なむや文庫雑録

2017年8月21日 (月)

夏期休業

 

今週のブログは夏やすみです。

  これだけでは愛想がないので、ちょっとおもしろいネタをひとつ。
  7月の終わりにこんなニュースが流れた。

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 これに対しネットでは、無償とはセコイだのなんだのと批判があった。
 その中で、笑ったのはこれ。

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2017年8月 3日 (木)

おすすめふたつ

 暑くてここのところやる気が出ないのでは今回のブログは夏やすみです。

 そのかわりネットのおすすめ記事をふたつ紹介しておきます。

 どちらもちょっと重い記事なので、時間に余裕のあるときにどうぞ。

1 内田樹のブログの「「愛国的リバタリアン」という怪物

http://blog.tatsuru.com/2017/08/02_0845.php

 

2 灘校の校長先生による「謂われのない圧力の中で ――ある教科書の選定について――」

http://toi.oups.ac.jp/16-2wada.pdf

 

 

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2017年7月24日 (月)

「アルチンボルド展」

 7月21日(金)、上野の西洋美術館で「アルチンボルド展」を見た。

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 このチラシのように、野菜や花などを集めて人の顔にした「寄せ絵」が中心の展覧会だ。
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 日本では歌川国芳の寄せ絵が有名だが、アルチンボルドは 1527~1593年で、江戸時代末期の国芳よりだいぶ早い。

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 アルチンボルドの作品ではないが、展示品の中には国芳と同じく、人体を使って顔にした寄せ絵もあった。この手の絵は東西を問わず時代を問わず、洒落っ気のある画家なら描いてみたくなるものなんだろうか。

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 春夏秋冬の四季と大気、火、大地、水の四大元素を顔にしたものが展示の中心。パンフレットのように季節と元素とが関連づけられ向かいあった顔として描かれたらしい。

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Photo_4 春の花や夏の野菜はきれいだが、一番迫力があったのは「水」。60種以上の魚類や海獣が描かれているという。

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 細部を見ているとおもしろい。いろんなものが隠れている。つぶらな目は、まんぼうのような魚で、髪の毛なのか冠り物なのか、かわいいアザラシもいる。

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 「大気」は鳥でできている。

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 これで気になったのは、この目はひょっとしたら魚なのではないかということ。
 鳥づくしだから最初は小鳥かと思ったが、どうもこの鳥がくわえてきた魚のように見える。一所懸命見たがよくわからない。魚だと確信が持てない。どなたかご存じの方、教えてください。

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というわけで、おもしろい展覧会だった。
 ただ、この会場、階段を降りたり登ったり、部屋と部屋のつなぎがよくわからず、次はどちらへ行ったらいいのか迷った。順路がよくわからないのだ。よほど混んでいるとロープで誘導したりするので否応なしに順路は決まるが、それほど混んでいなくて、気になった絵は戻って見ることができるくらいだったので、余計わからなくなったのかもしれない。
 西洋美術館。コルビジェの設計は、こんな動線で見ることになっていたのか、ちょっと気になった。

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2017年6月29日 (木)

写真の力

 この写真は凄い。
 6月24日付中日新聞の記事。「慰霊の日、沖縄の怒り 知事「辺野古阻止へ不退転」というタイトル。
http://www.chunichi.co.jp/article/front/list/CK2017062402000061.html

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 余計な解説はいらない。
 これに比べると、朝日新聞のこの写真は、ちょっと作意が感じられる。
http://www.asahi.com/articles/photo/AS20170623001597.html

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 拡大すると、こんなになっている。たまたまこういう顔になってしまうことは誰にだってあるんだから、これを悪意で見てはいけないと思いつつ、ついつい何を考えていたんだろうと想像してしまう。

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 こっちはあっと驚いた写真。
 将棋の藤井四段の29連勝目、対局前。

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 29連勝を果たした直後、再び報道陣が押し寄せたところ。

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 このツイッターの発信者は松本博文という『ルポ 電王戦』(NHK出版新書)など将棋に関する著作のあるフリーライター。

 それにしてもこの報道陣、いくらなんでもやりすぎだ。
 この日のテレビ欄はこうなっていたそうだ。ワイドショーなどの見出しに藤井四段が含まれているものということで、赤で囲った時間全部を費やしているわけではないけれど、いい加減にしてほしい。
 中学生が昼飯に何を食ったかいちいち報道しなくていいから。安倍首相の発言とか、稲田防衛相の発言とか、詳しく追求して報道しないといけないネタは他にいくらでもあるだろう。

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 こんな環境で冷静に将棋をさしている中学生は本当に凄い。大人がもう少し冷静にならないでどうする。

 

 

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2017年6月19日 (月)

26連勝目の人

 この中学生、藤井聡太四段は凄い。しかし26戦目の対戦相手が瀬川晶司五段と知って、わたしは瀬川五段の方になんとか勝って欲しかった。

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 瀬川五段はニュースの中で、サラリーマンをしながら「史上初めてプロ編入6番勝負を経てプロ入りした、「ミスター苦労人」」と紹介されていた。将棋が好きなわけでもないわたしが、ここは瀬川五段に、と思ったのは、この苦労話を読んでいたからである。

 瀬川晶司『泣き虫しょったんの奇跡』(講談社、2006)。

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 将棋連盟のプロ棋士養成機関奨励会には全国から地元の天才少年たちが集まって、プロを目指して競いあっている。しかし満26歳までに四段に昇段できなければプロ失格として退会させられる。
 その26歳で四段の壁を破れずプロになれなかった男が、その後アマとしてプロに勝率七割という実績をあげ、前例のないプロ編入試験を実施させて、遂にプロになった、というのが「泣き虫しょったんの奇跡」である。
 この話はニュースで聞いていたが、特に興味は持たなかった。将棋や囲碁の世界では、少年時代から天才と騒がれ、昇進記録をつくるくらいの存在でないと、後に名人や棋聖などのタイトル争いをするところまで行かないと聞いていた。だから35歳でプロになってもこれからが大変なのではないか、と思っていた。 

 興味を持ったのは、わたしが住む港南台の書店に、地元出身の棋士としてサイン本が並んでいたことから。生まれ育ちは港南区の日限山(ひぎりやま)で、六年生になる前の春休みに港南台将棋センターへ連れていってもらい、そこから本格的に将棋をさしはじめたのだという。
 駅から歩いて五分、一階がパチンコ屋、というが、いったいどこだったのか。この本を読んだ時点ではすでにそれらしい将棋クラブはなく、わたしの記憶では、あそこのビルの二階に昔あったかなあ、というくらい。確証はない。
 ともかく瀬川少年は、わたしの住む街、港南台の天才少年だったのである。

 地元の話として読み始め、内容にはそれほど期待していなかったが、泣ける本だった。いったんは挫折しながら、またなんとかはい上がって、というわかりやすい話で、泣ける。
 一番じーんときたのは、港南台で将棋を教え、プロに挑戦させた席主が、奨励会で脱落したことを聞いて、瀬川の人生を狂わせてしまったと、その後九年間ずっと呵責の念に悩まされていた、というところ。将棋を教え、その才能に驚喜し、プロへの道を奨めた結果、一人の人間を挫折させ、人生を誤らせてしまったという思い。それがようやく報われた。
 しかし、将棋に限らず野球やサッカーなどでも、こういう挫折した青少年と指導者の物語は、世の中にたくさんあるのではないか。

 また、この本はめでたしめでたしで読み終えたけれど、今回の報道で、11年後の現在、まだ五段でC級2組という順位戦では一番下のクラスにいるのを知ると、やはり厳しい世界なんだと思わざるを得ない。日本中から天才を集め、その中でもほんの一握りの天才中の天才だけがスポットライトをあびる、そういう世界なのだ。この先、瀬川五段が突然強くなって名人になったりすることはほとんどあり得ないだろう。

 それでも好きな道で生きていくことを選び、日々がんばっている瀬川五段に、この一戦は勝って欲しかった。

 

 

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2017年6月12日 (月)

世界三大政治家?

 最近の国会関係のニュースにはうんざりしている。いったい政府は何をやっているのか。
 加計学園について質問責めにあった安倍首相が最後に「くだらない質問で終わっちゃったね、また」と言った。

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 これが非難囂々なのは当然、馬鹿なことを言うものだ。
 瓜田不納履、李下不正冠(瓜田に履を納れず、李下に冠を正さず)。為政者の当然の心がけである。それを瓜田でハイハイ、李下でバンザイをしていれば追求されて当然だ。
 きちんと説明もせず、喧嘩に負けた中学生の負け惜しみみたいなことを言うとは、だいぶ首相もまいっているようだ。くだらないことだ、俺は平気だぞと強がりを言うのは、ここのところずっと攻撃され続けて、だいぶ効いてきているからだろう。総理大臣席からヤジを飛ばしたり、負け惜しみで強がりを言ったり、まったくみっともない。美しい国とか品格ある国家とか言っていたんじゃなかったのか。

 森友学園のときもそうだったが、個人的に攻められるとすぐ感情的になって、イライラが外に出て攻撃的になる。ついつい「私や妻が関わっていたら、総理大臣も議員も辞める」とタンカをきってしまって、以来苦労しているのに反省がない。奥さんの悪口を言われたら男が怒るのは当然だとしても、総理大臣が国会で取り乱してどうする。

 閣僚の失言や意味不明の答弁など、まったく弁解の余地もない。朝日新聞の川柳欄に、「あのひとが死刑執行決めるんだ」とあった。これだけ信用を失墜し、問題が続いても内閣の支持率が下がらないのは、北朝鮮や中国の軍事的な脅威に対抗できそうなのは強硬派の安倍内閣しかないからだ、とわたしの友人は言った。
 しかし、そういう危機のときだからこそ余計、こんなすぐカッとなって錯乱しやすい人間に指揮をまかせておいていいのか。おまけに防衛大臣もたよりにならない。いつもたどたどしく答弁資料を読んでいるだけで、そのうえ本職の弁護士で担当した仕事も忘れてしまい「記憶になかったので嘘をついたわけではない」と言うような人間で大丈夫なのか。
 なんとミサイルの避難訓練をやった自治体があったみたいだけれど、本当にミサイルが飛んできたら、この人たちちゃんと冷静に対応できるんだろうか。軍事的な危機を心配するなら早いところ交代してもらった方がいいんじゃないか。

 しかし信者というのはいるものだ。最近のツイッターで一番驚いたというか、のけぞったのが、橋下元大阪府知事のこのツイート。

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 「周」は「習」の間違いだろう。まあ周さんは置いといて、安倍首相、トランプ大統領、プーチン大統領はウマが合うって? 本気か?

 今の安倍首相とトランプ大統領の関係が本当にウマがあっているように見えるのか? ご就任おめでとうございますと真っ先に駆けつけても、TPPは反故にされ、日本に高い関税をかけると脅されているのをウマのあった関係と言えるんだろうか。
 そもそも「トランプ大統領とウマが合う」というのは、とても「ほめ言葉」とは思えない。普通の人は「おまえはトランプ大統領とウマが合いそうだな」と言われたら、いったいどういう人間だと思われているのか心配になる。嘘つきだと思われたり、理屈が合わないことを大声で叫んでいる奴だと思われたりしてるのか。
 だいたいトランプ大統領とウマの合う人なんているんだろうか? そもそもあの人は、他人のことをウマが合うとかないとか考えたことがあるんだろうか。自分の言うことを聞く人か聞かない人か、あるいは有利に取引ができる人かできない人か、そのくらいの区分法しかもってないんじゃないだろうか。
 二人とも疑惑で追求されて困っているのは、置かれた状況が似ているだけで、ウマが合っているわけではない。

 「日本の歴史上、こんな指導者がいたか。」だって?
 歴史上初めて、アメリカ、ロシアの大統領と対等にわたりあえる大政治家が出現したと言いたいらしい。
 元府知事で元維新の代表だから、政治家とはたくさん会っている筈だけれど、いったいどこを見ているんだろう。維新の議員やら大阪の公募校長やら、怪しげな人物をあれこれ採用した目で見ると、安倍首相、トランプ大統領、プーチン大統領が現代の「世界三大政治家」くらいに見えるらしい。やれやれだ。

 

(おまけ)
 プーチン大統領となるとどういう人なのかよくわからない。黙って言うことをきく人は大勢いそうだが、みんなウマが合ってそうしているわけではないだろう。メドベージェフ首相とははたしてウマが合ってるんだろうか。
 プーチン大統領としては、とりあえず3,000億円払ってくれる人はウマがあう人だと思っているかもしれない。

 ついでに本を紹介しておく。石郷岡健(いしごおか・けんヴラジーミル・プーチン 現実主義者の対中・対日戦略』(東洋書店、2013)

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 プーチン大統領の対アジア戦略を解説した本。プーチン個人のことはあまり」くわしく書かれていない。元新聞記者らしい文章で、ロシアのこれまでのアジア対策などがよくわかる。
 プーチンはアジアを重要視しているという。国境を接している中国がこれだけ巨大化しているのだから、ロシアが重要視するのは当然だ。日本は、中国と対抗していくために役に立つ限りにおいて、ロシアから大切にされると著者は言う。それも当然だ。
 著者の経歴にモスクワ大学物理学部天文学科卒とある。若いころソ連に留学していたせいか、米原万里の本と同じように、ソ連・ロシアに対する著者の個人的な思い入れを感じるところがあった。

 実は著者はわたしの高校の同級生だが、口をきいた記憶はほとんどない。前回高校時代の話をしたところなので、この本の紹介はそのついででもある。

 

   
 

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2017年6月 8日 (木)

田吾作先生

 ここのところ高校時代の友人たちと何度か会っている。6月3日(土)も名古屋へ行き、同級生たちと、三年前に亡くなられた山田先生の家を訪れた。

 「山田田吾作です」
 本名は俊作だが、初任校だったわたしたちの高校の最初の授業で、先生は生徒にそう自己紹介した。これが受けないわけがない。以来「田吾作」があだ名になった。先生の必殺つかみネタだったのかもしれない。
 早稲田大学文学部露文科を卒業したばかりの二十三歳、わたしたちにいちばん歳の近い先生だった。スポーツ刈りのような短い髪で、色がとても白かったが、いわゆる優男ではない。ひげ剃り後が青く鼻が高く、彫りが深くて男らしい。今の言葉で言えばなかなかのイケメンだった。たいていスーツではなくジャケットを着てスニーカーを履き、鞄ではなく風呂敷包みを持っていた記憶がある。あまり冗談はいわなかったが、話す言葉は明快率直、明るい人だった。

 先生の家で仏壇を拝み、奥さんと娘さんの話をうかがう中で、少しずつ昔のことを思い出した。同行の三人は三年のとき先生が担任だったが、わたしは別のクラスで、二年、三年のときに現代国語を教えてもらった。

 いつも活気のあるにぎやかな授業だった。というのも、生意気盛りのわれわれが、なんとか先生を言い負かしてやろうと、あれこれ質問や議論をふっかけるのに対して、先生がいちいちきちんと回答や反証を返してくれていたからだった。
 今考えると、かなり馬鹿な質問や青くさい議論が多かったと思う。歳が近く親しみがあり、そのうえみんな生意気だったので、ついつい屁理屈をこね、えらそうなことを言っていた。思い出すと恥ずかしい。しかしそれをバカにしたり怒ったりしないで、いつもそれはこうだ、ここが違う、と本気で答えてもらった。
 さすがに五十年以上前のことなので具体的なやりとりまでは思い出せないが、あるとき先生との論争の途中で自分が間違っていることに気づき、焦ったことがあった。しかしそのまま自分の間違いは認めないで、まあ先生の言い分も認めてやらんでもない、くらいのことを言って引き下がった。まったく馬鹿だった。
 真面目で、生徒に真剣に向かいあってくれる、いい先生だった。県立なので、わたしたちの学校の後、転勤でいくつかの学校をまわられたが、奥さんの話では、どこでも、問題があるとされる生徒によく慕われたそうだ。

 前に書いたように、若くてなかなかのイケメンだったから女子にも人気があった。
 当時、一年先輩の女子二人が、先生が古典の授業で平安時代の恋の歌の説明をしているうちに、色白の顔がぽっと赤くなって…と話しているのを聞いた。そのとき「うふふ、かわいい」と言ったかどうかは記憶にないが、そう言わんばかりの雰囲気だった。先生、若くて純情だったのである。

 同じ頃やはり新卒の化学の先生がいた。こちらはおとなしく内向的で、黒板に板書しながら小さな声で説明するので言っていることが聞き取れず、男子生徒の評判は悪かった。でもいかにも優しそうでこちらもイケメンだったので、女子の評価はちょっと違っていたようだ。
 わたしの化学の成績が悪かったのはあの先生のおかげである――わけではないかもしれない。

 露文科の出身が関係あるのかどうかわからないが、思想的には左翼で、それを隠そうとはしなかった。生徒をオルグするようなことはしないが、立場ははっきりしていた。
 中野重治と魯迅が好きだった。新任したばかりの年には中野重治、中野重治と吹聴していたらしい。それが翌年、わたしが初めて先生の授業を聞いた二年生のときには、あまり中野重治のことを言わなくなっていた。
  ちょうどその頃中野重治らが共産党と対立して除名されたのだった。先生が「近頃は中野重治もヤキがまわってあかんけれど…」と、さみしそうに言ったことを覚えている。思想の対立が文学の趣味にまで影響を及ぼすのか、大人の世界は難しい。ちょっと先生が可哀想だった。

 その頃同級生の一人が先生の自宅を訪れた。
 そうしたら、いつもプロレタリアート云々と言っている先生の家が、大きな立派な家で驚いた。先生は地主でブルジョワの息子ではないか。上げてもらってさっそく、これは日頃の言動と矛盾する、おかしくないですか、と例によって議論に及んだというが、その内容までは聞いていない。
 彼は当時生徒会の役員をやって左翼思想をかじりつつ、一方では日の丸大好きの軍事オタクという複雑な二足のわらじだった。卒業後、東京でばったり会ったときに右の方の学生の全国組織委員長という肩書きの名刺をもらって驚いた。
 二年生のときの担任だった西洋史の先生の自宅も訪問しており、そちらは「赤貧洗うが如く」だったと言う。さすがにこの表現は失礼だろう。ただ高校二年のときは昭和39年(1964)、東京オリンピックの年で、まだあちこちに今にも壊れそうなバラックのような家があった。生活ではなく建物を形容したものと理解しよう。
 今回訪れた先生の家は建て替えられていて、地主を連想させるほど豪壮なものではなかったが、やはり大きくて敷地はかなり広かった。それなりの家のお坊ちゃまだったのだろう。そういえば名古屋では有名な私立の進学校の出身だった。

 レポートだったかに小林秀雄の悪口を書いて、先生にほめられたことがあった。「花の美しさなどない、美しい花があるだけだ」という有名な小林の言葉を、カッコつけだけで中身がないと生意気なことを書いたような気がする。ともかく小林はダメだということで先生と意見が一致したのだろう。

 おぼろげな記憶で事実確認はしていないけれど、先生はわたしたちの入学とともにやってきて、卒業と同時に転勤していったように思う。それが先生の希望だったのか、学校内で何かあったのかよくわからなかったが、勤務状況に問題があったとは思われず、わたしたちはそれを「田吾作が三年で飛ばされた」と形容した。
 何年かたって、先生が二番目の高校での教え子と結婚したという話を聞いた。
「飛ばされてよかったじゃないか。あのまま残ってたら嫁さんなんか見つからなかったぞ」
 友人たちとそう言って先生の結婚を喜んだ。

 わたしたちの高校は女子が少なく、一クラス五十人ぐらいのうち十人ぐらいだった。女子クラスをつくらず平等に配置してあったのは戦後民主主義のせいだったろうか。一クラス五十人いたというのはたしかに戦後、団塊の世代のしるしで、われわれは小さいころからずっとこれくらいの人数の教室で育ってきた。今は高校で三十人から四十人くらい、小中はもっと少なく、二十人から三十人くらいのようだ。
 進学校だったせいで、わが校の女子はガリ勉でブスという定評・風評があった。同級生女子の名誉のために言っておくが、けっしてそんなことはない。ただ絶対数が少なかったからそれだけ美人も少なかっただけである。
 美人の分布を、ちょうどそのころ数学で習った「正規分布」と考えれば、平均から離れるに従ってその個体数は少なくなっていく。集団の絶対数そのものが小さい場合には、平均から離れたところにある美しい個体数はずっと少なくなる理屈である。あまり弁護になっていないか。

 先生はその後も何度か学校を移られた。先生の著作をインターネットで検索したとき、そのうちのひとつである高校のフェイスブックの頁に先生の名前を見つけた。→https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=609371775807958&id=266706006692667
 ここでは先生は「俊作さん」と呼ばれていたらしい。わたしたちにとってはずっと「田吾作」先生だったけれど、先生もいつまでも十五、六の高校生から田吾作と呼ばれたくはなかったのだろう。受け狙いの「田吾作です」はやめていたのだ。
 ではいつから田吾作をやめたのか。ひょっとしてわたしたちとの三年間だけ田吾作だったのかもしれない。転校を機にイメージ・チェンジをはかったことは十分考えられる。奥さんに当時のあだ名を聞いておけばよかった。

 教頭や校長になることはなく、一教師として生涯を全うされたそうだ。亡くなる前にご自分で書いて遺されたという逝去告知の文章には次のように書かれている。

 非常勤を含め、四十九年間国語教師として高校の教壇に立ち、国語科教育法、また日本語表現法の講師として九年間、大学の教鞭を執り、著作を三冊上梓し、万葉集を初めとする日本文学やプーシキンやゴーゴリを祖とするロシア・ソヴィエト文学を中心に、数えられぬほど本を読んだ生涯でした。

 卒業以来お目にかかることもなく、おそらく先生の記憶にはわたしのことなど残っていなかったでしょうが、わたしの記憶には先生のことがいろいろ残っていました。お世話になりました。本当にありがとうございました。
                         合掌

 

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   アマゾンで検索して出てきた二冊のうち一冊を購入した。
 山田俊作ほんのきれっぱし 読書案内293』(同時代社、1993)。
 内容紹介に「 古典、必読書、話題の書…。古今東西の293冊の「粋」を引き出して、本好きにさせてくれる本。」とある。あとがきによれば、1985、1986年度に先生が自分のクラスの生徒宛に毎日配った読書案内のプリントを基に、再編集・書き直しをしてまとめたものらしい。
 まえがきにはいきなり「昔々、高校生のころ、わたしは明けても暮れても中野重治、チェーホフ、魯迅だった。」とある。先生の本だ。ゆっくり読もう。

 

 

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2017年6月 1日 (木)

リンゴの神器

 最近のツイッターでこんな発言を見た。発言者の阿部議員がどういう人かはよく知らない。

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 大本教(おおもときょう)が、リンゴ三つなどの供物で国家転覆の意図ありと見なされたという話。共謀罪への賛否を問わず、このツイートを読んだ人たちにはどういうことかよくわからなかったようだ。
 わたしもそういえばそんな話があったなという程度で、くわしくは覚えていなかったので、以前読んだ『巨人出口王仁三郎』(出口京太郎、社会思想社、現代教養文庫、1995)を引っ張り出してみた。

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 出口王仁三郎(でぐちおにさぶろう、「わにさぶろう」とも呼ばれた)は、戦前、開祖出口なおの神がかりの教えを体系化し、大本教団として大成させた。しかし、その急激な勢力の拡大と教義が内務省に危ぶまれ、第一次大本事件(大正10年、1921)、二次大本事件(昭和11年、1936)と二度にわたって弾圧され、その都度多くの関係者が逮捕され、建造物は破壊された。
 第二次大本事件で大本は治安維持法違反と不敬罪に問われたが、その治安維持法違反の根拠が、お供物のリンゴや大根だった。。大本教が昭和3年(1928)の3月に行った「みろく大祭」で神事を終えたあと、王仁三郎がお供物のリンゴや大根などを自分と妻・幹部に分けたことをもって、国体変革の秘密結社を組織した、ということにされた。
 孫引きになるが、これについて青地晨はこう書いているそうだ。

「治安維持法にひっかけた理由というのが、まことに滑稽だ。昭和三年のみろく大祭のおり、王仁三郎は神前の供物から三個のリンゴをとった。またスミには大根、幹部には八つ頭をあたえた。三個のリンゴは三種の神器、大根(オオネ)は皇后、八つ頭は地方の総督などを象徴していたというタワイもない検察当局のコジツケだ」(p409)

 リンゴ三つに深い意味があったわけではなく、治安維持法に問うためには、大本教がただの宗教団体から国体変革を狙う秘密結社になったことを示さねばならず、過去の儀式がそのための儀式だったとこじつけられたのである。
 捜査当局は、それらしいものはないかと膨大な資料をひっくり返して一生懸命捜したのだろう。それでリンゴ三個が三種の神器で、天皇に取って代わろうとしたことにしたと思うと、今でこそおかしみを覚えてしまうが、当事者たちは笑うどころではなかった。捜査当局は真剣にこれを実行し、その結果逮捕された方は莫大な被害を被った。自殺者や獄死者、発病者などが続出したという。

 共謀罪について一カ月くらい前にはこんなツイートもあっておおいに笑った。
 こうやって笑っているうちはいいが、政府は真剣にこういう答弁をしている。
 そのうち笑えなくなるようなことにはなりませんように。

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 上記の本によれば、王仁三郎は「怪人」と呼ぶにふさわしい型破り、桁外れの人物だったらしい。
 生長の家の谷口雅春、世界救世教の岡田茂吉も若い頃は信者だった。右翼の大物の内田良平や頭山満と交流があった。満州馬賊の小日向白朗も師事した。合気道の開祖植芝盛平も弟子の一人で、一緒に満州から蒙古へ行って張作霖の軍に捕えられ、あわや銃殺刑になるところだった。などなどの逸話がいっぱいでおもしろい。
 ただ著者は王仁三郎の孫なので、内部の目で高く評価していると感じられるところがある。当時の新聞記事をたくさん引いて大本は世を揺るがした云々と書いているが、実際に世間での評価はどれほどのものだったのか。どういう教義で、社会にどういう役割を果たしたのか。奇跡・奇瑞の話など信じていいものか。予言が当たったというが、その他に当たらなかった予言はしていないのか、などよくわからないところもままある。
 なぜ弾圧されたのかについても諸説あるらしいが、勢力を拡大する中で右翼や軍人にも浸透していったことを内務省が危ぶんだという説がもっともらしく思われた。
 現代はこういう型破りの人物を許容しなくなった。戦前まではときどきこういう人がいたらしい。

 

 

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2017年4月27日 (木)

正岡子規展

 さて4月21日の本題の神奈川近代文学館正岡子規展

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 年譜などによる経歴の紹介、遺稿・遺品の展示…ということで型どおりの展覧会。

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 病床で書いた『仰臥漫録』の絵がカラフルで印象的だった。わたしの持っている文庫本では挿絵は白黒だったので、こんな色がついているとは思っていなかった。痛みの激しかった死の床で、こんなものを描いていたんだと感心する。
 東京根岸の子規庵へ行ったことは前に書いた。(→ 忘年会は笹乃雪 1 )

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 子規は、司馬遼太郎が『坂の上の雲』の主人公の一人にしたように、明治を代表する青年の一人であった。
 満年齢の三十五歳直前に死ぬという短い生涯にもかかわらず近代文学に大きな影響を与えた。江戸俳諧を「写生」を中心とした近代俳句として革新し、短歌についても王朝和歌の古今集を罵倒して万葉集を称揚し、いずれもそれが時代の風潮になった。

 展覧会の解説にも書いてあったが、子規は最初政治家を志したが、病を得て断念し文学の革新に挑んだ。明治時代は徳川時代を否定し、新しいものをつくろうとした時代だった。その担い手もみな若かった。
 子規も若く、『歌よみに与ふる書』は「貫之(つらゆき)は下手な歌よみにて『古今集』はくだらぬ集に有之候。」といかにも勇ましい。

 この子規の「若さ」がもたらしたものについて、丸谷才一はこう書いている。

子規はわが近代文学の骨格を定めた。この青年兼病人に負ふわが文学の美点はもちろん多いが、しかしまた、とかく幅が狭くなりがちなリアリズム好きも、個人への執着も、何かにつけて大まじめになりがちな青くささも、かなりのところ彼から発している。(『無地のネクタイ』(岩波書店、2013、p26)

 丸谷は子規の功績はきちんと認めている。そのうえで、子規の若さのせいで日本の近代文学はかなり青くさいものになってしまったと歎いているのだ。
 三十四歳で死んだ男に、おまえの考え方が若かったと言ってもはじまるまい。明治の「坂の上の雲」の時代、新しい国をつくろうとしていた時代にふさわしい仕事をしたと言うしかない。ただ、子規が長生きしていたら、どんな俳句や短歌を作ったか。どんな『歌よみに与ふる書』を書いたか。まるで変わらなかったか、それとも円熟とか成熟とか言われるような境地に到っただろうか、興味あるテーマである。

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2017年4月10日 (月)

目黒で墓参り

 3月30日、目黒まで高校時代の友人K君の墓参りに行ってきました。昨年の9月に肺がんで亡くなったということでしたが、奥さんから喪中ハガキが届くまで知らずにいました。驚いて昔の仲間たちと、どうして亡くなった? おまえ知ってたか等々の電話やメールをあわただしく交換しました。他の病気があったのは知っていましたが、こんなに急に亡くなるとはみんな思っていませんでした。
 目黒の安養院という古くからのお寺が作った「ひかり陵苑」という納骨堂がお墓でした。
 写真の奥に見える5階建ての建物が「ひかり陵苑」です。

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 これは門前で帰りに撮った写真。十代での同級生四人。五十年後の今となっては老人会の記念写真です。

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 ひかり陵苑を横から見たところ。

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 この陵苑、首都圏ではテレビコマーシャルもやっています。

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 納骨堂というのコインロッカーのようになっているものを想像しますが、ここのような最新のものは違います。各階にいくつもの参拝用のブース(仕切り)が設けられていて、あらかじめ決められたブースへ参拝します。各ブースは何軒だか何十て軒だかの共同使用です。

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 一階の受け付けで誰々の墓参りだと申し出て指定のブースへ行くまでに、裏側でコンベアーのようなものが動いて骨箱が移動し、表には「○○家」と表示されるようになっています。

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 K君の冥福を祈ります。              合掌

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   わたし以外はこういうお墓は始めてだったようで、ちょっと驚いていました。わたしも何年か前に、大学時代の友人が初めてこういうお墓に入ったときは驚きました。落ち着かない、違和感、子供のころからのお墓のイメージが壊れる―苔むした墓、夜にはお化けが出る―これでは幽霊も出られないじゃないか… しかし、最近ではこれはこれなりに考えられたシステムではないかと思うようになってきました。
 経費のこともありますが、なにより墓守の面倒が違います。わたしたちの年代はまだ家とお寺、お墓とのつきあいのようなものを経験していますが、子供たちはたまに帰省した時に連れて行かれたところでしかありません。お寺と檀家のつきあいなど意識の外です。
 一気に、自分たちからは墓はなし、と決断できればともかく、とりあえずはこういうかたちて繋いでいくのが簡便でいいような気もしてきます。子どもたちが親の墓のことなど心配してくれそうもないので、そろそろ本気で考えないといけません。

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 この安養院というお寺、『江戸名所図会』に載っていました。

臥竜山安養院 能仁寺と号す。同じ所にあり。天台宗にして瀧泉寺に属せり。本尊寝釈迦堂は空誉上人の作なり。当寺は法華読誦、称名念仏の道場なり。(鈴木棠三、朝倉治彦校注『江戸名所図会(三)』角川文庫、1967、p105)

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 上の写真の門が赤丸の門にあたるようです。寝釈迦像は今もあるようですが、今回は見て来ませんでした。

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