雑誌の創刊号

2009年8月22日 (土)

平凡パンチの創刊号2

 小さな活字の五段組みが基本で、トップ記事の「ポルシエ九〇四をめぐるナゾ」も、中身はこんな感じ。

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 活字がぎっしり詰まっている感じがします。「九〇四」と漢数字になっているところも時代を感じさせます。右端の植木等はこの頃「無責任」で人気絶頂。 

 カラーグラビアは、ほとんどが宣伝がらみのもの。この頃は白黒に比べて印刷経費が相当高かったのでしょう。
 こんな頁がありました。左から杉浦直樹、小池朝雄、ジェリー藤尾、渥美清です。

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 ファッションの頁、これも西武百貨店の宣伝が入っています。

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 白黒頁。

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 左頁のモデルは、市川染五郎、現在の松本幸四郎です。

 当時の大卒初任給の資料がありました。二万二、三千円が平均でしょうか。クリックしてごらんください。

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 映画の頁。この時代のものは、見ていないものもタイトルだけはけっこう記憶にあります。

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 見にくいので、下に邦画の部分を拡大しました。
 吉永小百合の『潮騒』、高校の応援団長をしていた友人と見に行った記憶があります。

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 芸能欄と裏表紙の裏に出ているビートルズ。

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 当時、オカッパのようなヘアスタイルをした級友がいて、なんだこいつはと思っていたら、これがビートルズの先駆者的ファンで、香港からとりよせた日本未公開のレコードとか持っていました。わたしは彼によってビートルズの存在を知りました。
 まもなくビートルズは日本でも大爆発しました。

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2009年8月20日 (木)

平凡パンチの創刊号

 週刊「平凡パンチ」創刊号。昭和39(1964)年5月11日号です。

 秋には東海道新幹線が開通し、東京オリンピックが開催された年。わたしは高校二年生でした。
 平凡パンチの創刊は覚えていますが、買った記憶はありません。高校生の小遣いでは、なかなか週刊誌までは買えません。「伊賀の影丸(横山光輝)」や「おそ松くん(赤塚不二夫)」で大人気だった『少年サンデー』は、友達とのまわし読みなどでやりくりして、ちゃんと読んでいましたが。
 電車通学の途上、他の記事を読むために買った『サンデー毎日』に、司馬遼太郎の「国盗り物語」が連載されていて、読んでみたらとてもおもしろく、続きを読みたくて何号か買いました。しかし、とても資金が続かず、「こんな大衆小説を読んでいては、いかん」と途中でやめたことを覚えています。司馬遼太郎の読み始めでした。

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表表紙と裏表紙

  大橋歩のイラスト、今となってはなつかしいけれど、この表紙が見はじめで、名前もはじめて知りました。斬新でした。
 そして、これがその創刊号の目次。

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 トップ記事は「ポルシエ九〇四」、グラビアは加賀まりこにワシントン広場にファッション。 車、女、アメリカ情報にファッションの基本路線はこの後も変わらず、一世を風靡しますが、今見ると、創刊号の中身は意外に地味です。

 表紙を開けると、こうなっっています。

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 表紙とトップ記事の間に、頁幅を狭くした厚手のカラーグラビアとして三船敏郎(「赤ひげ」です)とアン・マーグレットが挟まっています。これが後にはピンナップになって、平凡パンチの礎となるのですが、創刊号はこれだけです。

 加賀まり子の写真もこんなもの。

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 そしてこれが「ワシントン広場の若者たち」のグラビア。

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 「ワシントン広場の夜は更けて」この歌もずいぶん流行りました。「グリニッチ・ビレッジ」は憧れでした。
 しかし、上の写真を見ると、なんだかフォークダンスか盆踊りの紹介のようにも見えます。この歌詞もこうやって眺めるとなんだか場違いです。

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2009年6月29日 (月)

週刊平凡の創刊号2

 この頃の他の週刊誌に比べて、週刊平凡は、カラーのグラビアが多い。
 これは大映映画『山田長政 王者の剣』の長谷川一夫。タイに限らず、海外ロケそのものがまだ珍しい時代でした。

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 これは津川雅彦と南田洋子です。この頃、津川雅彦は人気があったんですね。

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 やはり芸能関係が記事の主力ですが、映画が中心で、テレビ関係の記事が少ないことに、今さらですが時代を感じます。テレビのページもあって、表紙の高橋圭三の「私の秘密」や、NHKの「私だけ知っている」などが取り上げられていますが、量的には少しです。

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 裕次郎に左幸子、ジェーン・マンスフィールドにジャクリーヌ・ササール。(このほかにも映画館関係のページはあります。)
 上の「邦画ガイド」と「ロードショウガイド」を拡大して、当時上映されていた映画を見てみましょう。クリックして、拡大画像でごらんください。

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Aka

 上が邦画、下が洋画です。洋画のほうで赤線を入れたのは「リオ・でラボー」、これは「リオ・ブラボー」の誤植ですね。
 ついでに、テレビ番組の案内も見ておきましょう。

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 巻末のグラビア「横綱ふるさとに帰る」は、当時の新横綱、朝汐です。

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 巻頭のグラビアが長嶋で、巻末が朝汐。目次を見るとわかりますが、対談には三島由紀夫が登場し、林家三平の「三平のスイマセン時評」というコラムもあります。
 さてここでクイズ。
 長嶋、朝汐、三島由紀夫、林家三平、この四人に共通するものは?

 それは胸毛です。当時、「日本三大胸毛」、という話があって、長嶋、朝汐は必ず入るのですが、三人目は三島だったり、三平だったりして、確定していなかったようです。由利徹という話もあったようです。
 最近は男も脱毛する時代のようですが、この頃胸毛はまだ男らしさを強調するものでした。

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2009年6月25日 (木)

週刊平凡の創刊号

 週刊平凡の創刊号は昭和34年5月14日号。前に紹介した『週刊文春』『週刊現代』『週刊公論』も同じ昭和34年(1959年)で、週刊誌創刊ラッシュの年でした。

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週刊平凡創刊号:表紙と裏表紙

 表紙は、高橋圭三と団令子。車はMGのスポーツカー。写真の解像度が低いですね。
 そして表紙を開けると、

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 グラビアのトップは長嶋でした。

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 目次を見ると、芸能、スポーツ、皇室と、いかにも「平凡」らしい記事が並んでいます。月刊平凡も週刊平凡も今はもうありませんが、両方とも全盛期には発行部数百万部をこえていた、それこそ日本全国津々浦々どこへ行っても見かけられた雑誌でした。

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 トップの記事は、この年ですからやはりというか、「皇太子ご夫妻奈良の休日」です。
 4月17日伊勢神宮へ着き、18日に神宮参拝(結婚ご報告の儀)を終えて、夕刻奈良ホテルで一泊、これがいわゆるハネムーンという話です。

 この記事の中で、ちょっとひっかかってしまいました。神宮参拝のあと、五十鈴川のほとりでのことです。

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 清流の中を五寸ぐらいの魚がスイスイと泳いでいる。
「あれがウガイだよ」
 と、魚学を専攻する皇太子さまは、ガクのあるところをしめされた。(P16)

 「ウガイ」ってなに?ひょっとすると「ウグイ」のまちがいじゃないの。長良川じゃないんだし。
 ごていねいに、写真のキャプションも「ウガイ」となっています。
 このあたりの地方名で「ウガイ」と言ったりするんだろうか。インターネットで検索してみましたが、ウガイという名前の魚はいないようで、出てくるのはインフルエンザ予防の話ばかりです。
 魚のことを何も知らない記者が書いたんでしょうけれど、デスクとか編集長とか、きびしくチェックしている筈ですよね。
 後で関係者はかなり怒られたんじゃないでしょうか。皇太子さまがガクのあるとこをみせて「ウガイ」じゃ、ちょっとまずいでしょう。
(もしウガイで間違いないということでしたら、関係者の方ごめんなさい。)

 ついでながら、上の五十鈴川の写真。
 対岸にカメラマンたちが並んでいます。現在の感覚からすると、数がすごく少なくて、けっこう近そうなところなのに、警官らしい姿もみえません。警備も取材制限も当然されていたのでしょうが、なんとなくのんびりした風景に見えます。これを古き良き時代と言っていいのかどうかは、わかりませんが。

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2009年5月25日 (月)

週刊公論の創刊号

 週刊公論の創刊号。中央公論社、昭和34(1959)年11月3日号、定価20円。
 この週刊誌は記憶にありません。中央公論が週刊誌も出していたのか、という感じです。

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表紙と裏表紙

 定価20円に 注目です。同じ年創刊の週刊文春は40円、週刊現代は30円でした。

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 目次は上のとおり。ちょっと固めの内容のように見受けられます。

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 トップのグラビアは、1957年に脳梗塞を発症して、就任2カ月で総理大臣を辞職した石橋湛山。そして目次裏の、最初の記事はその後を継いだ当時の総理大臣岸信介です。この次の年が60年安保ということになります。

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 そしてこれがメインの大宅壮一の記事、「敗けてよかった日本」というタイトルや「私はソ連に軍配をあげる」という小見出しは、今なら街宣車やインターネットでの集中砲火を心配しないといけないところですが、1959年の時点では、これで特に問題にならなかったということです。
 記事の内容は、アメリカを訪れたソ連のフルシチョフとそれに対するアメリカのマスコミや大衆の反応を紹介するもので、派手なタイトルほどの中身があるわけではありません。

 「私はソ連に軍配をあげる」というのは、当時人工衛星やロケット技術で先行していたソ連が、将来的には文化、生活、産業等全般にわたって、アメリカを追い越すのではないかという予測。この頃のインテリには、こういう気分がかなりの程度あったのではないかと思われますが、これは大宅先生、はずれました。
 「敗けてよかった」というのは、日本は、敗戦で植民地を失い、都市は戦災を受けたが、元老・重臣をはじめ古い指導者は姿を消して指導者層が若返り、農地解放や組合運動などは行きすぎもあったが、全体として民族や産業の若返りに役立った。
 アメリカは豊かになりすぎて積極性がなくなり、守りの態勢になっている。フルシチョフに見せたピッツバーグの工場も四十年前の施設だ。日本では古い施設や機械が破壊されて、最新式のものを導入し、アメリカでも日本のトランジスタ・ラジオやカメラ、オートバイなどは人気になっている。同じ戦勝国のフランスは、今、北アフリカの植民地でアラブの叛乱軍相手にたくさんの貴重な生命を失いながら、巨額の金を投じ続けている。
 であるから、あの戦争を賛美したりするわけではないが、敗けたことが、結果としてはよかったのではないか、というものです。

 大宅壮一は、当時の社会評論家のナンバー・ワンでした。今生きていたら、いわゆる自虐史観対自由主義史観の争いや田母神論文について、なんというか聞いてみたいものです。

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 グラビアには高峰秀子。この頃はこの程度の解像度でもよかったんですね。
 右の広告には、神谷酒造の蜂ブドー酒、とデンキブラン。今でもあるはずですが、デンキブランは当時全国区の銘柄だったんでしょうか。知りませんでした。

 週刊公論は、創刊後二年に満たない、昭和36(1961)年8月に廃刊になっています。
 当時の中央公論社青年社長だった嶋中鵬二の遺文集『日々編集』(平成13年、私家版)によれば、20円で売り出して創刊としては当たったけれど、単価が安いから書店や鉄道弘済会からは評判が悪く、30円に値上げしたら部数が減り、苦労していたところへ「風流夢譚」の事件が起こり、週刊誌どころではなくなったということです。

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嶋中鵬二『日々編集』、左:函、右:本体

 風流夢譚の事件については、ウィキペディアに「嶋中事件」と題して、次のような解説があります。

雑誌『中央公論』1960年12月号に掲載された深沢七郎の小説『風流夢譚』(ふうりゅうゆめものがたり)の中で、皇太子妃が民衆に殺される部分や民衆が皇居を襲撃した部分が描かれたことなどについて、不敬であるとして右翼が抗議し、1961年2月1日に大日本愛国党の党員だった17歳の少年が、中央公論社社長の嶋中鵬二宅に押しかけた。少年は嶋中との面会を求めたが嶋中は不在で、雅子夫人が重傷を負い50歳の家政婦が刺殺された。少年は事件の翌日に警察に自主して逮捕された。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B6%8B%E4%B8%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 週刊誌撤退後については、前掲の『日々編集』に、大宅壮一がらみのこんな話も記載されていました。

 ちょうど外国に行っていた大宅壮一さんから手紙をもらいましてね、「週刊コウロン」(休刊時は「週刊公論」)をやめたそうだが、雑誌で失敗した場合には、全集で取り返すというのが、昔からの鉄則である。新潮社が「婦人の国」で失敗したあと、世界文学全集で建てなおしたんだという手紙を下さいましてね、そんなこともあって高梨専務を中心に全集を本格的に考えるということになったわけです。(『日々編集』P273)

 これで出した全集が、昭和38(1963)年の赤い函の『世界の文学』、昭和39(1964)年の紺色の函の『日本の文学』だそうです。当たりました。高校生だったわたしも買いました。今では色褪せて見る影もありませんが、当時、本棚に並べるとあの赤い色は斬新で、ちょっといいものでした。
 この全集の装丁が遺文集にも取り入れられています。

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2009年4月25日 (土)

週刊宝石の創刊号

 「週刊宝石」の創刊号(1981(昭和56)10月17日号)です。
 2001(平成13)年2月8日号で廃刊だそうですから、二十年近く刊行されていたことになりますが、そう言えばこんな週刊誌もあったな程度にしか憶えていません。

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 表表紙と裏表紙。表紙は真行寺君枝。この人も、そう言えばこんな女優もいたな程度です。すみません。

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 目次を見ても、どうもいまいち。内容もざっと目をとおしてみましたが、これといって特に紹介したいような記事もみつかりませんでした。(こんなコメントばかりで、関係者のみなさん申しわけありません。)

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 ゴシップ記事は、闇将軍田中角栄、新大関琴風、引退直後の江本、当時は王様の堤義明、名古屋のトラウマとなったオリンピック開催地争いの敗退など。  
 年表を見ると、創刊の後、ロッキード事件の裁判で、榎本三恵子の「蜂の一刺し」証言や小佐野賢治への実刑判決がありますから、そのあたりの号はもっとおもしろかったかもしれません。

 あとは、この頃まだ元気だった人の広告を見ておきましょう。

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 1981年、長男がこの年一歳。育児といわれても何をどうしたらいいのか、おろおろしていたころでした。

※写真がくっついていても、必ずしも続きページとは限りません。一枚ずつ載せると場所をとるため、離れた頁をくっつけて紹介している場合が多いので、ご承知ください。

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2009年3月 6日 (金)

週刊ポストの創刊号2

 週刊ポストの創刊号の記事がおとなしいというのは、グラビアを見てもわかります。こんな程度です。
 この後、ポストと言えばヘアヌード、という時代があって、ずいぶん売れました。あれはいつごろのことだったでしょうか。

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 グラビアの右側も見てください。富士電機の広告です。重電の会社で、このころは家電も作っていたと思います。戦前に富士電機の電話関係部門を分離独立させたのが富士通ですが、この頃わたしはまだ富士通の名前を知りませんでした。現在は逆になって富士通は有名ですが、富士電機の方は余り知られていない名前になってしまいました。
 ネットで調べたら、そもそも富士電機は、古河電工とドイツのジーメンス社が共同で設立したものだそうです。だから古河の「ふ」とジーメンスの「じ」をとって、「富士」と命名されたとのこと。これは知りませんでした。
 それと「ジーメンス」はドイツ語読みで、最近は日本法人の名前も英語読みの「シーメンス」になっているとのこと、勉強になりました。

 週刊ポストの創刊号は、週刊現代に比べてカラーページがずっと多くなっています。十年後だから当然といえば当然です。
  その中でも目を引くのがカラーテレビの広告。四つありました。ゼネラルというなつかしい名前もあります。

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 この頃が、カー、クーラー、カラーテレビが三種の神器と呼ばれていた時代です。
 上の広告の価格は次のとおり。
  ・ナショナル パナカラー 19型 197,000円
  ・三菱        高雄             189,000円(おそらく19型)
  ・日立     キドカラー  19型 173,000円
  ・ゼネラル  王朝           12型 108,000円
   (参考 ゼネラルの電子レンジは127,000円)

 大卒初任給が3~4万、この週刊ポストが70円の時代ですから、高かった。同じ号にトヨタ自動車の新型パブリカの広告もありますが、これが排気量1000CCで、39.5万円です。ほぼカラーテレビ二台分で乗用車が買えたことになります。お金持ちの家に行かないとカラーテレビは見られませんでした。わたしの家がカラーテレビを買ったのはいつのことだったでしょうか。

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2009年3月 3日 (火)

週刊ポストの創刊号

 週刊現代の次はやはり週刊ポストの創刊号でいきましょう。昭和44(1969)年8月22日づけですから週刊現代より十年遅れ、今から四十年前のことです。
 表紙と裏表紙、三船敏郎が元気です。

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 これが目次。現在の週刊ポストと比べると、ずっとおとなしい感じですが、記事は創刊時から、はっきりサラリーマンを対象にしぼっています。

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 目次のトップは「フォード会長が初めて語った日本上陸作戦」。ヘンリー・フォードの孫のフォード会長への国際政治評論家中丸薫氏のインタビュー記事です。

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 四十年前は、強大なアメリカの自動車会社が、関税障壁に守られた日本の自動車会社を自由化で飲み込もうと襲いかかってくると恐れられていた時代だったのです。
 記事には「(フォードの)昨年の売り上げ高百四十億ドル、五兆円、つまり日本の国家予算の四分の三」とあります。当時の日本は、同じ記事内に「自由世界第二位の経済力を持つようになった」とありますが、まだまだ力は弱く、アメリカの自動車産業は見上げるような巨人だったのです。
 それをこの後の四十年で日本の自動車産業は世界を席巻し、今やフォードは存続すら危うくなっているわけですから、経済危機のさなかですが、日本もよくやってきたよなあ、とちょっと感慨にふけりたくなります。

 また、全体におとなしい感じがするとはいえ、目次には「このままでは学生は殺される!」とオーバーな文句も踊っています。
 この年の1月がお茶の水カルチエ・ラタン闘争、東大安田講堂の封鎖解除、6月には新宿西口のフォークゲリラが機動隊に排除と、物情騒然としていた時代でした。
 記事は「大学立法が成立して、かえって火に油を注いだのではないか」と、さらに騒ぎが大きくなるのを期待するような気配がありますが、このあと学生運動が次第に下火になっていきます。この頃わたしは何をしたらいいのかわからない何もしていない大学三年生でした。

 当時を思い出させるこんな記事もありました。

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 梅棹忠夫の『知的生産の技術』(岩波新書、1969)です。ベストセラーになりました。
 わたしもこれを読んではまってしまった口で、さっそく京大型カードを買い込みました。しかしものになりませんでした。ともかくこのカードは場所をとります。一枚に一件、余白を恐れず惜しまず使えという教えに従ってやってみると、どんどん増えて置き場に困るし、カード代も貧乏学生には馬鹿になりません。
 ただ梅棹忠夫の本は、この後もずっと読み続け、著作集まで買い込みました。この人の無駄のない、飾り気のない、わかりやすい文章が好きです。

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2009年1月23日 (金)

週刊現代の創刊号

 週刊現代の創刊号(昭和34(1959)年4月12日号)、表紙と裏表紙です。

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 前に紹介した週刊文春の創刊号とほぼ同じ時期の発行ですから、記事のメインも同じ、皇太子御成婚です。表紙のデザインは、今の若い人は、これは何だと思うかもしれませんが、当時はみんなこれでわかりました。「テニスコートの恋」です。でももうちょっとなんとかならないかという感じです。あのころはこれが斬新だったのでしょうか。

 これが目次の見開き。

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 週刊現代も週刊文春や週刊新潮と同じく、現在のようなケバケバしいタイトルはなく、全体におとなしめですが、御成婚の記事の中に、こんな箇所もありました。

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 おめでたに背をむける人々、左の日教組、総評。右は右で「皇太子と粉屋の娘の恋愛」が気に入らない。小学五年生のわたしはそんな話は知りませんでした。

 それから、おおこれは、という記事があります。目次でお気づきでしょう。これ、相撲の八百長疑惑です。

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 週刊現代は、八百長疑惑をめぐって現在も相撲協会と激しく対立していますが、創刊のときからこれをやっていたのです。今年は2009年だから、なんと五十年前から。すごいねばりというか、執拗というか…
 それにしても出てくる名前が、栃錦、若乃花(先々代)、朝汐(先代)…とはなつかしい。

 芸能記事は、石原裕次郎に北原三枝、黒い稲妻トニー・ザイラー…
 広告のトヨペットの形がなんとも言えません。

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 グラビアにはこんな写真も。

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 このころ日本は、まだ、豊かな国ではありませんでした。アジアの片隅の小さな国。「三丁目の夕日」の時代です。

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2008年12月30日 (火)

週刊明星の創刊号

 「雑誌の創刊号」というカテゴリーをつくりました。
 今回は『週刊明星』の創刊号です。1958(昭和33)年、7月27号。表紙と裏表紙。

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 表紙のモデルは安西郷子という新東宝~東宝の女優で、三橋達也の奥さんだそうですが、わたしの記憶にはありませんでした。

 これが目次。これを見ると芸能週刊誌という感じではなく、執筆者に石川達三、三島由紀夫、獅子文六、石坂洋次郎、柴田錬三郎、松本清張と並んでいて、文芸週刊誌か、という感じがします。

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 トップのグラビアも、下左にあるようになんと谷崎潤一郎です。淡路恵子と一緒ですけれど。右は谷崎とは関係ないけれど、なんともなつかしい小林旭と浅丘ルリ子の写真なので入れました。

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 ウィキペディアには、創刊時の「編集方針は若い読者層を狙った『週刊新潮』のジュニア版」としてスタートし、1959年に創刊された『週刊平凡』に部数で追い越されてから、芸能週刊誌に変更した、とあります。なるほどそうだったのか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B1%E5%88%8A%E6%98%8E%E6%98%9F

 『週刊明星』の創刊は『週刊平凡』より先だったんだ。これは知りませんでした。
 集英社という出版社は、雑誌『平凡』(1945創刊)に対して『明星』(1958年)、『平凡パンチ』(1964年)が出ると『週刊プレイボーイ』(1966年)、『アンアン』(1970年)の次に『ノンノ』(1971年)と、マネシタ電機ではないけれど、二匹目のドジョウをうまくすくっていく会社だと思っていたので、ついつい『週刊明星』も『週刊平凡』の後だとばかり思っていました。(集英社のみなさんごめんなさい。)

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 この年は巨人の長島のデビューの年で、当時国鉄の金田との対談記事があって、第一戦の三振のことが話題になっています(上左)。ほかの頁の「杉浦投手に愛されて」という記事は、南海の杉浦のことで、七月十日現在、十七勝三敗とあります。これもすごかった。

 上右はポール・アンカ。「ダイアナ」、「君はわが運命(さだめ)」がヒット中。その下の「七月の歌謡曲」として並んでいる歌の中で覚えているのは、平尾昌章の「星はなんでも知っている」と石原裕次郎「風速40メートル」
 わたしは小学四年生でした。

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