窮居堂旅日記

2017年2月16日 (木)

カオハガンの記憶3

 小さな小道を行くとあちこちに民家がある。

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 大きな瓶がは水を蓄えるためのもの。
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 子どもたちが遊んでいる。みんな愛想がいい。

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 これは誕生日パーティだった筈だけれど、よく覚えていない。
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 真ん中の左側の子の誕生日だったと思う。
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 誕生日のご馳走は――ご相伴にあずからなかったのでわからない。

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 後ろの囲いは闘鶏場ではないかと思う。

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 これが闘鶏かどうかもわからないが、島の男たちは闘鶏などをして遊んでいることが多いらしかった。

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 これはキルトを作っているところ。女性は働き者であるらしい。
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 これは夫婦。

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 散歩中、シャコを焼いていたので見ていたら、「食うか?」と聞かれ、「うん」と言ったら、酒も出てきて、とうとうミニ宴会風になってしまった。ギターを持ち出して歌も歌ってくれた。金はわたしが払った。
 「おれは「ナンベル・ワン・シンガー」だと言っていたので、何のことかと思ったら「ナンバー・ワン」のことだった。スペイン語なまりか?

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 これは帰りの船から見たカオハガン島。
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 ともかくきれいなかわいい島だった。

参考:カオハガンの本
 この他にも出版されているけれど、とりあえず手元にある本。文庫本になっているものもある。

1 『何もなくて豊かな島 ―南海の小島カオハガンに暮らす』崎山克彦、新潮社、1995)

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2 『青い鳥の住む島』(崎山克彦、新潮社、1997)

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3 『南の島のゆかいな仲間たち ―風とキルトと動物と』吉川順子、メディアファクトリー、1997)

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4 『南太平洋の旅 ―何もなくて豊かな島』崎山克彦、新潮社、1999) 

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5 『何もない島の豊かな料理』(崎山克彦、角川書店、1999)

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6 『南の島カオハガン島主の夢のかなえかた』(崎山克彦、講談社、2000) 

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7 『世界でいちばん住みたい島―南の島カオハガンに楽園を創る』(崎山克彦、熊切圭介写真、PHP研究所、2001)

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2017年2月13日 (月)

カオハガンの記憶2

 カオハガンの景色の美しさはわたしの写真では十分伝えきれないが、ちょっとみておくと、これがポントグとよばれる砂州。ここは観光客に開放されていて、ときどき船が寄ってくる。

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 観光客が休む小屋が造ってある。

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 観光船が着くと島民がここで土産物を売ったりするようだったが、このときは犬が遊んでいた。

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 この砂州から、わたしが泊まったFロッジが見える。台風も津波も来なくてよかった。

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 空も海もきれいだ。

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 珊瑚礁の中なので海は浅い。
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 ダイビング教室を申し込んでおいたが、潮の加減で中止になって体験できなかったのが残念だった。
 海にいたオニヒトデの表と裏。

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 これはクモヒトデ(茶色いの)がナマコか何かの下にもぐっているところと思われる。
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 カニ。シオマネキだろうか。

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 これは島民の生け簀で、シャコがいる。

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 シャコは、けっこう大きいのを後で焼いて食べさせてもらった。









 

 










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2017年2月 9日 (木)

カオハガンの記憶1

 カオハガンへ行ったあと、記録を残しておきたいと思っていたけれど、当時はまだ仕事をしていたこともあって、そのまま何年も放っておいたら次第に記憶が薄れ、具体的なことがよくわからなくなってしまった。
 いつもその場ではほとんどメモをとらない。帰ってからそれほど時間のたたないうちなら、写真や地図などをたよりにあれこれ思い出してそれなりに行動をたどれるのだが、さすがに何年もたつと忘れてしまう。十五年前となると絶望だ。残念だが詳しい話はできない。
 久しぶりに取り出してみた当時の写真を見ながら、思い出せることだけ少し紹介する。

 行ったのは2001年8月24日から28日の4泊5日で、カオハガンで3泊、そのあとセブ島に1泊してセブ島を一回りしてから帰った。
 セブ島の空港はセブ島にくっついた小さなマクタン島にあって、カオハガンはさらにその隣の環礁にある小さな小さな島である。

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 夕方マクタン空港に着いたあと、お迎えの人と車でどこだかよくわからない港に行き、船に乗せられた。それがアウトリガーのついた、ちょっと頼りないボートで、もう日も暮れて夜になっており、いささか不安を覚えた。潮の都合とかで遠回りして一時間くらいかかったと思う。

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 こうやって写真を並べると島に近づいて行く様子らしく見えるが、当日は夜だったのでよくわからなかった。月が出ていたかどうかも覚えていないし、写真も撮っていない。
 翌日になってから、昨夜着いたのはここだったと教えてもらった。

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 これは乗ってきた船ではないと思うが、アウトリガーつきの船。

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 カオハガンは写真で見たとおりの小さくてかわいい島だった。約5万㎡、東京ドームが4万6,755㎡というから東京ドームよりひとまわり大きいくらいか。外周2キロ、歩いて30分で一周できる。丘と言えるほどのな高地もない。(地図は崎山克彦著、熊切圭介写真『世界でいちばん住みたい島』(PHP研究所、2001)より)

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 ここが母屋で、宿泊客はここでみんな一緒に食事をする。崎山さんも一緒であった。宿泊もでき、トイレ、シャワーがある。

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 昼間はやっぱり暑いが、ここは日陰で風が吹き抜ける。犬たちが昼寝をしていた。
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 3泊したあいだ何をしていたのかよく覚えていない。犬たちのようにゴロゴロしていたのだろう。これは夜、みんなでラミーというゲームをしているところ。

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 同宿者のみなさん。山形から来たという若夫婦と、その他は申しわけないがよく覚えておりません。ごめんなさい。

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 わたしが泊まったFロッジ。現地仕様でトイレもシャワーもない。カオハガンでは水が貴重なのだ。

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 風通しがいいのは見てのとおり。

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 窓からの景色。幸い台風が来るようなことはなかった。

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 こちらはトイレもシャワーもあるコテージ。建物もしっかりしている。新婚さん向きだそうだ。
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2016年8月15日 (月)

東北13 立石寺3・山形

 山寺を降りて遅い昼食に向かったのは、麓の立谷川(たちやがわ)の岸辺にある店。この大きな石を対面石(たいめんせき)と言い、隣にある店の名も対面石と言う。

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 山寺の開山である円仁がやって来たとき、この地を支配していた猟師の磐司盤三郎(ばんじばんざぶろう)とこの石の上で対面したという伝説が残っている。円仁は、盤三郎に仏の道を説いて寺院建立を認めさせた。盤三郎は以来殺生をやめ深く仏に帰依したという。
 その対面石の前に新しい小さなお堂が立っている。何かと思えば「幸福の鐘」だそうだ。これはここに必要かと、ちょっと思ってしまった。(→東北6 南リアス線・陸前高田

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 その隣は対面堂。円仁慈覚大師磐司盤三郎の像が安置されている。

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 司馬遼太郎は、『街道をゆく10 羽州街道・佐渡の道』(朝日文庫、1983)に、円仁は実際にはここまで来なかった、円仁の弟子でこの寺の開祖とされている安慧(あんえ)が円仁の名で建立したのでは、と書いている。また磐司盤三郎が猟師だったというのは、山の獣や草木によって衣食する「山夷」の親分であったのではないか。「この山のぬしはおれだ」と言う山夷に対して安慧は情理をつくして異国の神のありがたさを説き、盤三郎はそれを受け入れ、山をあげて寄進し、帰依者になった、と書いている。
 司馬は、時間の都合で山寺の上までは登らず、麓の根本中堂のあたりだけしか見なかったらしい。ちょっと残念だ。

 さてこれが「お休み処 対面石)」。山寺に登るとき、この店に荷物を預けてあった。このあたりの店は、帰りに寄って食事をする約束でたいてい荷物を無料で預かってくれるようだ。いい慣習である。

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 注文したのは芭蕉膳。山形名物のそば芋煮だし(ナスやキュウリなどを細かくきざんで、あえたもの)がセットになっている。
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 山菜天ぷらに、後で生麩ずんだ餅も頼んだ。

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 天気も良く、山登りで汗をかいて、旅行もこれで終わり。ビールがうまかった。
 山寺はいいところだった。緑濃く、山深く、身体を使って、一汗かかないと登れないところに奥の院があるのもいい。ネットで見ると、紅葉の季節、雪の季節それぞれに美しい。雪のころは寒いだろうから、紅葉の季節に一度来てみたいものだ。

 帰りの山寺駅のホームから見た山寺。岩場の上の方に見えるのが五大堂開山堂である。

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山形

 あとは山形へ出て新幹線に乗って帰った。山形は初めてだったので、ちょっとだけでも見ておこうと、乗り換え時間に駅の外へ出てみた。
 霞城セントラルという高層ビルがあったので、24階の展望ロビーまで登った。

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 霞城(かじょう)と言うのは山形城の別名で、城跡が霞城公園という公園になっているが、城はない。ここまで行ってみる時間はなかった。

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 JR山形駅

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 なかなか良さそうな街である。山寺の門前町でみやげに買ったサクランボは甘くてうまかった。河原での芋煮会というのも体験してみたい。機会があればまた来よう。
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 今回の旅行は、おおむねI長老の企画により、複雑な電車・BRTの乗り継ぎは「てっちゃん」のK機長による。T局長は奥さんを動員して盛り上げてくれた。
 楽しい旅行でした。皆さんにお礼申し上げます。また行きましょう。

みちのくの夏を探して徘徊す 俳爺

 

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2016年8月11日 (木)

東北12 立石寺2

Dscf4807_3 せみ塚の次には、崖に経文などが彫られた弥陀洞(みだほら)というところがあった。
 帰ってから説明を読むと、天然の崖そのものに大きな阿弥陀様の姿が浮かび上がって見えるのだという。
 そんなこと知らないから、下の方の卵塔や卒塔婆だけを見てきたが、撮った写真を見てみると、なるほどそれらしく見えなくもない。右上のカーブが左肩から腕、一番上に、顎の一部だけ見えるという感じ。
 この見立てでいいのかどうかはわからない。崖全体の写真は撮らなかった。おそらく信心の篤い者にはちゃんと見えるのだろう。

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 仁王門仁王様。

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 登りながらいくつもの子院を過ぎていく。性相院(しょうそういん)。

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 金乗院(こんじょういん)。

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 これは何院だか、よくわからない。
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 中性院(ちゅうせいいん)。
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 ようやく奥の院にたどり着いた。向かって右が奥の院、左が大仏殿である。

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 こちらが大仏殿

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 こちらが奥の院。 
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 ここが海抜417mで一番高いところになるが、これで終わりではない。 中性院のところまで下がって脇道を行くと、開山堂納経堂がある。小さいのが納経堂

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 これが開山堂。この寺の開山は慈覚大師円仁である。
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 この右側をさらに行くと五大明王をまつる五大堂がある。

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 崖際に舞台づくりになっていて見晴らしがいい。海抜386mだそうだ。

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 これでもう参拝者は登るところはないが、修行者にはまだたくさんあるようだ。目の前の山には岩肌が露出したところが散見され、小屋や洞窟のようなものがあちこちに見える。

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 修行の場で危険だから近寄るなという看板もあるが、現在はどんな修業が行われているのだろうか。

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 修業の岩場の案内看板には、斎藤茂吉の歌が書かれていた。立石寺で詠んだものらしい。

みちのくの仏の山のこごしこごし
岩秀(いわほ)に立ちて汗ふきにけり

 「こごし」は岩がごつごつと重なってけわしいさま。「岩秀(いわほ)」というのは岩のてっぺんくらいの意味か。茂吉も汗をかきながら山寺に登って、下界を見下ろしたのだろう。
 ともかくわれわれは修行をしないで山を降りる。せみ塚の近くには、アジサイが大量かつきれいに咲いているところがあった。

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 山門からは来た道を戻らず下山口へ向かう。登山口へ戻る人の方が多いのか、こちらは人が少ない。
 どこでも大きな寺は猫のいい遊び場になるようだ。

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 これは抜苦門(ばっくもん)。仏様が苦を抜いて下さるということで、帰り道だからバック門だなどと言ってはいけない。
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 蛙岩
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 立石寺本坊

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これは神楽石(かぐらいし)というそうだ。すぐ前にあるのは菩提樹。

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 黄色い花がいっぱい。菩提樹の花盛りは初めて見た。
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 これでようやく山を降りた。

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2016年8月 8日 (月)

東北11 立石寺1

第四日(16/07/01)

立石寺

 最終日は桜荘の車で野蒜駅まで送ってもらい、仙台経由で山形の立石寺(りっしゃくじ)へ向かった。最初の計画ではさらに南下して、K機長の友人のいる福島県の相馬へ行こうとしたが、うまく調整が取れず、ここで被災地から離れることになった。野蒜から立石寺までは、何もなかったわけではないが、とりあえず省略する。

 立石寺K局長とわたしは初めてである。通称を「山寺(やまでら)」と言い、地名も「山形市山寺」、最寄り駅もJR仙山線の「山寺駅」である。

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 駅を降りると目の前に見える、この山全体が山寺=立石寺で、1,015段の長い階段を登らないと奥の院にはたどり着けない。 

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 『るるぶ情報板 山形'10』(JTBパブリッシング、2009)にはこんな案内図が載っている。
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 門前町を抜けて行くと、登山口に出る。

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 「奥の細道」の看板が目立つ。芭蕉は、元禄二年(1689)、奥の細道の旅で立石寺を訪れている。327年前だ。
 階段を登ってまず最初にたどり着くのは根本中堂(本堂)。

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 ここで招福布袋尊と腹くらべをするI長老。そうそう負けていないところが凄い。

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 このあたりは少し平らで、お地蔵さんや日枝神社などいろいろある。

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 芭蕉の像と一緒に俳人T局長を撮った。隣に弟子の曽良の像もあるのだが、そちらは撮らなくてもいいと言う。ライバルは芭蕉、ということらしい。

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 鐘楼念仏堂

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 ここが山門で、ここから本格的な登りになる。

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 よっこらしょ、よっこらしょと登って行く。

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 これは姥堂(うばどう)で、ここから下が地獄、上が極楽になるのだそうだ。ご本尊は奪衣婆(だつえば)で、衣服の代わりなのか手ぬぐいがたくさんぶら下がっている。

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 いろんなものがあるが、詳しくはわからない。

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 ようやくここまでたどり着いた。「せみ塚」である。

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  閑かさや岩にしみ入る蝉の声

 これが、立石寺で芭蕉が読んだ句であった。
 奥の細道から引用しておく。

山形領に立石寺(りふしゃくじ)といふ山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊に清閑の地なり。一見すべきよし人々のすすむるによりて、尾花沢よりとつて返し、その間(あひ)七里ばかりなり。日いまだ暮れず。麓の坊に宿かり置きて、山上の堂にのぼる。岩に巌(いはほ)を重ねて山とし、松栢年旧(としふ)り、土石老い苔滑らかに、岩上(がんしやう)の院々扉(とびら)を閉(とじ)て物の音きこえず。岸をめぐり、岩を這ひて、仏閣を拝し、佳景寂寞(じゃくまく)として心澄みゆくのみ覚ゆ。
 閑(しずか)さや岩にしみ入る蝉の声

(『おくのほそ道』(松尾芭蕉 板坂元・白石悌三 校注・現代語訳、講談社文庫、1975)より)

 せみ塚というから、セミを供養してあるのかと思ったら違った。宝暦元年(1751年)に、立石寺を訪れた弟子筋の俳人たちが、この句の着想を得たのはこのあたりではないかと、ここに芭蕉の残した短冊を埋めて石碑を建てたのだという。
 こんな岩壁もあるし、俳人たちが訪れたときは、蝉がしきりに鳴いていたのだろう。わたしたちが訪れたのは7月1日で、まだ早いとみえて、残念ながら蝉の声は聞けなかった。

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 この蝉の種類について、その昔、論争があった。斎藤茂吉がこの蝉はアブラゼミであると言い出し、小宮豊隆がこの句にアブラゼミは合わない、季節も違う、ニイニイゼミだと反論した。その後齋藤茂吉は実地検証の上、アブラゼミは誤りだと認め、ニイニイゼミが正しいと結論づけた。
 ニイニイゼミにはなじみがない。鳴き声がよくわからない。ネットで調べてみたがいまいちピンと来ない。この夏は少し注意して蝉の声を聞くことにしよう。(→「セミの画像と鳴き方」 http://www.m-ecokosha.or.jp/semi/semi_koe_index.html)

 前掲の講談社文庫の『おくのほそ道』には、奥の細道に関連したいろんな作家の紀行文が抜粋してある。立石寺は五木寛之の『にっぽん漂流』からである。

ふと奇怪な疑念が心に湧いた。
「あの蝉の声だけど――」
「何です」
「あれ、地元の観光協会か何かが有線放送で流してるんじゃないだろうか」(p233)

 むろんそんなことはなかった、という落ちがついている。五木寛之も若い頃はけっこう馬鹿なことを書いていたのだ。
 スピーカーで流すのはとんでもないが、季節はずれの時は岩壁の前にヘッドフォンを置いて聞かせてもいいかもしれない。

 

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2016年8月 4日 (木)

東北10 奥松島

 石巻の次は奥松島である。仙石線野蒜(のびる)駅に着いた。

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 新しい駅舎である。津波の被害により、このあたりの路線ごと高台に移転してつくられたものだ。
  今回泊まった里浜は、地図で見てわかるとおり、松島弯に面しているので直接の被害は大きくなかった。太平洋側の室浜、大浜、月浜は壊滅的な被害を被った。ただ里浜は、迎えに来てくれた民宿のご主人の話では、橋や道路が壊れて孤立してしまった。しかし昔からの集落なので、その団結力で乗り切ったのだという。

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 これが里浜漁師民宿桜荘。ここには同行のT局長の奥さんが先に来ていた。そもそもここへ来たのは、今回の旅行の企画者I長老が、ネットでここの料理の評判を見て、是非ここへと決めたからだった。その料理に奥さんも興味を持ち、実家の秋田へ行った帰りにここだけ合流することになった。
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 すぐ近くに『さとはま縄文の里 史跡公園』(縄文公園)があった。

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 海にはいくつも小島が浮かんでいる。桜荘のご主人の話の中に何度も「松島と変わらない」という言葉が出てきたのを思い出す。 

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 縄文というのは、縄文時代の遺跡があることからきている。そのひとつ「里浜貝塚貝層観察館」。

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 貝塚の断面をはぎ取って固定したものが展示されている。
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 解説もついていて、なかなかおもしろい。

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 壁面から下に目を移すと、こんなものがあって一瞬ドキッとする。

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 これも貝塚から発掘されたもの(もちろん複製)だそうだ。

 さて夕食は、お目当ての「あわびの踊り焼コース」。 
 ここも田野畑の本家旅館と同じでとにかく量が多い。

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 わたしなど、このワタリガニだけで納得してしまうくらいだが、メインはアワビの踊り焼きステーキ。まだ生きているやつを焼いて食べる。大きい、こんなのを中華街で食べたらいくらとられることか、と卑近なことを考えたくらい。

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 さらに大きなカレイも出てきた。

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 うまいのだけれど、ここも田野畑と同じで、食べきれずにずいぶん残してしまった。もったいない、まったく申しわけないことだった。
 気仙沼のホテルが一番料金が高かったのに、料理の量は一番少なかった。安かった田野畑の老舗旅館と奥松島の漁師民宿は、どちらもたくさんご馳走を出してくれ、とても食べきれなかった。これまではたくさん料理を出すことが目一杯のおもてなしだったのかもしれないが、高齢化社会になった今、料理を出す方にも少し考えてもらって、客の年齢・要望に応じて分量を調整すべきだと思う。「老人用」と言うと気を悪くする奴がいるから、「鶴亀御膳」とか名付けて、減量コースを普及させるべきだ。減らした分だけ安くしろとは言わない

 食べきれなかったのは、量に加えて、どこでも魚づくしだったこともある。今回の旅行はI長老の企画によるもので、企画書の桜荘の項には「東北行の最後の宿泊 もう魚は飽きたあ~ となるかどうか ともかく地酒で〆。」と書かれていた。そのとおり、わたしは「もう魚は飽きたあ~」状態になっていた。朝の気仙沼のホテルの朝食バイキングで食べたソーセージとベーコンが、上級品と言えるようなものではなかったけれど、とてもうれしかったくらいだ。

 

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2016年8月 1日 (月)

東北9 石巻

 リアス・アーク美術館からまたタクシーでJR気仙沼線BRT)松岩駅へ行く。(気仙沼駅へ行くと戻ることになるので)

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 ここには仮設の商店街があった。

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 ここから南三陸町を通って石巻(いしのまき)へ向かう。
 途中、南三陸町の防災庁舎が見えた。震災遺構とするかどうかあれこれあって、とりあえず2031年までは宮城県が保存することになった、というやつである。

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 JR気仙沼線は全線BRTだが、柳津(やないづ)-前谷地(まえやち)間は鉄道も走っているので、柳津でバスを降りて鉄道に乗り換えた。

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 これがBRTのバス。後ろが柳津駅。

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 柳津駅も委託駅で、JRの職員の代わりにお姉さんが二人いて、あれこれ観光客の相手をしていた。

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 脇で聞いていて、あれっと思ったのは地名の「登米」の読み方の話。実はわたしは二十代初めの頃、このあたりに来たことがあり、そのときこれは「とめ」と読むと覚えた。ところが市の名前は「登米(とめ)」だけれどその中の「登米町」は「とよままち」と読むのだという。なるほど駅に置いてあるパンフレットにもこう書いてある。

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 なんでも「とよま」と読むのが古くて、「登米(とよま)郡」が「登米(とめ)郡」になっても、登米(とめ)市になっても、「登米町(とよままち)」だけはずっと「とよま」でがんばっているということだ。おもしろかったので書いておく。

 これが気仙沼線の電車。やっぱりバスより電車の方が旅行らしくて落ち着く。

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 これで前谷地まで行き、次は石巻線石巻(いしのまき)へ行く。

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 石巻駅には「サイボーグ009」とその仲間たちや「仮面ライダー」がいた。石巻には、原作者の石ノ森章太郎の記念館「石ノ森萬画館(いしのもりまんがかん)」があるからだ。
 石ノ森章太郎は登米郡石森町(とめぐんいしのもりちょう、現登米市中田町石森。ここにも登米が出てきた。)の出身で、ペンネームの石森は、本人は「いしのもり」のつもりだったが、ずっと「いしもり」と呼ばれ、それで定着してしまっていた。しかし晩年心機一転をはかって「石ノ森」に改名した。わたしは今でも「いしもり」と呼んでしまう。「サイボーグ009」や「佐武と市捕物控」は同時代で読んでいた。

 これがタクシーの中から撮った石ノ森萬画館。宇宙船をイメージしたものだという。通り過ぎただけで中は見ていない。 

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 石巻では駅前の観光協会で「語り部タクシー」をお願いした。
 まず海に近い高台にある日和山(ひよりやま)公園へ行った。旧北上川の中州に見える半球状の建物が石ノ森萬画館である。
 この公園からの光景はテレビで何度も映し出された。

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 津波前の写真パネルが設置されているところもあり、現状と比較しながら話を聞く。津波はこの川をさかのぼった。

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 YouTubeにはこの日和山公園から撮った当日の映像があった。雪の降る中、地震で避難してきたまわりの人たちが見ている前で川の水位が上がり、氾濫して、瓦礫や家が流されていった。
(→https://www.youtube.com/watch?v=eBs7yfl8Se0)

 石巻には震災一年後の2012年4月にも来た(→気仙沼・石巻2)。その時もタクシーで案内してもらい、同じようなところを見せてもらった。さすがに復興されていて、四年前のように瓦礫があちらでもこちらでも見られるということはない。
 四年前の魚市場。水がたまっていて、天井がはがれたままだった。

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 現在の魚市場。新しい大きな建物になっている。ただ、まだこの建物をフルに活かすだけのところまではいっていないそうだ。

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 運転手さんの家は、この魚市場にも近い、水産加工工場がたくさんある地帯にあって、そこで津波に襲われたそうだ。
 当日は休みで出かけていたが大きな地震で驚いた。奥さんとお母さんが家にいたので心配で家へ帰った。津波が来たときにはもう逃げられなくて、ずっと二階で過ごした。水は最高時には二階の床を越えたけれど、その後階段の途中まで引いたので、なんとか耐えられた。
 ヘリコプターもたくさん飛んできたけれど、手を振っても、個人の家より病院とか、おおぜい避難しているところが優先されたから、結局救出されたのは翌日の夕方だった。お母さんも奥さんもヘリコプターに吊されて助かった。
 まわりが大きめの工場ばかりだったので、よその住宅が流されてきてぶつかるようなことがなかったので助かったのだろうとのこと。なんとも凄い体験をされている。

 この「がんばろう石巻」看板は、四年前は瓦礫の散らばった荒れ地の中だった。

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 今は、更新されて少し場所が動いたらしいけれど、まわりはきれいに整地されている。白い建物は「南浜つなぐ館」という追悼施設。
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 南浜つなぐ館の前のポールは、津波の到達高さを示している。ポールのてっぺん近く迄来た。
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 運転手さんには、次に乗る電車の時間ぎりぎりまで案内していただいた。少しずつ復興しながら、まだ至らないところもあれこれあること、よくわかりました。どうもありがとうございました。この次来るときには、さらに発展した石巻を拝見したいと思っています。

 

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2016年7月28日 (木)

東北8 リアス・アーク美術館

第三日(16/06/30)

リアス・アーク美術館

 第三日はホテルから、同じ気仙沼にあるリアス・アーク美術館へタクシーで行った。

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Photo_5 リアス・アーク美術館は、この地域の歴史・文化資料やこの地域出身作家の芸術作品を収蔵・展示することを主な目的として平成6年(1994)に作られた。宮城県が建物を作り、気仙沼市と南三陸町で構成される広域行政事務組合が運営している。
 東日本大震災に遭遇したことで、この被害を継続的に調査記録し、地域の文化的記憶として後世に伝えていくために、本来の目的の展示に加えて、大震災当時の記録写真や被災物などの常設展示を行っている。
 「リアス」はリアス式海岸、「アーク」は「方舟(はこぶね)」で「リアスの方舟」、この地域の文化資産を守り伝えるもの、という意味である。パンフレットの下にある赤いゴンドラのようなものは、方舟を象徴するアートであるらしい。(一番上の写真の上部にも一部写っている)

 この美術館へ来たのは、同行のK機長が昨年(2016)、東京の目黒区美術館で開催された「気仙沼と、東日本大震災の記憶 ―リアス・アーク 美術館 東日本大震災の記録と津波の災害史―」展を見て大きな感銘を受けたので是非行こうと提案があったからだった。
 なぜ目黒区かというと、「目黒のさんま祭」に気仙沼からサンマを提供したことから交流が始まって、震災の前からずっと続いているのだという。なかなかいい話だ。

 その展示「東日本大震災の記録と津波の災害史」は圧巻だった。
 館内の撮影は禁止だったので、いただいたパンフレットの写真を転載する。 

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 記録写真と「被災物」と呼ばれる現場から収集された瓦礫や日常生活用品の数々が、あの当時を――わたしは横浜でテレビの画面に釘付けになって茫然としていたにすぎないけれど――思い起こさせる。
 大きな記録写真は衝撃を呼び起こし、津波の凄まじかったことを、今さらながら再度記憶に焼き付けさせる。
 被災物には、ひとつずつそれぞれについての物語が添えられていて、中でも小さな日常生活用品についての話は胸に迫ってきた。説明するより、これも『リアス・アーク美術館常設展示図録 東日本大震災の記録と津波の災害史』(2016)から少しだけ転載させてもらう。

Photo_2「郵便受け 2011.12.13 気仙沼市元吉町大谷」
 退職金、前借りしてさ、建てて3年だよ…残ったのは借金と、地盤沈下した土地と、あと郵便受けだけ。
 家族が皆、無事だったのが不幸中の幸いだけども…息子は会社がダメになってさ。そんでも九州の本社で拾ってもらって、今は北九州市に引っ越してしまった。
 帰省したってこっちは狭い仮設だから…悪くすると、宿もこっち取れなくて、帰省なのに泊は一関だよ。(p74)

Photo_3「炊飯器 2012.2.2 気仙沼市朝日町」
 平成元年ころに買った炊飯器なの。じいちゃん、ばあちゃん、わたし、お父さんと息子2人に娘1人の7人だもの。だから8合炊き買ったの。そんでも足りないくらいでね。
 今はね、お父さんと2人だけど、お盆とお正月は子供たち、孫連れて帰ってくるから、やっぱ8合炊きは必要なの。
 普段は2人分だけど、夜の分まで朝に6合、まとめて炊くの。
 裏の竹やぶで炊飯器見つけて、フタ開けてみたら、真っ黒いヘドロが詰まってたの。それ捨てたらね、一緒に真っ白いご飯が出てきたのね…
 夜の分残してたの…
 涙出たよ。(p79)

Photo_4「電子レンジ 2012.3.23 気仙沼市内の脇2丁目」
 オーブンレンジっていうのかな。結婚してアパート暮らしを始めるときに、祖母がお祝いに買ってくれました。
 その祖母は亡くなりました。オーブンレンジは流されずに残りましたが、海水に浸かりましたからダメです。フタを開けてみたら、中にヘドロが詰まっていました。
 祖母のこととか、新婚生活のこととか、頭の中に自然に浮かんできて…涙がとまりませんでした。(p80)

 これらの物語を最初に読んだときには、被災物を収集したときにもとの所有者から話を聞いて、それを書き取ったのか、凄いなと思った。しかしそうではなかった。前掲の図録にはこれらについて、こう書かれている。

 一見すると被災者の肉声を「聞き書き」したような文章は、震災後に様々な被災者と語り合う中で得られた物語をベースとして筆者が創作したものである。このような文を展示資料に添えるという発想は、博物館学的、展示学的に考えて異例のことだと自覚している。しかしこのタブーをあえて犯した。
 特定できない個人を想定し、その個人が「被災物」に宿る記憶を語っているという演出は、被災物を普遍的な存在にすることが目的である。不特定の個人をイメージするためには、自分に身近な誰か、あるいは自分自身を仮想せざるを得ない。それによって当事者が無意識に生み出されるという効果を狙った手法である。
 我われは当初から「共有化」を目的に被災物を収集した。ゆえに可能な限りその普及率が普遍性をもって高いものを選択した。すべては、この震災という出来事を自分自身に置き換えて感じ、考えてもらうためである。(p150)

 なるほどそうだったのか。ちょっと騙されたような気もしたけれど、考えてみれば無理もない。これらひとつひとつの物の持ち主がそう簡単にわかるわけはないし、わかったからと言って話が聞けると決まったものでもない。
 しかし、この調査者たち自身が被害者でもあり、調査のときだけに限らず、まわりのおおぜいの人たちから被災にまつわる膨大なエピソードや思い出話を聞いているのである。それらを背景として、現物の被災物を見たときに浮かんできたあれこれの話を整理し彫琢して物語にしたものなのである。力がないわけがない。物語であることを知った後、読み直してみても感動は変わらない。

Photo 『リアス・アーク美術館常設展示図録 東日本大震災の記録と津波の災害史』(2016)

 平日の朝、開館時間にあわせて行ったら、閑散としていて他の客はほとんどいなかった。駅から遠くて観光客の来そうなところではなかったけれど、大震災の記録・伝承のための施設として極めて有意義で、一見に値する。併設の、本来の目的である地元出身作家の絵画や彫刻の展示も、規模は大きくないが、なかなかよかった。

 
 

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2016年7月25日 (月)

東北7 気仙沼

 BRTで気仙沼へ着いたのが午後四時頃だったので、夕食まで一遊びと、大島(気仙沼大島)行きのフェリーに乗った。

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 発着所近くにあった魚市場。

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 左前方が大島のようだ。

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 大島へ着いた。前は観光地らしい施設がある程度あったらしいが、ここも津波でやられてまだ再建途上のようだ。

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 ともかく島を突っ切る大きな通りをずっと太平洋側まで行ってみた。

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 田中浜というところまで来たが、工事をしていて、特に何もない。

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 時間がないので、残念だがゆっくりはしていられない。フェリーの時間にあわせて気仙沼に戻った。

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 この山の上にあるのが泊まった気仙沼プラザホテル。手前にあるのはエレベーター棟である。
 ここの温泉は強濃度塩水なので、海と同じようにぷかぷか浮かぶことが売りになっている。なるほどたしかに体が軽く浮くし、少しつかってから唇をなめたらしょっぱかった。塩分が濃いのは間違いない。

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 風呂の後はお決まりの宴会コース。

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 ウニづくし香彩膳ふかひれ&ウニ釜飯。
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 これがふかひれ。思っていたより小さいけれど、これは高いのである。
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