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2016年9月12日 (月)

名古屋弁の聖書物語

 先日、西岡文彦『名画でみる聖書の世界<新訳編>』(講談社、2000)という本を読んだ。

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 聖書の世界を描いた絵画には、聖母マリアは必ず赤い服に青い上掛けを着ているとか、百合は純潔をあらわすとか、いろんな約束事があって、それを知らないと絵がちゃんと理解できない。
 例えば、ただの修道女のように見えても、赤い服に青いショールのようなものをかぶっていて、しかも本を読んでいるとなれば、それは間違いなく聖母マリアの像である。マリアは受胎告知のとき、聖書の中のキリストの誕生を預言した部分を読んでいたとされている。だからそれは受胎告知の場面を描いたものだ、というわけだ。
 そういう図像学(イコノグラフィー)の知識をもとに、受胎告知から最後の審判までの、新約聖書の世界を表現したあれこれの絵を解説するという本で、 わかりやすくて面白かった。
 ただ挿絵のほとんどが白黒で小さいのが難点で、カラーのもっと大きな絵を見たくなった。それらしい本を図書館で借りてみたら、大きくて重くて、借りて来るのも返しに行くのもちょっと面倒だった。

 それで次に、絵は白黒でも小さくてもいいから、また同じような本を読んでみようと、中丸明『絵画で読む聖書』(新潮文庫、2000)を手に取った。

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 そうしたらこれがあっと驚く珍品だった。
 図像学の本ではなく、聖書のあれこれの場面を描いた絵画を見せながらの聖書物語なのだが、なんと登場人物たちは、名古屋弁まがいの「カナン弁」をつかうのである。
 例えば旧約のヨセフとその兄弟たちの物語。ヨセフは父ヤコブから特別可愛がられているので異母兄たちから憎まれている。そのうえ兄たちが自分に従うようになる夢を見たなどと言うから、兄たちは怒ってしまう。

「しこっとらっせる(偉そぶっている)がや」
「わしんたらーのこと、たーけ(阿呆)だと思っとるだろう」
「いまに見とれ、ただじゃおかんでなも」(p120)

 こういう調子である。ヨセフが「しこっとらっせる」人だとは知らなんだ。この後、兄たちはヨセフを奴隷として隊商に売り飛ばしてしまった。
 イエスの山上の垂訓もこうなる。

イエスは人びとを率いて山に登り、坐すと、もとを正せばシュメール語の、カナン語のアラム弁でいった。
「ゴーマンかましたら、だちかん(ダメだ)でなも。天国へ行けーせんが」
 聖書ではこう記している。
「心の貧(まづ)しき者は幸福(さいわい)なり。天国は即ち(すなは)ち其人(そのひと)の有(もの)なれば也(なり)」(「マタイ伝」5-3)
 口語体の新約はこうだ。
「心の貧しい人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである」
 さてしかし――どれがいちばんわかりやすいであろうか?(p324)

 名古屋弁がいちばんわかりやすいと思う人はどれほどいるだろうか。
 マグダラのマリアが、復活したイエスと出会った場面はこうだ。

 正体不明の男に「マリアちゃん」と声をかけられた彼女が、つくづく男を観察したところ、イエスであった。そこで、
「あややー、まあ先生(せんせ)だないの。てっきり死ねゃあたとおもっとったに、生き返(きゃあ)っただなんて、びっくりこいてまったでかんわ。足はついとらっせるんで、なも?」
と駆け寄って抱きつこうとしたところ、
「触ったらいかんがね。わが身はまーだ、わしのほんとの父親(てておや)の神たまんのとこへ挨拶に行っとらんだで」
といわれたということである。(p411)

 キリストが「マリアちゃん」と声をかけていいのか、という疑問はさておいて、カナン弁がなぜ名古屋弁に似ているのか、作者はこう書いている。

 想像するに、往昔のバビロニアの沃野(よくや)は、わが国でいうと地形的にみて濃尾平野のようなところだ。シュメール語がどういうものか筆者はまったく知らないのだが、尾張弁、那古屋弁のようなニュアンスをもったものではなかったかと想像される。
 これらの言葉はなんとなくミャーミャーしており、平地文化の言葉にもっともふさわしいというのが、筆者の見解である。シュメール語はやがて、アブラハムによってカナンの地にもたらされ、ミャーミャーしたカナン弁になるのである。(p78、下線部:原文は傍点)

 濃尾平野育ちのわたしから見ると、ちゃんとした名古屋弁になっていないところが多々あるが、これはカナン弁だと言われてしまうと何も言えない。
 この珍妙なカナン弁に加えて、下ネタがやたらでてくる。古代の話に近親相姦のような話が出てくるのはしょうがないとしても、関係ないところでも下ネタを持ち出してわざわざ下品にしている。神さまを「神たまん」と呼んだり、無理にでも笑わせようとしているところがちょっといただけない。
 しかし、敬虔なキリスト教徒には耐えがたい本だろうが、カナン弁に親しみを感じるわたしは抱腹絶倒、楽しく読んだ。また作者の聖書や歴史の解釈が正確かどうか、神学者や歴史家などからはたくさん異論が出るところだろうが、おもしろく読めた。
 ともかく名古屋弁で書かれた聖書物語である。珍品であることは間違いない。

 

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コメント

何かと忙しくしている。こずかい稼ぎに夜のバイトを始めた。
男性相談の相談員。週30時間、福祉事務所。保護司で第1第3日曜は面接。有給休暇は保護司や相談員の研修で・・・。名古屋で集まろうと言いながら延び延びになっている。
 久しぶりに、ブログを見て楽しんだ。目配り、気配りがさすが。山川や、平野になむや文庫の宣伝をしておいた。彼らも読みの深さ?に感心していた。
 俺としては、事実の詮索?より、山口の好みをもっと出したものが楽しめると思う。名古屋弁の聖書物語。へーぇ!
 韓国の下ネタ小話、春歌は遅々として進まず。10月に韓国に行くので現地調査で少し進展があるか?こうご期待???

投稿: 辛空坊主 | 2016年9月18日 (日) 23時52分

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