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2016年8月22日 (月)

光明寺内藤家墓所

 7月31日(日)にまた光明寺観蓮会へ行ってきました。暑い日でした。

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 今年の蓮の花は早かったそうで、残念ながらあらかた落ちていました。

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 去年と同じように象鼻杯などのイベントも行われていて、今年も大聖閣(たいしょうかく)でお茶をいただきました。(→光明寺のハス

 その後、江戸時代の大名の内藤家墓所へ行ってみました。境内からの通路は閉まっているので、総門を出て、ずっと海側の道路をまわって行きました。光明寺のHPには「通常時でも参拝が可能です。」と書いてあるので、お寺に申し出れば開けてもらえるのかもしれませんが、縁者というわけではなし、そこまではやりません。墓地の外から見るだけです。

 これを見ると最初は誰でも驚きます。

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 大きな宝篋印塔(ほうきょういんとう)がずらりと並んでいて、規模はずっと小さいけれど、日本の墓地というより、ボロブドゥールのような東南アジアあたりの遺跡かと思ってしまいます。Dscf5044
 大きいのは3メートルくらいあるでしょうか。
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 看板によれば、宝篋印塔や笠塔婆など墓碑が58基、灯籠が118基、手水鉢17基、地蔵尊等9基、計202基の石造物があります。内藤家歴代の墓があって、これだけ大規模な大名の墓所が残っているのは珍しいそうです。
 内藤家は江戸時代の初期に、江戸深川の霊厳寺にあった墓所をここ移したのですが、なぜ移したのかについては、おもしろい伝説があります。
 二代藩主内藤忠興の側室香具姫(かぐひめ)が墓参に訪れたとき、霊厳寺では勧進相撲の興行が行われており、その観客用の板がなんと内藤家の墓に掛けられていた。これを見た香具姫は激怒して、墓所を移転させた、というものです。
 勧進相撲が大入りで、桟敷をついつい内藤家の墓地の上にまで作ってしまったものでしょうか。ネットには、霊厳寺の住職が移転を渋ったため、石屋太右衛門に頼み、墓から棺を引き抜いて移転した、と書かれているものもありました。この話がどこまで信用できるかはよくわかりません。
 香具姫は武田家の家臣小山田信茂の娘(あるいは孫)だそうです。小山田信茂はNHKの「真田丸」に出てきました。武田勝頼を裏切って自害に追い込んだ悪い奴でした。

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 内藤家はその後、百姓一揆騒動の責任を問われて磐城平から日向延岡へ移封されますが、そのまま幕末まで続きました。だから江戸時代、光明寺は鎌倉唯一の大名家の菩提寺として格式を誇ったそうです。しかし明治維新には廃仏毀釈に大名家の没落で大きな打撃を受けたといいます。

 この後の写真は以前撮ったものなので、今回とは草の伸び方が違っています。
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 墓所の脇の道をずっと山の方へ登っていくと、開山良忠上人ほか歴代住職のお墓(御廟所)があります。
 この通路を歩いているとき、右肩に鳥の糞が落ちてきました。歩行注意です。

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 これが歴代上人の墓。
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 御廟所入口前の道路は海側に開けていて、展望台があります。

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 材木座から由比ヶ浜の海岸を見下ろせます。手前に見えるのが光明寺の建物です。
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