なむや文庫雑録

2009年11月13日 (金)

島崎藤村『夜明け前』

 島崎藤村『夜明け前』(『現代日本文学大系14 島崎藤村集(二)』、1970、筑摩書房)をようやく読みおえました。
 読むために、厚い本をバラして四分冊にした話を前に書きました(『夜明け前』を軽く読む)が、バラして読み始めた後に、旧字旧仮名の『夜明け前』を入手しました。(『島崎藤村全集』(昭和25年、新潮社))

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島崎藤村全集第七、八巻(1950、新潮社)

 こちらは第一部、第二部のA5判二冊本ですが、活字がゆったり組んであるのでやっぱり厚くて重い。それでもバラす前ならこちらで読んだところですが、もう半分ぐらい読み進んだところだったので、最後まで筑摩版で読みました。
 『夜明け前』に一番最初にとりかかったのは高校生のときで、その後も何度か読みはじめては途中で投げ出してしまっていたので、今回は少し構えて読み始めたところ、それなりに時間はかかりましたが、たいした抵抗もなく最後まで読めました。なぜ昔は読み通せなかったんだろうと不思議になったくらい。若い頃とは本の読み方も変わってきているのでしょうか。

 有名な作品ですが、あらすじを振り返るために、新潮文庫のカバーにある売り文句を引用します。

第一部(上)
 山の中にありながら時代の動きを確実に追跡する木曽路、馬籠宿。その本陣・問屋・庄屋をかねる家に生れ国学に心を傾ける青山半蔵は偶然、江戸に旅し、念願の平田篤胤没後の門人となる。黒船来週以来門人として政治運動への参加を願う心と旧家の仕事にはさまれ悩む半蔵の目前で歴史は移りかわっていく。著者が父をモデルに明治維新に生きた一典型を描くとともに自己を凝視した大作。

第一部(下)
 参勤交代制度の廃止以後木曽路の通行はあわただしくなり、半蔵の仕事も忙しさを増す。時代は激しく変化し、鎖国のとかれる日も近づく。一方、幕府の威信をかけた長州征伐は失敗し、徳川慶喜は、薩長芸三藩の同盟が成立していよいよ倒幕という時に大政を奉還した。王政復古が成り立つことを聞いた半蔵は、遠い古代への復帰に向かう建て直しの日がやって来たことを思い心が躍るのだった。

第二部(上)
 
鳥羽伏見の戦いが行われ、遂に徳川幕府征討令が出される。東征軍のうち東山道軍は木曽路を進み、半蔵は一庄屋としてできる限りの手助けをしようとするが、期待した村民の反応は冷やかなものだった。官軍と旧幕府方の激しい戦いの末、官軍方が勝利をおさめ、江戸は東京と改められて都が移された。あらゆる物が新しく造り替えられる中で、半蔵は新政府や村民の為に奔走するのだった。

第二部(下)
 
新政府は半蔵が夢見ていたものではなかった。戸長を免職され、神に仕えたいと飛弾の神社の宮司になるが、ここでも溢れる情熱は報われない。木曽に帰り、隠居した彼は仕事もなく、村の子供の教育に熱中する。しかし、夢を失い、失望した彼はしだいに幻覚を見るようになり、遂には座敷牢に監禁されてしまうのだった。小説の完成に7年の歳月を要した藤村最後の長編である。

 上の文章は売り文句ですから、「幕末から明治維新の激動の歴史を生きた青山半蔵の波瀾万丈の一生!」という感じにも読めますが、藤村の文章は、歴史も木曽路の宿場での生活風景も坦々と描写していきます。司馬遼太郎や吉川英治を読むようなわけにはいきません。
 徳川幕府やそれに対する長州・薩摩の動向など大局的な歴史の動きと、馬籠宿の人々の生活や半蔵個人の内的な葛藤が交互に叙述され、物語はゆっくりと、明治半ば、半蔵が発狂し死に至るまで、坦々と流れていきます。曲折はあっても押さえた筆致で、派手な山場を作るようなかたちでは描かれていません。
 この、坦々と話が進行していくことに若い頃のわたしは耐えられず、途中で放り出してしまったのではないかと思われます。しかし今回は、今年の夏、馬籠を訪れて、藤村記念館などを見てきた(青春18きっぷ 中央線)ことも影響しているのでしょうか、読んでいると大名行列を迎えるための当時の宿場での人の動きや、木曽路の風景をぼんやりと想像することができました。人足が何百人、馬が何十頭で荷駄がどれほどで賃銭がいくらといった数字もきちんとふまえて、具体的に描かれており、平易でわかりやすく、しかも骨格のしっかりした文章で、なんとなくその時代を感じさせられるような気がしました。
 派手な山場のないことも、逆に、抵抗しようもない時の流れをあらわしているようにも感じられ、なんとなく納得して、そのまま最後まで読み終えてしまいました。
 
 しかし、非常に気になったところがありました。それは例えば、主人公半蔵が
「そりや一部の人達は横浜開港で儲けたかも知れませんが、一般の人民はこんなに生活に苦しむやうになつて来ましたぜ。」(前掲書p78)
と言ったりするところです。
 「人民」という言葉は、幕末にはどうにもそぐわない。はたしてこの時代にこんな言葉があったのかどうか、あったとしても、こんな風に使われていたのかどうか。小説が書かれた昭和初期の「人民」とはよほど意味あいが違っていたのではないか。そんなふうに感じるところが、あちこちにあります。

 この問題を、高島俊男は『お言葉ですが…6 イチレツランパン破裂して』の中で、三田村鳶魚(みたむらえんぎょ)に触れながら、こう書いています。

 この『時代小説評判記』(昭和十四年、梧桐書院)のほうに、島崎藤村『夜明け前』の批評がはいっている。
 『夜明け前』は小生も若いころに読んだことがあるが、実にばかばかしい小説である。どこがばかばかしいかというと、江戸時代末期の、木曽山中の人々の言うこと考えることが、まるっきり現代人なのだ。言ってみれば、戦前版『少年H』ですね。
 この点は三田村鳶魚もくりかえし批判している。たとえば登場人物の発言に「庄屋としては民意を代表するし、本陣問屋としては諸街道の交通事業に参加する」という個所がある。「民意を代表する」だの「交通事業に参加する」だのということばが江戸時代にあるはずがない。ことばだけでなく、そういう観念が近代のものである。
 やはり登場人物の「君だつてもこの社会の変動には悩んでゐるんでせう」云々というせりふについて、鳶魚はこう言っている。

<この言葉遣並にこの言葉の持ってゐる意味といふものは、嘉永、安政あたりの人の頭に在るものぢゃない。社会といふやうなことは、当時の人の考へられるものではありません。言葉の形だけを云ふのではない、意味に於ていけないのです。>

 この「意味」というのが、わたしの言う「考えかた」「観念」である。「社会」ということばは明治時代に society の訳語として作られたものであるから、江戸時代の人の口から出るはずのないこともとよりであるが、そもそも「社会」という観念が江戸時代にはないのである。
 その他、裃のこととか関所手形のこととか、鳶魚は作者の無知を種々指摘していて、教えられることが多い
(高島俊男『お言葉ですが…6 イチレツランパン破裂して(文藝春秋、2002)』鳶魚の『夜明け前』批判、p286)

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 三田村鳶魚は、ご存じ江戸博士で、この『時代小説評判記』と『大衆文芸評判記』で、戦前の時代小説の時代考証がいかにデタラメであるか、徹底的にやっつけています。悪口を読むのが好きなわたしとしては、以前に非常に楽しく読んでいるのですが、もう内容をすっかり忘れているので、また引っぱり出してみました。
 高島俊男の言うとおり、藤村の『夜明け前』はいろいろ間違いがある、とんでもないと指摘した上で、しまいには「もう読むに堪えぬ」と題して、こう書いています。書かれた時代(昭和11年)を考えると、ちょっと恐いくらいです。

 ただその上に何としても許すことの出来ないのは、君臣の大儀を解せぬことである。これは決してものを書く、書かぬに拘らぬ話で どうあっても許すことは出来ない。随分でたらめのひどい大衆小説が行われる世の中だから、いくらボロを出しても、大衆小説と同じだといってしまえば、それでいいようなものですが、皇室に対する考え方、心得方の間違っているということは、許すことの出来ぬ事柄であります。
 私はもうこれから先、どんなことが書いてあるかということを、読むに堪えません。かような書物を、何のためか、読み耽る者どもがあるのを──大衆小説の読者をばかばかしいといって看過するのとは違った意味で、甚だ心配に堪えぬ次第であります。島崎さんも帝国の臣民に相違ないから、この点に対しては、よく熟慮されて、改悛の心状を明らかにされることを急がなければなりますまい。(『三田村鳶魚全集第廿四巻(1976、中央公論社)』p246)

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『三田村鳶魚全集第廿四巻(1976、中央公論社)

 これはつまり、和宮降嫁のくだりで和宮に「様」をつけないのは不届千万だとか、江戸時代の農民にも帝国臣民の心構えがあらねばならぬ、藤村は君臣の大儀を解せぬ、非国民だと罵倒しているわけです。しかし、高島俊男も先に引用した文章の後で、それは現在のイデオロギーで過去を裁断し統御しようという考えだ、いわゆる「正しい歴史認識」を押しつけようとするものだから、この部分はいけない、と書いています。

 『少年H』が出てくるのは、ベストセラーになった妹尾河童の『少年H』は、戦争の時代を少年の目で書いたことになっているが、戦後になってからの知識や感覚を戦中の少年が持っていたとして書いたトンデモ本だ、これも「正しい歴史認識」を押しつけようとするものであるという趣旨です。
(高島俊男の『お言葉ですが…4 広辞苑の神話』(2003、文春文庫)には「江戸博士怒る」「タイムスリップ少年H」と題して三田村鳶魚と『少年H』についてそれぞれ書かれています。)

 さてこうなると、歴史認識とはなにか、歴史小説とはなにか、ということを考えざるをえません。またまた昔読んだはずの菊池昌典『歴史小説とは何か』(1979、筑摩書房)を引っぱり出して読み始めましたが、面倒くさい話になりそうなので、それはまた今度にしましょう。
 わたしの読後感としては、『夜明け前』が、高島俊男が言うような「ばかばかしい」小説だとは思いませんでした。たしかに登場人物達の考え方に違和感はあります。歴史の結果を知ってからの後出しジャンケンだという気もします。逆に、これだけ世の中の動きについて目配りができ、わかっているのなら、王政復古に過剰な期待を抱き、裏切られたと狂うほどのこともなかったのではとも思ってしまいます。
 しかしこれは、自分の父、ひいては自分のアイデンティティを求めるために、歴史とふるさとを、藤村なりに再構成しようとしたのでしょう。
 最近の歴史小説は、と言ってもろくに読んでいませんが、戦国武将が軒並み反戦平和思想の持ち主であるNHKの大河ドラマみたいな、時代錯誤のヒューマンドラマ、ホームドラマが多いような気がします。昔はああいうのは「歴史小説」ではなく、「時代小説」と言ったはずですが、なんだかぐちゃぐちゃになってなっているようです。それに比べればよほどしっかりしていると思えます。
 歴史の流れの部分については疑問が残りますが、ふるさとの木曽路については、この時代を十分に感じさせるだけのものが描かれていると思いました。

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「木曾街道の一部」(上記全集七巻所収、右が北)

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2009年11月 9日 (月)

雀昇ゆかいな二人

 11月7日(土)は、横浜にぎわい座で「雀昇ゆかいな二人」を見てきました。上方落語の桂雀三郎とテレビの「笑点」に出ている春風亭昇太です。

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 演目は、

桂 団治郎   動物園
春風亭 昇太 長命
桂 雀三郎    親子酒
春風亭 昇太 花筏
    (中入り)
桂 雀三郎    胴乱の幸助

 春風亭昇太の新作落語がどんなものなのか、一度聴きたくて行ったのですが、残念なことに今回は二席とも新作ではありませんでした。まあ、そこそこ面白かったので良しとして、またの機会を待つことにしましょう。
 雀三郎は桂枝雀の弟子だそうで、身体を大きく使っておもしろい話を見せてくれます。「胴乱の幸助」で、肥ダメに落とした相手をさらに棒で突つくそぶりなど、笑いが止まりませんでした。肥ダメなんてものが、昔は、道路脇の畑のあちこちにあったことを思い出しました。

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2009年11月 2日 (月)

神田古本まつり

 10月31日(土)、三省堂古書館の業務応援に行って、久しぶりに神田古本まつりをのぞいてきました。

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 靖国通りは、古本屋前の歩道に古本のワゴンがずらりと並び、ゆっくり本が見られないくらい混んでいます。

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 その裏のすずらん通りは、古本まつり協賛「神保町ブックフェスティバル」。こちらでは各出版社が、わけあり汚損本など新本のバーゲンをやっていて、同じように混んでいます。

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 さてその中で、三省堂古書館は新しい案内看板も出して奮闘中。

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 わたしも、上の写真の赤い法被を着て、この前の歩道で「三省堂古書館がオープンしました!」と、半日チラシ配りをしてきました。慣れない立ち仕事で、しまいには腰が痛くなりました。でも、三省堂のネームバリューでしょうか、興味を持ってチラシを受け取ってくださるお客さんも多く、ちょっと入りにくいビルの4階ですが、けっこう古書館もにぎわっていました。わが「なむや文庫」の売れ行きは、まあぼちぼちというところでしたが。

 東京古書会館の古書展ものぞいてきました。先週の金曜日、何も考えずに入ったら洋書ばかりの日だったので、早々に退散してきましたが、今回はふつうの古書展。

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 小松左京の署名入り「小松左京マガジン第3号(2001、角川春樹事務所)」を買いました。若い頃から愛読している作家です。

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 あとはほんとに安い物を少し買っただけで、たいしたものは買いませんでした。たいした本がなかったわけではなく、気を引かれる本はあっても、こちらの財布がたいしたことがなかっただけです。 

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2009年10月29日 (木)

横浜能楽堂・掃部山公園

 10月27日(火)、横浜能楽堂へ「ブランチ能」というのを見に行ってきました。
 平日の午前中からお昼まで、子供の一時保育もつけて、能の普及をはかろうという趣旨のようですが、やはり客は、わたしと同年輩かそれ以上の高齢者が多い。

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 演目は、狂言 「鎌腹(かまばら)」 (大蔵流)
      能 「鉄輪(かなわ)」 (喜多流) 

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 前回、能を見たとき、途中で寝てしまってさっぱりわからなかった(芸能鑑賞二題)ので、今回はちゃんと能を鑑賞しようという趣旨です。
 そうしたら、なんと狂言「鎌腹」がはじまってそうそう睡魔が襲ってきて、大半を寝てしまいました。これまで、狂言はなんとか話がわかって、けっこうおもしろいので寝たことはなかったのですが、どうしたことか気持ちよく眠ってしまいました。

 しかし、これで寝が足りたせいか、能の方は、最後までしっかり見ることができました。
 今回の「鉄輪」は、「お、陰陽師安倍晴明が出てきた」とか、話もよくわかって、しかも主人公の、夫を呪う女は、後場では見た目も恐ろしい鬼女の面(「橋姫」という面だそうです)に変身して出てきて、怖さもよく理解できます。しかも前回見た「野宮」は二時間かかりましたが、今回は一時間で終わりました。

 今回のような演目をいくつか見続けていけば、そのうち能の良さもだんだんにわかってくるのではないかという気がしてきました。また行くことにします。

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横浜能楽堂

 この横浜能楽堂は桜木町駅から紅葉坂を上がった掃部山(かもんやま)公園の一角にあります。この「掃部山」の名は、あの幕末の大老、井伊掃部頭(かもんのかみ)直弼にちなみ、井伊直弼の銅像があります。

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 この銅像を見ると、いつもこれを思い出します。

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 日本開港100年の記念切手(昭和33(1958)年5月10日発売)です。
 この切手に描かれているのが掃部山公園の井伊直弼像です。まわりの模様は、開港した横浜・函館・長崎の各市章です(菱形が横浜、巴が函館、星が長崎)。
 当時わたしは小学5年生。切手収集が流行っていて、兄たちの真似をしてわたしも集めたものでした。この切手は発売と同時に買いました。
 この頃の記念切手は、大ブームだったので発売枚数も多く、持っている人も多く、あまり値上がりしてないようで、ネットで調べてみると、この開港百年切手は未使用のもので1枚50円くらいが相場です。

 なんとなく、幕末に井伊直弼が、この山から開港予定の港を見下ろしていたようなことでもあって、ここに銅像を建てたのだろうと、ずっと思っていました。
 あらためて公園内の看板を見てみると、横浜開港50周年記念の1909年(明治42年)に、旧彦根藩有志が、井伊直弼の開港の事績を顕彰するため、この丘に直弼の銅像を建て、「掃部山」と名付けたとのことで、直接この場所にゆかりがあったわけではないようです。
 その後、1914年(大正2年)、井伊家から土地と銅像が横浜市に寄贈され、市が公園にしたと、また別の碑には書いてありました。
 銅像を建てた当時は、きっとここから港が見えたのでしょうが、今や見えるのはビルばかり。下の写真の正面に見えるのはランドマークです。これではちょっと井伊直弼もかわいそうな気がします。

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 ちなみに今年はちょうど開港150年。あの切手から、もう50年たちました。
 6月2日には開港150年記念切手も発売されました。手元には下の使用済の横浜の三種しかありませんが、横浜、函館、長崎それぞれ十種セットで発売されています。 

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 横浜開港150周年記念テーマイベント「開国博Y150」というのも開催されましたが、不人気で今ひとつ盛り上がらず、わたしもとうとう行かずじまい。赤字を出して市長が逃げ出したというような話まで流れています。横浜市民としては、ちょっと情けない話です。

 

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2009年10月26日 (月)

三省堂古書館へ出品

 2009年10月27日(火)、神田古本まつりの開催にあわせて、神保町に三省堂古書館がオープンします。

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http://www.books-sanseido.co.jp/blog/kosyo/

 この古書館には、当店「なむや文庫」が参加しているスーパー源氏(http://sgenji.jp/)加盟の古書店32店が出品します。

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神田神保町の三省堂書店本店

 場所は、上の写真の三省堂書店神保町本店の裏側、三省堂書店第2アネックスビル4階。すずらん通りです。
 入口がちょっとわかりにくいかもしれません。下の写真に矢印を入れておきました。

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 なむや文庫もその一角に、ささやかながら出品いたします。10月23日(金)に行って、本を配架してきました。当初の予定より少ない冊数になりましたが、汗をかきながら棚の高さを調整して、一所懸命並べました。
 どういうお客さんが来てくれるのか、よくわかりません。神保町という土地柄から、けっこう渋い本も売れるのではないかと、たいしたものはありませんが、ノンフィクション系の地味目の本を中心に並べてみました。開店後の様子を見て、また対応を考えます。

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 オープンすると店名の表示はなくなりますので、なむや文庫の棚がどこか一見してもわかりません。(本に貼ってあるラベルには店名が印字してあります。)
 それでも、古本のお好きな方、ご用とお急ぎでない方など、神田・お茶の水方面についでのある節には、どうぞお立ち寄りくださるよう、よろしくお願いいたします。

 

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2009年10月19日 (月)

『ロケットボーイズ』

 秩父の農民ロケット「龍勢祭」を見て、思い出した本と映画があります。

 『ロケットボーイズ』(上・下、ホーマー・ヒッカム・ジュニア、草思社、2000)と映画『遠い空の向こうに』(1999、アメリカ、原題 October Sky)です。
 その名のとおり、ロケットを打ち上げる少年たちの物語です。

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 上巻のカバー袖にある売り文句を引用します。

1957年、ソ連の人工衛星スプートニクが、アメリカの上空を横切った。夜空を見上げ、その輝きに魅せられた落ちこぼれ高校生四人組は考えた──このままこの炭鉱町の平凡な高校生のままでいいのか?そうだ、ぼくらもロケットをつくってみよう!
度重なる打ち上げ失敗にも、父の反対や町の人々からの嘲笑にもめげず、四人はロケットづくりに没頭する。そして奇人だが頭のいい同級生の協力も得て、いつしか彼らはロケットボーイズと呼ばれる町の人気者に。けれど根っからの炭鉱の男である父だけは認めてくれない……
         ***
のちにNASAのエンジニアになった著者が、ロケットづくりを通して成長を遂げていった青春時代をつづる感動の自伝。

 何年か前に読んだ本なので、細かいところはもう忘れていますが、ロケットづくりの苦心談に、父親との葛藤・田舎の斜陽の炭鉱町(舞台はアパラチア山脈)からの脱出という青春物語がからんだ、とても楽しい本でした。
 アメリカの田舎というのは、当時の日本とたいして変わらないくらい封建的?(家父長的?)あるいはもっと厳しいところではないかと思った本でもありました。

 これを映画化したのが『遠い空の向こうに October Sky』です。

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『遠い空の向こうに』 DVD

 本を読んでから映画を見ると、ついつい本の「絵解き」を見るようになってしまいます。それに話がわかっている分、感興が削がれるところもありましたが、十分おもしろい映画でした。

 廃れていく炭鉱町、父親との葛藤、それにイベントの成功までの苦労話というと、そのまま日本映画『フラ・ガール』です。あれもおもしろい映画でした。あの映画の製作者はきっと『ロケットボーイズ』あるいは『遠い空の向こうに』を見ているに違いありません。

 スプートニクの打ち上げのとき、わたしは10歳で、小学校四年生でした。当時の大ニュースで、マンガの世界が現実になっていくんだということを教えられました。わたしも夜空を見上げ、科学者にあこがれたものです。そしてソ連の人工衛星打ち上げの記念切手を手に入れました。
 『ロケットボーイズ』の著者は当時14歳で、ハイスクールでロケットを作り、炭坑町を出て大学へ進み、とうとうNASAの技術者にまでなったという、夢を実現した人生を送ったわけですが、わたしは記念切手から先へは進めなかったようです。

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2009年10月 1日 (木)

日向ひまわり独演会

 9月26日(土)、横浜にぎわい座へ行ってきました。
 真打ちになって1年、新進女流講談の「日向ひまわり独演会」(第3回)です。

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 演目は・「野狐三次・木っ端売り」
     ・ トークショー
     (中入り)
     ・「魚屋本多」

 「野狐三次・木っ端売り」も「魚屋本多」も親子の人情話だったので、ひとつは趣向を変えてもよかったのでは、と後から思いましたが、十分楽しませてもらいました。

 愛知県にいる兄が、地元のイベントで自作の講談を演じてもらったという縁から贔屓になって、この6月にはわざわざ東京まで聴きにきていました。それで、横浜で独演会があるというので、どんなものかと出かけた次第です。

 舞台の、「のげシャーレ」(横浜にぎわい座地下)は、上のちゃんとした寄席とは違って、若手の練習用、あるいは素人の発表会などに使われている、倉庫みたいなところ。
 そんなに客は来ないだろうと思っていたら、けっこう入りました。定員143人と書いてありましたが、ほとんど満員に近い盛況。年輩の、つまりわたしと同じくらいかそれ以上の客が多い。

 この独演会のホームページ(http://hiwari3.web.fc2.com/)によれば、横浜でのイベント(「ららヨコハマ映画祭」)に出演してもらったのが縁で、イベント関係者が横浜での独演会を立ち上げたものだそうです。
 そういう趣旨からか、トークショーは、なんとなく仲間うちでやっている感じで、今回は「講談教室」として、下のチラシにある「三方ヶ原の合戦」冒頭部の読み方指導がありました。入門するとまずやらされる話だそうです。
 最初は押さえ気味にして、息を継ぐ手前で盛り上げて、「エビのシッポ」のようにピッとはねるようにしゃべると講談らしく聞こえるというのが今回の指導の眼目。なるほど。やってみると、けっこうおもしろいけれど、息が続きません。声を出すだけでも長年の習練が必要なんだと、あたりまえの話ですが、あらためて感じ入りました。

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当日配布のチラシより

 最後には色紙やお菓子の当たる抽選会まであって(残念ながら当たりませんでした)、和気藹々の雰囲気でした。日向ひまわりを「育てる喜び」、ちょっとしたタニマチ気分(それにしてはチケットが安すぎますが)をみんなで味わっているというところでしょうか。名人・上手になることを期待して、わたしも次回また行きたいところです。

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2009年9月23日 (水)

『ジェネラル・ルージュの凱旋』

 最近売れている海堂尊の本を読みました。
 最初に読んだのは、たまたま手元にあった
『ジェネラル・ルージュの凱旋』(海堂尊、宝島社文庫、2009)

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 上巻裏表紙の売り文句はこうなっています。

『チーム・バチスタの栄光』『ナイチンゲールの沈黙』でおなじみ海堂尊が贈る、大人気<田口・白鳥シリーズ>みたび登場! 伝説の歌姫が東城大学付属病院に緊急入院した頃、不定愁訴外来担当の田口公平の元には匿名の告発文書が届いていた。”将軍(ジェネラル)”の異名をとる、救命救急センター部長の速水晃一が特定業者と癒着しているという。高階病院長から依頼を受けた田口は調査に乗り出す。

 正直なところ最初は、なんだこれ、と思いました。
 冒頭で、救急車に同乗した看護師と救命救急センターの医師との無線による会話がこれです。

「あんた、誰だ」
「如月です」
「え? 翔子ちゃんかい?本当なら証拠(傍点)を見せろ」
間の抜けた声が、打ち解けた語調に変わった。
「その寒いギャグは、ひょっとして……」
(中略)
「佐藤先生でしたか。当直が救命病棟の出世頭だなんてラッキー」(P14)

 死にかかっている患者を乗せて、なんとも緊張感のない会話です。これがユーモアのつもりなのか、出世頭だという状況説明をこんなところでやる必要があるのか。
 おまけに救命救急センターの将軍(ジェネラル)速水医師は、棒つきの飴(チュッパチャプス)をなめながらTVモニターを見て、指示を出します。これはマンガか。

 これなら途中で放り出してもいいやと思いながら読んでいくと、意外やおもしろくてやめられない。話がどうなるのか、ともかく先を読みたい。これはマンガではなくて、要するに劇画なのだ。
 心理描写や情景描写で勝負するのではなく、筋運びのスピードと面白さで勝負。そして、作者が現役の医師だからこその医療情報の提供と問題の提起があります。
 登場人物ははじめからキャラクターが決められていて、「ジェネラル」とか「行灯」などのあだ名で性格がよくわかり、そのとおりに行動するから余計な説明はいりません。仕事がテキパキできる看護師長が「ハヤブサ」なんて、ちょっと恥ずかしいネーミングだと思うけれど、作者はそんなことはまったく気にしていないようです。そのまま強引に押し切られてしまった感じ。こんな小説があるのか、これは劇画小説と呼ぶべきではないかというのが読み終えての感想でした。

 そして、これは東城大学付属病院シリーズの四作目で、話がそれぞれ関係しているというので、気になってその前の三冊を結局全部読んでしまいました。後をひきます。
 それぞれ、文庫本上巻裏表紙の売り文句を引用しておきます。数字は刊行順。

1 『チーム・バチスタの栄光 上・下』(海堂尊、宝島社文庫、2007) 

東城大学医学部付属病院の”チーム・バチスタ”は心臓移植の代替手術であるバチスタ手術専門の天才外科チーム。ところが原因不明の連続術中死が発生。高階病院長は万年講師で不定愁訴外来の田口医師に内部調査を依頼する。医療過誤死か殺人か。田口の聞き取り調査が始まった。第4回『このミス』大賞受賞、一気にベストセラー入りした話題のメディカル・エンターテインメントが待望の文庫化。

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2 『ナイチンゲールの沈黙 上・下』(海堂尊、宝島社文庫、2008)

第4回『このミス』大賞受賞受賞作、300万部を突破した大ベストセラー『チーム・バチスタの栄光』の続編が登場。大人気、田口・白鳥コンビの活躍再び! 今度の舞台は小児科病棟。病棟一の歌唱力を持つ看護師・浜田小夜の担当患者は、目の癌──網膜芽腫の子供たち。眼球摘出をせざるをえない彼らに心を痛めた小夜は、患児のメンタルケアを不定愁訴外来の田口に依頼し、小児科愚痴外来が始まった。

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3 『螺鈿迷宮 上・下』(海堂尊、角川文庫、2008)

医療界を震撼させたバチスタ・スキャンダルから1年半。東城大学の劣等医学生・天馬大吉はある日、幼なじみの記者・別宮葉子から奇妙な依頼を受けた。「碧翠院桜宮病院に潜入してほしい」。この病院は終末医療の先端施設として注目を集めていた。 だが、経営者一族には黒い噂が絶えなかったのだ。 やがて、看護ボランティアとして潜入した天馬の前で、患者が次々と不自然な死を遂げた! 彼らは本当に病死か、それとも……。

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 ストーリーもキャラクターも、やっぱり劇画だなとは思いましたが、ともかく最後まで一気に読ませる力があります。どれもおもしろく読みました。
 上に引いた『チーム・バチスタの栄光』の売り文句には、この本を「メディカル・エンターテインメント」と呼んでいます。作者は、最初の『チーム・バチスタの栄光』を、自説の死亡時医学検索の重要性を主張するために書いたのだといいいます(『ナイチンゲールの沈黙 下』解説)。そのためのメディカル・エンターテインメントとは、なかなかたいしたものです。

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2009年9月20日 (日)

「何野誰兵衛 建之」の読み方

 このブログの右下の方に「検索フレーズランキング」という欄があることは前にも書きました(ソーホース(ウマ)の作り方)。DIY関係の検索でこのブログがひっかかることがけっこう多いようですが、9月13日に突然、8位に「"建之" 墓 読み方」というのがランクされていて驚きました。
 よくお墓や石碑などにある「何野誰兵衛 建之」の読み方を検索しているのですが、わたしは墓の読み方のことなど書いた覚えがないので、どこがひっかかったんだろう、と思い返してみると、「右は高輪泉岳寺」に「四十七士の墓」とか「川上音二郎建之」と書いてあるので、これがひっかかったようです。

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 偶然、ついこないだ、これとまったく同じ質問をされて、
「之(これ)を建(た)てる」
と答えていたこともあって、この「"建之" 墓 読み方」の検索をクリックしてみました。
 
 そうするとやっぱりこういう答えがでています。

 「漢文で書かれた碑文は,「読み下し」で読むので,「これをたつ」と読む」──これが本則でしょう。
 「これをたつ」「けんし」「こんし」「これをたてる」──もし私が、その先生なら、学生がこの4通りのどの読み方をしても「良し」とします。

http://okwave.jp/qa4731066.html

 「この墓あるいは記念碑を建てた」という意味で、それを読み下しで読むか、そのまま音読みで読むかというだけのことで、特に問題はないと思いますが、中に、あっと驚く説がありました。

 じつは、この「建之」という言葉は日本では存在しない言葉です。
 もちろん、日本には無い言葉ですので、決まった読み方も存在しない訳ですが、私が関係していた時には「けんし」と呼んでいました。
 しかし、一般的に馴染みが無いというのと、決まっている事柄ではないという事で建墓者の方には「こんりゅう」と説明し、お墓の慣例で「建之」という文字を使っています、という風に説明していました。
 意味合い的には「建立」と同じなのですが、使われる場面はお墓や記念碑等に限られています。
 日本のお墓文化は、中国の影響を受けているので、そこから建之という言葉の意味を考えるとすると「之(これ)を建てた」という風になるのかもしれません。

 文章を読むと、お墓を作るとか売るとかに関係していた方のようですが、どうもこの業界には「建之者」という言葉があるようで、ある石材会社のページには、こんな文章もありました。

お墓の建之者彫刻
 お墓には、建之者の彫刻を入れることが多く、裏面または、側面に「平成○○年○○月 ○○建之」のように彫ります。建之は「之を建つ」という意味です。

 さらにこんな回答もあったようです。(書かれたもとのページの記載がないので確認はできませんでした。)

 お墓を建てた人、建之者(けんのうしゃ)の意味です。
 誰の誰兵衛建之(けんのう)と読みます。

 業界で、いちいち「『之を建つ』の上の名前はこれこれで」とか言うより、「『建之者(けんししゃ)』はこれこれで」と言った方が、なにかと便利そうなのは、なんとなくわかります。
 だから業界の専門用語として使うのはかまわないと思いますが、それが一人歩きして、日本語にはない「建之」という特別の熟語があるんだというのは、話が逆でしょう。中国語にも「建之」なんて熟語はないのではないでしょうか。
 「けんのう」と読むという話にいたっては驚くしかありません。

 以前読んだ『それ迷信やで』(今井幹雄、東方出版、1981)という本は、真言宗の僧侶が、檀家の年寄り連中が言ってくる「仏壇の花たてと蝋燭たてを一対にしておかないと後家になる」とか、「葬列を歩く人が後ろを向くと、後を引く(=また葬式が出る)」とかいう迷信への対応のあれこれを書いたおもしろい本でした。「迷信列島漫才説法」という副題がついています。

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 こんな一節があります。

世の中が一段落したとみえて仏壇購入や墓碑建立が盛んになったはいいが、それと同時に、さまざまな珍知識を仕入れてきては、「仏壇屋がああ言った」「石塔屋がこう言った」と言って、それを寺に押しつけてくるから閉口するのである。(p150)

 そして著者が白木に書いた「○○信士」という戒名が、仏壇屋が彫った位牌ではなんと「○○信七」になっていた、という話が紹介されています。くずし字が読めないばかりか、戒名には○○信士・○○信女等のつけ方があることも知らない。それでいて先祖供養のコンサルタントぶって、仏壇開眼にはこの日がいいの悪いのと根拠もなく檀家に吹き込む云々、と毒舌説法になります。

 迷信の話はまた別の話になるので、もとの話に戻ります。

 漢文が読めるのが普通の教養だった時代は終わりました。わたしは漢文に詳しいわけでも中国語ができるわけでもありません。そのわたしにとってさえ、あたりまえに思えることが、そうじゃなくなってきたようです。時の流れで、そのうち「建之(けんし)=建立のこと」と辞書に載るようになるのかもしれません。

 検索で出てきた中に、碑文の読み方の最後の箇所が、こうなっているのがあって、失礼ながら思わず笑ってしまいました。○○は日本人の姓です。

○○ 建之
○○ たけゆき

 その前までの読み方を見ると、回答者はわたしなどよりよほど学識の深い、ちゃんと読める方だとお見受けしましたが、最後が○○と姓だけだったので、勢いで名前として読んでしまわれたのでしょう。
 でも本当にこの人が「○○たけゆき」という名前だったらごめんなさい。わたしの不見識をおわびします。

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2009年9月17日 (木)

外科治療には『三国志』

 そんなに忙しかったわけではないのですが、いろいろあってブログから遠ざかっていました。
 いろいろのひとつが首筋にできたデキモノ。医者はニキビのようなものだと言いましたが、大きく腫れあがって、切開され、その後、ウミや油カスを出すといって、一週間くらい傷口をいじられ続けました。昨日ようやく傷口をふさいで様子をみることになり、ほっと一息ついだところです。

 いざ切開というときに思い出したのは、子供の頃、注射とか怪我の治療をしてもらうたびに『三国志』で読んだ関羽の話を思い浮かべて痛みを我慢していたこと。。
 ご存じの方も多いと思いますが、『三国志』には、腕に毒矢が当たった関羽が、治療のため肉を切られ骨を削られても顔色一つ変えず、碁を指し、酒を飲んで談笑していたという話があります。
 小学生の頃『三国志』を読んで感動したわたしは、それ以後、注射や怪我の消毒などの際には、この関羽を思い浮かべて、男らしく我慢していたのでした。歯医者でもそうでした。顔色一つ変えず、うめき声の一つもあげず、とはいきませんでしたが、けなげに痛みや恐怖をこらえてがんばっていたのです。
 さすがにこの歳で関羽を思い描いてというわけにはいきませんが、そうやって痛みをこらえていた自分の幼い姿を思い出すと、そうそう泣き言は言えないなという気にはなります。

 何年か前に、その頃読んだ『三国志』をもう一度読みたくなって探したことがあります。覚えているのは、名作全集のようなシリーズの一冊、単行本より一回り小さい変型サイズ、黄色い地に絵入りの表紙、講談社から出ていたような気がする、といったところ。
 神田の古本屋で同じシリーズの他の本がありましたが、『三国志』はありませんでした。

 最近入手したのがこの本。野村愛正『三国志物語』(クレスト社、平成5年)。
 昭和15年に講談社の『世界名作物語』叢書の一冊として刊行され、昭和21年にそれを書きなおして同じく講談社の『小国民名作文庫』の一冊として刊行されたものを復刊したものだそうです。

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 谷沢永一、渡部昇一の二人が、この野村愛正の『三国志物語』を少年時代に愛読したと、カバーの袖に推薦の言葉を寄せています。
「私の人生学、人間学の入門書(谷沢)」、「本書は、私の知的生活の出発点である(渡部)」と二人とも手放しでほめています。
 この二人の政治向きの意見についてはかなり異論がありますが、本・読書に関するものはおもしろく読み、かつ尊重しています。

 わたしもこの二人と同様、小学生の頃読んだ『三国志』に、傷の治療だけでなく、かなり影響を受けていると思います。大人になってから吉川英治の『三国志』も、子供に買ってやった横山光輝の『三国志』も読みましたが、最初の本が『三国志』の印象を決定づけているように感じます。
 しかし、これが本当に昔読んだその本なのかどうかは、どうもはっきりしません。読んでみるとやっぱりおもしろくて、一気に最後まで読んでしまいましたが、文章までは覚えていないので、これがそうだったとは断定できません。
 同級生だった造り酒屋の息子のヨシオくんから借りたような記憶があります。そうだとすると小学校一、二年の頃のことになりますが、そんな小さい頃にこんな文章が読めたんだろうか。しかし、あのころは少年雑誌だって活字がいっぱいだったし、難しい漢字にはたいていふりがながついていました。わからないところは特に詮索しないで飛ばして読んでいたから、こんなものだと思って読んでいたのかもしれません。
 ヨシオくんとは「宋江がどうした」とか、『水滸伝』の話をした記憶もありますから、ともかく二人ともこの手の本を読んでいたのはたしかです。

 関羽の手術のところはこう書かれています。

 華陀(かだ)という呉の名医が訪ねてきて診察して、
「これは烏頭(うず)という毒のためで、早く治療しないと腕が駄目になります。今、静かな部屋に柱を一本立て、それに鉄の環(わ)を取り付けて臂を縛りつけ、私が肉を裂き骨を削って手術すれば必ず治ります。ただ並大抵のことでは到底我慢ができないでしょう」
 と言う。現在のような麻睡(ますい)薬がなかったので、こんな方法で手術するよりほかはなかったのだ。関羽は笑って、
「それはたやすいことだ。子供ではあるまいし、柱を立てたりするには及ぶまい」
 と言って、馬良を呼んで碁を囲み、酒を飲みながら右の腕を差し出す。華陀が刀をとって傷を切り開いてみると、すでに骨が毒に染まって青くなっている。それを削り取って治療する間に、血は兵が捧げた盆に一杯になったが、関羽はふだんのとおり談笑していて、顔色一つ変えなかった。
 これには華陀も驚いて、自分は長く医者をするが将軍のような人は一生にはじめてだ、真(まこと)に天神(てんしん)だと言って、礼物を受けずに帰って行った。この手術によって、さしも重かった関羽の矢傷も百日あまりですっかり全快した。(P228~229)

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 華陀(=華侘)は実在した伝説的名医ですが、実際に関羽を治療してはいないようです。麻酔を発明したとされていますが、この話では麻酔はつかっていません。まあ麻酔で手術しては豪傑の話にはなりませんし、わたしの心の支えにもなりませんでした。
 この『三国志物語』には出てきませんが、原本の『三国志演義』では、このあと華侘は、病気になった曹操に脳の切開手術をすることを申し出て、殺そうとするのかと疑われて、獄死してしまいます。このときにはちゃんと麻酔すると言っています。

 小説の『三国志』ではなく、正史の『三国志』にも「華侘伝」があって、いろんな話が書かれているそうですが、ウィキペディアのこんな話が目にとまりました。

・李痛の妻が重病にかかると、流産した胎児が残っているためと診断した。李通は胎児はもう降りたと言ったが、華佗は胎児は双子で、一人が残っているのが病因と診断し、果たしてその通りだった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E9%99%80

 これは、TVドラマ「宮廷女官チャングムの誓い」で、医女になったチャングムが皇后の病気を見事にあてたという話そのままではありませんか。なるほどこれをネタにしていたのか。

 『三国志』は、韓流ドラマにも外科治療にも役立っていたという話でした。

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2009年9月 8日 (火)

芸能鑑賞二題

映画『剣岳 点の記』

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 9月4日(金)、地元の映画館での上映最終日。

 山の映像がきれいです。山岳をうつした映画は、いつもその壮大な景色に感心するとともに、どこからどうやって撮ったんだろうと不思議に思います。登山者を上から撮っているということは、カメラはすでに上に登っているわけで、それだけでもたいしたものですが、岩のてっぺんに立つ姿など、どこを足場にして撮影しているんだろうと思うようなのがあります。一部には合成もあるかもしれませんが。

 山の風景に味をつける人間ドラマ──陸軍測量部と日本山岳会との登頂競争、案内人の親子対立などは、ちょっと生煮えで中途半端な感じでした。
 新田次郎の山岳小説は、昔ずいぶん読んでおもしろかったのですが、今や内容はほとんど覚えていない状態で、『剣岳 点の記』を読んだかどうかも不明です。

 ともかく山の景色だけは堪能して納得した映画です。

狂言「萩大名」・能「野宮」

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 9月5日(土)、大船の鎌倉芸術館で。

 狂言はおもしろく見ましたが、能の方は、はじまってすぐ睡魔に襲われ暫時寝てしまいました。目がさめたあとはちゃんと見ましたが、よくわかりません。二時間の上演時間は長かった。
 あと何度か見たら、おもしろいとかなんとか言えるようになるものなのでしょうか。ともかくもう少し努力してみたいとは思います。

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2009年9月 4日 (金)

川合玉堂が赤塚不二夫に

 川合玉堂が赤塚不二夫になりました。

 9月2日(水)、前から一度行きたかった、奥多摩の川合玉堂美術館へ出かけました。横浜のわが家から、東京都内とはいえ青梅線御獄(みたけ)駅までは片道三時間近くかかります。とことこ電車を乗り継いで、昼ごろ御獄駅につき、橋を渡ると渓流の向こうに美術館が見えます。
 玉堂の絵にそのまま出てきそうな場所です。

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真ん中上の白い建物が玉堂美術館

 ところが、美術館に着くと、意外な貼り紙が…

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 「9月1日(火)、2日(水) 臨時休館させていただきます」
 月曜休館は確認してあったのですが、これはまいりました。

 天気が良ければ山の方の御獄神社などへ行ってもいいのですが、山には写真のとおりガスがかかっているし、時おり細かい雨がぱらつきます。

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 山はあきらめて、駅に置いてあったパンフレットにあった、赤塚不二夫会館へ行ってみることにしました。「昭和レトロ商品博物館」「青梅赤塚不二夫会館」「昭和幻燈館」の三館がセットになっています。

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 青梅はどういうわけか「昭和レトロ」を売り物にしていて、青梅駅にはこんな展示もありました。

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 これが赤塚不二夫会館。昔から赤塚は大好きですが、原画や写真の展示を見て、玉堂の絵のような感慨にふけるわけにはいきません。寝っころがってセンベイでもかじりながら本を読むのが正しい赤塚の鑑賞方法です。 そういう部屋をひとつ作ったらいかがなものでしょうか。
 青梅でなぜ赤塚なのかは、よくわかりませんでした。

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 これは「昭和幻燈館」。幻燈をやっているわけではなく、映画の看板と、灯りの入った昭和の町のジオラマが展示されています。

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 こういう昭和レトロが流行りだしたのは、新横浜にラーメン博物館ができた頃からだと思います。あそこへ初めて行ったときはたしかに驚きました。映画「地球防衛軍」の看板がなつかしくて郷愁にさそわれました。
 でもそうそういつまでも驚きは続きません。

 昭和の時代、まだ小さかった頃は、なんて上手に描いてあるんだろうと思って映画の看板を見上げていました。それが中学生くらいになると、微妙に顔が歪んでいたり、少々目つきが悪かったりするのがわかるようになりました。
 高校・大学生になると、「映画の看板は、あの俗悪で品のないところがいいんだよ」などと生意気なことを言っていたことを思い出します。ちょうど横尾忠則が登場し、「キッチュ」という言葉が流行りだした頃でしょうか。

 青梅の町にかざってある映画の看板も、キッチュな、映画看板の正道を行くものです。しかし上映案内という本来の機能を失ったものを、博物館の中ならともかく、町のあちこちにいつまでも飾っておくというのはいかがなものでしょうか。
 下の写真は青梅駅の地下通路です。左側にも同じ様な看板(洋画の「鉄道員」!他)が飾ってあります。観光客のわたしは一瞬ハッとしましたから、そういう意味では目を引きますが、毎日通勤でここを通るとしたら、ちょっと疲れそうです。高倉健も大友柳太朗の怪傑黒頭巾も大好きでしたけど。

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 赤塚不二夫館へもう一度行くことはないでしょうけれど、川合玉堂美術館は、天気の良さそうな、ちゃんと開館している日に、もう一度行ってみることにします。

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2009年9月 2日 (水)

歴史的文書?

 8月30日の衆議院選挙では、民主党が308議席と大勝し、自民党は3分の1余に激減。政権交代です。

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 これで現在の社会の閉塞感に風穴があくかどうか。
 小沢一郎や田中真紀子では自民党と変わりばえしないけれど、大して変わらないから安心して投票した人もいたことでしょう。ともかく自民党は一度やめさせる、風穴をあけたいというのが民意でした。
 これで、自民党がかつての社会党のようになっていくのか、それとも民主党が分裂、政界再編になるのか。いろいろおもしろそうではあります。

 民主党のマニフェスト。

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 駅頭でもらったものですが、古本屋のオヤジとしては、数十年後に値が出ることを期待して、これをまとめて仕入れておくべきだったかもしれません。
 でもこれが歴史的文書として残るのか、それとも、うたかたのチラシとして消えていくのか、さてどちらでしょう。

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2009年8月 7日 (金)

楽太郎・風間杜夫二人会

 昨日(8月6日(木))、横浜にぎわい座の「三遊亭楽太郎・風間杜夫二人会」を見ました。

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<演目>
・対談      三遊亭楽太郎、風間杜夫
・禁酒番屋   三遊亭楽太郎
(中入り)
・マジック    OZ
・化物使い   風間杜夫

 円生の協会分裂騒動の話から、前回、三遊亭円丈を見にいった(川柳・円丈二人会)ので、次は円楽と行きたいところでしたが、円楽はもう引退し、来年には楽太郎が六代目円楽を襲名するということなので、今回は楽太郎です。

 「禁酒番屋」 。風邪気味と言ってましたが、声がちょっとかすれているというか、楽太郎はもっといい声だったと思います。酒を飲む仕草のうまさで沸かせていましたが、全体としては今ひとつの感じ。もちろんおもしろかったけれど。

 風間杜夫の「化物使い」。使用人の杢助と主人の区別がうまくついていない。やっぱり素人としてはお上手ですね、というところ。これも楽しませてもらいましたけれど。

 先日、古いダンボールの中からこんなチラシやパンフレットが出てきました。
 昭和52(1977)年1月21日の「第4回月例横浜落語会」です。

Photo  

 右のパンフを開いてみると

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 三遊亭ぬう生(=円丈)が「金明竹」をやっています。三十年以上前、円丈がまだ二つ目だったときにちゃんと聞いていたんですね。全然記憶にありませんが。

 横浜から東京まで落語を聞きに行くのは、今でもけっこう面倒です。当時は「にぎわい座」もありませんでしたから、いわゆるホール落語ですが、この「月例横浜落語会」に何度か行きました。出てきたのは第三回から第九回までのパンフレットで、円生のほか、小さん、正蔵、志ん朝、馬生といった当時の錚々たるメンバー、それに円楽や小三治なども出ていました。
 チラシをよく見ると、他の回は全席千六百円なのに、この円生独演会だけがA席二千円、B席千八百円と高くなっています。これは正月料金で高かったのか、名人円生だから高かったのでしょうか。
 次の年の昭和53(1978)年に落語協会分裂騒動が起き、昭和54年には円生が亡くなっています。晩年の円生を見ていたわけですが、覚えているのは、いかにも俺は名人上手だぞと言わんばかりの感じに、多少反感を感じたこと。猥雑な寄席と違って、ホールのあらたまった雰囲気で聞いたせいもあるのでしょう。

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2009年8月 2日 (日)

映画『白鯨』

 小説『白鯨』を読んだついでに、DVDで映画『白鯨』をみました。(小説の話は→メルヴィル『白鯨』

Dvds

1956年、アメリカ
監督 ジョン・ヒューストン
脚本 ジョン・ヒューストン、レイ・ブラッドベリ
主な出演者:グレゴリー・ペック、オーソン・ウェルズ

 小説を読んでおぼろげに思い描いていたイメージが、映画では具体的な映像ではっきり示されます。ナンタケットの港町、怪しげな船員宿の中からはじまって、オーソン・ウェルズ演じる牧師が説教するために縄ばしごを登っていく教会とか、捕鯨船の大きさ、船員たちの服装などなど、わたしが思い描いていたのとはだいぶ違いました。
 銛は、陸上競技の槍投げのように、片手で持って何十メートルも飛ばすように想像していましたが、映画では左手で銛を支え右手で端を持って押し出すように投げていて、そんなに遠くまでは飛びません。考えてみれば、あんな重い物を、人力でそうそう遠くまで飛ばせるわけがありません。
 本ではよくわからなかった船上で鯨油をとる作業のシーンや帆綱の貼り具合なども映像を見るとなんとなくわかります。なるほどこれがアメリカ人の思い描く『白鯨』の世界なんだと、納得しました。

 映画を見る前は、話を簡略化して怪物退治の海洋冒険活劇に仕立ててあるのではないかと、勝手に想像していました。読むのが面倒だったあの鯨百科の部分をいちいち映像化することは不可能でしょう。
 見ると、拝火教徒フェダラーの一行を省略するなど、簡略化はしてありますが、オーソン・ウェルズの説教とか、エイハブ船長が恐ろしい顔で難しいことを言ったりして、原作の難解なところもなんとか伝えようとしています。脚本のレイ・ブラッドベリは、この年にはもうSF作家として名を上げていました。アメリカが誇る古典だけに、単なる娯楽作品ではなく「文芸大作」という位置づけで、できるだけ原作の雰囲気を再現しようと作られたということでしょうか。

 しかし、そのおかげで、この映画は興行的には失敗だったそうです。
 わたしはけっこうおもしろく見ました。原作の絵解きを楽しんだ部分が多かったのはたしかですが、白鯨との戦いのシーンなど、よくできていると思いました。

 ウィキペディアには「その後、「ジョーズ」等の海洋パニック映画の原点として再評価された。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%AF%A8)」と書いてあります。なるほど、この映画から面倒なところを全部除いて、純粋な活劇娯楽映画にしたのが『ジョーズ』だというわけか。なんとなく納得。

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2009年7月19日 (日)

ページストッパー

 百円ショップでこんなものを見つけました。

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 ページストッパー。電車の中で本を読むとき、片手で開いた本を押さえる道具だそうです。知的生産用具のひとつ?

 昔、たしか紀田順一郎の読書入門関係の本の中に、吊革につかまって本を読むときの指の使い方の図解があったように覚えています。
 通勤電車の中は貴重な読書の時間で、いつも片手で吊革、片手で本を持って読んでいました。熟練の結果、大きな本でなければそれほど苦労せずに指で頁を押さえて読めました。でもこれを使えばもっと楽に本が読めるかのもしれない。
 ためらわずに買いました、百円ですから。

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 上の写真のようにして使うそうです。
 慣れないせいかちょっと落ち着きません。ページをめくるときにひっかかりそう。慣れればいいのでしょうが。
 それより人前でこれを出して指につけて本を読むのが、やっぱり恥ずかしそうです。今は電車の中で化粧はおろかおにぎりを食べる女性までいる世の中ですから、これくらいで恥ずかしがっていてはいけないのかもしれませんが。

 そう言えば、昔、電車の中で隣り合わせた女性が、S字フックを取り出して吊革にかけ、そこへ手提げバッグをぶらさげたときは驚きました。なるほどたしかに片手はあきます。でも吊革って、物をぶらさげてもいいんだっけ。そんな規則はないのかな?
 ひょっとするとこれは、女性週刊誌かなんかで生活の知恵として紹介されていたりして、これから流行るんだろうか。そうすると満員電車の吊革には手提げ袋やスーパーのレジ袋なんかがぶらーりぶらり。へたに坐ると目の前で買い物袋がゆらゆら揺れる、そんなことになるんだろうか。ちょっと心配しましたが、幸いなことにその後、特に流行ったりはしませんでした。

 ともかく今は退職して、通勤電車に乗らなくなった身の上ですから、ページストッパーも特に必要はありません。今度出かけるときに持っていってみようかな、とも思いますが、人前でやってみる度胸があるかどうか。 

 とりあえず引き出しに入れて、しまっておきます。

 

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2009年7月11日 (土)

メルヴィル『白鯨』

 メルヴィル『白鯨』(幾野宏訳、集英社版世界文学全集38、1980)を読みました。これは読書会酣(たけなわ)の7月11日の会の課題図書です。用あって会には出席できませんが、提出用にまとめた読書感想文です。

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左:河出書房新社版、右:集英社版

 高校生か大学生だったときに読んでいるので、四十年ぶりの再読です。昔は河出書房版の阿部知二訳で読みましたが、今回は集英社版にしました。
 この小説の特徴であり面倒くさいところでもある鯨の百科全書的な部分を、若かったときは、けっこう楽しみながら一気に力業で読み切ってしまったと記憶していますが、今回は面倒なところにさしかかるたびに、とろーりとろりと睡魔に誘われ、読み終えるまで意外な時間がかかってしまいました。体力気力とも若い頃とはちがいます。

 この小説をきちんと全部読んだ人は少ないでしょうが、マンガや子供向きに書き直された本で、あらすじは誰もが知っていると思われます。
 上の集英社版の帯にはこう書いてあります。

巨鯨を追う船長の壮絶な戦いを描く!
エイハブ船長は、自分の片脚を奪った白鯨を追って、復讐の鬼と化した。海洋を舞台に人間と白鯨の壮絶な死闘が展開する…。

 なによりもこれは海洋冒険小説です。語り手のイシュメイルは、陸上には興味を引くもののがなくなったからと、船員になって水上の世界へ乗り出していきます。怪しげな船員旅館に泊まり、南の島から来た蛮人にして銛打ちの名人クイークェグと出会い、捕鯨船ピークォド号に乗り組むまでのところなど、大きな冒険が待ち受けている期待にわくわくさせられます。クイークェグが銛打ちの妙技を発揮する場面には、子供の頃読んだマンガで胸踊らせたことを、おぼろげに思い出します。

 クイークェグの他にも、一等航海士の沈着冷静なスターバック(あのコーヒー屋のスターバックスは、ここから名前をとったそうです)、二等航海士ののんきなスタッブ、三等航海士のフラスク、銛打ちにはアメリカ・インディアンのタシュテゴ、巨大な黒人のダグーと乗組員は多士済々。ナンタケットの港を出てからおもむろに真打ちエイハブ船長が登場し、船倉からは隠れていた拝火教徒のフェダラーの率いる謎の東洋人の一行までが現れる。
 まったく魅力的なキャラクターの登場人物たちです。だから、世界の海を経巡り、めざす白鯨モービー・ディックと出会って死闘を繰り広げるまで、息をも継がせず血沸き肉踊る冒険活劇が繰り広げられるかと思うと、ところがそうはなりません。
 冒頭の「語源の部」「文献の部」からはじまって、話の筋とは直接関係ない「鯨学」とか捕鯨の歴史、鯨の生態、解剖学など、百科全書のような、考証のような雑学のような、随筆のようなあるいは哲学のような章が全体にちりばめられていて、話の展開がそこらじゅうで中断されています。おまけにエイハブの言葉は大時代的でもったいぶっていて、読むのに骨がおれます。わたしもついつい読みながらとろーりとろりとしてしまったのでした。

 サマセット・モームは『世界の十大小説(下)』(西川正身訳、岩波新書、1960)で、メルヴィルは、いわばその最善を尽して読者の楽しみを妨げているらしいと、述べています。

なぜメルヴィルが、ところどころで物語の手を休めては、その大きさ、骨格、愛の営みなど、鯨の博物学を扱った章を挿入して、読者にせっかく呼び起こした興味を失わせるといった、犠牲を払うようなことをあえてしたのか、どうもよく分らない。『世界の十大小説(下)』(P107)

 そして、他の多くの独学の人と同様、メルヴィルもまた苦心の末ようやく身につけた知識を必要以上に重要視し、その知識をひけらかしたいという誘惑に抵抗することができなかったからにすぎないと思う、とまで書いています。しかし、メルヴィルはこんな風に書きたかったのだし、あとは読者の側がこれを受け入れるかどうかの問題だとも書いています。(前掲書P108から109)

 わたしも、この余計な部分を全部とり、純粋の活劇に仕立てたら立派な海洋冒険小説になって、売れない作家で終わったというメルヴィルも一躍人気作家になったのではないかと思います。そして『白鯨』は、冒険小説の名作の一つとして残ったでしょう。
 しかし、メルヴィルは、死後、1921年にレイモンド・ウィーヴァーという学者が評伝を出すまで、海洋冒険譚を書いた群小作家の一人にすぎませんでした。そしてこの評伝が契機となって世界的な作家として認められていくのですが、そうなったのは『白鯨』が単なる海洋冒険譚ではなく、ひょっとすると、わたしが「余計な」と言った部分が含まれているからこそなのではないでしょうか。

 海について、鯨の群について、天空について、歴史について、ゆったりといろんなことを瞑想しながら、そしてとろーりともしながら、白鯨を大洋に追いかけけていく物語を少しずつ読み進んでいくと、たしかに、筋の展開をひたすら追いかけていく現代の活劇小説とは違った、古典的というべき世界がひろがっていきます。そしてその中で、話は単なる怪物退治を超えて、世界とは何か、善とは悪とは何か、白鯨が悪なのか、エイハブが悪なのか、神は白鯨なのか、それともエイハブに宿るのか、大きく広がっていずれともわからぬまま、壮絶な戦いの末、イシュメイルを除いてすべては大洋の中へ消えていきます。
 何者かはわからないが、たしかに巨大なものが世界に存在しており、それに戦いを挑んでいるものがいることを感じ、考えさせてくれる作品です。話の筋に「余計な」ものが加わることで、小説の柄が大きくなっているのです。名作とされる所以でしょう。

 この「余計な」ものに関して、池澤夏樹は『世界文学を読みほどく』(新潮選書、2005)の中で、『白鯨』はデータベースである、と言っています。データベースとは羅列であり、世界は樹木状のディレクトリとして認識できるような構造をもっていないとメルヴィルは言いたかったから、鯨百科の羅列があるのだ、新しすぎたのだというのです。
 これは白鯨=鯨百科の羅列=データベースという自分の思いつきに引きずられすぎのように思えます。メルヴィルはやはり世界のディレクトリ=構造をとらえたかったのでしょう。鯨をとおして、時間を、空間を、全体をとらえたかったのでしょう。それに成功しているとは言えませんが、なにかしらよくわからないものを感じさせてくれるところまでは行ったのではないでしょうか。

 あとは、白鯨モービー・ディックとはなんなのか、エイハブ船長とは誰なのか、という問があります。いろんな説があるようです。
 しかしこれについては、イシュメイルとは「創世記」のイシマエルに相当し「追放者」のイメージを負うとか、エイハブとは旧約「列王紀」のイスラエル王アハブのことである、と言われてもなんのことか見当もつかない、薄弱な知識しかないので、神だ悪魔だという話には、かかわらないことにします。
 モームもこう書いています。

 それにしても、『モウビー・ディック』が、そこにどのような寓意ないし象徴が託されていようといまいと、そんなことには少しも煩わされないで読むことが、しかも絶大な興味をもって読むことができるのは幸いである。(前掲書P106)

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 また、捕鯨についてあれこれ書いてあるのを読み、子供の頃、少年雑誌でよく捕鯨船団の紹介記事、キャッチャーボートの絵や写真を見たことを思い出しました。鯨の肉だけではなく、骨からヒゲや皮まで、いかに無駄なく有効に利用しているか、細かく図解されていました。プロ野球の大洋ホエールズは少々負けたところで、鯨を何頭か余計にとってくれば経営は大丈夫だ、なんて話もあったように思います。

 昔、ハワイでホエール・ウォッチングに参加したとき、ガイドの白人のおばさんが、今日ここで鯨に会ったことを一生忘れないでね、とか、聖なる動物に巡り会えたことを感謝しましょう、みたいなことをしゃべっていて、異様に感じたことを覚えています。
 こちとら子供の頃から鯨食って育ってるんだ。そんなあがめたてまつるようなもんかい。南国土佐の生まれじゃないけれど、おらんくの池にゃ潮吹く魚が泳ぎよるんじゃ。
 『白鯨』に書かれているような無駄の多い捕鯨をやって乱獲しておきながら、今頃勝手にあがめたてまつって、強硬に捕鯨に反対している国には、一席ぶちたくもなります。でもそれほどの知識があるわけでもないし、まして英語で、となると何も言えませんが。
 

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2009年7月 8日 (水)

川柳・円丈二人会

 前に三遊亭円丈の新作落語をナマで聞きたいと書きました(三遊亭円丈『御乱心』)。そうしたら横浜にぎわい座で「川柳・円丈二人会」があるというので、さっそく行きました。2009年7月4日(土)のことです。

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 チラシにあるとおり売り文句は「六代目三遊亭圓生譲りの古典&十八番新作競演」。

 川柳川柳(かわやなぎ・せんりゅう)は、もと三遊亭さん生と言って円丈の兄弟子だったが、圓生の落語協会脱退騒動のとき、いろいろあって協会に残ったため、圓生から名前を返せと言われ、川柳と改名した。Wikipediaによれば「自他共に認める「落語界の酒豪番付の“悪い方の”横綱」であり、その武勇伝は数知れない」そうです。

 円丈も川柳も、圓生に対しては複雑な思いがあるのでしょうが、その圓生の弟子だったことが今でも売り文句になっているのは、圓生という名前がそれほどのブランドだということです。川柳の弟子の「つくし」まで、「川柳(かわやなぎ)では誰も知らないので、落語家かどうかもわからない。だから「圓生の孫弟子です」と言ってます」と話してました。

 順番と演目は次のとおり。

 ・三遊亭玉々丈 「名古屋版金明竹」…関西弁のかわりに名古屋弁を使ったネタ。円丈が教えたのだろうが、名古屋弁がまだまだ。
 ・川柳&円丈&つくし「オープニングトーク」
 ・川柳つくし    「少子化対策」 …新作。少子化担当相が実績を上げるため子づくりに励む話。 テレビには絶対のせられない。
 ・三遊亭円丈   「居残り佐平治」…フランキー堺が映画『幕末太陽伝』で佐平治をやっていたのを思い出した。あの映画は傑作でした。           
 ・川柳川柳    「首屋」…話の前にメモを見ながらの差別用語漫談が中心。
 ~仲入り~
 ・三遊亭円丈   「夢一夜」…末期ガン患者が畳の上で死にたいと病院を抜け出して暴走する話。
・川柳川柳    「昭和の笑話(しょうわのしょうわ)」…昭和懐古の漫談。

 古典と新作の両方が聞けて、充実していました。
 川柳のは落語というより漫談ですが、昭和懐古の時代劇映画やテレビ初期の話。
 鞍馬天狗が追われて屋根から飛び降りると必ずそこには愛馬が待っている。新撰組はどうして馬に気づかないんだ。旗本退屈男の顔をかすめて矢文が飛んでくる。矢文なんか撃ってないで直接退屈男をねらえばいいのに、といった調子で、わたしはこの手の時代劇を見て育ったくちですから、そうだったそうだったとなつかしく思いながら、涙を出して笑いました。

 お目当ての円丈の新作落語は、とてもおもしろかった。やはりテレビで見るのとは違います。迫力があるし、テンポもいい。
 なるほど過激なストーリイで、桂米丸や三遊亭歌奴の明るくのほほんとした新作落語とはあきらかに違います。時代を画したというのが納得できました。

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2009年6月13日 (土)

『奇跡のリンゴ』

 『奇跡のリンゴ』を読みました。
 2006年12月に、NHKの「プロフェッショナル仕事の流儀」というテレビ番組で放映されて評判となった内容を基に、本にしたものだということです。

 内容をわかりやすく言うと、こうなります。

 絶対に不可能といわれてきたリンゴの無農薬栽培に挑み、長年の極貧生活と孤立を乗り越えて、遂に奇跡のリンゴを生み出した男の感動の物語!

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(石川琢司著、NHK「プロフェッショナル仕事の流儀」制作班監修『奇跡のリンゴ 「絶対不可能」を覆した農家 木村秋則の記録』、幻冬舎、2008)

 ※テレビは見ていませんが、NHKの番組紹介が下記URLにありました。
http://www.nhk.or.jp/professional/backnumber/061207/index.html

 ※YouTubeには、最初の3分ほどの映像がありました。
http://www.youtube.com/watch?v=DUcuaskVqw8

 読んでみると、なるほど感動的です。ライターが、盛り上げよう、感動させようと書いているのがよくわかって、ちょっと鼻につきますが、まあNHKのドキュメントの背景には重厚なクラシック音楽がつきものだからと思うことにしましょう。

 主人公の木村さんは、1978年頃から無農薬でのリンゴ栽培をめざし、殺虫剤のかわりに毎日リンゴの木から手で虫をとり、自然の堆肥を作って与え、雑草を刈り、害虫と病気を忌避できるものを探して、さまざまな食品-黒砂糖、胡椒、ニンニク、トウガラシ、味噌、酢…を散布して試し続けた。
 しかしリンゴは何年間も花を咲かせず、やがて貯えもなくなり、トラクター、自家用車からはじめて田んぼまで売り、一家七人の生活は窮乏した。1980年代のはじめ、日本中が豊かさを実感しはじめた頃、小さな娘三人には消しゴム一つを三つに切って渡した。まわりからは「カマドケシ」と呼ばれた。「竈消し」で、竈の火を消す=家を潰すという、津軽弁の最悪の渾名だという。
 すべてのリンゴ畑を無農薬にしてから六年目、1985年の夏、800本のリンゴの木は花も咲かず、半分近くが枯れ、死にかけていた。
 失敗の責任をとるために、死を決意して、木村さんはロープを手に、夜、岩木山に入った。そして、いざというとき、山のドングリの木が、月の光の下、美しいリンゴの木のように輝いているのを見た。農薬も何もなしに、雑草に囲まれ、たくさんの虫やカビや菌たちの中にいながら、きれいな葉を輝かせているのを見た。
 木村さんは、このとき、求めていたものが、この土の中にあるのではないかと気づいた。

「これだ、これだ、これが答えだとな。あの山中で、踊り出したい気分であったな。ほんとにバカだからさ、自分が何のために山を登って来たかも忘れて、ロープのことなんてすっかり忘れてよ、今度は駆け足で山を下りたわけだ。一刻も早く自分の畑の土の状態を見て、何をするか考えたかったからよ。下り坂だからな、一時間ちょっとで麓の畑まで下りたんでねえべか。それでも、夜中近くになっていたな。あんまり私の帰りが遅いもんで、美千子が子供を連れて畑まで様子を見に来ていたよ。心配していたんだろうけど、私があんまり意気揚々としているもんだから、狐につままれたような顔をしていたな」(p128)

 そして、リンゴ畑に大豆を蒔き、雑草を生やすなどして、土を山の土に近づけていくうちに、リンゴの木は少しずつ元気になり、すべての畑を無農薬にしてから八年目に、生き残っていた四〇〇本余りの木のうち一本の木に七つの花が咲き、二つのリンゴが実った。
 九年目には畑一面に花が咲いた。

 というわけで、めでたしめでたし、となります。

 このリンゴ、それほど大きくもなければ、見てくれがいいわけでもないが、ともかくおいしいのだそうです。ぜひ一度食べてみたいものです。子供の頃から、果物の中ではリンゴが一番好きでした。

 この本を読んで驚いたことが二つあります。
 一つは、木村さんがわたしより若いということ。1949(昭和24)年の生まれだそうです。
 表紙の写真をもう一度見てください。おとうさんよくがんばったね、と声をかけたくなるようないい写真ですが、この人がわたしより二つ若い。うーん、いろいろ考えてしまいました。

 もう一つは、木村さんが無農薬でリンゴを作ることを志したきっかけになったのが、偶然買ったという福岡正信さんの本だったことです。

表紙に稲の写真があって、本のいちばん最初のところに、『何もやらない、農薬も肥料も何も使わない農業』と書いてあった。ああ、こういう農業もあるのかなと。自分でやるやらないは別としてな、同じ百姓として、興味が湧いてきたのさ。それから何回、その本を読んだかわからない。本が磨り切れるほど読んだ。福岡正信さんの書いた『自然農法』という本でありました。(『奇跡のリンゴ』p50)

 おそらくこの本でしょう。この本ならわたしも同じ頃に読んでいるのです。

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(福岡正信『自然農法・わら一本の革命』、柏樹社、1975)

 違う本だったとしても、書かれていたことは同じでしょう。
 わたしの本は1978年4月発行の4版ですから、木村さんよりはちょっと後に読んだようですが、そんなに何年も違うことはなさそうです。わたしは、結婚したばかりの頃でした。
 農業をやりたかったとか、家庭菜園をやっていたというわけではありません。本屋で見つけて、おもしろそうだから買いました。
 読んでわたしも心ひかれました。なにしろ自然農法の四大原則は、「不耕起、無肥料、無農薬、無除草」だというんですから。
 しかし農業に手を出すどころか、その後、うちの奥さんのはじめた菜園もろくに手伝わず、多少の知識を仕入れただけで事足れりとしてしまったのでした。同じ頃に同じ本を読んで感心しても、このあたりが、木村さんのような、性格の過剰な人との大きな違いだと、あらためて感じ入りました。
 ただ現在、南房総で、うちの奥さんの畑の手伝いをしているのには、多少、この本の影響があるのかもしれません。 

 福岡正信さんは、この後も自然農法を一途に追求し、「無為自然」という老荘思想のような道にたどりついたようで、本当に仙人のようになりました。下のDVDブックは2004年、91歳のときの映像が収録されています。このときはまだ元気でしたが、2008年8月に亡くなられたそうです。合掌。

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(福岡正信『自然農法・福岡正信の世界』、春秋社、2005)

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2009年6月 6日 (土)

三遊亭円丈『御乱心』

 先日の朝日新聞に「あのとき落語が変わった」という、こんな記事がのっていました。

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2009(平成21)年5月30日、朝日、朝刊

 三遊亭円生の落語協会分裂騒動(1978(昭和53)年)がきっかけとなって、弟子の三遊亭円丈の「奇才」が花開き、新しい創作落語の道が開けた。これに春風亭昇太、柳家喬太郎などが続き、上方の桂三枝にも影響を与えた、というものです。

 円丈は名古屋出身の落語家というくらいしか知りませんでしたが、たまたま去年の9月28日、浜離宮朝日小ホールで、対談を聞きました。
 ラジオデイズ一周年記念特別対談三連発『本日、戦後表現者論でご機嫌を伺います。』という催しです。内容は次のとおり

「この人の声が聴きたい。今、最もブッキング困難な役者を揃えて、対談・放談・漫談の三題噺。編集不能の危険なライブトークが炸裂する。」
 第一部 戦後落語家論  三遊亭円丈+本田久作
 第二部 戦後詩人論    高橋源一郎+小池昌代
 第三部 戦後マンガ家論 養老孟司+内田樹

 最近のお気に入り、第三部の内田樹と養老孟司が目当てで行きました。
 その第一部 の案内がこれ。

三遊亭円生の高弟にして、現代落語の旗手をつとめてきた三遊亭円丈。「円丈以前と円丈以後」の言葉があるとおり、三遊亭円丈の出現はひとつの革命であった。そこに、落語台本の賞を総なめにしている若き落語作家本田久作がからむ。落語ファン待望の(というよりは仰天の)新作落語黎明期の真相話が炸裂。大丈夫か。

 新作落語について「円丈以前と円丈以後という言葉があるのをはじめて知りました。
 対談相手の落語作家だという本田久作は酒を飲んでいて話がメロメロ、しょうもない奴でしたが、円丈はさすがにおもしろく聞かせました。ただ新作落語黎明期の話というより、協会分裂騒動当時の内幕話が中心でした。
 その頃ちょうど真打ちになったばかりで、寄席へ出たくてしょうがなかった円丈は、協会に戻りたいと円生に言ったら、「恩知らず」とさんざんののしられ辛かった。これで円生との間に溝ができてしまった。みんな裏で画策した兄弟子の円楽が悪い。そのうち円楽と円生の仲がおかしくなって、とうとう円生が急死してしまった…というような話です。

 本にも書いたというので、さっそく買って読んでみたのがこの本。
 『御乱心-落語協会分裂と、円生とその弟子たち』(三遊亭円丈、主婦の友社、1986)

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 副題のとおり、分裂当時の自分の体験談がこまかく書かれ、やっぱり、円生をそそのかした円楽が悪いんだという話になっています。おもしろい本でした。

 この手の話は、一方の言い分だけ聞いていてはいけないのですが、円楽は、この本に対し何の反論もしなかったそうで、ウィキペディアの「御乱心」の項には、こう書いてあります。

1986年の発刊当時、この本は暴露本の一種として世間を賑わせたものの、肝心の圓楽側からは圓丈の期待をある意味で完全に裏切る反応が返ってきた。圓楽側は反論や名誉毀損など訴訟などの行動を一切行わないどころか、むしろ逆にこの本の内容について「真実」と言い切ってしまったのである。やる気満々であった圓丈側としてみれば、物の見事に肩透かしを食らった格好になってしまった。この時点で暴露本としての存在意義が事実上形骸化してしまい、単に圓楽を否定的に描いてみせただけの実録小説になってしまった。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E4%B9%B1%E5%BF%83_%E8%90%BD%E8%AA%9E%E5%8D%94%E4%BC%9A%E5%88%86%E8%A3%82%E3%81%A8%E3%80%81%E5%86%86%E7%94%9F%E3%81%A8%E3%81%9D%E3%81%AE%E5%BC%9F%E5%AD%90%E3%81%9F%E3%81%A1

 それで、こんな本ものぞいてみました。
 『聞書き・寄席末広亭』(席主北村銀太郎述、冨田均、少年社、1980)。

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 末広亭の北村銀太郎は、『御乱心』には「怖い物なしの円生にとって唯一、頭の上がらなかった人」(p164)と書かれ、また、席亭会議では、北村銀太郎の鶴の一声で、分裂を認めないことが決定したとも書かれています(p139)。

 『聞書き・寄席末広亭』で、そのあたりを当たってみると、こんなふうに書いてあります。

 まあ、あの脱会騒動もね、円生さん次第だつたんだよ。彼が垣根をこさへて、その外だけでやらうとしてゐたからね、うまくゆかないわけだよ。そんなことぢゃ、人はついてこないもの。あんときだつてもう少しで成功するといふところまで行つたんだけど、それが一日、二日でふられちやふつていふのは円生さんの側に多少なりとも問題があるからなんだ。
 事前にあの人が私んところへ来て、今度かうしますから、よろしくつて、会員の名簿を見せてくれたんだけど、それ見たらなかなかいいメンバーだつたから、私もやれるもんならやらしてみたい、また私もやつてみようつていふ気があつたんだけど、いかにも浅いんだ、メンバーの底が。一人欠けたら、ぐんと落ちてしまふやうぢや困るわけだよ。鈴本は承知したんだけど、私だけがウンと言わなかつた。メンバーをもう少しふやして底を厚くしてくれれば、新しい会としてこつちだつて認めようと思つたんだが、円生さんが自腹を切らないんぢや仕様がねえよ。あんとき、うちと鈴本の両方が認めれば、うまく行つたんだけど。(P44~45)

 円生側が力量不足で、見通しが甘かったということでしょうか。
  円生が脱会したのは、年数さえたてば多少下手でも真打ちに昇進させるというやり方に異を立てたからでしたが、席亭の方は、そんなことより、協会が三つになって、交代で興業がうまくうてるようなら認めてやってもいい、ということですから、まるで立場が違います。

 この後の円生の死について、こう書いてあるのには思わず声を出して笑ってしまいました。

だけど。あの人も運の悪い日に死んだもんだよ。パンダの死んだ日だもん。よりによつてそんな日に死ぬこたあねえんだ。新聞見たつてパンダの扱ひの方がずつと大きいしね。テレビのニュースもパンダを長々とやつたあと、あの人がちょつと出てくる。パンダが終わつたから、今度あの人が映るなつて思つてると、決まつて映るんだもん。パンダが真打ちで、円生さんは前座並みの扱ひだよ。一日ずらしやあよかつたんだ、前か後に。そのくらゐの芸を見せたつてよかつたのにさ。あのくらゐの芸をもつてれば、そのくらゐ出来ただらうに。それとも、その程度の芸も出来ないほど弱つちゃつてたのかな。(P49)

 いくら名人円生でも、死ぬ日をずらすわけにはいかなかったでしょうし、なによりパンダが同じ日に死ぬことまでは見通せません。

 円生死後、協会に復帰した円丈は、入門する前からやりたかった新作一本に賭け、そして新境地を開いた、というわけです。
 でも、これらの本を読んだ後、去年の秋に教育テレビの「日本の話芸」で見た、円丈の「東京足立伝説」は、期待していたほどは笑えませんでした。一度、ナマで聞かないといけません。

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2009年6月 3日 (水)

井上ひさしと渡部昇一

 井上ひさしが上智大学の学生時代、当時大学の図書館で働いていた渡部昇一に腹を立てて悪さをしかけたという話。そこそこ知られている話のようですが、わたしは最近知りました。驚いて、以前読んだ本をひっくり返して確認してみました。

 井上ひさしの『本の運命』(新潮文庫、2000)と渡部昇一の『知的生活の方法』(講談社現代新書、1976)。
 『本の運命』は単行本が1997年だから十年くらい前、『知的生活の方法』は、これがベストセラーになったころだから三十年以上も前に読んでいます。読んだ時間が離れすぎているから、この二つを結びつけて考えることはできませんでした。

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 井上ひさしは、『本の運命』にこう書いています。

 もちろん大学には図書館がありました。釜石で感激してますから、ここも通いつめた。ところが、この上智大学図書館がひどかった。
 夜八時まで開いているんですけど、借りた本はそれまでに必ず返さなければいけない。返さないとバツ印がついて、次から借りられなくなる。ところが、こっちもアルバイトの都合やなんかで、そう時間通りにはいかない。遅れまいと必死で走っていくんですが、館員に厳格な人がいて、一秒でも過ぎると返却を受け付けてくれないんです。「これ受け取ってくれないと次の本借りられないんだ」って言うと、「いや、だめだ、規則だから」の一点張りで、融通が利かないんですね。八時ちょうどに鎧戸を下ろしはじめるので、下に足を突っ込んで何とか隙間から本を返そうとするんですが、逆に足を蹴飛ばされたり──(笑)。
 この館員に怒ってる学生がたくさんいたんです。そこで、みんなで「よし、あいつに一度、泡を吹かしてやろう」と相談一決、大学図書館が一番大事にしている本を盗んでしまおうということになった。(P113~114)

 渡部昇一の『知的生活の方法』を見ます。

 この、空間に苦しめられた(注:本の置き場に困ったということ)私が、二年間ばかり、異常な幸運に恵まれたことがある。それは海外留学から帰ってきた直後のことであった。留学中も同じく衣食を節して本を買ったのであるが、当時、東京には置くところがないので、大学宛に送った。そして帰ってくると上智大学の講師になり、志願して図書館の住込み宿直員になった。図書館のまだ空いているところに私の本を置いてもらい、同じ建物の中の夜警宿直者用の小部屋に住まわせてもらうことになったのである。普通の日は図書館は七時ころまでには閉まる。私は窓が全部閉まっているかどうか、三階建ての建物を見廻る。そして鍵をおろす。するとこの建物は私の城となった。正確に言えば、この建物にはもう一つの宿直室があり、若い哲学の研究者が住んでいたから、私たち二人の城となったと言うべきであろう。彼も読書家で議論好きで、しかも音楽に詳しかった。われわれは安物のステレオを廊下に出して、ベートーベンをかけたりした。三階までふき抜けになっている図書館の階段下のホールで、それは壮大な音楽となった。また、考えごとをするときは、真夜中の図書館を一人こつこつと歩くのである。なんという贅沢であったろう。(P97~98)

 ここのところ、一度くらいはこういう環境ですごしてみたいと、うらやましく思ったものでした。 この渡部が、厳格で融通のきかないわからずやの図書館員だったとは。

 井上は友人たちと、渡部が当番のときに、ガラスケースに入っていた貴重書を盗み出し、神田で売り払って、その頃流行していた「なんでも十円寿司」で腹いっぱい食べた。

 後で彼はすごく叱られたという噂を聞いて、溜飲を下げましたが、後日談を言いますと、彼はのちに有名な評論家になられました(笑)。(『本の運命』P115)

 というわけです。

 小役人風の杓子定規な対応はいけませんが、だからといって腹いせに本を盗んで売り払ってしまうというのは、今考えるとずいぶん乱暴な話です。1960(昭和35)年頃の話のようですが、実際に当時の若者は、これくらいのことは平気でやっていたのでしょうか。
 1960年は、わたしの中学入学の年です。若い体育の先生が、これに類する学生時代の武勇伝を話してくれたのを、尊敬とあこがれのまなざしで聞いたものでした。だから、井上の話にも武勇伝として多少の誇張があるかもしれませんが、戦後の焼跡・闇市の名残というか、これくらいやってしかるべきという気風はあったのでしょう。

 まあ、井上ひさしと渡部昇一では、若い頃から意見があったとは思えません。

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2009年5月11日 (月)

有島武郎『或る女』

 有島武郎『或る女』(筑摩書房『現代文学大系22 有島武郎集』1964)を読みました。読書会酣(たけなわ)、5月9日の会の課題図書です。

 新潮文庫版『或る女』の裏表紙のうたい文句は次のとおり。

美貌で才気溢れる早月葉子は、従軍記者として名をはせた詩人・木部と恋愛結婚するが、2カ月で離婚。その後、婚約者・木村の待つアメリカへと渡る船中で、事務長・倉地のたくましい魅力の虜となり、そのまま帰国してしまう。個性を抑圧する社会道徳に反抗し、不羈奔放に生き通そうとして、むなしく敗れた一人の女性の激情と運命を描きつくした、リアリズム文学の最高傑作のひとつ。

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左:新潮文庫、右:筑摩現代文学大系

 この小説は、封建時代の旧習にとらわれた社会の圧力に抵抗して、自分らしい自分、新しい女の生き方を求めて果たし得なかった女の悲劇を描いた名作、ということになっているようです。

 而して生れ代わった積りで米国の社会に這入り込んで、自分が見付けあぐねてゐた自分といふものを、探り出して見よう。女といふものが日本とは違って考へられてゐるらしい米国で、女としての自分がどんな位置に坐る事が出来るか試して見よう。自分は如何しても生るべきでない時代に、生るべきでない処に生れて来たのだ。自分の生るべき時代と処とはどこか別にある。そこでは自分は女王の座になほつても恥かしくない程の力を持つ事が出来る筈なのだ。生きてゐる中にそこを探し出したい。(十六章、筑摩書房『現代文学大系22 有島武郎集』P89)

 ここを読んだときには、これは昨今はやりの「自分さがしの旅」の嚆矢であったのか、とちょっと驚きました。
 この小説が発表された頃、明治の終わりから大正にかけてが、社会が悪い、時代が悪いという思想を発見した時代ということになるのでしょうか。樋口一葉のあの恵まれない登場人物たちは、社会や時代が悪いなどとは考えてもみなかったでしょうけれど、本編の主人公葉子は、はっきりと時代と社会の圧力を感じています。
 事前に上のような「あらすじ」は読んでいなかったので、米国でどういう生活がはじまるのか期待をもって読み進めると、船中で事務長倉地と恋に落ちた葉子は、シヤトルに着きながら病気と称して船から降りず、なんとそのまま日本に帰ってしまいます。

 この日本へ帰って来るまでが前編で、これにはモデルとなる人物と事件がありました。
 主人公のモデルは佐々城(ささき)信子という女性で、「日本キリスト教女性史(人物編)」というホームページには、「佐々城信子(ノブ) 明治11年(1878)7月20日~昭和24年(1949)9月22日」と題して、次のように書かれています。

 (明治)34年9月、親戚会議でアメリカに追いやられる羽目になって、森広と結婚するために渡米の途に着いた。乗船した鎌倉丸の事務長・武井勘三郎と恋に落ち、アメリカに上陸せずに帰国した。同船していた鳩山春子はスキャンダルとして新聞に告発したと言われている。

 このことで武井は日本郵船を辞めた。武井の妻は勘三郎との離婚を承知しなかったために信子と勘三郎は制度上の夫婦にはなれなかった。勘三郎との間に一女瑠璃子が生まれた。

 大正10年(1921)2月に勘三郎と死別した。同14年(1925)、末の妹が病弱だったため栃木県真岡に移住した。真岡の自宅で日曜学校を開き、聖書と讃美歌を教えた。

 72歳で死去し、真岡市海潮寺に葬られた。
http://www5e.biglobe.ne.jp/~BCM27946/sasakinobuko.html

 結婚する予定だった森広が有島武郎の友人。スキャンダルを告発した鳩山春子は、鳩山一族の始祖というべき鳩山和夫の妻にして共立女子大の創立者で鳩山一郎の母。由紀夫・邦夫兄弟の曾祖母です。ついでに書いておくと信子の前夫は国木田独歩。

 当時の報知新聞に「鎌倉丸の艶聞」と題して報じられたそうです。1901(明治34)年のこの事件を、有島武郎はわずか十年後の1911(明治44)年に、まず『或る女のグリンプス』と題して「白樺」に発表しています。これが『或る女』前編に相当する部分で、1919(大正8)年に『或る女』前編、後編が刊行されました。

 読む人は誰のことを書いているのかわかっただろうし、当人たちはまだ生存していたわけですから、この小説は、プライバシーだ人権だとうるさい現在から見れば、ずいぶんとんでもない乱暴なものだということになりますが、当時、そういうことは問題にならなかったのでしょうか。
 加賀乙彦は、新潮文庫版『或る女』の解説に、小説を読むのにモデルの詮索は無用、モデルさがしは虚しいと書いています。今のわれわれが読む分にはそのとおりだけれど、書かれた本人たちや関係者の受けとめ方はどうだったのか、一般の読者がどのように読んでいたのか気になります。新聞記事の現物も読んでみたいところです。

 後編は帰国後の話になります。
 世間の誹謗中傷に抵抗して葉子は、日本郵船を辞めさせられた倉地と愛の巣を構え、自分を貫こうとしますが、根がわがままで贅沢なうえ、妹二人を引き取ったことで、倉地への嫉妬から生じる疑心暗鬼も生じ、生活は次第に重苦しいものになっていきます。倉地は金のために法に触れる仕事に手を出し、やがて追われるようになって姿を消します。病を得た葉子は、ひとり貧しい病院の一室で息を引き取ります。

 これは最後まで添い遂げたモデルたちとは違った話になっていて、その意味では加賀乙彦の言うようにモデルの詮索は無用ですが、古い道徳にとらわれない、自分の欲するところを偽らずに行動するという主張が、地に足のついた生活にならず、ただ愛欲に溺れる、表現はずっと控えめですが、渡辺淳一の小説のような話になっていきます。読んだことがないのに渡辺淳一の『失楽園』を思い出したのは、有島武郎の情死事件があるからでしょう。(注1)

 これを自分たちの生活にひきつけて考えられては、モデルたちはたまらないと思うのですが、不義者、駆落者は何を言われてもしょうがないという時代だったのでしょうか。有島は自分を、葉子の誘惑にも屈しない堅物のまじめな男として登場させていますが、モデルたちについて、どういう感情をいだいていたのでしょうか。
 百年前の小説のモデルのことを今さら気にしてもしょうがないのですが、なぜか気になります。

 小説としてはおもしろくて、ぐいぐい読ませます。文章がわかりやすくて、その場の状況がよくわかり、葉子の内心の独白も、その揺らいでいるさまなどよくあらわれています。
 帰国した明くる日、横浜の紅葉坂の旅館から坂を下りて停車場、税関から県庁、グランドホテルへと葉子が歩く情景が、わたしには馴染みのあるコースだけに印象的でした。しかし実際にこれだけ歩くとけっこうあります。病弱な葉子が何とも思わず往復歩いてるくらいですから、昔の人はよほど歩いたものとみえます。
 有島武郎でまず思い出すのは『一房の葡萄』です。小学生の時でしょうか、道徳の副読本のようなもので読んだ記憶があります。わたしには縁の薄い、お金持ちの子供が横浜の山手の外人さんの学校に通っているという、うまく想像がつかないけれど、なんだか甘ったるい、うらやましいような世界の話でした。これが横浜という街に思いをはせたはじめだったような気がします。

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ほるぷの復刻本

 ひとつ不満だったのは、事務長の倉地がどういう人間なのかよくわからないこと。ただ頑丈な身体をしていたというだけで、それ以上、葉子を虜にするなにがあったのかさっぱりわかりません。たくましさの他には何もなかったとも書いてないのです。
 最近聞かなくなりましたが、昔、インテリの肉体コンプレックスということが言われていました、三島由紀夫のボディビルはそのせいだとか。その手の話と、有島の、人間には習性的、知的、本能的の三段階があり、第三の本能的生活にこそ真の自由があるという考え方(『惜みなく愛は奪ふ』)が結びついたものでしょうか。
 肉体云々という話でいくと、『或る女』は1919年ですから、1928年の『チャタレイ夫人の恋人』に先行しています。有島えらい。

 しかし日本郵船のアメリカ定期航路、当時の豪華客船の高級船員ですから、野性の男というだけではなかったはずです。同じ有島の『カインの末裔』の主人公、粗暴な農夫広岡仁右衛門とはあきらかに違います。それでも有島のような当時の上流階級からみれば、船員などしょせん車夫馬丁の仲間だくらいの意識があったのでしょうか。
 そういえば昔、映画や歌謡曲にマドロスものというジャンルがありました。「海の男」は今でも人気があります。うーん、ひょっとして『或る女』は、本邦マドロスもののはじまりなのだろうか。

 また、新しい女を書きたかったのなら、先にも引用したように、せっかく「生れ代わった積りで米国の社会に這入り込んで、自分が見付けあぐねてゐた自分といふものを、探り出して見よう。女といふものが日本とは違って考へられてゐるらしい米国で、女としての自分がどんな位置にどんな位置に坐る事が出来るか試して見よう。」と葉子に言わせたのだから、本当にアメリカへ行った話を書けばよかったのにとも思います。
 わたしの最初の期待どおり、帰国せずにアメリカの男を手玉にとってアメリカで生きていくというストーリーにしていたら、もっとおもしろかったんじゃないでしょうか。新しい女らしくわざわざ英語でタクトといいながら、葉子のそのタクト(手練手管のことらしい)の内実は、色気と癇癪に泣き落としという、伝統の「女の武器」が中心なのがちょっと気になりますが、当時のアメリカの男だって、これには弱かったことでしょう。

(注1) この文章を書いたときには気づきませんでしたが、ウィキペディアによれば、渡辺の『失楽園』は「有島武郎の心中事件をモチーフとして」いるそうです。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%B1%E6%A5%BD%E5%9C%92_(%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E6%B7%B3%E4%B8%80)
 わたしが渡辺淳一を連想したのは、記憶には残っていなかったけれど、この小説や映画が騒がれていた頃に有島の話も目にしていて、それを無意識に思い出したのかもしれません。(09/05/14、追記)

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2009年5月 2日 (土)

米原万里そしてロシア展

 4月29日(水)、大船にある鎌倉芸術館で「米原万里そしてロシア展」を見てきました。

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 一部屋だけの、こじんまりした展示でしたが、子供の頃の写真や、メモ帳など興味深いものがありました。

 この人の、『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』には驚かされました。なるほど東欧というのはこういうところなのか、共産党の高級幹部の子弟にはこういう生活があったのか、目を見開かれる思いでした。
 抱腹絶倒の下ネタエッセイもいいけれど、もっとこういう本を書いてほしかったなと、亡くなられたことを残念に思います。

 一度、たしかJR藤沢駅のホームですれちがったことがあります。向こうから歩いてくる元気そうなおばさん、どうも見たことがある、知り合いの町内会長さんだったかな、ともかくあいさつしておこう、と思ったところで気がつきました。
 間違えなくてよかったけれど、間違えていれば、それはそれでおもしろかったかもしれません。

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2009年4月21日 (火)

野村万作・萬斎 狂言の現在2009

 4月15日(水)、横浜の関内ホールで狂言を見ました。
 「野村万作・萬斎 狂言の現在2009」

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 一階席の最後列、28列はさすがに遠くて、役者の顔がよく判別できませんでした。
 演目などは、次のとおり。(上のパンフレットより)

レクチャートーク …野村萬斎

鈍太郎(どんたろう) 
   
鈍太郎:野村万作、下京の妻:深田博治、上京の女:竹山悠樹

 三年ぶりに九州の旅から都へ戻った鈍太郎は、下京の本妻と上京の愛人のもとを訪れるが、二人とも本当の鈍太郎と思わず、戸を開けようともしない。悲観した鈍太郎が出家して修行の旅に出ようとすると、本物と知った女二人が駆けつけ、出家を思いとどまるように頼みこむが、鈍太郎はなかなか承知せず、ますます懸命に詫びて引き止める二人の、虫の良い条件を突きつけてみると…。
 本妻と愛人の対照など、中世の人情、風俗の反映も鮮やかな、女狂言の傑作。

木六駄(きろくだ)
   太郎冠者:野村萬斎、主:高野和憲、茶屋:石田幸雄、伯父:野村万之介

 六頭の牛に薪を、六頭の牛に炭を積み、酒樽を添えて都に届けよと命じられた太郎冠者。大雪の中、思うように動かない十二頭の牛を追いながら山道を急ぎ、ようやく峠の茶屋にたどり着くが、お目当ての酒がない。つい届け物の酒樽に手をつけて、上機嫌で謡い舞ううち、すっかり飲み干してしまい、酔ったあげくに、薪を茶屋にくれてやり、炭を積んだ六頭の牛を連れて、主人の伯父を訪ねるが…。
 ムチ一本で十二頭の牛を描き出す至難の技、また鶉舞など見所たっぷり。目に見えない牛の姿をいかに浮かびあがらせ、何頭見せることが出来るか…歴代の名人上手の様々な伝説に包まれた珠玉の名作に、劇場公演ならではの様々な工夫を凝らして、萬斎が挑む。

 萬斎が、レクチャートークで「「鈍太郎」は、ピンクのヘルメットをかぶった人達(中ピ連)が活躍していた頃には上演できませんでした」と言っていました。
 狂言の解説に中ピ連が出てくるとは。でも中ピ連がうるさかったのは1970年代のことだから、66年生まれの萬斎はその頃まだ小学生だったはずで、事情をわかっていたとは思えない。テレビでピンクのヘルメットを見た記憶くらいはあるんでしょうね。
 上の解説にもあるように、男が妻と愛人の二人に勝手なことを言って悦にいるという話なので、今だってフェミニストは怒るんじゃないかと思いますが、まあ他愛もない話です。
 最後には、妻と愛人の二人に手車を作らせて(二人向き合って手を組ませて)、それに乗っかって意気揚々とわが家に凱旋します。そのときの囃し文句、「これは誰が手車」「鈍太郎殿の手車」が何度も繰り返されるので、
「これはーたーれがてーぐるまー」
「どんだろどーののてーぐるまー」
が頭について離れなくなりました。ちょっと前に『崖の上のポニョ』の、「ポーニョポニョポニョさかなのこー…」が頭から離れなくなったとうちの次男が言っていたことがありましたが、休憩中しばらく、「どんだろどーのの…」が頭の中をまわっていました。

 「木六駄」は、「目に見えない牛の姿をいかに浮かびあがらせ」るかが見所ということですが、残念ながら何頭もの牛の姿は見えなかったように思います。
 こちらの最後は、薪を届けず、酒を飲んでしまった不届きな太郎冠者を「やるまいぞやるまいぞ、やるまいぞやるまいぞ」と追いかける、狂言にはよくある終わり方です。
 今更ですが、なるほどこれが、吉本新喜劇やドリフターズの最後のシーン、話をぶちこわしてしまった道化役=志村けんや加藤茶をいかりや長介が追い回して幕となるシーンの原型なのだと思い当たりました。

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2009年4月14日 (火)

いたち川散策

 4月4日、5日の土日の横浜は絶好のお花見日和になりました。どこも満開です。
 うちは横浜市港南区なのですが、うちの奥さん曰く、近所の奥さんが「港南区より、隣の栄区の桜の方がきれいだ」と言っていたそうです。それは聞き捨てならない、港南区の桜が負けているわけはないじゃないか、とは言うものの、5日、実地見聞に栄区の「いたち川プロムナード」へ行ってみました。
 歩くには遠い、車は停めるところに困るし、停めたところまで戻らないといけなくなるので自転車で出かけました。

 栄区というのは二十数年前に戸塚区から分区してできた区で、鎌倉市の北に位置していて、区役所のある本郷台駅の一つ隣が大船駅になります。

 なるほど、桜と、柳の緑の対比がきれいです。

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 なかなかのものであることは認めておきましょう。

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 プロムナードを通り過ぎて、いたち川を上郷方面へさかのぼってみました。

 この「いたち川」は、漢字では下の写真のように書きます。
 抽出の抽の字に似ていますが、「けものへんに由」です。この字は通常の漢和辞典には載っていません。当然JIS漢字にもありません。
 「鼬(いたち)」という字が複雑なので、左側をけものへんで代用した略字が広まったものかと思っていましたが、Wikipediaには『康煕字典』に載っているとあります。中国古来の字なのでしょうか

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 名称のそもそもは動物のイタチからではなく、このあたりに鎌倉の出入り口の宿駅があって、「出で立ち」川から来たと言われています。
 『徒然草』の吉田兼好の「兼好法師集」には

「相模国いたち河という所にてここの名を句の上にすえて旅の心を」と題して

かにわが ちにしひより りのきて ぜだにねやを らはざるらん
 (旅をしていいる間の寝部屋に溜まった塵は風で掃かれることもない)

http://www004.upp.so-net.ne.jp/cipot/index.html
http://www.city.yokohama.jp/me/sakae/sogo/rekishi/reki_11.html
 参照

と詠まれているということですから、鎌倉時代からの地名です。
 近くには、源頼朝建立といわれる証菩提寺(しょうぼだいじ)もあります。ここの桜もきれいでした。

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 このあたりの川辺を行くと、カメラマンが数人、三脚に筒の長い望遠レンズを据えて構えている場所がありました。

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 川には白い鳥がいます。コサギだそうです。でもカメラマンたちはコサギには興味ありません。

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 中の一人に聞いてみると、なんと、みんなカワセミが来るのを待っているのだそうです。話を聞いて、写真を見せてもらっているうちに、「あ、来たようです」の声。

 川の上に突き出た枝の上に青い鳥が。

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 思ったより小さな鳥なんですね。青色があざやかです。これは思わぬ眼福を得ました。

 帰る途中、近所の港南区の桜も見ました。桜はともかく、鳥では港南区が負けているかもしれません。

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2009年3月21日 (土)

春のうららの

 墓まいりをすませてから、天気もいいので、隅田川まで行ってみることにしました。
 首都高速から何度か桜が咲いている土手を見下ろしたことがあって、ちゃんと花見に行ってみたいと思っていたので、花にはちょっと早いけれど、ぶらぶら土手を歩いて言問橋方面へ向かいました。

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 この日は気温が二十度をこえる暖かさで、春のうららの隅田川ですが、こんなところもあちこちに…

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 花はやはり、まだです。あと一週間でしょうか。

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 でも柳は緑、ハクモクレンは花盛りでした。

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 言問橋までせっせと歩いて、ここまで来たら言問団子を食べなければと、団子屋の場所をたずねつつ行くと、なんと通り過ぎてきた桜橋まで戻るのでした。言問団子がどうして言問橋じゃなくて桜橋のたもとにあるんだ、と怒りたくなりましたが、桜橋は十年前にできた新しい橋で、しかも言問団子から「言問」という地名がついたのだそうで、団子屋さんの方がえらいのでした。ごめんなさい。
 団子屋さんの名前は、在原業平の有名な歌

名にしおはばいざ言問はん都鳥
我が思ふ人はありやなしやと

からとったもので、業平がこの歌をよんだのが、隅田川のこのあたりだといいます。 

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 団子は三色、おいしくいただきました。

 道路をへだてて斜め向かいの、長命寺の桜餅も有名だそうで、こちらはみやげに買いました。

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 帰り道、待乳山聖天(まっちやましょうてん)へも寄りました。

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 浅草界隈ですから、あちこち見るところはいっぱいあるのですが、さすがに歩き疲れたので、もうやめてバスに乗って上野まで出て、アメ横でカニを買って帰りました。

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2009年3月20日 (金)

彼岸の墓まいり

 昨日(3月19日)、うちの奥さんの父母の墓参りに行ってきました。墓は荒川区のお寺にあって、JR南千住駅から歩いて五分くらいのところです。

 南千住の駅から、シャッター通り化しているように見えるこの商店街を通っていきます。この名前がめずらしい。「コツ通り商店街」と言います。
 名前の由来は、江戸時代の小塚原刑場がこのあたりにあったので「小塚原(こつかっぱら)」から「コツ」になった。あるいはそのものずばり、骨(こつ)からきたという説もあるようです。

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 刑死者を供養するために建てられたのがこれ、南千住回向院(=小塚原回向院)です。両国回向院(=本所回向院)の別院で、小塚原刑場もこのあたりにあったそうです。

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 目的のお寺は、回向院とは方角がちょっとちがいます。これが、墓地の入口、右はお寺の本堂です。

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 都会の墓地なので通路が狭い。一人通るのがやっとです。

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 おまいりしてまいりました。

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2009年3月11日 (水)

台湾台東のレストラン

 友人が台湾でやっているレストランがあります。
 それが大台湾旅行ネット(大台灣旅遊網 http://jp.travel-web.com.tw/) に紹介されたという連絡がありましたので、ここでも紹介します。

 「福爾摩沙(フォルモサ)」という名前で、日式西餐=日本式西洋料理の店。下の地図の右下にある台東県の台東市にあります。

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http://jp.travel-web.com.tw/Show/Style201/News/c1_News.asp?SItemId=0271030&ProgramNo=A000201000001&SubjectNo=67433&CityId=20taiawnn

 上の記事に「主に和食と洋食を中心としてウーロンラーメン、豚カツ、牛丼とスパゲティなど」と書いてあるので、いったいどういう店か心配になる方もいらっしゃるかもしれません。台湾の人の嗜好にあわせるため、あれこれ工夫していろんなものを作っているようですが、ちゃんとした味であることは保証します。

 台湾へは行っても、台東まで行く人は少ないけれど、のんびりしたいいところです。近くには知本温泉という有名な温泉もあります。もし台東まで足をのばすことがありましたら、このレストランにもぜひお立ち寄りください。

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2009年3月 9日 (月)

元禄忠臣蔵

 一昨日(三月七日)、歌舞伎座へ行ってきました。
  建て替えのため四月までさよなら公演というので、あわてて演目も見ずに切符を買ったら、なんと来年の四月まで十六カ月もさよなら公演は続くのだそうで、なにもあわてることはありませんでした。

 出し物は真山青果の「元禄忠臣蔵」。見たのは夜の部で、「南部坂雪の別れ」、「仙石屋敷」、「大石最後の一日」。大石内蔵助を市川団十郎、片岡仁左衛門、松本幸四郎がそれぞれ演じ、「南部坂雪の別れ」では瑶泉院を人間国宝中村芝翫という豪華な顔ぶれでした。

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 おもしろく楽しんできましたが、ちょっと気になったのは「南部坂雪の別れ」最後の場面、内蔵助の真意を知った瑶泉院が屋敷から見送るところ。道路に面した窓から瑶泉院が顔を出して、ということなのですが、武家屋敷の囲いにあんな窓があるものか、吉原の張見世じゃあるまいし、と感じました。
 まあ歌舞伎のご都合主義は毎度のことで、なんでもありですから細かいことを言い出すときりがないようですが、この場面はなんだかおかしな絵に見えました。せっかくの芝翫と団十郎なのに。

 おかしいといえば、「大石最後の一日」も。おみのという、義士の一人礒貝十郎左衛門と結婚の約束をしていた娘が男装して、内蔵助に十郎左衛門に会わせてくれとせまる。十郎左衛門の心を確認したおみのは喜びながら、切腹の場に向かう十郎左衛門を見送って、いつわって屋敷内に潜入したおわびにと腹を切って死にます。
 おみのが、なんで腹を切らないといけないのか、これは外国の人にはわけがわからないのではないのでしょうか。男装の潜入は微罪で情状酌量の余地が大きい、男の気持ちは確かめられた、しかも年とって病気の父親さえ残っているというのに。
 わたしにもいまいち唐突な感じはしますが、それでもなんとなく心根のあわれさ、いじらしさみたいなものや、話全体の流れを感じて、わかってしまうところがあります。欧米人に説明を求められたらうまく説明できそうにないので、日本の芝居ではこういうとき死ぬことになってるんだ、とでも言うしかありません。
 ちなみに、おみのを演じた中村福助はとてもきれいでした。

 前に『パルムの僧院』の読後感で、 ヒロインのクレリアが、永遠に主人公ファブリスを見ないという誓いを守るため、闇の中で密会したという話が、わたしには納得できないと書きましたが、これは現実にありうる話かどうかはともかく、きっと欧米人にはなんとなくわかる話なんでしょうね。おみのの腹切りはわからなくても。

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2009年2月13日 (金)

『パルムの僧院』

 スタンダール『パルムの僧院』(大岡昇平訳、中央公論社「世界の文学9」、1965)を読みました。
 高校生のとき『赤と黒』を読んでおもしろくなかったので、スタンダールの他の作品は読んでいませんでした。それを突然読むことになったのは、同業の二十世紀文庫さんhttp://homepage2.nifty.com/20seiki/ が主催している読書会酣(たけなわ)の課題図書になったからです。
 この読書会には、声をかけてもらっても出席できないことが多いのですが、こういう会には、自分から読もうとは思わない本を読む機会が与えられるという利点があります。
 いつかは読もうと思いながら、そのままになっている本はたくさんあります。しかし古典と言われるような作品はとりつきにくく、なかなか手が出ません。せっかくのいい機会ですので、読んでみました。

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<あらすじ>

 主人公、ミラノのデル・ドンゴ侯爵の次男、美少年ファブリスは、ナポレオンを崇拝するあまり、国を越えてワーテルローの戦いに参加するが、戦争に参加したかどうかもよくわからないまま怪我をして逃げ帰る。
 ところが反ナポレオン主義の兄アストニアがファブリスを密告、亡命を余儀なくされる。ファブリスを愛する叔母のピエトラネーラ伯爵夫人(のちサンセヴェリーナ侯爵夫人)は、愛人のパルム公国宰相モスカ伯爵のすすめで、ファブリスを宗門に入れ大司教への道を進ませる。
 五年後、僧としてパルムへやってきたファブリスは、旅回りの劇団の女優マリエッタをめぐり、その愛人ジレッチを殺害してしまう。
 この事件にモスカ伯爵の政争がからみ、サンセヴェリーナ侯爵夫人はパルム大公にファブリスを特赦させようと駆け引きをするが大公に裏をかかれ、結局ファブリスはファルネーゼの塔に幽閉される。そして捕らわれの身でありながらファブリスは、牢獄の司令官ファビオ・コンチ将軍の娘、清純で慎み深い乙女クレリア・コンチと恋に落ちる。
 牢内で毒殺される危険から、サンセヴェリーナ侯爵夫人の手引きとクレリアの助けでファブリスは脱獄に成功。しかしこのとき父を死の危険におちいらせた罪の意識から、クレリアは永遠にファブリスを見ないことを聖母に誓い、父のすすめる富豪クレセンチ侯爵との結婚を承諾する。
 サンセヴェリーナ侯爵夫人は、だました大公を急進的自由主義者をつかって毒殺し、後を継いだ新大公の気を引いて再審を約させ、そのためファブリスは再び入牢する。政敵により再度毒殺が企てられるが、侯爵夫人は新大公に身を任すことを約束してこれを阻止し、ファブリスは救われる。
 その後侯爵夫人はモスカ伯爵と結婚、一緒にパルム公国を去る。
 ファブリスは教会に戻ったが、クレセンチ侯爵夫人となったクレリアが忘れられず、説教で有名になることによって、クレリアと再会をはたし、ファブリスが忘れられなかったクレリアは、永遠にファブリスを見ない誓いを守るため、闇の中で密会するようになる。
 二人の間には子供ができ、表だって子供と会うことができないファブリスのために、子供を失踪させようとして、かえって子供を死なせてしまう。クレリアは罪の意識から数カ月後に死ぬ。
 ファブリスは金も地位も捨てて、パルムの僧院に引退した。

 読みはじめは、時代や背景になじみがないので、ちょっと苦労しました。
 ナポレオン軍に参加するところなど、当時(1815年)の軍隊はこんないい加減だったのか、ろくにフランス語もしゃべれない十七才の少年が、制服を都合してきたからといってこんな簡単に軍隊にまぎれこめるものなのか。当時の日本だったらどうだったろうか。従軍酒保の女がでてくるが、これは従軍慰安婦じゃないのかとか、いろいろ考えてしまいます。

 読み進んでいくとけっこうおもしろくなって、ファブリスが牢獄の窓から外の、清純で慎み深いクレリアと連絡をとるところなど、その昔の日活の吉永小百合の純愛青春映画を思い出しました。宮廷内での陰謀・駆引は、告げ口の手紙や、書類の日付をごまかしたり、色仕掛けだったり、潔くない話ばかりですが、それなりに話に浮き沈みがあって、先へ先へと読ませます。

 ところがいけません。最後、いよいよ大団円、というところで、決定的に引っかかってしまいました。
 あらすじの「クレリアは、永遠にファブリスを見ないという誓いを守るため、闇の中で密会するようになる」というところです。
 誓いをたてたけれど会いたくてたまらない、焦がれて誓いを破ってしまう、というのはわかるけれど、顔さえ見なきゃ子供ができたってかまわない、というのは、いったいなんなんだ。それで誓いを守っていることになるのか。
 聖母様はそれでOKなのか。あんたたちの神は万能だというが、いったいどこを見てるんだ。口先だけ辻褄があえばいいのか。天網恢々疎にして漏らさずということを知らんのか。誓いは言葉だけのもので、誓いの内実というものはないのか。

 これは理解できません。おもしろく読んでいた推理小説の最後の謎解きが、「そんなのありえねーだろ」というトリックだったという気分です。興醒めです。

 ヨーロッパの人々にとっては、この箇所は不自然でないのか、カトリックの信者にはよくこういう人間がいるのか。──世界の名作として通用しているのだから、あんまり奇異なこととは考えられていないのでしょうね。だからこそスタンダールもこういう設定にした。

 わたしの読んだ中央公論社「世界の文学9」の解説で、訳者でもある大岡昇平はこう書いています。

政治に気をとられた読者がよく忘れがちなのは、これが僧侶たる主人公と 信仰を持った自由主義者の娘の恋物語だと、ということです。
 彼らは浮世を離れた牢獄で恋し合い、姦通によって子供を産む。大司教となったファブリスとクレセンチ侯爵夫人となったクレリアとの恋物語を、バルザックは別の物語の主題だといっていますが、スタンダールの心の中では、ファブリスの生涯として一貫していたと考えられます。「恋人を見ない」という聖母への誓いのために、恋人に暗闇でだけ会うという奇妙なイタリアの狂信者クレリアと、恋の悲しみを語ることによって成功する説教者ファブリスとの間の恋は、カトリック教徒には冒涜かもしれませんが、スタンダールにはこの上もない幸福に映ります。(前掲書、P498)

 クレリアは「奇妙な狂信者」というだけですませていますが、わたしには清純で慎み深い乙女という設定と顔さえ見なければOKという行為を矛盾なく結びつけることができません。狂信者と言うなら、日活青春映画の清純可憐な吉永小百合が、実はオウム真理教で空中浮揚に熱中していたというくらいの奇異な話に感じられます。

 日本のフランス文学研究者の間では、これは問題にならなかったんだろうか。なにかこのあたりの研究はあるんだろうか。みんなこれをさもありなんと納得して読んでいるんだろうか。

 結局は文化の違いということになります。
 宮廷の陰謀・駆引の話でも、ファブリスの放免を約束した大公が、赦免状の日付をごまかして結局逮捕させるという話があって、これはごまかされた侯爵夫人の負けということになりますが、大公は汚いとか、悪人であるという話にはなりません。どちらかというと、大公はうまく立ち回ったということになっています。そのあげくに侯爵夫人に毒殺されることになりますが。
 日本の話では、こういうことをやるのは吉良上野のような悪役と決まっているように思います。

 なむや文庫http://homepage2.nifty.com/namuyabunko/の2月の本棚に取り上げた、『世界は腹黒い』の高山正之の本をまとめて読んだせいでしょうか、このあたりの感覚や考え方の違いがとても気になります。

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2009年1月22日 (木)

アメリカに黒人大統領

 1月20日正午(日本時間21日午前2時)、米大統領にバラク・オバマが就任しました。黒人初の大統領誕生の歴史的瞬間とはいえ、夜は弱いのでテレビ中継は見ないで、翌朝、インターネットの ABC News を見ました。

 思えば遠くまで来たものです。

 わたしが子供だった頃は、まだ『アンクル・トムの小屋』が肯定的に評価されていた時代でした。
 小学校には、同学年ではありませんでしたが、「黒んぼ」と呼ばれていた子どもがいました。当時のわたしにはどうして肌が黒いのか、よくわかりませんでした。運動会で、足がとても速かったのを覚えています。日本の各地にまだ米軍のキャンプが残っていた時代です。

 それからキング牧師の公民権運動、そしてそれを否定する過激なマルコムX、ブラック・モスリムの運動──「ブラック・イズ・ビューティフル」の時代があり、カシアス・クレイがモハメッド・アリになりました。
 メキシコ五輪の陸上二百メートルで、優勝および三位となった黒人選手が、表彰台で黒い手袋をはめた拳を高く掲げるブラックパワー・サリュート(The Black Power Salute)と言う黒人差別に抗議するパフォーマンスも記憶にあります。これは1968(昭和43)年、キング牧師暗殺の年であり、わたしは大学二年、ベトナム戦争の時代でもありました。

 その後、これらの運動が沈静化したからでしょうか、わたしが生きているうちに、アメリカに黒人大統領が誕生することになるとは、思ってもみませんでした。公民権法が施行され、アメリカ内部では、徐々に、大きな変化が起こっていたということです。

 そう言えば、日系三世ケネス・ヤマオカがアメリカ大統領選に出馬する、かわぐちかいじ作『イーグル』は、おもしろい本です。おすすめします。

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 オバマ大統領だからといって、多くの問題を抱えたアメリカの政策が劇的に変わるわけではありません。「チェンジ」と言っても、アメリカがひっくり返るほど劇的に変えるとは思われていないから選ばれたわけでしょう。
 急激に、なにもかもいっぺんに良くなることはありません。悪くなるときは、戦争や災害のように、一度に何もかも悪くなってしまいますが、良い方向への変化は、徐々にしかおこらないもののようです。
 ともかく一歩進んだとは言えるでしょう。黒人の大統領誕生をことほぎます。

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2009年1月18日 (日)

江ノ島へ

 江ノ電でようやく江ノ島にたどりつきました。
 江ノ島についての一番古い記憶は、

以前をいやア 江ノ島で
年期づとめの お稚児さん

という歌謡曲、三浦洸一の「弁天小僧」です。(これは春日八郎の歌だと思っていたら違いました。「お富さん」とごっちゃになっていたようです。)昭和三十年の曲だそうですから、小学校二年生のときですが、ちゃんと記憶にあります。この後は

くすねる銭も だんだんに
とうとう島を 追われ鳥

と、とても「よいこの愛唱歌集」には入れてもらえそうにない歌詞ですが、あのころの子供たち=わたしたちは、まるごと覚えてそのまま歌っていました。お稚児さんがどういうものか、弁天小僧が何をやっているのか、よくわかりませんでしたけれど。
 でも「とうとう島を 追われ鳥」とか「髪も島田に 由比ヶ浜」などの「掛詞」もそのまま飲み込んで覚えたし、そのうちなんとなくこの弁天小僧の白波五人男の話も覚え、「お富さん」のおかげで「源氏店(げんやだな)」──「いやさ、お富、ひさしぶりだなあ」のあの芝居も知りました。このあたりの話は、当時の国民の共通の基礎知識みたいなものだったんだと思います。

 三浦洸一の「弁天小僧」が聞きたい方はこちらからどうぞ。(YouTubeです) http://jp.youtube.com/watch?v=Ew7HxbTJjsk

 江ノ島といえばなんといっても弁天様だと、途中の辺津宮・中津宮・奥津宮の三つの神社は横目で見るだけで、ひたすら島の奥の岩屋をめざしました。あの有名な裸弁天は岩屋にあるものだとばかり思っていました。ここも四十年くらい前に来たことがあって、洞窟の中で弁天様を見たような記憶があったのです。
 ところが岩屋の奥で待っていたのは、雷鳴のような音と点滅する光に浮かび上がる作り物の龍。なんじゃこれは。五百円も入場料をとっているからサービスのつもりかもしれないが、ディズニーランドの「カリブの海賊」じゃあるまいし、小さな子供を驚かせたり泣かせたりするぐらいのことはできるかもしれませんが、ドラゴンズファンのわたしでもこれはいただけません。

 奥からまた坂道を上ったり下ったりとことこ歩いて戻ってくると、弁天様は、島の入口に一番近い辺津宮の脇の弁天堂にいらっしゃいました。あんなに歩くことはなかったんだ。

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 この弁天堂は、昭和45(1960)年に造営されたものだというから、そのときに岩屋から移されたものなら、昔岩屋に弁天様がいたという記憶は間違いではないけれど、そのときまでは岩屋にいたという記事もない。どうもよくわかりません。

 江ノ島もけっこう広いところで、岩屋への参道は登ったり下ったり、いささかくたびれて、しまいには左の膝が痛みはじめました。悪口を言ったから、あの龍のたたりでしょうか。前にもいためたところなのでちょっとやばい。龍の神様ごめんなさい。

 土産物屋などの並ぶ参道の店で、しらすかき揚げソバとサザエの壺焼きを食べて、一息入れてから帰りました。

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 ともかく天気がよく、島のあちこちや展望塔から富士山がよく見え、気持のいい一日ではありました。
 「弁天小僧」の次に記憶にある歌は、「真白き富士の嶺 緑の江ノ島」でした。

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 左端、海の上に突き出ているのは、茅ヶ崎の烏帽子岩です。

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2009年1月16日 (金)

江ノ電から富士山

 鎌倉駅に戻り、江ノ電で江ノ島へ向かいます。

 「江ノ電」の名を覚えたのは、あの黒沢明監督の映画『天国と地獄』。わたしは高校一年になったばかりのころだったと思います。まったく息もつかせぬサスペンスに驚嘆しました。その中に、誘拐犯がかけてきた電話から聞こえる電車の音から、刑事たちが「これは江ノ電の音だ!」と犯人の潜伏先を推理するシーンがありました。しびれたシーンのひとつでした。

 駅ではちょうど電車が出たところだったのでしばらく待たされましたが、そのおかげで、一番前、運転席のすぐ後ろに座れました。年甲斐もなく、ですが、かんべんしてください。

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 江ノ電は、あいかわらず民家の庭先みたいなところをトコトコ走って行きます。まわりの建物はそれなりに変わっているのでしょうが、江ノ電の雰囲気は『天国と地獄』のころからそんなにかわったようには見えません。
 江ノ島近くに来たら、富士山が見えました。

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  天気はいいし、やっぱり海が見えて富士山が見える景色はいいですね。正月はこうでなくてはいけません。 

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2009年1月15日 (木)

鎌倉へ初詣

 昨日(1/14)は鎌倉の鶴岡八幡宮へ初詣に行って来ました。

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 子供が小さかったとき、正月はほとんど毎年わたしの田舎へ帰っていたので、初詣は地元の氏神様ですませ、松の内が過ぎ参詣客も少なくなった成人の日の頃に、家族で鶴岡八幡宮へ詣っていました。毎年大銀杏の下で子供の写真をとっていたので、貴重な定時定点撮影の写真が残っています。
 いつも境内の屋台でブドウ飴を買い。帰りに小町通りの「壁の穴」でスパゲティを食べるのが定番コースでした。大きくなるに従って、だんだん子供たちは誘ってもついてこなくなり、今では「壁の穴」もなくなってしまいましたが、十五日頃の八幡宮参詣は、夫婦でずっと続けています。勝手にここは家の氏神様のつもりです。

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 お詣りをすませたら久しぶりに江ノ島へ行く予定でしたが、途中で荏柄天神(えがらてんじん)の梅が咲いているという話を聞いたので、ちょっとそちらへまわってみることにしました。

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 これは行く途中にある源頼朝の墓。

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 これが荏柄天神。話のとおり紅梅が咲いていました。

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 これは荏柄天神にあったミツマタ。枝先が三つに分かれるので三つ又と言うそうです。三つの枝それぞれに花がひとつずつついています。咲くのはまだこれからです。
 ここまで来ると鎌倉宮(大塔宮)はすぐなので、正月でもあり、ちょっと寄ります。

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 これが鎌倉宮。お守りの獅子頭が鎮座しています。
 ついでに奥の土牢も見てきました。四十年前に見たはずですが、何も覚えていないので、あらためて確認です。

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 後醍醐天皇の皇子、護良親王(もりながしんのう)が足利方によって幽閉され、殺害されたということですが、吉川英治は、土牢ではなかったのではないかと、『私本太平記』にこう書いています。

  ことむずかしくいえば、土牢(どろう)は塗籠(とろう)で、すなわち”塗(ぬ)り籠(ご)め”──壁ばかりな部屋ということの訛伝(かでん)であろうか。(『私本太平記 六』P169、講談社、吉川英治歴史時代文庫)

 明日十五日はお焚きあげ、左義長です。ここ鎌倉宮のお札収め所は、写真のとおり、もうあふれはじめていました。

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 江ノ島へ行く前の寄り道が長くなってしまいました。

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2009年1月13日 (火)

本の中の本『耶律楚材』

 最近入手した本の話です。
 本の中の本『耶律楚材』、と言っても、この岩村忍『耶律楚材』(生活社、1942(昭和17))が、ブック・オブ・ブックス、とても素晴らしい本だというわけではありません。

 下が表紙と奥付。
 藁半紙のような紙で厚紙をくるんだ装丁で、立派とは言いかねます。厚紙といっても、いわゆるソフトカバーで、その中でも薄い部類に入るくらいの紙です。

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 背を見てみると、表紙が破れて表題がなくなっており、中の厚紙がむき出しになっています。するとなにやら字が見えます。左の端の方です。

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 おやおやこれはと、そっとすきまを広げると、出てきました。これが「本の中の本」、ブック・イン・ザ・ブックです。

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 「分類日本歴史(改訂版)三省堂編輯所編」と読めます。
 これはつまり、表紙の芯材に、他の本の表紙用紙(余り物?)を使用したものと思われます。奥付にあるように、昭和十九年の再版ですから、戦時中で紙が不足していたのでしょう。
 大谷大学図書館のHP(http://www.otani.ac.jp/kyo_kikan/library/index.html)で、この本の書誌情報を見ると、「123p ; 22cm」となっていますが、注記として「再版 (1944.10刊) の大きさは19cm」となっています。http://opac.otani.ac.jp/external/library?func=function.opacsch.toshoshozodsp&view=view.opacsch.newschdsp&shoshisbt=1&shoshino=0000458634
 たしかにこの本の縦の長さは19cmですが、初版は22㎝と、けっこう大きな本だったようです。きっと紙も、もっといいものが使われていたことでしょう。

 耶律楚材というと、「ジンギスカンが、漢人を皆殺しにして中国全土を牧場にしようとしたのを、耶律楚材が一生懸命とめた」という話をきまって思い出します。たしか小松左京が書いていたのを若い頃に読みました。その後読んだ陳舜臣の『耶律楚材』などには、中国全土牧場化計画の話はでてきませんでした。あれは、小松左京のヨタ話だったのか、それとも大げさにわたしが記憶しているだけなのか、よくわかりません。
 この本をじっくり読んでみましょう。

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2009年1月 6日 (火)

ああ『大航海時代叢書』

 なむや文庫(http://homepage2.nifty.com/namuyabunko/)の2008年3月の本棚は岩波書店の『大航海時代叢書』でした。
 昨年、この一部が売れたのは良かったのですが、売りに出したときには気がつかなかった欠陥がある、という話になってしまいました。
 本を受け取ったお客さんから、中を確認していたところ、白い漆喰の破片のようなものが落ちてきた、表紙の折り目から装丁が剥がれてきたと連絡がありました。
 いったいどういうことなのか、よくわからない。それで、手元に残っている、他の『大航海時代叢書』を確認してみることにしました。

 これがその『大航海時代叢書』

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 1978年の刊行(初版は1966年)ですから三十年前の本なので、箱にシミが出たりしているのは前から承知しています。その他、見たところ本体はきれいです。
 ところが、問題の表紙の折り目、製本用語で「溝」というところをよく見ると、下の方に割れ目があります。下の写真、右の白い部分の背中に近い方の下の部分です。

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 で、表紙をぐっと開いてみると、なんと溝から本当に白い粉がぽろぽろこぼれてきました。背を覆っているビニールレザーが経年劣化で硬くなって、力を加えると剥離してしまうのでした。
 これが、開いてみた後の写真。拡大しなくてもはっきり白い筋が見えると思います。

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 白い筋をさらに拡大して見ると、こうです。

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 これでは、申しわけありませんと言うしかありません。
 岡本太郎に「座ることを拒否する椅子」という作品がありましたが、「開くと表紙がこわれる本」では洒落にもなりません。

 この材料で装丁をしたら三十年後にどうなるか。岩波書店といえども、そこまでは検証しきれなかったのでしょう。この本がこれまで、よほどの高温とか低温の過酷な環境のもとにあったとは考えられないので、やはり材質の問題だと思います。本物の革だったらこんなことにはなりません。

 これは第一期の『大航海時代叢書』の話で、第二期の『大航海時代叢書』は装丁が変更されて、ビニールレザーの部分がなくなっているので剥離することはありません。一期と二期の間は二十年くらいたっているので、ひょっとすると、第二期を刊行するときに、あれはまずいよという話があったのでしょうか。

 ここまで書いて、本当に材質の問題なのか心配になってきました。管理が悪くて劣化てしまった可能性もないわけではない。うーん、ともかくごめんなさい、以後注意します。古本屋も楽じゃありません。

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2009年1月 4日 (日)

謹賀新年2009

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あけましておめでとうございます。

 今年もよろしくお願いします。

 12月31日から1月2日まで、岐阜県、愛知県へ行ってきました。写真は帰りの新幹線の車窓から携帯でとったもの。いい天気で、富士山がよく見え、元旦ではありませんでしたが、

 なんとなく今年はいいことあるごとし
 元旦の朝晴れて雲なし

という啄木の歌の気分になりました。
 今年一年、この気分でいきたいと思います。

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2008年12月30日 (火)

年末の買物

 今年のはじめから買おうかどうかずっと悩んでいたデジタルカメラを、年内に決着をつけてしまおうと、とうとう買いました。

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 あれこれ検討しましたが、結局買ったのは、いわゆるコンパクトデジカメの富士フィルム Fine Pix F100fd です。値段がずいぶん安くなってきたうえ、最近製造中止になったので、そのうち手に入らなくなるというのが決め手になりました。来年になったら改良された新製品が出るのでしょうが、しばらくは安くなりません。
 1200万画素、28mm~140mm、光学ズーム5倍に手ブレ補正、顔認識がついて、2万円ちょっとで買えました。ずいぶん安くなったものです。

 デジカメはいくつか買いました。下左のオリンパス CAMEDIA C-3030 は、買った当時は最新鋭機で、定価で10万円ぐらいしましたが、今の感覚で言うと、たったの300万画素しかありません。それなりに使ったから、高かったけれど納得していますが。
 下右は今まで使っていたオリンパス CAMEDIA X-100 。ホームセンターの開店特価で買った安物ですが、このブログの写真は、おおむねこれでとりました。

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 来年はもう少しきれいな写真を載せたいと思います。新しいものを買うと、しばらくはやる気が出ます。

 あと買ったのは、これ、自転車の速度計です。サイクルコンピュータと言って、速度だけでなく、走行距離、積算走行距離に消費カロリーまで測れて、時計にもなります。
(下の写真の右がメーター。左はライト。)

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 前に紹介した『こぐこぐ自転車』という本には、速度計はだいたい一万円ぐらいすると書いてありました。自転車を買ったときから欲しかったけれど、一万円ではちょっと手が出ませんでした。
 それが、ホームセンターで、1980円というのを見つけました。値段からすると、精密だったり堅牢だったりすることはまずなさそうですが、ともかく買い込んで、さっそく、わが愛機ミヤタ・クオーツXLαに取り付けました。

 どうやって測るかというと、下の写真の中央にある黒いのがセンサーで、スポークに着けたマグネット(銀色の丸い物)が近くを通過する回数をカウントして、計算して出すようです。マグネットとセンサーの間隔は5mm以下にするように、と書いてあったので、むずかしいのかと思いましたが、やってみると簡単にセットできて、タイヤを回すとちゃんとメーターが動きました。

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 近所をぐるぐるまわって試してみました。平地で20km/h出すと息が切れます。急な坂道だと30km/hを越えます(もちろん下りです)。
 おもしろいものです。ただ、走行距離が実際より少し大きめに出ているような気がするので、速度も少し大きく出ているかもしれません。まあ「当社速度」20km/hです、でいいことにしましょう。
 こちらも、来年しばらくは、楽しめそうです。天気のいい日は、カメラを持って自転車で出かけることにしますか。

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2008年12月27日 (土)

沖縄旅行6 雑感いくつか

 第四日は、那覇午前十一時半の飛行機で帰るので、観光は首里城のみ。司馬遼太郎の『沖縄・先島への道(街道をゆく6)』によれば、戦前の首里の旧王城界隈は、京都や奈良に比すべき美しい街であったらしいので、少しゆっくりできるとよかったのだが、この日行われる沖縄マラソンの渋滞に巻き込まれるといけないからと、予定より早めに出発。復元された王城を忙しくひとまわりしただけで、終わってしまいました。

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 居酒屋で民謡を聴き、おきなわワールドでエイサーを見、琉球村で王朝行事の舞台を見、首里の城を見ると、やっぱり沖縄は別の国だったんだと思います。本土の古代の文化とつながっているのはたしかだろうけれど、日本と中国の間で、また違う文化の花がたしかに開いていたのだと感じられました。

 また、民謡居酒屋の歌い手や、観光用の伝統芸能の出演者が、みんな若いのにも驚きました。エイサーは、高校生くらいの男女が溌剌として太鼓を打ち、踊っていて、とても楽しいものでした。
 観光が、一つの大きな産業として成りたっているから、若い従事者がふんだんに供給され、その結果、伝統芸能が干からびてしまわず、いきいきと命脈をたもっているのでしょう。その土台があるから、沖縄独自の新しい歌謡も次々に生まれてきているのでしょうか。

 沖縄の普通の家は、台風対策のせいでしょう、鉄筋コンクリートの家が圧倒的に多い。三十数年前にきたときには、赤瓦を漆喰でかためた伝統的な建築に感心したものでしたが、ずいぶん減ってしまっているようです。

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 三十数年前にきたときは、本土復帰後ですが、自動車はまだ右側通行でした。当時、転勤で沖縄にいた友人の車をちょっとだけ運転させてもらいました。
 街中の車線がきちんと分かれているところではよかったけれど、田舎の狭い道で、向こうからやってくる車とすれ違おうとしたとき、わたしは無意識に左に寄ってよけ、向こうは当然右に寄ってかわそうとし、一瞬、ぎくっとしたことがあったのを思い出しました。

 今では高速道路もでき、街の風景もずいぶん変わったようです。でも相変わらず沖縄はいいところでした。また、ゆっくり来たいものです。

 三日目に泊まったホテルの前には、サンタクロースの帽子をかぶったシーサーがいました。沖縄旅行の話は、とりとめなく、これでおしまいです。

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2008年12月21日 (日)

太郎ちゃん値下げ

 12月20日、久里浜のフェリー乗り場で、こんなものを見つけました。

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 以前紹介した「太郎ちゃんの漫画王かりんとう」、三割値下げです。「支持率とは関係ありません」そうです。投げ売りがはじまりました。

 一国の総理大臣を、マスコミを先頭に、こんなふうにみんなでおちょくっていられるというのは、日本にはまだまだゆとりがあるということでしょうか。

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2008年12月19日 (金)

沖縄旅行5 観光、観光

 沖縄旅行第三日は、古宇利島(こうりじま)~海洋博記念公園(美ら海(ちゅらうみ)水族館)~万座毛(まんざもう)~琉球村~嘉手納~沖縄市のホテル。

 ありきたりの観光写真が続きます。
 これが古宇利島。ここも海がきれいです。

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 これが美ら海水族館の目玉、ジンベエザメ。こんなふうにどーんとでかい。これは見ものです。(右上の黒いのは、 水槽に潜っている職員の足のヒレ)

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 海洋博記念公園の中です。このほかにもカメとかトリとか、いくつもありました。

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 昼食に寄った「琉宮城」にある蝶々園のオオゴマダラ。ここは庭がきれいで、見晴らしもよかった。

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 ここが万座毛。風が強く、海が荒れていました。

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 琉球村のシーサー。見物中に息子から電話あり。携帯はどこへでも追いかけてくる。

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 普通の観光じゃないのがこれ。嘉手納の道の駅の屋上から見た、米軍の嘉手納基地。夕暮れどきです。中央に見える飛行機は対潜哨戒機のP3Cオライオンだそうです。(オライオンて、オリオン Orion の英語読みなんですね。知りませんでした。)
 バスガイドさんがちゃんと軍用飛行機の名前まで知っていて、あれはなんだかんだと教えてくれたり、米軍基地が観光コースに入っていたりするところが、まさに沖縄です。

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 第三日もあちこち行って、どこでもゆっくりはできませんでした。

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2008年12月17日 (水)

沖縄旅行4 ひめゆりの塔で

 ひめゆりの塔に三十年ちょっと前にきたときには、他の南部戦跡でもそうでしたが、観光バスが着くと、まわりから花束を持ったおばさんたちがわらわらっとあらわれ、客を取り囲んで花を売っていたことを覚えています。今回はそんなことはなく、きれいな花束の売場ができていました。

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 資料館の展示などを見ていると、沖縄へ気楽な物見遊山にやってきたつもりでも、やはり戦争というものについて考えざるをえません。

 わたしが一番考えさせられたのは、米軍が上陸し戦局が絶望的になった中で、ひめゆり学徒隊が、昭和二十(1945)年六月十八日、解散を命じられたということです。十五、六の女学生を看護要員として徴用しておいて、敗色濃い戦闘のさなかに、解散、後は自分たちでなんとかしろ、と放り出してしまったということです。
 そしてその結果、

 職員を含むひめゆり学徒隊240名中、死亡者は生徒123名、職員13名であるが、このうち解散命令以後に死亡したのは117名で全体の86%にものぼり、さらにわかっているだけでも全体の35%にあたる47名が第三外科壕に攻撃があった6月19日に亡くなっている。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B2%E3%82%81%E3%82%86%E3%82%8A%E3%81%AE%E5%A1%94

 司馬遼太郎の『街道をゆく』シリーズを旅の友にしている人も多いようです。わたしも『沖縄・先島への道(朝日文庫)』を読み返しました。

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 沖縄戦について書いているところで、こんなことを書いています。司馬が当時配属されていた栃木県佐野の戦車連隊は、敵が関東地方に上陸したときに出動することになっているのだが、その時東京方面から家財道具を大八車に積んで逃げてくる人々とぶつかったら交通整理はどうなるのか、大本営から来た人に聞いた。

 そういう私の質問に対し、大本営からきた人はちょっと戸惑ったようだったが、やがて、押し殺したような小さな声で──かれは温厚な表情の人で、決してサディストではなかったように思う──轢(ひ)っ殺してゆけ、といった。このときの私の驚きとおびえと絶望感とそれに何もかもやめたくなるようなばからしさが、その後の自分自身の日常性まで変えてしまった。軍隊は住民を守るためにあるのではないか。
 しかし、その後、自分の考えが誤りであることに気づいた。軍隊というものは本来、つまり本質としても機能としても、自国の住民を守るものではない、ということである。軍隊は軍隊そのものを守る。この軍隊の本質と摂理というものは、古今東西の軍隊を通じ、ほとんど希有の例外をのぞいてはすべての軍隊に通じるように思える。(『沖縄・先島への道(朝日文庫)』P36~37』

 軍隊は軍隊の論理でしか動かない。ひめゆり学徒隊も放り出されてしまった。しかし、当時の一般の兵隊たちはなんのために戦い、死んだのか。
 司馬はこう書いています。

  私どもは、学校から兵隊にとられた素人兵であったが、何のために死ぬのかということでは、たいていの学生が悩んだ。ほとんどの学生は、父母の住む山河──そこには当然、人が住んでいる──を守るためだということを自分に言いきかせた。私の世代の学生あがりの飛行機乗りの多くは、沖縄戦での特攻で死んだ、たいていの者は、自分で抽象化した母国の住民群というイメージ上に自分の肉体を覆いかぶせて自分が弾よけになるというつもりであったはずである。(前掲書P37~38)

 今回のツアーでまわった南部戦跡は、ひめゆりの塔だけでしたが、ガイドさんの説明の中には、ときどき戦争の話がでてきました。三日目には嘉手納の基地を外側から見ました。沖縄を訪れるときには、戦争のことを考えざるをえません。

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2008年12月13日 (土)

沖縄旅行3 歴代総理の色紙

 二日目は、午前中はオプショナルツアーに参加。まず南部の新原(みいばる)ビーチへ。昨日は遠くから見ただけだった沖縄の海を、三十有余年ぶりに直接見る。あいにく小雨がぱらついたりの天気だが、やっぱりきれいだ。すきとおった緑色の水の色と砂の色がちがう。ふだん神奈川・東京の人たちに南房総の海を自慢しているけれど、これを見ると当分自慢できそうにない。
 グラスボートに乗って海中を見る。珊瑚礁の近くで船頭さんが餌を投げると、魚が集まってくる。いわく「うちの従業員です」とのこと。

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 その後おきなわワールドへ。玉泉洞鍾乳洞を中心にした観光施設で、鍾乳洞を出ると沖縄の民家やステージなどがあり、伝統芸能のエイサーを見た。これがなかなか楽しくおもしろかった。

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 午後からは通常のツアーに戻って(といっても、このツアーの参加者三十数名のうち、三十人以上がオプショナルツアーに参加している)、南部観光=泡盛ギャラリー、琉球ガラス村、ひめゆりの塔。
 それから高速道路にのって、一気に北部の名護まで行き、パイナップルパークを見て、本部(もとぶ)のホテルへ、というコース。

 泡盛ギャラリーにはこんなものも飾ってありました。横に一列に並んでいたものを4枚の写真にとって、無理やりくっつけました。大きさがふぞろいなうえ、蛍光灯が映りこんでいてちょっと見づらいですが、最近の総理大臣の色紙です。

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 左上から竹下登、中曽根康弘、海部俊樹、橋本龍太郎、小渕恵三、森喜朗、小泉純一郎、安倍晋三、福田康夫(敬称略)。こういうふうに並べて比較してみるとなかなかおもしろいものです。意外な人が、けっこううまいじゃないかと思ったり。戦前の総理大臣と比べてみたら、おそらくずいぶんちがうことでしょう。

 この酒造会社は総理大臣が替わるたびに、色紙を頼んで、もらっているのか。最近は忙しかっただろうな。でも、この「国酒」というのはなんだろう。泡盛は琉球の国の酒、という意味か、と思っていたら、違いました。

 インターネットで調べてみると、「麗人 蔵元だより」という造り酒屋さんのブログに、こうありました。

昔から歴代の総理大臣は「国酒」と揮毫した色紙を書いております。最近、福田首相の揮毫した「国酒の色紙」の希望者への配布の案内が日本酒造組合から参りました。最近の低い支持率の福田さんの色紙を店先に飾っても、日本酒の消費が上向くとは思いませんが、安部さん、細川さんや宇野さんなど短命内閣の首相以外、歴代首相は造り酒屋のために「国酒」と揮毫した色紙を書いております。
http://blog.reijin.biz/?month=200806

 日本中の造り酒屋さんに配られているのでした。
 だから北海道の千代鶴という酒造会社の酒ミュージアムにも、同じ色紙が飾ってあるそうです。
http://hiroba.gnavi.co.jp/usr/osaka/photo/detailPhoto/11853?seq=4&type=0

 これを見ると、沖縄の色紙と同一のようで、この配られている色紙は、どうも印刷のようです。なんだか損したような…

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2008年12月10日 (水)

沖縄旅行2 アパホテル那覇

 一日目の泊まりがアパホテル那覇だという日程表が届いたとき、「あれ」があるんじゃないか、という予感がありました。だからDFSからホテルの部屋へついたとき、さっそく確認しました。やっぱりありました。これです。

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 今、話題の田母神論文です。
 この九月に岐阜へ行ったとき、たまたま大垣のアパホテルに泊まりました。部屋にアパグループ代表の『報道されない近現代史』という単行本とPR誌「アップルタウン」が置いてありました。ぱらぱらめくってみたところ、代表と各界著名人との対談が主流のようなので、よくある、成功した社長の自慢話かと、それ以上読んでみませんでした。

 その後、航空幕僚長の懸賞論文が文民統制違反ではないかとマスコミで話題になったとき、あああれか、と思い当たりました。だから、アパホテルにまた泊まるなら、あのPR誌に何か載っているにちがいない、というわけです。

 那覇にあったのはこれ。「アップルタウン2008年12月号」で、ずばり「真の近現代史観」論文の審査結果発表と入選論文が載っていました。
(下が表紙と審査発表ページ、上の写真が田母神外志雄前空幕長の入選論文)

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 論文、読んでみました。論文というより、いわゆる「自由主義史観」的な考え方の概説というところで、これで入選なの、という感じでした。中でもコミンテルン陰謀史観にはちょっとついていけません。
 沖縄旅行の話の途中なので、この話はここまで。

 一日目の夜は、アパホテルを出て、国際通りと市場通りをぶらぶら歩き。
 国際通りにはなぜか「あしたのジョー」が寒そうにしていました。(雑貨屋さんの前で)

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 沖縄民謡のライブショーつき居酒屋で「らふてい」や「みみがー」、「ごーやちゃんぷる」、「海ぶどう」などを肴に飲み、最後にソバ屋さんで沖縄ソバを食べておしまい。

 アパホテルは、大垣もそうでしたが、新しいせいかリフォームが行き届いているせいかか、建物がきれいで、大浴場がついているのがよかった。
 あとは、部屋が狭いが、安いと思うか、
      安いが、部屋が狭いと思うかは、その人次第でしょう。

 

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2008年12月 9日 (火)

沖縄旅行1 格安ツアー

 沖縄旅行に行ってきました。十二月四日から七日までの三泊四日。最近新聞広告でよく見る格安のパックツアーです。
 参加料金は一人33,000円(二人一室)で朝食三回夕食二回つき。これにオプショナルツアーと入園料などの別料金を一人8.000円くらい払って、それでも一人41.000円です。あとかかったのは自前の食事と土産代のみ。
 これで添乗員つき、二日間はバスガイドつきで、南部のひめゆりの塔から北部の海洋博記念公園まで、沖縄本島をひととおりまわってきました。

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 飛行機代はいま、早割りだなんだといろいろありますが、割引のない普通運賃は、乗っていった全日空で羽田から那覇まで、片道40,900円、往復73.800円です。
 ツアー料金(ホテル三泊と飛行機代+α=33,000円)のうち、航空会社の取り分はおそらく一万円くらいではないでしょうか。

 昔、早割りなどの割引や格安航空券がなかった頃、沖縄出身の女性と結婚した友人は、子供三人連れて里帰りすると、一回分のボーナスが飛んでしまうと言っていました。
 うちの奥さんの母親は北海道の出身でしたから、北海道に親戚がいます。冠婚葬祭のうち婚礼や祭事は日どりが事前に決まるから早割りで行くこともできますが、危篤だ、葬式だというとすぐ駆けつけなければなりません。これは今でも、高い正規料金で、しかも混んでいるときは空席待ちをして飛んでいきます。

 今回の沖縄行きでも空席待ちの客へのアナウンスが流れていました。中には親が死にそうな人がいたかもしれません。一万円の物見遊山の客で席がいっぱいで、緊急の客が七万円で空席待ちというのは、なんだか理不尽な気がします。この料金の格差はいったいなんだろうと考えてしまいます。

 以下の数字に特に根拠はありませんが、もともと正規運賃というのは、乗車率(乗機率か)が50とか60%くらいで収支がまかなえるくらいに定められているのではないでしょうか。それを越えた40%の席の料金がもうけになる。だからそこは空席にしないで、半額でもいいから乗れるだけ乗せたい。そのあたりから団体割引だ、早割りだと始まったのでしょう。それが今回の沖縄行きの便など、大半は団体、割引ツアー客のように見受けられました(プレミアムシートの方は知りません)。
 割引料金の客が主流になれば乗機率50や60%ではとても採算はとれず、常時90%を越えるくらいでないと引き合わなくなってしまうでしょう。安い料金でどんどん乗せて乗機率を上げ、正規料金を払う緊急の客が圧迫されることになってきます。

 実際には乗らない人=旅行会社が安く買い占めて、サヤを取って、実際に乗る人に売る切符が主流になって、緊急の需要に影響をあたえているわけです。現在、金融不況で、金融経済が実体経済に影響云々という話を思い出します。
 まあ、わたしも安いからこのツアーに参加したわけだし、緊急の空席待ちの方に席をおゆずりしたわけでもありませんから、文句を言うつもりはありませんが。

 格安ツアーと言えば、ついてまわるのが買い物です。
 今回、那覇空港に降りてから一番に連れて行かれたのは、なんと免税店のDFSでした。日程の都合で最終日の予定が繰り上がったのですが、観光もなにもなく、いきなり買い物、それも沖縄とは関係ない、グッチだ、シャネルだ、とは。われわれ夫婦には用のない店でしたが、他の人はどうだったでしょうか。

 翌日から行った店は、ガラス細工、泡盛、パイナップル、御菓子、黒糖など。工場見学は観光でもあるけれど、少し省いて海洋博公園など主な観光地での滞在時間をもう少し増やしてくれたほうがありがたかった。しかし、ツアーの一行には、着くたびに何かしら買っている人もいましたし、これがツアー料金を安くできる一因なのでしょうから、これにも文句は言えません。

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2008年12月 4日 (木)

瀬上池晩秋

 昨日(12/3)、天気がよかったので、近くにある瀬上池(せがみのいけ、横浜市栄区)へ散歩に行ってきました。こんなところです。

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 こうして見るとちょっと横浜市内とは思えない風景です。

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 この近くには円海山(えんかいざん)という標高153.3mの小さな山があって、ずっと鎌倉の天園ハイキングコースまで緑地がつながっています。

・円海山周辺マップ
http://www.city.yokohama.jp/me/kankyou/green/enkaizan_map/enkaizan.pdf

 子供たちが小さい頃、何度か鎌倉までハイキングに行きました。昨日も途中でリスを見かけましたが、このあたりでは、リスはみんな鎌倉の八幡様の大銀杏からやってきたものだということになっています。

 

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2008年12月 3日 (水)

肖像紙幣いくつか

 なむや文庫の「今月の本棚」は、店主のおすすめ、日垣隆の本です。http://homepage2.nifty.com/namuyabunko/
 日垣隆をはじめて読んだのは、文藝春秋に載った、ベストセラー『買ってはいけない』の批判記事でした(1999年9、10月号)。
 読んでおどろきました。『買ってはいけない』が根拠とした実験データ等を検証し、それが自分たちに都合のいいところだけの恣意的な引用であること、事実に誤りがあること、推定をもとに全否定していることなどをあげて、読者の恐怖を煽り立てるホラー本だと書いています。筋のとおった論理で説得力があり、これは『買ってはいけない』の完敗だと認めざるをえませんでした。ところどころ皮肉がきいているところも、悪口を読むのが好きなわたしとしては大いに気に入りました。

 例えば、ある商品に含まれている亜硝酸ナトリウムは、ラットに≪体重1kgあたり0.085g経口投与すると半数が死亡する、(…だから「買ってはいけない」)≫という説明について、こう書いています。

 急性毒性の試験は、要するにラット(などの動物)を殺すために行なわれる。どれだけ当該物質を一挙大量に与えればラットの半数が死ぬか、という限界を見るための実験なのである。つまり、この実験では必ずラットは死ぬ。水でも死ぬし、米でも死ぬ。死ぬまでやる実験なのだから、あたりまえである。だから私たちは、≪体重1kgあたり0.085g経口投与すると半数が死亡する≫に驚いてはならず、≪0.085g≫に注意を払わねばならない。数値が低いほど、急性毒性は高いわけである。そして飼料(食べ物)にそれをどのような割合で混ぜるか、が重要になる。水の毒性と、わさびの毒性を同列に論じることは現実的ではない。毎日、わさびを二リットルも食べるやつはいないだろうからだ。
(中略)
 電気椅子に人を座らせ二〇〇〇ボルトの電圧を五秒かけると人の半数が死ぬ。だから家庭で電気を使ってはいけないと言っているに等しい。
(『「買ってはいけない」は嘘である』P58、1999、文藝春秋)

 これには動物実験の結果を見る目を開かれました。この後、過去の著作をいくつか読んで愛読者となり、とうとう日垣隆のメールマガジン(参照 http://www.gfighter.com/)の購読者にもなって現在に至っています。

 そのメールマガジンの愛読者プレゼントとして、こんなものをもらいました。日垣隆は買い物が好きで、買い物に関する本まであります。
 前回、ゲバラの肖像紙幣を紹介したので、ついでに紹介します。

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 上はイラクの250ディナール紙幣、肖像はサダム・フセイン前大統領。下は北朝鮮の100ウォン紙幣、肖像は金日成前国家主席。

 そしてこれは、わたしが別に入手したもの。

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 中国の10元紙幣、毛沢東元国家主席。
 こうなると、ヒットラー紙幣とかスターリン紙幣が、もしあるものなら手に入れたくなってきました。

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2008年11月30日 (日)

チェ・ゲバラのタバコ

 昨日(11/29)は学生時代の友人たちとの忘年会でした。もう十年以上、毎年銀座でやっています。

 その席上、友人のひとりがこんなものをくれました。友人の友人がくれたものだそうですが、わたしならおもしろがるだろうと持ってきてくれました。

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 「el CHE」という名前のタバコ、メイドイン・パラグァイです。その名のとおりチェ・ゲバラの肖像が入っています。写真では逆さになっていますが、中のタバコの一本一本にも顔が入っています。
 タバコの上部がよれているのは、タバコの葉の詰めがスカスカなので、テーブルにトントン叩いていたら落ち込んでしまったものです。葉巻を好んだというチェが見たら怒ったんじゃないかと心配になります。

 チェ・ゲバラというのは、わたしたちの若い頃のアイドルのようなものでした。
 革命家であるというだけでちょっとカッコいいのに、そのうえ成功した革命家です。カストロと一緒にキューバをひっくり返してしまいました。革命家は数あれど成功した革命家というのはそうそういません。それに成功すると権力にとりつかれて粛清をはじめたりする例が多いのに、その後、キューバ工業相の地位を捨て、ボリビアに潜入してゲリラ活動を続け、最後に政府軍に射殺されるという生涯は、まさに劇的、革命を起こされる側の迷惑を考えなければ、左翼思想のあるなしにかかわらず、まったくカッコいいものでした。

 今では思想的なものはぬきに、肖像画がTシャツやポスターなどのポップアイコンとして使用されて、日本にもゲバラ・グッズの愛好家がいるようです。そういえばうちの息子もTシャツを持っていました。
 わたしは別にゲバラ・コレクターではありませんが、こんなものを持っています。キューバの紙幣、3ペソです。

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 なむや文庫http://homepage2.nifty.com/namuyabunko/の在庫には、『チェ・ゲバラ フォト・バイオグラフィ(原題"THE CHE HANDBOOK" 2003、 原書房)』という写真集もありますので、よろしかったらどうぞお求めください。

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2008年11月22日 (土)

映画『容疑者Xの献身』

 一昨日(11/20)、映画『容疑者Xの献身』を見ました。地元の「港南台シネサロン」で見たのですが、観客は、われわれ夫婦を含めて四人。先月『崖の上のポニョ』を見たときも同じようなものでした。ほとんどプライベート映画館ですが、あんまり少ないとかえって落ち着きません。
 これで商売になるのか、心配にもなります。歩いていけるところに映画館があるというのは、とても便利なので、なんとか今後もがんばってほしいと思います。

 『容疑者Xの献身』は、とてもおもしろい映画でした。
 原作は東野圭吾。小説の内容の紹介はこうなっています。

天才数学者でありながら不遇な日々を送っていた高校教師の石神は、一人娘と暮らす隣人の靖子に秘かな想いを寄せていた。彼女たちが前夫を殺害したことを知った彼は、2人を救うため完全犯罪を企てる。だが皮肉にも、石神のかつての親友である物理学者の湯川学が、その謎に挑むことになる。ガリレオシリーズ初の長篇、直木賞受賞作。
http://www.bunshun.co.jp/book_db/7/11/01/9784167110123.shtml

 原作は読んでいませんが、映画もこのとおりのストーリーで展開されます。犯人がはじめからわかっていて、探偵がその犯行をあばいていく、いわゆる倒叙推理小説のかたちです。
 このシリーズの前作『探偵ガリレオ』『予知夢』は読んでいたので、
これも謎を最新の科学知識で解いていく話だろうと思っていたら、意外や、そうではありませんでした。映画の最初に船の爆発シーンがあって、それを超伝導だかなんだかの実験で説明するところから始まったので、すっかりだまされました。あれは目くらましだったのか。けっこうクラシックなトリックでした。ネタバレになるからこれ以上書きませんが。

 冒頭の爆発や実験のシーン、ヘリコプターからの撮影など、ひとつひとつのシーンがけっこう金をかけて作られていて、話の本筋とはあまり関係ない、山のシーンがきれいだったり、違法カジノの検挙シーンがにぎやかだったりします。柴咲コウ扮する女性刑事が忙しいのにお茶くみをさせられたりして警察内部の雰囲気もよく出ていました(本物の警察の雰囲気を知っているわけではありませんが、臨場感がありました)。

 犯人役の堤真一は、「三丁目の夕日」の「鈴木オート」役しか知らないせいか「天才数学者」には見えにくかったけれど、暗い感じが出ていてなかなかよかった。欲を言えば、犯人がどうしてここまでやる気になったのか、もう少し説明がほしかった。そしてもう一つ盛り上がりというか、もっと泣かせる見せ場を作ってもよかったのではないでしょうか。
 今度は原作を読むことにしましょう。

 港南台シネサロンでは、この映画の上映は昨日でおわって、今日からは中居正広主演の『私は貝になりたい』をやっています。
 この前紹介した週刊文春の創刊号に、昔の、フランキー堺主演の映画の広告がのっていたことを思い出しました。それがこれです。

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2008年11月10日 (月)

橘家圓蔵を横浜にぎわい座で聞く

  先週(11月7日)、久しぶりに横浜にぎわい座へ落語を聞きに行ってきました。

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 三遊亭好楽は「親子酒」。江戸家小猫はいつもの動物ものまね。

 お目当ては橘家圓蔵、昔の月の家圓鏡です。最近はテレビにあまり出なくなりましたが、「圓鏡」でテレビに出まくっていたころ、並び称された志ん朝、談志、円楽とは一味ちがう、ドタバタ落語というか、ギャグにつぐギャグで笑わせる落語で、「猫と金魚」なんか、本当におもしろかった。

 ああいうにぎやかな噺を期待していったのですが、今回の話はなんと、じっくり聞かせる「心眼」という噺でした。三遊亭圓朝の作で、桂文楽が得意の噺だったそうです。

 盲人の按摩が悔しい思いをして、目を開けてくれるよう薬師様に願をかけ…という話で、びっくりしたのは、いきなり放送禁止用語が連発されたこと。おっ、これはいいのかと、まず思ってしまいました。明治初期の話だから、会話のことばを置き換えてしまっては話にならない。理屈のうえではわかっているつもりでしたが、日常的に使ってはいけないことばとして、もう脳にしみついてしまっていることに、あらためて気づかされました。

 「心眼」が終わったあと、圓蔵本人が、俺だってこういう噺もできるんだ、たまにはやりたくなるんだと言っていました。この噺は、按摩が横浜へ出かけた帰りに弟の家へ寄って…というところから始まるので、「横浜にぎわい座」でやる気になったものでしょうか。

 期待とは違いましたが、珍しい、圓蔵のしんみりした噺を聞くことができました。

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2008年11月 7日 (金)

『カムイ伝』をどうぞ

 なむや文庫(http://homepage2.nifty.com/namuyabunko/)の今月の本棚は、このブログで『蟹工船』の次に読む本として推薦しておいた、白土三平『カムイ伝』です。

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  推薦するからには内容の紹介などをしようと思いたったのはいいけれど、さて最後に読んだのはいつだったか。あらすじもだいたい覚えているつもりでしたが、さて書こうとするとよくわからなくなって確信がもてません。
  読み返さなければなりませんが、ともかく大長編です。白土三平画業50周年記念として2005年9月から刊行された『カムイ伝全集』版では、第一部15巻(なむや文庫で売り出した新書判では21巻)、第二部12巻、『カムイ外伝』11巻の合計38巻あります。
  読み返しは後日にして、ここはとりあえず、全集の広告ページにある「カムイ伝とは」という案内を全文引用しましょう。

 
江戸期のはじめ、日置藩に三人の少年がいた。
非人の子・カムイ、下人の子・正助、武士の子・草加竜之進である。
カムイは自由を求めて剣の道を究めようとするが
はからずも忍びの道に入る。
正助は百姓になろうと勉学に精を出し、農業技術を磨いていく。
竜之進は日置城主の陰謀によって草加家を滅ぼされ、復讐を誓う。
やがて、カムイは抜け忍として終わりのない逃亡と闘いの日々を送り、
正助は開墾した新田を守るため一揆を起こし、仲間とともに自首するが
役人の策謀によって一人生き残り、裏切りものの汚名を着る。
竜之進は武士という階級に深い疑いを抱えながら浪々の旅をおくっていく。
三人の少年たちは、圧倒的な大きさを持つ自然、社会制度、権力にぶつかり苦闘し、成長していく。

第一部では三人の夢と挫折が描かれ、外伝では逃亡を続けるカムイの内面が深く描かれる。
一度、ばらばらになった三人が再び出会い夢を追い始めるのが第二部。第三部で完結の予定。(http://www.shogakukan.co.jp/kamui/

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(登場人物は、ゴールデンコミックス版第11巻より)

第三部でようやく物語は核心に入るのだと白土三平は言っているようですが、はたして、実際に第三部を読むことができるかどうか、はなはだ心配なところです。
 
  全集の刊行にあわせて
「白土三平とカムイ伝の世界」というサイト(http://kamui.shogakukan.co.jp/kamui/
が立ち上げられ、そこに田中優子が
「カムイ伝から見える日本」http://kamui.shogakukan.co.jp/kamui/original.html
を書いています。
 最近出た『カムイ伝講義』(田中優子、2008、小学館)という本は、これをもとにまとめられたもののようです。おもしろそうですが、未読なので今のところなにも言えません。ただちょっと残念なのは、この本の趣旨は『カムイ伝』そのものを論じることにはないことです。
「カムイ伝のむこうに広がる江戸時代から「いま」を読む」
と惹句にあるように、『カムイ伝』を素材にして、身分制度とか百姓の生活、農業・商業の発達などを検証し、江戸時代を考えるというのが、この本の目的のようです

 その他、ネットでは松岡正剛の『千夜千冊』の第千百三十九夜「白土三平『カムイ伝』全15巻」http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1139.htmlがとても参考になります。

 『カムイ伝 第一部』は、同時代で読んでいた本でした。「ガロ」の連載を読み、単行本を出る都度買って読み、友人たちとあれこれストーリイや登場人物について話もしたものです。
 その中に、どういうわけか「シブタレ」と呼ばれていた友人がいました。性格によほど問題があったのでしょうか。実はその「シブタレ」が毎月「ガロ」を買っていて、いつもそれを読ませてもらっていたのですが…

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2008年11月 3日 (月)

太郎ちゃんの漫画王かりんとう

 今日(十一月三日)、南無谷から帰ってきました。房総の金谷から久里浜へのフェリーの中でもこれを売っていました。

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  太郎ちゃんの「漫画王」明太子かりんとう。「太郎ちゃんまんじゅう」もありました。行きには「純ちゃんまんじゅう」を買ったことだし、これも買ってみました。
 この内閣もそう長いことはなさそうだから、いつまでも売っているとは思えないので。

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2008年10月31日 (金)

さよなら純ちゃん

 昨日(十月三十日)、南無谷へ来るとき、久里浜のフェリー乗り場で、こんなものを売っているのを見つけました。

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 「さよなら純ちゃんまんじゅう」とは、さすが地元横須賀だと思ったら、隣には麻生総理の似顔の「「漫画王」かりんとう」が置いてある。製造は東京の菓子屋さんでした。

 小泉純一郎が総理だった頃、横須賀市民の知人が、
「小泉は、横須賀へなんにも持ってこなかった。田中角栄みたいなことは、地元になんにもしなかった」
 と言っていたことを思い出します。これは悪口だったのか、ほめていたのか。その知人はすでに亡くなってしまいましたが、半分半分だったような気がします。

 それよりずっと昔、わたしが友人の結婚披露宴の司会をしたときのこと。スピーチをお願いした新婦のお茶の先生が「衆議院議員小泉純一郎先生のお姉様」であることを紹介し忘れてしまい、その後、あれは言わないといけなかったかなあと、しばらく気になっていました。その頃は「小泉純一郎先生」を全然知らなかったので意識せずに飛ばしてしまいましたが、こんなに有名な人になるとは。

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2008年10月30日 (木)

サツマイモの花

 サツマイモの花が咲きました。
 観葉植物として、うちの奥さんがベランダで育てていたもの。

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 けっこう珍しいものらしいので、載せてみました。

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2008年10月27日 (月)

さらば横浜松坂屋

 中日ドラゴンズは残念ながら巨人に負けました。まあ、シーズンの勝率五割一分一厘、ゲーム差十二で日本一というのも、ちょっと申しわけないというか、気がひけるなとは思っていましたが。
 クライマックスシリーズ第三戦で、川上がイ・スンヨプに3ランを打たれたのが痛かった。思い出すのは北京五輪の韓国戦。あのとき岩瀬がきちんと押さえておけば、イ・スンヨプは今年中立ち直れなかったことだろうに。
 その川上は、来年はアメリカへ行きそうだし、ウッズが退団という話も流れています。出ていきたいのはしょうがありません。来年、落合監督がどういうチームを作るのか、楽しみに待ちましょう。

 昨日(十月二十六日)、伊勢佐木町の本屋(有隣堂)まで行ったら、ちょうど横浜松坂屋の閉店日で、まわりにおおぜいの人が出ていました。
 携帯でその写真を撮りましたが、こないだ携帯を落としたとき運悪くカメラのレンズを傷つけてしまったようで、写真の一部ぼんやりしています。失礼。

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 四十年前、わたしが横浜へ来たときには、ここは野沢屋という地元資本のデパートで、道路をへだてて松屋の横浜店がありました。どちらも当時としても小さく、建物も古く、さえない感じでした。横浜駅西口に大きな高島屋ができ、西口が新しい商業地として発展しはじめたころです。
 その後、野沢屋は松坂屋に吸収され、松屋は横浜から撤退。松屋の建物も合わせて今の「横浜松坂屋」になりましたが、ずっと営業的にはおもわしくなかったようです。松屋だった建物の方は、今では中央競馬に場外馬券売場(「エクセル伊勢佐木」)として貸していて、収益があがっているのはこちらのほうのようです。

 松坂屋のホームページにこんな記事がありました。 

平成10年(1998)10月横浜ベイスターズが38年ぶりのセントラルリーグ優勝と日本シリーズ制覇を果たし、地元百貨店として2度にわたる『横浜ベイスターズ優勝セール』を開催し、期間中30万人を越える顧客を動員。創業以来最高値の1日当り売上・入場客数を記録した。http://www.matsuzakaya.co.jp/yokohama/history/history04.html

 これは「横浜」松坂屋としてバーゲンをやったわけですが、松坂屋は名古屋の老舗です。これを横浜「松坂屋」として、中日の応援バーゲンをやっていたらどうだったでしょうか。一回あたりの売上は多少少なくても、ベイスターズとは違って、何度も優勝バーゲンができたはずですが。 

 まあそれくらいのことで閉店せずにすむような状況ではなかったのでしょうけれど。本体の松坂屋も、大丸と合併して「J.フロント リテイリング株式会社」という、なんだかよくわからない名前の会社になってしまっています。

 

 

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2008年10月16日 (木)

横須賀線は死んだか

 原武史の『鉄道ひとつばなし』(講談社現代新書)に「横須賀線は死んだ」と題する章を見つけた。
  原武史は日本政治思想史を専門とする大学教授で、わたしは未読だが『大正天皇』(2000年、朝日選書)は、けっこう評判になった。
  鉄道マニアでもあるようで、『鉄道ひとつばなし』は、鉄道と専門の歴史をからめたエッセイを集めて、なかなか楽しい本になっている。

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  その中で「横須賀線が死んだ」とは、横須賀線がJRの単なる一通勤路線に成り下がってしまった、ということ。

 東京と古都鎌倉、葉山御用邸に近い逗子、そして軍港で鎮守府のあった横須賀を結ぶ横須賀線。戦前以来の国有鉄道の歴史の中で、これほどしばしば天皇や皇族、海軍軍人、文化人らが利用し、「帝国」の栄光を一身に集めてきた線は他にない。(P148)

  横須賀線は、当時としては驚異的なスピードを誇り、車両にもトイレや空気ブレーキなど最新のサービスが施されていたという。(こういうところで、きちんと所要時間や具体的な物を出して説明するところがいかにもマニアらしい)
 それが今は、スピードは当時と同じか、停車駅が増えたことから逆に若干遅くなり、車両も首都圏のどこにでもある4ドアの通勤車両になってしまったと嘆く。
  この没落は一九八〇年の東京地下鉄への乗り入れと総武本線や成田線などとの直通運転からはじまった。そして今や往年の栄光の横須賀線は「死んだ」というわけである。
 
  わたしは学生時代の一時期逗子に住んでいたので、その頃の横須賀線を覚えている。しかしその頃毎日利用していたのは京浜急行の逗子線だった。
  わたしたち京浜急行利用者の間では、東京・横浜間を平行して走る東急東横線との違いがよく話題になった。海側の京浜工業地帯を走る京浜急行と山手の住宅地帯を走る東横線。工場労働者の電車とホワイトカラーの電車。利用者にあわせたかのように、ガタガタ大きく揺れながらスピード第一で走る京急、悠揚におっとりと走る(かのように見える)東横線。
  当時、映画俳優のチャールズ・ブロンソンが男性化粧品マンダムのCMで大人気を博していて、わたしの競輪好きの友人はこう言った。
「ブロンソン、ブロンソンというが、あんな顔の奴は、競輪場へ行けばいくらでもいるぞ」
 沿線に競輪場や競艇場がいくつもあるのが京浜急行だった。

 それに比べると、ときどき乗る横須賀線はあきらかに客層が違っていて、それらしい高級な雰囲気があった。
  鎌倉駅のホームで小林秀雄を見かけたことがある。足取りがおぼつかず、最初は年齢のせいかと思ったが、よく見ると酒がはいっているようだった。逗子の駅では團伊玖磨を見た。こちらは意気軒昂という感じだった。
  彼らが横須賀線のグリ-ン車から降りてくるのに不思議はなかったが、京浜急行に小林秀雄が乗っている姿は想像もできなかった。
  だから横須賀線に津田沼行や成田行が走るようになって、だんだん変わってきたというのは、なんとなくわかるような気がする。

  原も書いているように、さらに二〇〇一年には湘南新宿ラインが開通し、東京駅を経由しないで埼玉方面へ行く電車まで走りはじめた。わたしも東海道線藤沢駅で上りを待っていて「籠原行」という電車がやってきたときは驚いた。東京行きでも品川行きでもない、これはいったいどこへ行くのか、ホームを間違えてしまったのか、一瞬わけがわからなくなった。今でも籠原というのはいったいどのあたりなのかよくは知らない。
 
  そういえば先月(九月十三日)のこと。友人宅で呑んだあと、横須賀線で電車を乗り過ごしてしまった。保土ヶ谷駅で乗って、わが家は大船駅で乗りかえないといけないのに、はっと目がさめたら暗くてさびしい北鎌倉駅。
 しまった、戻らなければとホームに降りたところ、向かいのホームに電車がやってきた。あれに乗らなくちゃと思うものの降りたところはホームの端。北鎌倉駅には跨線橋はないが、ホームの端から端まで走って乗りかえるのは、たとえ酔っていなくてもできそうにない。半分あきらめて歩いているとやはり電車は発車してしまった。まあ次でもいいやと思っているうち、向かいのホームの明かりが全部消えてしまった。なんと今行ったのが上りの最終電車だったのだ。
  時刻表を調べてみると、乗ってきたのが二十三時四十分の久里浜行、行ってしまったのが二十三時四十二分の品川行でやっぱり最終。下りはまだあるが、上りは本日終了というわけだった。
  あきらめて外へ出る。北鎌倉の駅付近は暗い。線路の反対側は円覚寺だから明かりはないし、数少ない駅前の店はとっくに閉まっている。どこかの田舎の駅と言ってもいいくらいだ。
  小津安二郎の映画で、大学教授の笠智衆と娘の原節子が住んでいたのが北鎌倉だった。(こういう設定が自然なところが昔の横須賀線の雰囲気である)なんだかあの白黒の映画とそれほど雰囲気は変わらないような気がする。ここで原節子のような娘が
「お父様、お帰りなさい」
と迎えに来てくれればいいが、現実は一人でとぼとぼと暗い鎌倉街道を歩かなければならない。そのうち通りかかった空車のタクシーをつかまえてなんとか帰宅したけれど、この夜の横須賀線は、上りが目の前で死んでしまったというわけだった。

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2008年10月11日 (土)

樽見鉄道モレラ岐阜号

 10.8決戦は巨人が勝って、昨日、優勝も決まりました。いよいよクライマックスシリーズ、今年も楽しみです。

 ちょっと前(9月23日)のことですが、用あって岐阜県の本巣市というところへ行ってきました。新幹線で名古屋へ行き、さらに東海道線で大垣まで。そこから乗ったのが樽見鉄道という、もと国鉄樽見線、今は第三セクターの鉄道会社になっているローカル線。
 大垣駅で乗り換えようとして目の前にあらわれたのがこの電車。

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 ディーゼル車一両きり、しかもこの色。ちょっと驚きました。これはこの先にある(わたしの目的地でもある)「モレラ岐阜」という大型ショッピングモールのPR広告車として、こういうデザインになっているのですが、数台ある車両がそれぞれ青だったり白だったり、いろいろにデザインされていました。鉄道が生き残るための努力のひとつのようです。

 当然単線で、田んぼや畑の中を進んでいきます。下の写真は揖斐川の鉄橋にさしかかるところ。 土手の赤い花は彼岸花です。

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 鉄道趣味というほどのものはありませんが、駅のすぐ前の家で生まれ、幼い頃から蒸気機関車や電気機関車を目の前に見て育ったせいか、乗ったことのない電車に乗るのは楽しみです。なんとなくうれしくて、一番前まで行って写真をとってしまいました。

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2008年10月 8日 (水)

10.8決戦

 ブログをずいぶん休んでしまいました。まだ肩の痛みは続いており、はじまってから三カ月を越えました。この歳になると、もうこのまま治らないのかも、と少し心配になってきます。

 さて今日は10月8日で、今日行われる巨人と阪神の試合が「10.8決戦」とよばれています。
 「10.8決戦」と言えば、1994年の中日と巨人の優勝をかけた最終試合のことで、うろおぼえですが、独走していた巨人が9月になってからつまづき、ぎりぎりのところで中日が追いついて、決戦になったと記憶しています。なんだか今年の独走阪神がここへきて巨人に追いつかれたのと似ているような気がします。
 その「10.8決戦」は、早い回に中日のエース今中が打ちこまれ、まったく残念ながら巨人が優勝しました。

 今年は、まだクライマックスシリーズがあり中日にもチャンスは残されています。しかし「10.8決戦」だなんだと大騒ぎしたあげく、勝率5割そこそこの中日が日本シリーズ出場ということになったらどういうことになるのか。甲子園では暴動が起こり、読売は「クライマックスシリーズの見直し」キャンペーンをはることになるのでしょうか。

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2008年9月 9日 (火)

『神様、仏様、稲尾様』

 星野の話をもう少し。
 わたしの記憶にある星野は、今ひとつ頼りきれない投手、というものです。巨人戦、ウォーッと吼えながら途中までは好投するけれど、終盤力つきて結局打たれてしまう。格好はいかにも闘志にあふれていて人気はあったけれど、投手としての実力は一流とはいきませんでした。あのころの他球団のエースといえば、堀内、江夏、平松という超一流どころでしたから、星野に同程度の活躍を期待するほうが無理だったのでしょうが。

 あのころ中日のピッチングコーチをした、かつての西鉄ライオンズの大投手、「鉄腕」稲尾和久が、自伝『神様、仏様、稲尾様』の中に、星野のことを書いています。

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 昭和53(1978)年、稲尾は、中日のピッチングコーチになりました。

 特に面白かったのは星野だ。気持で投げる投手がいるというのを、彼と接して初めて知った。ウオーミングアップを見ていると、とても怖くて投げさせられないという気持ちになる。球がおじぎしている。ところが試合になると別人だ。特に巨人戦はすごい。自分で自分の頬にビシっとびんたを食らわせ、「イテッ」といってマウンドに向かう。そしてブルペンでは考えられなかったような球をびしびし投げる。ほかのカードでもこの気合が出せれば本当にすごい投手なのにと、もったいなく思えるほどだった。
 こんなことがあった。星野先発の試合、3点リードで七回まできた。球威が落ち始めていた。ピンチを招いてわたしがマウンドに向かうと、右のこぶしでグラブをバンバンたたき、いかにも元気いっぱいの様子。ところが「どうだ」と話すと「見てわかるでしょう。駄目ですよ。リリーフを用意してください」。
  一体この態度と会話のズレは何なのか。引っ掛かりを覚えながらも、行けるところまでということにしてベンチに帰った。
  八回またピンチになる。さすがにもう限界だ。再びマウンドに行くと、そこでも彼はピンピンしている様子で、疲れなどおくびにも出さない。しかし話はもう次の投手のことだ。「だから駄目だって言ったでしょう。ところで次は誰ですか」などと平気で交代を前提とした話をしてくる。「孝政(鈴木)だよ」というと「あいつ調子悪いですよ、大丈夫ですか」などと実に冷静だ。
  とにかくマウンドを降りるのは本人も納得だと思い、監督に交代の合図を送った。(中略) 
  交代となって、鈴木が出てくる。マウンドを降りていく星野。ここで彼の態度が一変するのである。憤然とベンチに向かったかと思うとグラブを地面にたたきつけた。納得の交代ではなかったのか。おまけに鈴木が打たれて追いつかれたのがまずかった。無念を示した星野のパフォーマンスに興奮していたファンから、「なぜ星野を代えた」と野次の集中砲火を浴びて、こちらもほとんど火だるま状態になってしまった。
  翌日星野を問い詰めた。「おい、昨日の態度は何だ。あれじゃまるで無理やり代えたみたいじゃないか」。その答えがふるっていた。
「稲尾さんはまだ名古屋にきたばかりで知らんでしょうが、私は燃える男といわれとるんです。どんな状況でも弱気なところは見せられんのです」
(稲尾和久『神様、仏様、稲尾様』2004、日経ビジネス人文庫、P232~234)

 星野は、燃える男を自分で演出しながら、一方で自分の力はちゃんとわかっていたんですね。(まるで自分を客観的に見られる福田首相のようだ?)監督として実績を残したのもうなずけます。

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2008年9月 5日 (金)

『勝利投手』

 北京五輪での成績が芳しくなかったため、野球の星野監督がテレビや週刊誌でバッシングを受けています。
  わたしは昔からの中日ファンなので、阪神に寝返った星野(以下敬称略)には愛憎半ばするところがあり、あんな負け方では叩かれても仕方がないと思う反面、ここまでやらなくてもという気もしています。
  ということで今回は、星野が実名で出てくる野球小説『勝利投手』(梅田香子(ようこ)1989、河出文庫)を紹介します。

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  夏の甲子園に突然あらわれて優勝をさらった謎の投手は、実は野球部のマネージャーの少女だった。
  以前から中日ドラゴンズの星野の大ファンだった彼女は、その星野の援護で、大騒ぎのドラフトの後、中日に入団。そして同僚の捕手との恋や怪我などの曲折を経て、闘将星野監督のもと遂に中日を日本一に導く。

 と、あらすじを書くだけで恥ずかしくなるくらいの「熱血ロマン中日ドラゴンズ小説」です。星野ファンだった作者が、短大時代にミニコミ誌「星野新聞」を作って、そこに連載していたのがこの小説だそうで、なるほどそれならと納得できます。
http://www.odekake.us/index/brilliant_people7.htm
 実はこの本のことは去年まで知りませんでした。読んでみると、投手は鈴木孝政、小松、牛島、郭に半ば忘れかけていた都裕次郎、打者は平野、谷沢、大島、宇野…。二十年前の選手たちです。なつかしく、うれしく読みました。
 小説としてはそれなりのレベルに達しています。1986年に河出書房の文藝賞の佳作に選ばれて単行本として十二万部売れ、アニメーションにもなっています。横浜のわたしが全然知らなかったというのは、もっぱら売れたのは名古屋中心だったということでしょうか。
 
 しかし文藝賞で思い出すのは、あの高橋和巳です-巨人の左のエースだった高橋一三ではありません。第一回文藝賞を受賞したのが出世作『悲の器』でした。重厚で苦悩に満ちた高橋の作品を、わたしも学生時代、眉間に皺を寄せながら読んだものでした。
  このひたすら明るくてアッケラカンとした熱血野球小説が、佳作とはいえ文藝賞とは…わたしの知らないうちに、二十年前、すでに世の中は変わっていたようです。
  当時の選考委員だった江藤淳がこの作品をほめたそうですが、江藤淳は中日ファンだったという話ですから、多少割り引いて聞かないといけないかもしれません。
  ともかく、わたしは楽しく読みましたが、中日ファン以外の人も楽しく読めるかどうか、保証はできません。
 
 星野は、こんな小説が作られるくらい、昔から人気がありました。
  1982年10月、中日がリーグ優勝を決めた横浜スタジアムでの大洋戦、わたしは三塁側内野席で応援していました。小松が投げていて、ほぼ中日の勝ちが決まった終盤、引退が予測されていた星野を出して優勝投手にしてやれと、三塁側から「星野コール」の大合唱が起こったのを今でも覚えています。結局星野は出てこず、最後まで小松が投げたと思いますが。

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2008年7月26日 (土)

暑い、痒い、痛い

 今年の夏は暑い。
 先週三泊四日で南無谷へ行き、草刈りや草むしりをしていたら、暑さに全くまいりました。しばらく身体をつかっていなかったこともあり、体力の消耗が激しい。

 そのうえ毛虫にでも刺されのか、何かの樹液にでもかぶれたのか、小さな水泡が二つ三つ寄り合って腕のあちこちにできて、これが痒い。おさまってきたかと思うと、その裏側にまた出てきたり、なかなかおさまりません。
 前にも同じような状態になったことがあり、このときは皮膚科に行きましたが、結局何が原因かはよくわからず、「これをつけて様子を見ましょう」と言って出された薬で治りました。その薬が、まだ残っていたので、病院へは行かず、朝晩塗っていますが、まだまだです。

 おまけに、もう二週間くらい前から、右肩が「六十肩」状態で、こちらは日を追って状態が重くなっています。過去に四十肩も五十肩も、右も左もやったのに、どういうわけかまた同じ肩痛。
 こうなると「○十肩」のベテランですから、自分で診断できます。残念ながら、まだ痛みが頂点まで達していないから、もうしばらく辛抱しないといけない。痛みがピークに達したら、その後ある日痛みは薄れるだろう、ということです。やれやれ。
 何年か前には左膝に水がたまって痛かったし、体質として関節に弱点があるんでしょうか。そうだとすると、土屋賢二教授(http://www008.upp.so-net.ne.jp/kenji/)なら、プロレスラーや格闘技家にならなくてよかった、先見の明があったからだ、とでも言ういうことになるのでしょうが、痛みは軽くはなりません。

 そんなわけで、暑い、痒い、痛い、の三拍子のおかげで、仕事もブログもはかどりません。出かけないといけない用もあるので、仕事の方は今日から三連休にしました。

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スピードの水着

 北京オリンピックが近づいてきました。
 先日、うちの奥さんに「俺のスピードの水着を出しておいてくれ」と頼んだら、「何を馬鹿なこと言ってるのよ」と一顧だにされませんでした。
 しかし、わたしは本当にスピードの水着を持っているのです

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 写真が、余りきれいでなくてすみません。六年くらい前になるでしょうか。普通の海パンとして買いました。美津濃の製品だと思っていました。この頃は”SPEEDO”ブランドは、美津濃が売っていたんですね。

 はいてみると、腹がぎゅっとしめつけられます。これは腹が出てきたせいではなく、あの有名な締めつけ効果のせいでしょう。なんとなく昔より速く泳げそうな気もしてきました。
 さあ、海へ行こう。

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2008年7月11日 (金)

蟹工船・党生活者(小林多喜二、新潮文庫)

 「蟹工船」と言えばプロレタリア文学の名作ということになっている。読んだことのない人でも話のあらすじはなんとなくわかっているのではないか。
  昭和初期、カムチャッカ沖のオホーツク海で蟹を捕り、船内で缶詰に加工する「蟹工船」で、過酷な労働条件のもとに働かされる労働者たちが、やがて団結してストライキに踏み切るが、資本家と結託した帝国海軍の介入によりいったんは敗北する。しかし、虐げられた労働者たちは再び立ち上がる、というストーリー。
 これが、どういうわけか、最近の若者たちに読まれていると評判になって、雑誌やTVが取り上げている。

  Photo_2

  ネットで調べてみると、作家の佐々木譲のこんな文章があった。(この作家の作品は読んだことがないが)。全文を引用する。産経新聞の「断」というコラムに書いたものらしい。

 
    【断 佐々木譲】蟹工船の次に読むもの

 小林多喜二『蟹工船』が売れているという。意外に感じるが、じっさい大手書店には平積みのコーナーまでできている。

 新しい読者は若いフリーター層、ワーキング・プア層が中心らしい。とすればこれまで、プロレタリアという言葉も知らなかったひとたちなのではないか。彼らが『蟹工船』の労働者たちに共感し、自分たちの境遇が「自己責任」などのせいではないと知るのは喜ばしいことだ。

 わたしが『蟹工船』を読んだのは、40年近くも昔、20歳前後のことだったろう。短期の肉体労働を繰り返していたころだ。それでもそのころすでに『蟹工船』は遠い時代の物語だった。労働3法は、たとえばわたしの体験した自動車工場の内部でも、とりあえず機能していた。日産京都工場の大争議など、『蟹工船』を連想させる事例は散発していたにせよだ。

 しかし、いまの派遣社員やワーキング・プア層の労働環境を見ると、事態は40年前よりもずっと小林多喜二の時代に近くなっているようだ。わたしの身近にいる若いひとたちの例を聞いても、その悲惨さは理解できる。現在は管理のシステムが洗練されただけだ。

 いまの『蟹工船』の読者は、次に何を読むのだろう。そこが問題だという気がする。かつて、わたしのまわりにいた底辺労働者たちは、小林多喜二などまったく読んでいなかった。いくらか知的好奇心のある労働者は、大藪春彦を読んでいた。わたしは最近の『蟹工船』読者たちに勧めたい。船戸与一はよいと思うぞ。(作家)
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/080525/trd0805250332002-n1.htm 

 わたしも四十年の昔、この本を読んだことがある。しかし余りにも図式的な話にうんざりして途中で投げ出してしまった。資本家の暴虐、底辺にうごめく悲惨な労働者たち、やがて怒りが限界に達し、手を組んで立ち上がる労働者たち!
  佐々木も書いているように「蟹工船」の労働状況はいかにも古く、遠いものに思われ、また、こんな単純な話じゃないだろうとも思われた。

 今回あらためて読んでみても、それほど感想は違わない。「蟹工船」の労働状況は、たしかにこのようにあったものだろうが、やはり四十年前とも現在とも違う、古く遠いものに思われる。虐げられた労働者が手をつないで最後に立ち上がるという図式もちょっと恥ずかしい。

 しかし、どうもこの図式が、現代の格差問題、ワーキングプア問題に通ずるものとして評価されているようだ。
  毎日新聞の毎日.JPでは、今年1月9日に毎日新聞東京本社版朝刊文化面に掲載された作家の高橋源一郎と雨宮処凛(かりん)の対談が「蟹工船」ブームに火をつけたとして、次のように書いている。

 対談で、雨宮さんは「『蟹工船』を読んで、今のフリーターと状況が似ていると思いました」「プロレタリア文学が今や等身大の文学になっている。蟹工船は法律の網をくぐった船で、そこで命が捨てられる」と若者たちの置かれている状況を代弁するように発言。高橋さんも「今で言う偽装請負なんだよね、あの船は」「僕は以前(略)この小説を歴史として読んだけれど、今の子は『これ、自分と同じだよ』となるんですね」と応えた。
http://www.mainichi.jp/enta/book/news/20080514dde018040019000c.html

 わたしは戦後民主主義の風潮の中で育ったせいで、労働者の権利や団結という言葉を普通のものと受けとめ、虐げられた労働者がやがて立ち上がるという図式も、よくあるありきたりのものとしか感じられなかった。しかし今の若者にとっては、それが新しい考え方、世界のとらえ方ということになっているのだろうか。
  貧困のレベルは違っても、ワークキングプアの現状は、蟹工船に捕らえられている状態と構造的には同じで、そこから脱出できる方法をさがしているということだろうか。

  そうだとするなら、すぐに役立つ答えはないけれど、「蟹工船の次に読むもの」として、白土三平の『カムイ伝』をすすめたい。船戸与一も悪くはないが、できれば『忍者武芸帳』から始めて白土三平をじっくり読んでみることをすすめる。進化したプロタリア文学がここにある。

 「党生活者」は、パラシュートなどを作る工場に、身分を隠して臨時工として入り込んだ共産党員の組織活動とその生活の細部を描いた作品。
  生活を支えてくれるシンパの女性(笠原)に対する主人公の対応は、フェミニストの怒りの鉄槌を免れないところだが、この部分をふくめて、この時代にひとつの理想に燃えて生きた人間の実態をうつした記録として評価できるのではないか。むろん共産党に対する評価は、また別の問題である。

   
おまけ1
  白樺文学館というHPにある多喜二ライブラリーでは、市販もされている『マンガ蟹工船』が無料で公開されている。「30分で読める…大学生のための」という副題。
  http://www.takiji-library.jp/collection/read/kanikousen/kani_cmc.pdf

おまけ2
 余計なことだが、筒井康隆の『宇宙衞生博覽会』には「蟹甲癬」という作品があるが、これは「蟹工船」とは関係ない。また筒井康隆の毒に耐性のない人は、読まない方がいいと思う。

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2008年7月 3日 (木)

こぐこぐ自転車

 二月に自転車を買いました。使っていたママチャリがこわれてしまったからですが、ちょうど買い換えを楽しみに待っていたところでもありました。というのは、『こぐこぐ自転車』(伊藤礼、平凡社、2005)という本を読んで、今度買うときにはこれにしたいと思っていた自転車があったのです。

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 『こぐこぐ自転車』というのは、まもなく古希で定年退職という大学教授が突然自転車に目覚め、同じような年齢の仲間たちと、房州、碓氷峠、はては北海道へとツーリングに出かけていくという話で、旅の様子や自転車についての蘊蓄があれこれ語られる。
 文章がいい。著者は作家の伊藤整の子供で、『チャタレイ夫人の恋人』完訳版の訳者でもある。ところどころ皮肉もきかせながら、さりげない書き方ですっとぼけた味のユーモアがにじみ出ている。
 例えば自転車を買ったときの話。自転車雑誌やカタログなどを三カ月にわたって検討し、二十万円のこれこれの自転車を買おうという魂胆を秘めながら自転車店にやってきた著者は、

 それから私はなんとなくお店を見たくて来たのであって、とくに何かを買いに来たのではないというふりをした。最初からこれこれこういう自転車を買いたくて来たのだと言うのはお互い気疲れをするものであるからだ。これこれこういう自転車が欲しくてたまらない、というような気分を横溢させて店に飛び込むというようなことは控えなければいけないのだ。買うことになるにしても、なんとなく買うはめになったとか、すごく気に入ったものを偶然見つけたら嬉しくなってつい買ってしまった、という形にしたいのである。最初から計画的に何かをほしがるというのは下品なのである。どんなに欲しくても歯を食いしばって顔や態度には出さないというのが望ましかった。(P208)

 そして、ほしい自転車の名前をはっきり言わないままに、店の小僧にすすめられた他のメーカーの十六万円のマウンテンバイクを買ってしまう。しかし、この自転車はいい自転車だったようで著者は満足したのであるが、この話にはこんな落ちもついている。
  出かけた先でパンクを直してもらった自転車屋から

 「だけどね、あんた、なんだってこんな自転車を買ったんだい」。私が自転車にまたがって走り出そうとしたとき、彼は言うのだった。
  「そういうのは高校生が乗る自転車だぜ」

  古希をすぎて、この赤と黄色だんだらの「茹であげた上げたタラバ蟹の脚」のような自転車で四国を走ってきたという著者に敬意を表し、わたしも自転車がほしくなった。むろん何十万もする自転車などとても買えないし、碓氷峠も箱根の山も手におえそうにない。ほしくなったのは、著者が四台目に買ったという普通の主婦用自転車である。
  宮田工業のこの「クオーツXLα」は、通常二十キログラム前後の重量がなんと九.九キログラムという超軽量で、しかも値段は四万円だという。それに著者はこうまで書いている。

  極端なことを言うと、宮田工業はこんな自転車が作れるのならこれ以外の自転車を作る必要はない、と思うくらいである。軽いから発進に苦労しない。内装三段の変速機がついているから都内の坂道ぐらいなら不便は感じない。また当然のことながら、なによりも私の三台の折り畳みに較べると、格段に乗り心地がいい。安定している。Quartz XL αにまたがると、これなら下関ぐらいまでなら平気で行ってしまうな、と自然に考えてしまう。(P190)

 これはほしくなりますね。そこへ持ってきて、おあつらえ向きにママチャリがこわれてしまいました。(わざとこわしたりはしていません)
  ネットで調べてみると、ありました。
 
・MIYATA(ミヤタ)クォーツ・エクセルα
   サイズ 26インチ
  カラー シルバー
  変速 3段変速付き
  重量 10.5kg(変速機なしモデルの重量)
http://item.rakuten.co.jp/joy-joy/dqf630/

 これまで使っていたホームセンター特売のママチャリなら四台買える値段ですが、思い切って買いました。この機種は受注生産だということで、二週間ぐらい待って二月初めに届きました。

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  乗ってみると本当に軽い。坂道も軽い。これまで立ってこがないと登り切れなかった坂が座ったままで登りきれました。さすがに下関まで行けそうな気まではしませんが、郵便局まで荷物を運ぶ毎日の仕事がちょっと楽になりました。
 
 そのうち赤と黄色だんだらのとんがりヘルメットをかぶって、
 
  サイクリング サイクリング
  ヤッホー ヤッホー

とやってみましょうか。

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2008年5月22日 (木)

花はマロニエ 港南台

 わたしの住む街、横浜の港南台では今、街路樹のマロニエの花が咲いています。
 これがJR港南台駅前のマロニエ。

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 こんな花です。赤い花と、少しですが、白い花の木もあります。P5190152

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 なぜ港南台でマロニエなのか。港南台商店会のHPを見てみると、ヨーロッパの都市をモデルにした街づくりということから、パリで街路樹として使われているマロニエが選ばれて、1994年に初めて植えられ、現在では約70本になっているということです。http://www.konandai.net/maronie.htm
 商店会のキャッチフレーズは「野鳥のさえずりと彫刻とマロニエの街・港南台」となっています。

 この花があるからといって、港南台がパリに似ているとか、通りが「横浜のシャンゼリゼ」と呼ばれているようなことはありませんが、この花が咲くと思い出す歌があります。

花はマロニエ シャンゼリゼ
赤い風車の 踊り子の 
今更かえらぬ 身の上を

 「カスバの女」です。(このURLをクリックすると曲が聞けます→http://8.health-life.net/~susa26/natumero/26-30/kasubanoonna.htm

 パリにもカスバにも行ったことはありません。そもそもこの歌をカスバの住人やムーラン・ルージュの踊り子たちに聞かせても、自分たちのことを歌った歌だとは決して思わないでしょう。 
 この歌で思い出すのは、パリでもカスバでもなく、この歌がはやった時代です。若くて、馬鹿で、思い出すのも恥ずかしいような時代。
 といっても、よる年波とともに、昔の「忘れようとして忘れられない出来事」も、だんだん「忘れようとして思い出せない(注1)出来事」になってきました。それでもなんとなく雰囲気だけは思い出します。

 宴会のカラオケで、「花はマロニエ 港南台」と替え歌を歌い出す、同年輩のオヤジもきっといるんでしょうね。わたしは音痴だから歌いませんが。

注1:今は亡き鳳啓助のギャグ

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2008年3月 7日 (金)

スティーヴン・ハンターとジョージ・オーウェル

 なむや文庫の二月の本棚には、アメリカの冒険・推理小説作家スティーヴン・ハンターを取り上げました。http://homepage2.nifty.com/namuyabunko/monthlypage.html

 ベトナム戦争における超人的狙撃兵ボブ・リー・スワガー、その父で太平洋戦争・硫黄島の英雄アール・スワガーをそれぞれ主人公とする小説シリーズは、日本では「スワガー・サーガ・シリーズ」と呼ばれ、大きな評価を得ています。 
 わたしは、このタフでストイックな親子二代の主人公の風貌として、映画俳優チャック・コナーズを思い浮かべながら、十分楽しませてもらいました。
 チャック・コナーズは子どもの頃大好きだったテレビ映画「ライフルマン」の主役です。ライフルマンはその名のとおり射撃の名手。長身でライフルをピストルのように指に引っかけて回してみせました。小坂一也が歌っていた主題歌では「いかつい顔にやさしい目」と歌われていた容貌で、後に西部劇映画の悪役として活躍しました。
 本の帯のうたい文句に「男たちの死闘を描いて天下無双!」とあるように、アクションが中心の小説ですが、『狩りのとき』は、ベトナム戦争の時代のアメリカの気分というものを少しわかるような気にさせてくれた作品でもありました。高く評価しています。

 スワガー・シリーズとは別の作品のひとつに『さらば、カタロニア戦線』があります。イギリスのそれほど豊かとは言えない階層から成績優秀の故に伝統パブリックスクール「イートン校」に学び、しかし大学には進まず植民地インドの警察官となり、ビルマに勤務、その後スペインの共和国軍に義勇兵として参加という、主人公ロバート・フローリーの経歴は、あきらかにイギリスの作家ジョージ・オーウェルの経歴そのものです。邦題の『さらば、カタロニア戦線』も、原題は"Tapestry of Spies"だから、オーウェルの『カタロニア讃歌』を意識したものでしょう。

 しかし、この本の北上次郎の解説にはオーウェルのことは触れられていませんでした。むろんこの小説はスパイ活劇で、内容とオーウェルとはまったく関係ありませんから無視したからどうだということではありませんが、オーウェルのファンとしては、ひとこと触れてほしかったところです。
 第一部の船が沈没するシーンで、主人公が突然銃に撃たれた象の姿を回想するところは、著者自身があきらかにオーウェルの「象を射つ」を意識して書いていると思われます。プロローグにはビルマでの絞首刑のシーンが出てきますが、オーウェルには「絞首刑」という作品もあります。(注1)
 わたしくらいの歳だと、カタロニアというだけでオーウェルを思い起こす人間がかなりいると思います。学生の頃、『カタロニア讃歌』をスターリン主義批判の資料として読んでいる友人もいました。
 こんな話は、若いミステリファンには何のことだかわからないでしょうし、『動物農場』も『一九八四年』も、もうあまり読まれてはいないのでしょうけれど。

(注1)角川文庫の『動物農場』に「象を射つ」も「絞首刑」も収録されています。

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2008年3月 6日 (木)

カモメのみなさん

 3月3日(月)から昨日5日(水)まで、南無谷に行って、種ジャガイモの植え付けなどをしてきました。
 わが家は横浜でも南の方なので、いつも横須賀の久里浜から千葉県富津市の金谷まで、「東京湾フェリー」を利用しています。
 帰りのフェリーに乗り込んだら、船室の外の手すりはカモメでいっぱい。

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 外へ出てみると、こんな感じ。

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 三十数年前、リチャード・バックの『かもめのジョナサン』という小説がベストセラーになり、どういうわけが、このジョナサンにちなんだなぞなぞが大流行したのを思い出しました。

Q:カモメの群が飛んできた。先頭にいるのはカモメのジョナサン。ではその他のカモメはなんというか?
A:カモメのみなさん

Q:その中で敬礼しているカモメは?
A:カモメの水兵さん

Q:頬に傷のあるカモメは?
A:カモメのヤーサン

 こんなのが大量に出回りました。中にはこんなのも

Q:カモメのジョナサンは三人兄弟の末っ子である。お兄さん二人の名前は?
A:ジョナイチとジョナニ

 他には「ど根性スズメ」のシリーズもあって、一世を風靡しました。

 まあともかく、ヒヨドリのみなさんだけは余りのさばらないでほしいものです。

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2008年2月11日 (月)

右は高輪泉岳寺

 昨日(2/10)は、高輪の泉岳寺近くの笹川記念会館へ「平成十九年度全国剣詩舞群舞コンクール決勝大会」というものを見に行きました。親戚の人が出場するというので行ったのですが、見るのも聞くのもはじめて、「剣詩舞群舞」という言葉の読み方からしてわかりませんでした。
 プログラムを見、舞台を実際に見て、わかりました。詩吟にあわせて剣を持って踊るのが剣舞(けんぶ)、扇を持って踊るのが詩舞(しぶ)」、合わせて「剣詩舞(けんしぶ)」と言い、昨日は、剣舞は三人、詩舞は五人で踊るから「群舞」、いわば団体戦の全国決勝大会ということのようです。
 はじめて見てちょっと驚きました。剣舞は、殺陣のような立ち回りをやって、ジャンプ技があったり、けっこう激しいところもあります。ともかくこれまでまるで知らなかった別世界なので、踊りについてはなんとも評しがたいけれど、これだけ大勢の人々がかかわっていて、それなりのマーケットもできているということをはじめて知りました。

 その後、ここまで来たからにはと、泉岳寺に行きました。鉄道唱歌の二番

右は高輪 泉岳寺
四十七士の 墓どころ
雪は消えても 消え残る
名は千載の 後までも

 幼い頃、父だか母だかが歌ってくれたのを覚えています。
 

 これが門前。

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 これが本堂。

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  「首洗いの井戸」というのもあります。江戸時代までは日本人は首狩り族だったということになるのでしょうか。前の石の柵は「川上音二郎建之」となっていました。

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 そしてこれが墓どころ。右端の屋根つきの大きな墓は大石内蔵助、左に並んでいる小さな墓がその他の「義士」たちの墓です。四十七士全員の墓がありました。

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2008年2月 8日 (金)

横浜の春節

 昨日は春節(旧正月)なので、横浜の中華街へ行ってみました。

 1年ほど前にできた媽祖廟の門を裏から見たところです。

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 通りは、平日なので、それほどの人出でもなかったけれど、獅子舞が出てくると、まわりは人でぎっしり埋まって身動きがとれません。太鼓と爆竹が鳴り響いてにぎやかです。

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 獅子は、各店舗をまわって、たいていは店の軒先にぶらさげてある祝儀袋をもらっていきます。高いところだと、後ろ足の人間が前足の人間を持ち上げて、獅子が大きく伸び上がって壮観です。下の写真で、獅子の鼻先に祝儀袋がぶら下がっているのがわかるでしょうか。

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 この祝儀袋は日本式のものですが、中華風の赤い袋もあります。ごらんください。

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新年好!恭喜發財!

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2008年2月 4日 (月)

雪の鎌倉

 昨日は雪、積雪6センチというと、横浜あたりでは年に一度あるかないかの「大雪」です。
 せっかくの雪なので、雪見に鎌倉まで出かけました。
 日曜日なのにさすがに客は少ない。それでも雪景色を撮ろうと大きなカメラを持った客がけっこう見受けられました。

 円覚寺の庭です。

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 梅が咲いていました。

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 思わず小学校の校歌の一節を思い出しました。

雪に埋もれて咲く梅の
匂いに勲(いさお)ありと知れ

この前の歌詞が思い出せませんが、松の緑がどうとか言って、ちょっと古いです。なにせ一番は

光あまねき日の本の
良き国民(くにたみ)とならんとて
一千五百の我々は
学びの園に通うなり

というのです(これはちゃんと思い出せました)。小学生の頃は、歌の意味はほとんどわかりませんでした。「一千五百」のところは、そのときどきの児童数に合わせて変えられていました。田舎の小学校ですが、その頃は千五百人もいたんです。

 これは円覚寺舎利殿。中へは入れないので門の外から撮っています。大きなカメラを持った人とは違って、あまりよく撮れていません。

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 次は明月院。

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 後は、浄智寺、東慶寺の門前だけ見て帰りました。(写真は浄智寺)

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2008年1月19日 (土)

ハリー・ポッターと「空白の一日」

 この歳で「ハリー・ポッター」はちょっと恥ずかしいけれど、英語の勉強に読んでいた最終巻”HARRY POTTER and the Deathly Hallows”(『ハリー・ポッターと死の秘宝』)を昨年末ようやく読み終えました。7月発売と同時に買ったのに、年を越してしまいそうになったので、わからないところはがんがん飛ばして、年内になんとか読みきることができました。 
 まだ邦訳刊行前なので、話の内容を詳しくは書けませんが、第1巻からの登場人物や登場妖怪変化があちこちに出てきて、「あ、こんなお化けがいたな」と思い出したり、あれはこうなる伏線だったのかと唸ってしまうところがあれこれあって、楽しく読めました。(大勢の登場人物が次々出てきて勢揃い、最後の大決戦となるところで、その昔盆暮れにやっていた、東映のオールスター映画を思い出したというのは、われながらいかにも古い。)最後の対決のあたりは感動的でもありました。
 だからこの本を高く評価しているのですが、ちょっとひっかかったところがあるので、少しネタバレになりますが、そのことについて書きます。

 ハリーとロン、ハーマイオニの三人は、ゴブリン(小鬼)の守るグリンゴッツの金庫への潜入を企て、ゴブリンのグリップフックに助けを求めます。グリップフックは、ハリーの持っている剣を見返りにくれるなら、と条件を出してきました。ところがこの剣は、潜入後どうしても必要な物だったのです。
 さてジレンマに陥ったハリーが考えついた回答は、なんと
「助けてくれたら剣はあげると回答するが、いつあげるかは決して言わない」
というものでした。
 なるほど欧米人の感覚はこんなものなのか、ちょっと驚きました。契約の隙間、不備をつく。契約に時期を明記しておかなければ、履行は任意に引き延ばしてもいい。正義の味方のハリー・ポッターですら、こんなことを思いつくのか。
 「オマエにやるとは言ったが、いつやるとは言ってねえだろう。後でちゃんとやるから文句言うな」というのは、よくある「いじめっ子」のせりふじゃありませんか。
 巨人の江川入団契約をめぐる「空白の一日」騒動を思い出したのは、最近、テレビのCMに、トレードされた小林と一緒に出ていたからでしょう。
 あのとき日本では「空白の一日」はけしからんというのが一般の風潮でしたけれど、これが欧米であれば、協約上そう解釈できるならそのまま一件落着、「空白の一日」を発見した奴は特別ボーナスものだ、と言う人もいました。やっぱりそうなんでしょうか。日本人の好きな阿吽の呼吸やら暗黙の了解は、契約に明記された文言の前には(あるいは文言の解釈の前には)太刀打ちできないのでしょうか。 
 ただしハリーのこの対応については、優等生ハーマイオニは反対だし、ハリー自身も心苦しいと思っていることは書いておかなければなりません。契約の隙間をついて騙し討ちをかけるようなやり方がそまま肯定されているわけではありません。他に方法を思いつかず、やむなく、というわけです。
 全体のストーリーの他に、この契約問題はいったいどう決着がつけられるのか、興味津々で読み進めていきました。ところが、残念ながら契約の話は再度蒸し返されることなく、そのまま終末にいたってしまいました。話の展開上ということは当然あるのでしょうが、決着がついていないと思っていたのはわたしだけで、作者にとっては、すでに決着済みの問題だったのでしょうか。

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2008年1月 1日 (火)

謹賀新年

Shogatsu

 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

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2007年9月22日 (土)

『大衆の反逆』

 最近、機会あって、オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)を読んだ。
 この本は、もう40年近く前、まだ学生だったとき角川文庫版で読んでいるのだが、よくわからなかった、おもしろくなかった記憶だけがある。ところが今回読み直してみると、とてもおもしろいのに驚いた。

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 オルテガは、社会は少数者と大衆のダイナミックな統一体で、「少数者とは、特別の資質をそなえた個人もしくは個人の集団であり、大衆とは、特別の資質をもっていない人々の総体である。(前掲書P15)」という。
 この少数者の努力によって築き上げられたデモクラシー社会は、デモクラシー浸透の結果、社会を統治することなど及びもつかない大衆が「慢心しきったお坊ちゃん」として社会的権力の座を占めるという状況を生んでしまった。これが「大衆の反逆」である。

 当時の大衆は、公の問題に関しては、政治家という少数者の方が、そのありとあらゆる欠点や欠陥にもかかわらず、結局は自分たちよりいくらかはよく知っていると考えていたのである。ところが今日では、大衆は、彼らが喫茶店での話題からえた結論を実社会に強制し、それに法の力を与える権利を持っていると信じているのである。わたしは、多数者が今日ほど直接的に支配権をふるうにいたった時代は、歴史上にかつてなかったのではないかと思う。(前掲書P21)

 なんとこれは、ちょっと前の小泉人気とか、最近の参議院選挙での自民党の大敗とか、あるいはわたしがテレビのニュースを見ながら「朝青龍は引退しろ!」「安倍は無責任だ!」とか叫んでいる状況のことではないか。これならよくわかる。

 まだある。

  •  たとえば、勝負ごとやスポーツを人生の主要な仕事にしたがる傾向とか、自分の肉体への関心──衛生や美しい衣服への関心──とか、女性との関係におけるロマンティシズムの欠如とか、知識人を楽しみの相手にしておきながら、心の底では知識人を尊敬せず、召使や警吏に彼らを鞭打つように命ずるとか、自由な議論よりも絶対的な権威ののもとでの生活を好む、等々といったことである。(同P141)

 これは今の日本の話ではないか、とても1930年のスペインこととは思えない。「召使」には「マスコミ」をあてはめればいい。

 どうしてこの本がわからなかったのか。
 ひとつは、わたしが世間をよく知らなかったせいだろう。世の人々が何を考え、どう感じているのか、よくわからず、これが大衆だと言われても理解できなかった。
 もうひとつは、オルテガの「選ばれた少数者」という考え方に反発したことにあるように思われる。

「特にわたしは、周知のごとく、歴史に対する根本的な貴族主義的な解釈の支持者であるからなおさらのことである。」(同P24)

 しかし、これは訳者解説にあるように、血統上の貴族の話ではない。

  •  この場合の少数者と大衆の別は、いわゆる上層階級と一般大衆というような社会階級的区別ではなく、質的なものであって、少数者とは優れた資質をもつとともに自らに多くの要求を課し、すすんで困難と義務を負い、常に前進しようとする人々──つまり、オルテガの言う「真の貴族」──であり、大衆とは、自分に対して特別の要求をもたない人々、生きるということが現在の自分の繰り返し以外のなにものでもなく、自己完成への努力を自ら進んではしようとしない人々のことである。」(同p297)

 落ち着いて読めば理解できない話ではないのに、若いわたしは、これは大衆蔑視のエリート主義だと反発したように思われる。単純だったのだ、嗚呼。

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2007年9月11日 (火)

本が好き、悪口聞くのはもっと好き

■ インターネット古本屋なむや文庫 店主 窮居堂のブログです ■

 どんな本が好きか書いてみようかと思って、まず浮かんだのが『本が好き、悪口言うのはもっと好き』という高島俊男のエッセイ集の題名。
 高島俊男は、ベストセラー『漢字と日本人』(文春新書)の著者で、週刊文春に連載していたエッセイ『お言葉ですが…』のシリーズは11巻まで出ています。(この連載は昨年打ち切りになってしまったのですが、草思社のWeb上で「新・お言葉ですが…」http://web.soshisha.com/archives/word/index.php がはじまったのを知って、やれうれしやと思ったら、現在は「筆者現在心神状態甚だ不振につき、この連載しばらくお休みさせていただきます。」とのこと。残念。)
 大新聞、大出版社、大学教授等々、世の権威を物ともせず(というか世の権威を中心に)、典拠や参考文献を明らかにして、用字用語の間違いを、辛辣かつ徹底的に叩くところが大好きです。文章はわかりやすいし、ユーモラスでもあり、「おもしろくてためになる」とおすすめできます。
 日本では、目下の者を名前で呼ぶことはあっても、目上の人を名前で呼ぶことはけっしてなかった、という話では、NHKの大河ドラマ「吉宗」の予告編で、吉宗自身が「この吉宗が…」と怒鳴っていたが、将軍が臣下の者に対して自分の名前など言うものか、
「例えば河野洋平外務大臣が部下の役人に「洋平が言いつけた通りになぜしないのだ!」と言うものかどうか、考えたらわかりそうなものだ。」
と書いています。(『お言葉ですが…』「美智子さま雅子さま」、文春文庫)
 これには思い切り笑いました。この頃、なにかで河野外務大臣が週刊誌の話題になっていたのでしょうが、あの役者のような顔で「この洋平が…」と言っているシーンを想像してしまいました。

 世の権威を辛辣にやっつけるということでは、谷沢永一や『風の書評』の百目鬼恭三郎も好きでした。本の中でも、実証を積み重ねながら、権威をじわじわやっつけていくこういう傾向の本を読むのが痛快、ということになります。
 しかしこれには、世の権威をやっかんでいるだけじゃないのか、自分がなんの権威にもなれなかったことの裏返しじゃないのか、という声も自分の中から聞こえてきます。

 まあでも、おもしろいものはおもしろい。高島俊男の本は読み出したらやめられません。本が好き、悪口聞くのはもっと好き…

Nabulogo

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2007年8月31日 (金)

店名の「なむや」とは

 「なむや文庫」の店名は、ホームページの「店名の由来」に説明してあるとおり、千葉県南房総市富浦町の南無谷(なむや)という地名からとっています。

 松岡裕治さんという方の「富士と日蓮大聖人」というホームページによれば、この地名は、鎌倉時代に日蓮がこの房総半島西海岸の地から鎌倉目指して船出したことに由来し「南無妙法谷」と呼ばれるようになり、後に南無谷となったとのこと。(http://www.1134.com/fuji/06namuya.htm

 たしかに南無谷海岸に立つと、海の向こうには三浦半島がすぐそこに見え、よく晴れて空気の澄んだ日には、半島の上に富士山がきれいに見えます。

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 南無谷海岸から見える三浦半島と富士山(2006年10月)

 この南無谷に、わたしが買い溜めた本が置いてあり、横浜から海を越えてせっせと通って、田園生活の真似事をしているというわけです。

 店名として漢字の「南無谷文庫」ではちょっと抹香臭いので、ひらがなの「なむや文庫」にしました。

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なぜ古本屋をはじめたか

 2007年3月に三十数年のサラリーマン生活を終え、4月にインターネットで古本屋「なむや文庫」をはじめました。

 なぜ古本屋をはじめたのか、理由の第一は、これまでに買い溜めた本の整理にあります。 この先の生活を考えてみると、あと十年くらいは元気でいられるとしても、その後はどうなることやらわからない。好きで集めた本も、子供にとっては場所ふさぎのがらくた同然。これは先々なんとか整理しておかなければならない。整理をしながら、しかもお金になるというのが第二の理由。第三の理由は、やはり本が好きなことでしょう。半分は隠退生活の身で、仕事だといいながら一日好きな本をいじっていられればこれにこしたことはありません。

 なかなか立派な理由だと自分で納得して意気揚々はじめてみると、本がどんどん増殖して前にもまして整理がつかなくなってきました。

 なぜこうなったか考えてみると、思ったようには売れないこともありますが、一番大きな理由は、大手を振って本を買っても良くなったことです。家の中で本が一番邪魔になっていることは十分自覚しており、小遣いの制約もあって、これまで本を買うについてはかなり自己規制をしてきました。高い本は買わない。ちゃんと最後まで読みそうにない本は買わない。読んだことのある本をまた買うなんてとんでもない。

 ところがそれが仕事だから買える。読みそうになくても読んだことがあっても売れそうなら買える。多少高くても売れそうな気がする、なんとなく引かれる本はきっと売れるに違いない、それほど好きじゃない著者の本でも売れるんだから…というわけです。どんどん本が買えます。こんなうれしいことはありません。

 要するにわたしは、本を買うのが好き、集めるのが好き、集めて本棚に並べるのが好きなんだと、今更のように思い知りました。集めた本の中身はともかく。

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