)で、ここから下が地獄、上が極楽になるのだそうだ。ご本尊は奪衣婆(だつえば)で、衣服の代わりなのか手ぬぐいがたくさんぶら下がっている。

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 いろんなものがあるが、詳しくはわからない。

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 ようやくここまでたどり着いた。「せみ塚」である。

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  閑かさや岩にしみ入る蝉の声

 これが、立石寺で芭蕉が読んだ句であった。
 奥の細道から引用しておく。

山形領に立石寺(りふしゃくじ)といふ山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊に清閑の地なり。一見すべきよし人々のすすむるによりて、尾花沢よりとつて返し、その間(あひ)七里ばかりなり。日いまだ暮れず。麓の坊に宿かり置きて、山上の堂にのぼる。岩に巌(いはほ)を重ねて山とし、松栢年旧(としふ)り、土石老い苔滑らかに、岩上(がんしやう)の院々扉(とびら)を閉(とじ)て物の音きこえず。岸をめぐり、岩を這ひて、仏閣を拝し、佳景寂寞(じゃくまく)として心澄みゆくのみ覚ゆ。
 閑(しずか)さや岩にしみ入る蝉の声

(『おくのほそ道』(松尾芭蕉 板坂元・白石悌三 校注・現代語訳、講談社文庫、1975)より)

 せみ塚というから、セミを供養してあるのかと思ったら違った。宝暦元年(1751年)に、立石寺を訪れた弟子筋の俳人たちが、この句の着想を得たのはこのあたりではないかと、ここに芭蕉の残した短冊を埋めて石碑を建てたのだという。
 こんな岩壁もあるし、俳人たちが訪れたときは、蝉がしきりに鳴いていたのだろう。わたしたちが訪れたのは7月1日で、まだ早いとみえて、残念ながら蝉の声は聞けなかった。

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 この蝉の種類について、その昔、論争があった。斎藤茂吉がこの蝉はアブラゼミであると言い出し、小宮豊隆がこの句にアブラゼミは合わない、季節も違う、ニイニイゼミだと反論した。その後齋藤茂吉は実地検証の上、アブラゼミは誤りだと認め、ニイニイゼミが正しいと結論づけた。
 ニイニイゼミにはなじみがない。鳴き声がよくわからない。ネットで調べてみたがいまいちピンと来ない。この夏は少し注意して蝉の声を聞くことにしよう。(→「セミの画像と鳴き方」 http://www.m-ecokosha.or.jp/semi/semi_koe_index.html)

 前掲の講談社文庫の『おくのほそ道』には、奥の細道に関連したいろんな作家の紀行文が抜粋してある。立石寺は五木寛之の『にっぽん漂流』からである。

ふと奇怪な疑念が心に湧いた。
「あの蝉の声だけど――」
「何です」
「あれ、地元の観光協会か何かが有線放送で流してるんじゃないだろうか」(p233)

 むろんそんなことはなかった、という落ちがついている。五木寛之も若い頃はけっこう馬鹿なことを書いていたのだ。
 スピーカーで流すのはとんでもないが、季節はずれの時は岩壁の前にヘッドフォンを置いて聞かせてもいいかもしれない。

 

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2016年8月 4日 (木)

東北10 奥松島

 石巻の次は奥松島である。仙石線野蒜(のびる)駅に着いた。

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 新しい駅舎である。津波の被害により、このあたりの路線ごと高台に移転してつくられたものだ。
  今回泊まった里浜は、地図で見てわかるとおり、松島弯に面しているので直接の被害は大きくなかった。太平洋側の室浜、大浜、月浜は壊滅的な被害を被った。ただ里浜は、迎えに来てくれた民宿のご主人の話では、橋や道路が壊れて孤立してしまった。しかし昔からの集落なので、その団結力で乗り切ったのだという。

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 これが里浜漁師民宿桜荘。ここには同行のT局長の奥さんが先に来ていた。そもそもここへ来たのは、今回の旅行の企画者I長老が、ネットでここの料理の評判を見て、是非ここへと決めたからだった。その料理に奥さんも興味を持ち、実家の秋田へ行った帰りにここだけ合流することになった。
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 すぐ近くに『さとはま縄文の里 史跡公園』(縄文公園)があった。

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 海にはいくつも小島が浮かんでいる。桜荘のご主人の話の中に何度も「松島と変わらない」という言葉が出てきたのを思い出す。 

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 縄文というのは、縄文時代の遺跡があることからきている。そのひとつ「里浜貝塚貝層観察館」。

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 貝塚の断面をはぎ取って固定したものが展示されている。
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 解説もついていて、なかなかおもしろい。

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 壁面から下に目を移すと、こんなものがあって一瞬ドキッとする。

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 これも貝塚から発掘されたもの(もちろん複製)だそうだ。

 さて夕食は、お目当ての「あわびの踊り焼コース」。 
 ここも田野畑の本家旅館と同じでとにかく量が多い。

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 わたしなど、このワタリガニだけで納得してしまうくらいだが、メインはアワビの踊り焼きステーキ。まだ生きているやつを焼いて食べる。大きい、こんなのを中華街で食べたらいくらとられることか、と卑近なことを考えたくらい。

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 さらに大きなカレイも出てきた。

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 うまいのだけれど、ここも田野畑と同じで、食べきれずにずいぶん残してしまった。もったいない、まったく申しわけないことだった。
 気仙沼のホテルが一番料金が高かったのに、料理の量は一番少なかった。安かった田野畑の老舗旅館と奥松島の漁師民宿は、どちらもたくさんご馳走を出してくれ、とても食べきれなかった。これまではたくさん料理を出すことが目一杯のおもてなしだったのかもしれないが、高齢化社会になった今、料理を出す方にも少し考えてもらって、客の年齢・要望に応じて分量を調整すべきだと思う。「老人用」と言うと気を悪くする奴がいるから、「鶴亀御膳」とか名付けて、減量コースを普及させるべきだ。減らした分だけ安くしろとは言わない

 食べきれなかったのは、量に加えて、どこでも魚づくしだったこともある。今回の旅行はI長老の企画によるもので、企画書の桜荘の項には「東北行の最後の宿泊 もう魚は飽きたあ~ となるかどうか ともかく地酒で〆。」と書かれていた。そのとおり、わたしは「もう魚は飽きたあ~」状態になっていた。朝の気仙沼のホテルの朝食バイキングで食べたソーセージとベーコンが、上級品と言えるようなものではなかったけれど、とてもうれしかったくらいだ。

 

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2016年8月 1日 (月)

東北9 石巻

 リアス・アーク美術館からまたタクシーでJR気仙沼線BRT)松岩駅へ行く。(気仙沼駅へ行くと戻ることになるので)

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 ここには仮設の商店街があった。

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 ここから南三陸町を通って石巻(いしのまき)へ向かう。
 途中、南三陸町の防災庁舎が見えた。震災遺構とするかどうかあれこれあって、とりあえず2031年までは宮城県が保存することになった、というやつである。

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 JR気仙沼線は全線BRTだが、柳津(やないづ)-前谷地(まえやち)間は鉄道も走っているので、柳津でバスを降りて鉄道に乗り換えた。

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 これがBRTのバス。後ろが柳津駅。

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 柳津駅も委託駅で、JRの職員の代わりにお姉さんが二人いて、あれこれ観光客の相手をしていた。

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 脇で聞いていて、あれっと思ったのは地名の「登米」の読み方の話。実はわたしは二十代初めの頃、このあたりに来たことがあり、そのときこれは「とめ」と読むと覚えた。ところが市の名前は「登米(とめ)」だけれどその中の「登米町」は「とよままち」と読むのだという。なるほど駅に置いてあるパンフレットにもこう書いてある。

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 なんでも「とよま」と読むのが古くて、「登米(とよま)郡」が「登米(とめ)郡」になっても、登米(とめ)市になっても、「登米町(とよままち)」だけはずっと「とよま」でがんばっているということだ。おもしろかったので書いておく。

 これが気仙沼線の電車。やっぱりバスより電車の方が旅行らしくて落ち着く。

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 これで前谷地まで行き、次は石巻線石巻(いしのまき)へ行く。

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 石巻駅には「サイボーグ009」とその仲間たちや「仮面ライダー」がいた。石巻には、原作者の石ノ森章太郎の記念館「石ノ森萬画館(いしのもりまんがかん)」があるからだ。
 石ノ森章太郎は登米郡石森町(とめぐんいしのもりちょう、現登米市中田町石森。ここにも登米が出てきた。)の出身で、ペンネームの石森は、本人は「いしのもり」のつもりだったが、ずっと「いしもり」と呼ばれ、それで定着してしまっていた。しかし晩年心機一転をはかって「石ノ森」に改名した。わたしは今でも「いしもり」と呼んでしまう。「サイボーグ009」や「佐武と市捕物控」は同時代で読んでいた。

 これがタクシーの中から撮った石ノ森萬画館。宇宙船をイメージしたものだという。通り過ぎただけで中は見ていない。 

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 石巻では駅前の観光協会で「語り部タクシー」をお願いした。
 まず海に近い高台にある日和山(ひよりやま)公園へ行った。旧北上川の中州に見える半球状の建物が石ノ森萬画館である。
 この公園からの光景はテレビで何度も映し出された。

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 津波前の写真パネルが設置されているところもあり、現状と比較しながら話を聞く。津波はこの川をさかのぼった。

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 YouTubeにはこの日和山公園から撮った当日の映像があった。雪の降る中、地震で避難してきたまわりの人たちが見ている前で川の水位が上がり、氾濫して、瓦礫や家が流されていった。
(→https://www.youtube.com/watch?v=eBs7yfl8Se0)

 石巻には震災一年後の2012年4月にも来た(→気仙沼・石巻2)。その時もタクシーで案内してもらい、同じようなところを見せてもらった。さすがに復興されていて、四年前のように瓦礫があちらでもこちらでも見られるということはない。
 四年前の魚市場。水がたまっていて、天井がはがれたままだった。

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 現在の魚市場。新しい大きな建物になっている。ただ、まだこの建物をフルに活かすだけのところまではいっていないそうだ。

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 運転手さんの家は、この魚市場にも近い、水産加工工場がたくさんある地帯にあって、そこで津波に襲われたそうだ。
 当日は休みで出かけていたが大きな地震で驚いた。奥さんとお母さんが家にいたので心配で家へ帰った。津波が来たときにはもう逃げられなくて、ずっと二階で過ごした。水は最高時には二階の床を越えたけれど、その後階段の途中まで引いたので、なんとか耐えられた。
 ヘリコプターもたくさん飛んできたけれど、手を振っても、個人の家より病院とか、おおぜい避難しているところが優先されたから、結局救出されたのは翌日の夕方だった。お母さんも奥さんもヘリコプターに吊されて助かった。
 まわりが大きめの工場ばかりだったので、よその住宅が流されてきてぶつかるようなことがなかったので助かったのだろうとのこと。なんとも凄い体験をされている。

 この「がんばろう石巻」看板は、四年前は瓦礫の散らばった荒れ地の中だった。

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 今は、更新されて少し場所が動いたらしいけれど、まわりはきれいに整地されている。白い建物は「南浜つなぐ館」という追悼施設。
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 南浜つなぐ館の前のポールは、津波の到達高さを示している。ポールのてっぺん近く迄来た。
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 運転手さんには、次に乗る電車の時間ぎりぎりまで案内していただいた。少しずつ復興しながら、まだ至らないところもあれこれあること、よくわかりました。どうもありがとうございました。この次来るときには、さらに発展した石巻を拝見したいと思っています。

 

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