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2016年9月19日 (月)

『悲しみのイレーヌ』

 久しぶりの「古本の出てくる推理小説」として、フランスのミステリー、ピエール・ルメートル悲しみのイレーヌ』(文春文庫、2015)を取り上げる。これは稀覯書や謎が書き込まれた古書など、個別の具体的な本が問題になっている小説ではなく、本に書かれた内容が事件の焦点になっているミステリーである。
 以下、本の話を中心に簡単にあらすじなどを紹介するが、ネタバレになることは、あらかじめご承知ください。

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 主役はカミーユ・ヴェルーヴェンというパリ警視庁の警部。145㎝という短躯ながら敏腕で、個性ある部下三人をひきいている。
 パリ郊外で殺人事件が起こる。百戦錬磨の捜査陣がたじろぐほどの残酷凄惨な現場で、若い娼婦二人がバラバラ、ズタズタにされて部屋中にぶちまけられていた。そして壁には「わたしは戻った」という文字があり、くっきりと指紋も残されていた。
 ところがこの指紋はスタンプによる偽の指紋で、16カ月前の未解決殺人事件にも残されていた。犯人自らが同一の犯人であることを示しているものとしか考えられない。警部は二つの事件とも、壁に文字を残したり、被害者の髪の毛を死後シャンプーしているなど、不可解、不条理な装飾が多すぎることに戸惑う。
 やがて警部は、16カ月前の事件が、アメリカのジェームズ・エルロイの犯罪小説『ブラック・ダリア』に似ていることに気づく。また、パリの古書店主から、第一の事件は、『アメリカン・サイコ』という、快楽殺人を扱ったアメリカの小説にそっくりだと教えられる。犯人は小説の現場を再現しようとしていたのか。
 そして同じ指紋がイギリスのグラスゴーで起こった殺人にも残されていたことが判明する。これはスコットランドのウィリアム・マッキルヴァニー『夜を深く葬れ』の模倣だった。
 小説をなぞった連続殺人であることは間違いない。警部は犯罪小説を専門とする大学教授の助力も得て、近年の未解決殺人事件のうち状況が不条理なものと有名なミステリーとを照合を始める。
 するとさらに二件、エミール・ガボリオ『オルシヴァルの犯罪』とシューヴァル&ヴァールー『ロセアンナ』を模倣したと思われる事件が見つかった。
 残虐な事件の意図が明らかになってきた。何人もの容疑者が取り調べられ、最後に無名の作家が書いた一冊の本に焦点があたる。出版社の倒産もあり、価値のない本として消えていき、今では入手困難となっている。しかしその本がようやく見つかったときには…

 以上、本の話を中心に筋を追ったので、ミステリマニア向けの作品かと思われるかもしれないが、そうではない。中身はもっと濃くて、複雑だ。
 一番の特徴は残酷さである。フランスでも批判されたらしいが、スプラッターのような現場の描写が事件ごとに繰り返される。これはわたしの苦手なところなので、ここではあれこれ書かない。
 登場人物も多彩で、娼婦のヒモや怪しげな不動産開発業者、それに情報を提供してきた古書店主も容疑の線上に浮かぶ。直属の部下は、一人は上流階級出の聡明な青年だが、あと二人はそのうち汚職警官になるのではと心配になるような放蕩者と「警視庁史上最悪の守銭奴」である。警察の内部情報になぜか詳しい、押しの強い新聞記者も登場する。
 とにかく中身がぎっしり詰まっていて、残虐だな、いやだなと思いながらも一気に読まされてしまう。無名作家の無名の本を追いつめて、いよいよ大団円かと思ったところで、最後にあっと驚くどんでん返しが待っていた。どんでん返しの中身は書かない。とにかく傑作である。

 ただ一つだけ文句があるのはこの邦題の『悲しみのイレーヌ』である。イレーヌというのは主人公の妻の名前なので、はじめから妻に何か起こることが予想されてしまう。原題は”Travail soigné(トラヴァーユ ソワニェ)”で「丁寧な仕事」―犯人が小説の現場を再現するために、とても丁寧な仕事をしている、という意味だ。
 こんな題名でなければ、妻が危ないということは後の方までわからない筈なのに、最初から事件が起こるたびに、次は妻かと心配してしまった。他に適当な題を思いつかなかったのか。

 残酷なこと、重苦しいこと、最後のどんでん返しがこの作家の大きな特徴で、邦訳が出ている『その女アレックス』(文春文庫、2015)、『死のドレスを花婿に』(文春文庫、2015)もそのとおり、中身が濃く、最後にあっと驚かされる。
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 この10月に最新の邦訳『傷だらけのカミーユ』が出るそうだ。ヴェルーヴェン警部シリーズの最終作だという。また重苦しそうだが、楽しみだ。

 

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