東京散歩

2017年4月17日 (月)

武相荘

 4月6日、東京都町田市鶴川にある旧白洲次郎邸「武相荘(ぶあいそう)」へ行ってきた。
 武蔵と相模の国境にあって、主が無愛想だからこう名付けたという。

         Photo_8   Photo_10

   最初、わたしは白洲次郎(しらすじろう)をあまり良く思っていなかった。
 「占領軍に抵抗した男」というけれど、晩年は軽井沢のゴルフ場でえらいさんとして君臨し、マナーの悪い客を怒鳴りつけていたという話を断片的に読んで、ただの癇癪持ちの傲慢な爺じゃないかくらいに思っていた。
 しかしちょっと本を読んでみると、どうも筋の通った立派な男だったと思わざるを得なくなってきた。それであらためて敬意を表するためにやってきたというわけだ。

 これが屋敷への入口の長屋門。

Dscf6107

 入って右手がレストランになっており、奧の母屋が資料館になっている。
Dscf6115_2

 これが母屋。

Dscf6106_2
 レストランのベランダにはちょうどオウバイが咲いていた。

Dscf6119

 昔よくあった農家の建物で、ここは養蚕農家だったらしい。
Dscf6103

 母屋の中はミュージアムとして、妻の正子の書斎や所蔵品なども展示してある。撮影禁止なので、パンフレットの写真を掲げておく。

Photo_3

 どうして白洲はこの家を買ったのか。
 若い頃にケンブリッジ大学に留学し、実業界に身を置きながら近衛内閣のブレーンのようなこともしていた白洲は、日独伊防共協定が結ばれるような国際情勢から、このままいけばアメリカとの戦争は必至だと考えた。そうなれば東京は爆撃に遭い、日本は敗れると予測し、来たるべき食糧難に供えて、昭和15年、39歳の時にこの建物と農地を買い、政治や実業の一線から離れてここで農業に励んだのだという。
 また戦争を避けさせることはできなかったが、英国流の「カントリー・ジェントルマン」として、「いざ鎌倉という時は、中央へ出ていって、彼らの姿勢を正す」というつもりでもあったという。見事な「読み」であり、身の処し方である。

 そして敗戦後の昭和20年には、知己であった当時の外相吉田茂から請われて終戦連絡事務局に籍を置き、ほぼ占領の全期間中、GHQ当局との交渉に当たることになる。
 この間、マッカーサーを叱りつけたとか、イエスマンが多い日本人の中で「従順ならざる唯一の日本人」と言われたとかの伝説が残っている。
 芦屋の金持ちの家に生まれて驕慢に育ち、英国貴族流の教育を受けて英語に堪能だったうえ、「プリンシプル」にこだわる白洲にとっては、GHQの若くて無経験で、幼稚な理想論をふりかざすアメリカ人などどれほどのものか、というところだったのだろう。
 戦争に負けたのだから力関係は歴然としているので、最終的には言うことを聞かざるをえないとしても、その前に言うべきことはきちんと言っておかなければならないというのが、白洲の「プリンシプル」であったようだ。
 GHQからの口頭の指示をそのまま実施したものが多々あった。中には後日物笑いになるような馬鹿なものがあっても、口頭では証拠がないから日本政府が勝手にやったことにされてしまう。白洲は、口頭での指示には徹頭徹尾紙に書いてくれと食い下がって嫌われたと書いている。(『プリンシプルのない日本』(新潮文庫、2006))

 白洲について書くと長くなってしまう.。今回は武相荘の紹介に留めることにする。
 庭の古仏と塔。

Dscf6117 Dscf6116

 裏の小さな山。散策路がある。農地はもうないようで、それほど広くはない。

Dscf6104
 長屋門の前には納屋があって、1916年型ペイジSix-38というクラシックのアメリカ車が置いてある。白洲次郎がまだ17歳のときに父親から買ってもらったものの同型車で、エンジンは3.7リッター、5座席とかなり大きい。当時これで神戸を走り回っていたというから庶民とはスケールが違う。

Dscf6113_2
 軽井沢ゴルフ倶楽部で威張っていたという話も、倶楽部のメンバーだったT首相が新任のアメリカ大使と日曜日にプレーしたいという申し出を「ウチは日曜日にはビジターを入れない」と断ったとか、護衛が必要ならゴルフなんかするなとN首相の護衛をコースから追い出したという話になると、威張り方のスケールが大きすぎて、ただ威張りん坊だったのではなく、ここでも「プリンシプル」に非常に厳しかったのだという話かと思わざるをえない。キャディや従業員にはやさしくて、とても慕われていたという。
 とにかくなかなかの人物だったと言わざるを得ない。

(参考)

Photo_4       文藝別冊『総特集 白洲次郎』(河出書房新社、2002)
  Photo    青柳恵介『風の男 白洲次郎』(新潮文庫、2000)
Photo_2      白洲次郎『プリンシプルのない日本』(新潮文庫、20006)

Photo_6      鶴見紘『白洲次郎の日本国憲法』(光文社知恵の森文庫、2007)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年4月13日 (木)

目黒不動尊

 3月30日、友人の墓参りのあと、同級生たちを誘って、すぐ近くの目黒不動尊へ行ってみた。泰叡山瀧泉寺(たいえいざんりゅうせんじ)といい、江戸時代にはにぎやかなところだったらしい。
 まず仁王門がある。なかなか立派だ。

Dscf6056

 門をくぐると広場があって右には大きな白い木があり、奧は小高い丘になっている。

Dscf6057
 白い木は鈴懸(プラタナス)だそうだ。

Dscf6058_2
 こんもり繁った木々の奧の階段を上がると本堂がある。

Dscf6060
 本堂の脇は、早咲きのが満開。

Dscf6061_2

Dscf6062
 これが本堂。
Dscf6073
Dscf6064_2
 なるほど敷地も広く、いろいろなお堂や仏像などがある。今、まわりは建て込んでいるが、昔は相当のものだったことは想像できる。
 本堂裏の大日如来。

Dscf6065r
 本堂脇の方にある愛染明王。

Dscf6071_3
 階段の下には池がある。「独鈷の滝」といい、平安の昔、慈覚大師この地にいたり、独鈷(密教の法具の一)を投じると湧き出たという霊泉である。

Dscf6084_2
 ここには水掛不動もある。
Dscf6081_2

 まだいろいろあり、墓地には甘藷先生青木昆陽の墓もあるということだが、お昼時で天気もよく、同行者たちは「ノドがかわいた!」という。参詣は早々に切り上げて、参道へ精進落としに向かった。
 参道では「八つ目や にしむら」といううなぎやに行列ができているのが目を引いた。しかし「ノドがかわいている」からのんびり行列しているわけにはいかない。近くの蕎麦屋に入ってノドをうるおした。

 ここも『江戸名所図会』にある。
 「この地は遙かに都下を離るゝといへども、詣人常に絶えず。(中略)門前五六町が間、左右貨食(あきなひ)店軒端をつどへて詣人をいこはしむ。粟餅・飴、および餅花の類ひを鬻(ひさ)ぐ家多し。(p118)」とあるから、かなりにぎわっていたようだ。
 

S_2 (鈴木棠三、朝倉治彦校注『江戸名所図会(三)』角川文庫、1967、p116)より


  

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年12月29日 (木)

両国で忘年会3

吉良邸跡

 北斎美術館のあと目指すは本所松坂町、吉良邸跡へ行った。もとはこのあたり一帯が吉良邸で敷地は約2,550坪あったが、現在は普通の街になっており、その一角の30坪たらずだけが本所松坂町公園として、なまこ塀で囲われてある。

Dscf5798

 「赤穂義士遺蹟吉良邸跡」の碑。

Dscf5799

 入ると正面に「吉良上野介義央」像。

Dscf5800r_2
 左側には松坂稲荷吉良上野介義央追慕碑、小さな祠のような吉良家臣二十士の碑が並んでいる。
 一番右は「みしるし洗いの井戸」という看板が立っているが、この写真ではよく見えない。「みしるし」では若い人には理解されないのではと心配になる。「御首級」つまり「首洗いの井戸」である。昔の看板はそうなっていたようだが、今は書き換えられている。
Dscf5801_2
 これが吉良家臣二十士の碑。小林平八郎と清水一学の他は知らないけれど、名前が書いてあるのはみなここで討たれた人たちということなのだろう。

Dscf5802
 芝居の話ではなく史実として、吉良側は二十人ぐらいが死んだのに、赤穂浪士側はけが人こそあれ一人も死んでいない。
 吉良側の犠牲者数は諸説あって確定してないようだが、二十人内外の死者とやはり二十人くらいの負傷者を出した。これに対し赤穂浪士側は死者なし、負傷者が二人ということだ。吉良側は百人以上いたと言われるがその半分以下の四十七人に一方的にやられている。
 これは夜油断して寝ているところを完全武装の赤穂浪士に襲われたということが大きいのだろうと、なんとなく思っていたが、先日、テレビでやっていた『古舘トーキングヒストリー~忠臣蔵、吉良邸討ち入り完全実況~』ではなるほどそうかと納得できる説明があった。
http://www.tv-asahi.co.jp/talking_history/

 古舘伊知郎が赤穂浪士の討ち入りをプロレスみたいに実況中継しながら、ところどころに歴史学者磯田道史などゲストとのトークをはさむというかたちの、おもしろい番組だった。数的には劣勢の赤穂側が圧勝したのは、完全武装で夜討ちをかけたことの他にもいくつかの理由があり、一番大きかったのは吉良側の大半が寝ていた長屋を封鎖したことだったという。
Photo 大名屋敷はどこも外側をずっと長屋が囲んでいいて、ここに家臣たちが住んでいる。当夜の吉良側の家臣は150人ぐらいいて、長屋にいたのが約130人、上野介のいた母家は約20人だった。忍び込んだ赤穂側は準備していた鎹(かすがい)で、まず長屋の戸口を打ち付け、家臣を閉じ込めてしまった。そのうえ大声で「○○隊五十名配置終了!」などと叫び立てることで討手の数を実数より過大に信じ込ませた。
 家臣といっても大半は渡り奉公の仲間のような一時的に雇用されている、いわば派遣の職員で、主君の為に死ぬことまでは期待されていないし、そこまでの忠誠心もない。だからこれで戦意喪失、敵は多勢いてしかも閉じ込められてしまったんだからしょうがないと、そのまま抵抗しなかった。しかし正規雇用の侍はそうはいかないから戸口を打ち破って出て行ったが、そこを待ち構えていた赤穂側に討ち取られてしまった、というのだ。
 他にも室内戦闘用に短めの槍や小さめの弓を用意して準備万端、そのうえ屋敷内に踏み込んだら真っ先に吉良家の槍や弓を破壊して使えなくしたと、戦術も万全だったという。なるほどこれなら一方的な勝利にもなる。
 この他の討ち入りのとき山鹿流の陣太鼓は鳴らさなかったとか、上野介は炭小屋にはいなかったというような話は、はじめから芝居くさい話だ思っていたので特に感心しなかったが、この長屋封じ込めの話は、正規雇用と派遣雇用のちがいの話も含めて、非常に納得できた。
(屋敷図は山本博文『これが本当の「忠臣蔵」』(小学館101新書、2012)から)

Dscf5804r
 このあとは、回向院から両国橋を通って、浅草橋駅へ出た。それほど書くこともないので、写真だけ載せておく。

回向院

 回向院は、昔は吉良邸より広い敷地があったようだが、今ではビルに囲まれて手狭で窮屈な、いかにも都会の寺だった。

Dscf5806_2
Dscf5808_2

Dscf5810_2
Dscf5813_2
両国橋

 もう夕暮れになってきた。上に高速が走っている。

Dscf5821_2

 隅田川
Dscf5822_2
 ここは柳橋で、これは神田川

Dscf5826_2
 釣り舟の宿があった。

Dscf5828_2

 あとは浅草橋駅前磯丸水産で軽く二次会をやって、忘年会は終了。お疲れさまでした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年12月26日 (月)

両国で忘年会2

東京都慰霊堂

 宴会後は両国散歩。まず吉葉の近くの東京都慰霊堂へ行った。

Dscf5773

 関東大震災の犠牲者のための震災記念堂として創建され、戦後、東京大空襲の犠牲者も合祀して、現在の形となっている。

Dscf5772_2
Dscf5771
 ここにはうちの奥さんの祖母も祀られている。昭和20年3月10日の東京大空襲で亡くなっているのだ。

Dscf5790

 祖父母の家は深川にあって、その長男夫婦=うちの奥さんの父母も近くに間借りして住んでいた。3月10日空襲のとき、若夫婦は嫌がる親夫婦を無理矢理連れ出し逃げた。父は祖父と、母は祖母と煙の中を逃げたが、祖母ははぐれてそれきり姿が見えなくなった。遺体も何もない。家もすっかり焼けて、残ったのは茶碗一つだったという。
Dscf5794
 平成も11年になってからの話だが、うちの奥さんが、祖母をこの慰霊堂に祀ってもらおうとしたら、なんと祖母は戸籍上まだ生きていることが判明した。空襲後一家は母の実家のある北海道へ疎開したので、手続きどころではなかったのかもしれない。届け出しようにも役所も焼けて対応できなかったのかもしれない。ともかく戸籍はそのまま生きていた。
 うちの奥さんは、あらためて親から聞いた当時の顛末などの書類に位牌の写真などを添えて区役所へ死亡届を提出し、受理されてようやく犠牲者名簿に記載してもらい、ここに祀ってもらうことができた。
 わたしは丁重にお参りしてきた。

 これは関東大震災の「震災遭難児童弔魂像」。

Dscf5793_2
 公園内には「東京都復興記念館」もあって、大震災と大空襲の資料が展示されているのだが、宴会後なのでそちらは寄らず、次へ向かった。

 

すみだ北斎美術館

 すみだ北斎美術館は外観からは何の建物かわからない。この11月22日に開館したばかりで、テレビのニュースなどに取り上げられていたので行列ができていた。

Dscf5797_2
 混んでいたのと、展示品が浮世絵や江戸時代の刊本の挿絵などだから小さいのとでよく見られなかった。
 NHKが「ロスト北斎」という番組で紹介していた、失われた肉筆絵馬の復元も、スライド写真を見ているようで、大きさはともかく質感がなく、あまりピンとこなかった。(下記パンフの写真参照)

Photo
 そういうわけで残念ながら、ここはパンフレットを紹介するだけにとどめる。

Photo_2
Photo_5  Photo_8


  

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年12月22日 (木)

両国で忘年会1

 12月17日(土)、学生時代の友人たちと両国の「割烹吉葉」で忘年会をやった。
 名前の「吉葉」は往年の横綱吉葉山から来ている。そもそもは現役時代に吉葉山道場として建てられ、引退後は宮城野部屋として使っていた建物を改装してちゃんこ料理屋としたもので、木造総檜造りの大きな建物だ。

Dscf5788_2
 建物の真ん中には本物の土俵がある。柱はみな太くて立派だ。

Dscf5774_2
 わたしが、現役時代を覚えている古い横綱は、千代の山、鏡里、吉葉山、栃錦、若乃花、朝潮…というところで、わたしは突っ張りの千代の山が好きだった。吉葉山は美男横綱と言われて人気があったが、あまり強くなかったように記憶している。
 ネットで調べてみると、吉葉山は二十二歳、十両の時に兵隊として戦地に行き、銃弾を受けるなどして四年後、戦後になってから復員して相撲界に復帰した。貫通銃創の他に体内に残っている銃弾もあって、後遺症やケガなどで横綱にはなったものの思うような成績を残せなかったのだという。戦争がなければもっと強い横綱だったのだ。今さらだけど、子供の頃弱い横綱だと思っていて悪いことをした。

Dscf5786
 ちゃんこは何品目だったか、いっぱいいろんなものが入っていてうまかった。ボリュームもかなりあって、そのうえ最後は雑炊でしめたので、わたしは腹一杯になって、散歩後の二次会まで腹がもたれていた。
Dscf5777_2
 宴会風景。

Dscf5776r
 医者から酒は一合までときつく言われているというI長老は、焼酎のお湯割りを飲んでいた。日本酒に換算して一合以内でおさまったかどうかは定かでない。

Dscf5778r

 歳と共に酒量が減り、髪の毛も減っていく。
Dscf5779r

 総勢7人の記念写真。

R_2
 店の中には鉄砲柱とか土俵の俵とかあったのだが、酒が入ると写真を撮るのは忘れてしまう。もらったパンフレットから載せておこう。

Photo

  

| | コメント (0) | トラックバック (0)